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フリーデマン・バッハ。1710〜1784
ケーテンでの栄光の日々はそう長くは続かなかった。その後レオポルト公が妃を迎えるとともに、摂政を務めていた母が政務を全てレオポルトに任せて引退したため、レオポルトは音楽活動に携わる暇が無くなってきた。バッハは宮廷の楽長を辞めることになる。しかしケーテンでの思い出はバッハの心を去らず、レオポルト公との交流は続いた。ところがレオポルトは1726年にわずか34歳の若さで病死した。不滅の作品「マタイ受難曲」はその追悼式にバッハが演奏した葬送カンタータが基になっている。
バッハは妻のマリアを失った1年半後に、16歳年下の宮廷ソプラノ歌手のアンナ・マグダレーナと再婚した。(当時はそれが慣習であった。) アンナはその後29年間もバッハを支えて続ける。バッハの作曲の手伝いもし、自分の音楽活動も続け、子供たちの世話をし、家庭を切り盛りした。しかもなんと13人の子供を授かった。(うち7人は夭折) まさにスーパーレディである。
38歳から65歳で世を去るまで27年間務めたのは、ライプツィヒの聖トマス教会付属学校の合唱長である。ライプツィヒ市音楽監督にもなっている。教育と作曲と演奏の多忙な毎日を送るが、満足よりも我慢を強いられた職場だった。大家族を持つバッハは家族のためにがんばった。バッハは子供たちの教育にも大変熱心で、その就職活動にも積極的に拘わっている。市の規則にも反して職を休み、息子たちを連れて各地に演奏にも出かけた。
晩年には卒中の発作や視力の低下に悩まされ、1750年家族に見守られながら息をひきとった。家族にも仕事にも恵まれ、多くの作品を世に残し充実した豊かな人生だった。バッハは両親を早くに亡くし、大学にも行けず、社会で苦労したせいか、勤勉で質素な生活を通した。楽器以外には衣類も家具にも金をかけなかった。息子たちには「私のように勤勉だったら、必ず成功する。」 そう言い聞かせ4人の息子を音楽家として世に出した。
残念なことに父が最も愛し、期待をかけ、才能を最も受け継いだと言われる長男のフリーデマンは父の死後は職を転々とし、放蕩を繰り返し、晩年には貧困生活に陥り、父が残した楽譜を売り払ってしまった。妻のアンナはバッハの死後、未婚の二人の娘と同居を続けた。息子たちからの援助はなく、市と大学からの支援により、ひっそりと余生を送ったそうである。
*** *** 上卦は雷
*** *** 行動、志、長男
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******** 下卦は火
*** *** 文化、文明、才能、中女
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「雷火豊」の卦。豊は豊か、盛大なること。月に例えるならば満月である。月も満ちれば欠ける。盛運なれば、次には必ず衰える。天地は四季の推移に随って盛衰を繰り返す。この法則から逃れられるものはいない。
苦労して這い上がる者と、恵まれ過ぎて覇気のない者の違いだろう。何時の世にも、何処の世にもある人生ドラマである。バッハの曲を聴くとき、バッハの人生を思い描いてみることも、曲の意味を知り、共感出来るのではないだろうか。
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