さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名曲はこうして生まれた

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クラシックの名曲を残した巨匠たち。彼らはどんな人生を送ったのか。どんな時代にどんな問題にぶつかり、どんな悩みの中からあの名曲の数々を生み出したのか。そんな巨匠たちの生きざまに迫ってみたいと思います。(猶興)
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ドヴォルザークの生家(右手)
 
ドヴォルザークほどの大作曲家でありながら平凡で健全を思わせる人柄も珍しい。世界的に有名になった後も地味な生活を変えることもなく、高慢にもならず素朴に暮らしたという。今までに登場した作曲家の中ではハイドンと共通する明るさ、健全性を感じさせ、暗さや病的なものとは縁がない。その代わりショパンやリストのようなドラマチックな恋愛劇もないのである。
 
音楽史の流れの中では後期ロマン派に属す。バッハ、ハイドン、モーツァルト、ときた「古典派音楽」からベートーヴェンの後期からシューベルトにかけて変化が生じてくる。文学や美術のロマン主義がパリを中心に湧き起こるとともに「ロマン派音楽」の花が開き始める。ベルリオーズ、メンデルスゾーン、ショパン、リスト、シューマン、ブラームスたちを代表とする大作曲家たちが名を連ねる。
 
同時に民族的旋律を取り入れた「民俗楽派」が台頭し、ロシアではグリンカが「ロシア国民楽派」を形成し、ムソルグスキーらの五人組に繋がる。チェコではスメタナ(1824〜84)がスラブ民族的音楽を作り「チェコ国民音楽の父」と称された。そのチェコ国民音楽をさらに発展させ国際的にまでしたのがドヴォルザークだった。
 
ところでその頃の日本はどんな時代だったのだろうか。ドヴォルザークは1841年に生まれているので、1853年黒船来航の少し前、日本では長い眠りから醒める近代化の一歩手前という時代である。ドヴォルザークと同じ年の生まれの伊藤博文は21歳の時、長州の仲間5人で渡英、ヨーロッパの近代化に目を見張った。ドヴォルザークが20代で作曲家への下積み修行をしている頃、日本は明治維新を迎える。
 
ドヴォルザークの「スラブ舞曲集」が大ヒットし活躍し始めた頃、41歳の伊藤は憲法作成のためベルリン大学とウィーン大学を訪れている。その後日本も大躍進を遂げ、ドヴォルザークがアメリカで「新世界より」を作曲した頃には日清戦争に勝利した。ドヴォルザークが亡くなる1904年は日露戦争開戦の年であり、大ロシアに勝利して日本は先進国の仲間入りを果たすのである。伊藤はその時の総理大臣を務めている。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 未知、陰、柔
***  ***
***  *** 下卦は沢
******** 喜び、親睦、少女
********
 
「地沢臨」の卦。臨は臨(のぞ)む、望むこと。下の爻二つが陽爻であることから、陽気がこれから盛んになるときを表している。1日で言えば朝、季節で言えば春、人間で言えば新社会人がこれから世に臨む頃である。至誠、英知、篤実をもって事に臨むことが吉を招く。
 
ドヴォルザークの「新世界より」はアメリカの隆盛を予想させた。同時に日本の明治も「臨」の時代であった。「咸臨丸」はこの卦が語源である。勝海舟が「咸臨丸」で太平洋横断を成し遂げたのは1860年、ドヴォルザークが19歳の時であった。今から約150年前の時代を共有していたのだ。
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ジャネット・サーバー夫人。1852〜1946
 
「スラブ舞曲集」の大ヒット以来、ドヴォルザークの名はヨーロッパ中にとどろき演奏依頼が舞い込むようになる。40代になるとロンドンからの招きに応じ演奏会を行うと熱狂的な歓迎を受けた。それをきっかけに生涯に9回の渡英を重ね、交響曲第7番、第8番などの大作を作曲した。47歳の時にプラハを訪れたチャイコフスキーと親交を結び、49歳の時にはその招きでモスクワとサンクトペテルブルグを訪問する。ブラームスからはウィーンに移り住むよう勧められたがチェコから離れたくないドヴォルザークは断る。
 
