さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名僧たちが求めたもの

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10年前から紀野一義先生の「名僧列伝」は私の愛読書です。この書は通り一辺の読み方では自分のものにはなりません。そこで、この機会にじっくりと読み名僧たちの生き様を訪ねて見たいと思います。読むだけではなく、自分なりの表現で新しく作り直して見たいと思います。お付き合い頂けましたら幸いです。(猶興)
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花のもとにて

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重源。1121〜1206
 
壮絶な戦いを極めた源平の合戦で奈良の東大寺も焼失し、大仏は溶け落ちた。その大仏殿を復元しようと立ち上がったのは重源(ちょうげん)である。重源は西行が北面の武士の頃、親友であった紀季康(きのすえやす)の弟であり、3度も入宋し仏教を学んだ傑僧である。大仏殿の修復に命を賭ける重源の姿に西行は協力を申し出る。
 
奥州・平泉の藤原秀衡に砂金の勧進を受けるため69歳になっていた西行は再び奥州への旅に出る。こちらも命がけのことだ。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
藤原秀衡は70歳の老僧・西行に感激し、勧進を承諾、砂金を奈良に送った。
 
奥州行きの途中、鎌倉の鶴岡八幡宮にて源頼朝が只者ではない老僧を見つけ、家来に訪ねさせると西行だった。頼朝は父の義朝から出家した北面の武士だった西行のことは聞いていたのだろう。屋敷に招いた頼朝は西行から和歌や流鏑馬(やぶさめ)の技を詳しく聞いた。今日、鶴岡八幡宮にて神事として行われる流鏑馬の行事はここから始まるのである。
 
1189年、72歳になった西行は大阪河内の山里にある弘川寺の裏山に最後の庵を結んだ。
さびしさに堪へたる人のまたもあれな 庵ならべむ冬の山里
願わくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃
如月の望月は釈迦の命日(旧暦2月15日)、西行は1日遅れの16日に満開の桜のもとに人生を終えた。世の無常と孤独な人生を見つめ、璋子の面影を花と月に探した生涯。寂しさを歌に昇華させて歩いた生涯だった。
 
******** 上卦は風
********
***  ***
***  *** 下卦は地
***  ***
***  ***
 
「風地観」の卦。観は観察、見つめる。仰ぎ観る意味もある。西行は時代を見つめ、世の無常を見つめた。また、月や花を仰ぎ観ては璋子を思った。正しく観ることは聖人の道、指導者の道。一流の歌人の道でもある。
 
北面の武士というエリートコースを捨てた西行。芭蕉や良寛を始め多くの僧や歌人が慕い仰ぎ観た。幕末の風雲児・高杉晋作も慕った。
西へ行く人を慕ひて東行く わが心をば神や知るらん

平家の興亡

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平清盛。1118〜1181
 
西行ほど世の中の栄枯盛衰を身をもって見つめた人も稀であろう。貴族が支配する時代から武士の時代へと大きく変化する激動の時代に生を得たからである。北面の武士として仕えた崇徳上皇が宮中を追われた保元の乱にも遭遇した。それから3年後には平治の乱が起き、権力者の信西が殺され平家により源氏が滅ぼされた。親しくしていた源義朝も死んだ。
 
平家の棟梁は平清盛であり西行とは同年生まれの友人だった。その後の清盛は瞬く間に出世の階段を駆け上る。後白河天皇は清盛の妻・時子の妹・滋子を中宮とする。滋子の生んだ子は高倉天皇になる。高倉天皇の中宮になったのが清盛の子である徳子である。徳子が生んだ子が安徳天皇である。清盛は天皇の外祖父ともなり権力の頂点に立った。
 
さらに清盛は福原(神戸市)に遷都を計画、日宋貿易を盛んにしてその経済力を背景に新しい日本を築こうとした。「平氏にあらずんば、人にあらず。」と言われるほど権勢を欲しい儘にしたが、各地に平家打倒の反乱が起き、清盛の病死とともに劣勢に立つ。
 
清盛の死から4年、1185年、壇ノ浦にて平家は滅亡する。6歳になる安徳天皇を抱いて清盛の妻・時子(二位尼)と徳子(建礼門院)は海に身を投げる。源氏軍の総大将は源義経。平治の乱後、清盛に命乞いをした常盤(源義朝の愛妾)が抱いていた幼子・牛若丸だった。
 