50歳になるとプラハ音楽院の教授に就任。生涯を祖国の音楽教育に捧げようと決心した。そこに思いもかけないビッグな話が舞い込む。その頃、日の出の勢いで発展を遂げていた新興国アメリカから、新設するニューヨーク・ナショナル音楽院の院長にという白羽の矢が飛んできた。依頼主は大富豪のジャネット・サーバー夫人。もと音楽教師の彼女にはヨーロッパ音楽に負けない「アメリカ国民音楽」を打ち立てたいという大野望があった。その夢をかなえてくれる大物作曲家を院長に迎えたかったのである。
 
もともとチェコから離れたくないドヴォルザーク。教授に就任したばかりでもあり、その申し出は断った。ところがサーバー夫人は諦めない。報酬はプラハ音楽院教授の10倍、年間4か月の休暇をとってもいいと言ってきた。ドヴォルザークは迷った挙句、翌年9月からの2年契約を承諾した。妻と2人の子供を連れてニューヨークに旅立つ。見知らぬ土地での新たなる挑戦が始まった。
 
世界中の人が知る「交響曲第9番(新世界より)」はその翌年5月に完成し、12月にカーネギーホールにて現在のニューヨーク・フィルハーモニーによって初演された。満席のホールは万雷の拍手喝采に包まれ、公演は大成功をおさめた。「新世界より」はドヴォルザークにとっても作曲家としての円熟期であり、アメリカの大自然が故郷ボヘミアの郷愁と重なり、インスピレーションが喚起したものだった。2年半という短い期間だったが才能をフルに発揮したドヴォルザークはサーバー夫人の期待にも応え、アメリカ音楽にも大きな足跡を残すことになった。
 
2期目の滞在はわずか半年で契約を反故にした。ボヘミアへの強烈なホームシックに苛まれたからである。愛する家族に囲まれ、大好きな蒸気機関車を眺めて、飼っている鳩に餌をやり、近所を散歩する日常に帰ってきた。生まれ育った故郷こそドヴォルザークの落ち着ける場所だった。
 
******** 上卦は風
******** 従順、へりくだる、長女
***  ***
******** 下卦は火
***  *** 文化、才能、中女
********
 
「風火家人」の卦。家人とは家庭、家族。夫婦がそれぞれ役割を果たし家庭がしっかり治まっていることである。とくに主婦の存在が大きい。良妻賢母の主婦がいると自然に家庭は安定する。家庭の不和は往々にして女同士のいさかいから起る。
 
ドヴォルザークは妻アンナとともに愛情に満ちた家庭を築いた。アンナについての詳しい記述はないのだが、最初の3人の子を亡くした後、6人の子供を生み立派に育てている。悲しさを乗り越え平凡ではあるが、夫を愛し子供を愛し、親類や近所の人たちにも気をつかい、笑顔の絶えない女性であったのだろう。ドヴォルザークの名曲の陰には妻アンナがいたのだ。

ドヴォルザークの故郷

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ドヴォルザーク。1841〜1904
 
駅伝のように繋いできたこのシリーズの最終ランナーです。最終ランナーに相応しく温かく健全な大輪の花です。小学校の下校時間になると聞こえてきた「家路」。その懐かしいメロディは彼の交響曲第9番「新世界より」の第2楽章にある。

ドヴォルザークの生まれ育った故郷は現在のチェコ共和国の首都プラハから北へ30キロほど離れた小さな村ネラホヴェスです。ボヘミヤ地方独特の豊かな田園地帯が広がる牧歌的な農村です。宿屋兼肉屋の9人兄弟の長男として生まれました。父は祭りとなると決まってヴァイオリンを弾く村の人気者だったそうで、トランペットを吹く叔父さんもいたというので明るく陽気な一族だったようです。貧乏人の子沢山ですから経済的には決して恵まれた家庭とは言えません。
 
村の少年聖歌隊員として歌やオルガンに親しみ、父が所属するアマチュア小楽団でヴァイオリンを弾いたりして自然に音楽の素養を身に着けたようです。しかし肉屋の長男ですので小学校を出ると肉屋職人としての修行に出される。音楽の才能を惜しむリーマン先生やトランペットの叔父さんが父を説得してくれ、学業と音楽を続けることが出来た。16歳の時にプラハ・オルガン学校に入学する。2年後に卒業すると運よくオーケストラのヴィオラ奏者の職を得る。ピアノの家庭教師もしながら生計を立て、20代の長い年月を作曲家への下積み生活を送る。