若き日に出家し武士の争いの外に居た為、西行は長生きをした。その為西行は動乱の世と、大勢の死を見つめ、世の無常、人生の儚さを知らされた。
「死出の山越ゆる絶え間はあらじかし 亡くなる人の数続きつつ」
 
******** 上卦は火
***  *** 文化、文明
********
***  *** 下卦は水
******** 困難、悩み
***  ***
 
「火水未済」の卦。未済(びせい)は成就出来ずに流れてしまうこと。夢が覚める。元の木阿弥。物事はなかなか完成出来ないもの。終わりなき戦いを続けることである。
 
西行が見つめた世界は激動の世界。「平家物語」の世界だった。争いの世界に果たして勝者はあったのか。平家を滅ぼした源氏もやがて滅亡した。ようやく治まるのは約400年後、徳川家康の登場を待つ。
 
 

悲劇の崇徳上皇

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怨霊となる崇徳上皇(歌川芳艶画)
 
その後上皇は四国の讃岐へ流罪となる。讃岐での孤独な生活に耐えながら上皇は血書にて写経に取り掛かる。3年間を費やして「五部大乗経」を書き上げると弟の覚性法親王を介して宮中の後白河天皇に届けようとした。ところが権力を握っていた信西入道が天皇にも見せずに送り返してしまう。
 
上皇は激怒され、一切の望みを断ち切る。それからは髪も切らず爪も切らず、生きながら天狗のような姿となった。血書の経巻に向かって「これよりのちは三悪道に抛げ籠み、其の力を以て、日本中の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん。」という祈請を立て、舌の先を食い切って流れる血を以て「大乗経」の奥に書きつけ、海の底に沈められたという。
 
保元の乱から8年後、上皇は46歳で崩御された。火葬された煙は都を指して流れ、人々を恐怖に陥れた。歴代天皇の中でこれほど無残な死を遂げた人はいない。このドラマの基である紀野一義先生の「名僧列伝」には「世にもたぐいまれな美しい人が、世にもたぐいまれな権力者の胸に抱かれて宿したこの運命の人は、日本最高の地位にのぼり、やがて没落し、流行く孤舟となってこの松山の地に至り、一片の煙となった。」とある。
 
上皇が亡くなって4年後、51歳の西行は讃岐を訪ねている。小さな土饅頭を盛り上げただけの粗末な墓に手を合わせた。人の世の栄枯盛衰を見届けた西行の胸中はいかがであっただろうか。西行は一晩中読経を続けた。(仏の世界では宮中の玉の床も、草の床も同じではないでしょうか。上皇さま、どうか安らかにお眠り下さい。)
よしや君昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん
 
***  *** 上卦は地
***  *** 大地、暗黒
***  ***
******** 下卦は火
***  *** 太陽、文明、文化
********
 
「地火明夷」の卦。明夷(めいい)とは明が夷(やぶ)れる。明るいものが傷つき敗れるである。太陽が暗黒の地に沈む象。世の中が暗黒の時代に入ることを意味する。こんな時はあわてて局面打開をはかろうとしてはいけない。じっと耐え忍び、内面の実力を磨くことである。
 
この時代から王政は表舞台から裏の存在になっていく。王政が復古するのは実に700年の後である。明治天皇は即位する前に、崇徳天皇の御霊を京都に帰還させ白峯神宮を創建した。天皇家にとって長い長い夜が続いた。
 
 
 

保元の乱

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崇徳上皇。1119〜1164
 
待賢門院璋子が亡くなって10年後、17歳という若さで近衛天皇が崩御された。近衛天皇には未だ子が居なかったので、既に16歳になっていた崇徳上皇の子である重仁親王が譲位される筈であった。ところがここでも関白・忠通の横やりが入る。病に伏せる鳥羽法王を口説いて雅仁親王に譲位させた。
 
雅仁(後白河天皇)とは崇徳の8歳下の弟で既に29歳になっている。幼少時代から奇行を繰り返し、行儀は悪く博打が好きなおよそ皇子らしからぬ問題児であった。秀才タイプの崇徳とはそりが合う筈もない。宮中はどうなるかと危機感に包まれた翌年、ついに鳥羽法皇が崩御された。
 