32才にしてようやくカンタータ「白山の後継者」がプラハで初演され好評を得て作曲家として認められる。音楽家として自信もついたドヴォルザークは個人レッスンをしていた金細工商人の19才の娘アンナと結婚した。実は姉のヨゼフィーナに恋をしたのだがあえなく失恋してしまい、気を落としていた彼に優しくしてくれたのが妹のアンナだった。子宝に恵まれたのだが次々と幼くして3人の子供が亡くなる。36才の時、作曲した「悲しみの聖母」は聖母マリアの悲しみと亡き我が子への思いを重ね合わせた名曲である。(その後に授かった子宝は6人、元気に育った。)

運が向いてきたのはそれからで、33才から才能ある若手芸術家に与えられる「国家奨学金」の受給者になっていた。その組織委員会の審査員だったブラームスが彼の才能を高く評価してくれたのだ。37才の時、ブラームスからベルリンの楽譜出版社ジムロックを紹介され、自身の「ハンガリー舞曲」に続くスラブ風の舞曲集を作曲するよう助言された。その「スラブ舞曲集」が大ヒット、一躍ドヴォルザークは人気作曲家となり、名声と同時に手にしたことのない高額な報酬を得た。
 
******** 上卦は風
******** 従順、へりくだる
***  ***
******** 下卦は山
***  *** 動かない、勤勉
***  ***
 
「風山漸」の卦。漸(ぜん)とは徐々に前進すること。進むを表す卦として「晋」「升」「漸」の三つがあるが、そのうち「漸」は最も遅く、ゆっくりした進み方を表す。しかし着実な前進は易では尊ばれ吉とされる。理想的な結婚の道とされる。
 
ドヴォルザークは偉大な作曲家にしては珍しく、貴族でもエリートでもない。全くの庶民の出であることが特徴である。37歳と言えばモーツァルトが活躍を終え亡くなった歳である。その歳にして世に出たドヴォルザークは正に「漸」の人。その音楽は豊かな田園風景を思い起こさせてくれる。
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アレクサンドル3世。1845〜1894
 
チャイコフスキーの残した名曲は多い。遺作となった交響曲第6番「悲愴」。親友ニコライ・ルビンシュタインに酷評された後、ハンス・フォン・ビューローが絶唱し初演されたピアノ協奏曲第1番。メンデルスゾーンと人気を二分すると言われるヴァイオリン協奏曲。文豪トルストイが号泣したという弦楽四重奏曲。バレー音楽「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」など数え上げたらきりがない。
 
ただチャイコフスキーの曲には何故か悲しみ、暗さ、影、陰、鬱がつきまとう。それは何故だろうか。その理由は彼は同性愛者だったからである。失敗した結婚も愛のない偽装結婚だった。メック夫人からの送金が停止した重大な原因の一つもそうである。五人組と肌が合わない理由もそうだ。ロシアでは現在もそうだが、当時は尚のこと同性愛に対する偏見や差別は激しかったのだ。

チャイコフスキーが同性愛に目覚めたのはペテルブルグの法律学校の寄宿生時代だった。年下の学友セルゲイ・キレーエフへの思いを歌曲にし、後年まで彼の写真を自室に貼っていたという。モスクワ音楽院での教師時代には教え子のエアドアルド・ザークを愛した。ザークは最愛の恋人だったが19才の若さでピストル自殺をした。アントニーナとの結婚式に立ち会ったヴァイオリニストのコーテクも愛人だったと言われている。

チャイコフスキーには双子の弟がいたが、その1人のモデストとも、また妹アレクサンドラの次男ヴラジミールとも関係 があったと言われている。彼が雇った青年従僕のアレクセイ・ソフローノフとは結婚前から生涯にわたり恋人の1人であり、遺言で肉親でもないのに主要相続人の1人として調度品や蔵書などの動産を相続させている。

さらにチャイコフスキーを死に追いやることにもなった。1980年になって、アメリカに亡命していたソ連の音楽学者オルロヴァが「チャイコフスキー自殺説」を著作の中で発表した。著作によると、ある高名な貴族が自分の甥と性的関係をもったチャイコフスキーを皇帝アレクサンドラ3世に直訴した。激怒した皇帝は直ちに彼を処分せよと命じた。秘密法廷を開き、服毒自殺をさせることになった。チャイコフスキーはヒ素系の毒物を自ら飲み死んだというのだ。1893年11月、チャイコフスキー53歳。(公式の死因はコレラに感染したことになっている。)
 