宮中の勢力は崇徳上皇方と後白河天皇方とに真っ二つに割れた。其々兵を集めて戦いの様相を呈してくる。真っ二つといっても政治力、軍事力では関白・忠通のいる天皇方が圧倒的に強かった。平家も源氏も天皇方である。戦いは一日で決着が着いた。敗れた崇徳は仁和寺に逃れ、翌日天皇方に自首をする。崇徳についた公卿たちは流罪となり、武将たちは斬首された。1156年の保元の乱である。
 
髪を下して仏門に入り、仁和寺北院に謹慎した崇徳を訪ねるものは誰もいない。西行が北面の武士の頃、歌の友として天皇と武士という身分を越えて親しく目をかけてくれた人である。西行は一人見舞いに訪れた。武士時代には死んでもお守りすると誓った璋子の御子・崇徳の変わり果てたお姿である。何もしてやれない歯がゆさ、空しさ、自分の力のなさがなんともうらめしい。

そんな時にも空にはあの美しい月が相変わらず澄んでいる。西行の涙は止まらなかった。
「かかる世に影もかわらず澄む月を 見る我が身さへうらめしきかな」
 
******** 上卦は天
******** 王、上にあるもの
********
***  *** 下卦は水
***  *** 艱難、悩み
***  ***
 
「天水訟」の卦。訟とは訴訟、裁判で争うこと。天は上に向かい、水は下に向かう。両者が対立する象である。争いにより吉はない。最後まで争い続ければ凶。
 
「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ」
小倉百人一首に載る崇徳上皇の作である。別れてしまう恋人どうしもいつかは晴れて逢える日もくるだろう。という意味であるが、追われる宮中への思いとも考えられる。保元の乱から宮中の悲劇は滝川のように激しさをましてゆく。

花と月と歌と

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奥州藤原氏三代
 
西行は元々武士であり、エリート武士としての将来も約束されていた。宮中での評判も良かった。家族もあったし、友人も大勢居た。厭世も人嫌いも西行にはおよそ縁が無い。もともとは出家するなど考えたことがなかった。その点同じく約束された生活を捨てて自ら孤独と自由を求めて出家した良寛とは全く違う。
 
中宮・璋子(たまこ)との成り行きで出家はしたものの、僧としてどう生きてゆくのか、そこから始まった。都の近く、小倉山や鞍馬山そして吉野山に庵を結んだ。やはり西行は璋子の住む宮中から離れたくはない。璋子が出家し、法金剛院に入ると遭いには行けないが側で見守りたかっただろう。こんな歌が西行の心境を物語る。「世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都はなれぬ我が身なりける」
 
璋子の一周忌が済むと、西行は都を離れた。「涙のみかきくらさるる旅なれや さやかに見よと月はすめども」陸奥の国に旅立った。2年余りの旅だった。奥州藤原氏は西行の一族、しばらく逗留したのだろう。その間に作った月と花の歌は数知れず。その一部。(月も花も璋子の面影)
 
思ひかへす悟りや今日はなからまし 花にそめおく色なかりせば
 
春を経て花のさかりにあひ来つつ 思い出多きわが身なりけり
 
憂き世にはとどめおかじと春風の 散らすは花を惜しむなりけり
 
吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にもそはずなりけり
 
面影の忘らるまじき別れかな 名残りを人の月にとどめて
 
ともすれば月すむ空にあくがるる 心の果てを知るよしもがな
 
あはれなる心の奥をとめゆけば 月ぞ思ひの根にはなりける
 
ゆくへなく月に心の澄み澄みて はてはいかにかならむとすらむ
 
******** 上卦は火
***  *** 文明、文化
********
******** 下卦も火
***  ***
********
 
「離為火」の卦。易での「離」は別れるではない。むしろ反対の付く、付着の意味がある。また、文化、文明を表すことからある文化に遭遇するともとれる。人生は文化により豊かなものになる。
 
西行が僧となり、先ず陥ったことは目的が持てないことだった。迷い苦悩するばかりだった。人は悩みの中から光明を見出すもの。音楽、美術、文学に目覚めるものは皆苦悩を体験する。西行が悩んだ末に出会ったものが歌であった。
 
 

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