******** 上卦は天
******** 陽の代表
********
***  *** 下卦は地
***  *** 陰の代表
***  ***
 
「天地否」の卦。上に天があり下に地がある。一見すると自然で良いように思えるが、易では天は上に向い、地は下に向かうと見る。上下がますます離れてしまい意志の疎通がないと見る。つまり貧富の格差、政治の権力が民衆を支配する図となる。君子の道は亡び、小人が跋扈する。
 
偉大な芸術家も権力者の前では無力なのか。しかし権力は滅んでも芸術は滅ばない。大帝国を誇ったロマノフ王朝もそれから12年後には日本との戦争に敗れ、その12年後には革命により王朝も亡くなる。しかし、時代を超えてチャイコフスキーの音楽は今も健在である。
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メック夫人。1831〜1894
 
モスクワ音楽院の教師だった28歳のチャイコフスキーはボリショイ劇場でイタリア歌劇を観賞した。その歌劇のプリマドンナであるベルギー出身のソプラノ歌手デジーレ・アルトーを知る。彼女に曲を贈ったことがきっかけで急速に恋に発展し、婚約にまで進んだ。しかし、彼女の親も遠距離を理由に反対し、師のルビンシュタイン兄弟も未だ修行の途中であると反対した。そうこうする内に、アルトーはスペイン人のテノール歌手と電撃結婚してしまう。あえなく婚約劇は破談になった。
 
それから10年後、教え子でもある28歳の貴族の令嬢アントニーナから熱烈なラブレターが届く。家柄も良く美人でもあるので、37歳のチャイコフスキーは年老いた父や親族にも安心させる必要もあり、意を決して結婚することにする。挙式の立ち合いは双方とも友人が数人というさっぱりしたものだった。ところが、交際3か月のスピード結婚は、実質80日、共に暮らしたのは33日という短い期間で破局してしまう。
 
チャイコフスキーの結婚生活は2人きりでいる時間、空間が耐えられないものだった。2週間で神経衰弱に陥ってしまい、妹夫婦の住むカメンカに逃げひと夏を過ごした。再びアントニーナと生活しようとしたがダメだった。モスクワ川に身を投げようとしたが未遂に終わる。弟とニコライ・ルビンシュテインが仲介に入り、アントニーナに離婚の話をする。その後友人が交渉するが離婚成立にはならない。あくまで同居か生涯の金銭補償を求められ、チャイコフスキーは後者を選び、彼女に生涯に渡り仕送りを続けることになる。
 
結婚の半年前、チャイコフスキーにある資産家夫人から編曲の依頼が舞い込む。モスクワ在住の貴族メック夫人であるが、彼女はチャイコフスキーの音楽に心酔し、お金の心配をせずに作曲に専念できるよう支援すると言ってきた。音楽院での年俸の2倍になる6000ルーブルを毎年支援するというのだ。38歳で音楽院を退職、チャイコフスキーは音楽活動に専念する。メック夫人というパトロンを得たことがチャイコフスキーが大作曲家になれた最大の幸運である。
 
メック夫人の支援は13年間続く。その間二人の間では1300通もの手紙のやりとりがあったが、一度も面会していない。当初からお互いに合わないという約束をしていたというが、チャイコフスキーは結婚するときも、破局したときも、その都度細やかに心境を伝えている。9歳年上の未亡人であるメック夫人との手紙はどんな内容だったのだろうか。しかしチャイコフスキーが50歳になったとき、突然経済的理由で送金が停止され交際も断られる。チャイコフスキーは信頼を裏切られ、プライドを傷つけられた。
 
******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
***  *** 下卦は水
******** 困難、悩み、陥る
***  ***
 
「火水未済」の卦。未済(びせい)は既済(きせい)の完成とは反対に成るものが成らないことを表す。ちぐはぐで、どこかがおかしいのである。努力すれば全てが報われるのが世の中ならいうことはない。しかし、どこか目には見えない所に原因があって、なかなか報われないものである。そんなことを教えてくれる卦である。
 
チャイコフスキーも結婚に失敗し、傷心を抱えてスイスやヴェネチアに旅をしている。その旅先で作曲した「交響曲第4番」をメック夫人に献呈しているが、今日チャイコフスキーの代表作とも言われている。才能の開花は悩みの後にくるもののようだ。易でも才能を表す「火」と悩みを表す「水」は表と裏の関係にある。

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