さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名曲はこうして生まれた

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クラシックの名曲を残した巨匠たち。彼らはどんな人生を送ったのか。どんな時代にどんな問題にぶつかり、どんな悩みの中からあの名曲の数々を生み出したのか。そんな巨匠たちの生きざまに迫ってみたいと思います。(猶興)
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シューマンの結婚

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クララ・ヴィーク。1819〜1896
 
シューマンはその死後次第に有名になった作曲家であるが、彼の妻クララは19世紀最大の女性天才ピアニストとして音楽界では大スターであった。
 
音楽教師の父フリードリヒ・ヴィークは娘クララの天分を見抜き、「第2のモーツァルト」として売り出し自らの地位を築こうと考えた。厳しいレッスンにも耐え才能を開花させたクララは12歳の頃にはヨーロッパ各地を演奏旅行をするようになり、「天才少女」として絶賛を浴びる。名声はショパン、リスト、タールベルクといった天才たちと肩を並べる程であった。老ゲーテは「才能ある芸術家クララ・ヴィークのために」と刻んだメダルを贈った。オーストリア皇帝フェルディナンド1世は「宮廷音楽家」の称号を与えた。
 
シューマンはピアニストの夢を諦め、作曲と音楽評論で新たな道を開こうと「ライプツィヒ音楽新報」という音楽雑誌を創刊した。(実家の出版業が役に立ったと思われる。)シューマンの作った曲を最も評価したのはクララであり、自分の演奏会でも度々演奏した。ある貴族の娘と婚約までしたシューマンだったが、自分を理解してくれるのはクララしか居ないと気付き婚約を破棄してしまう。25歳のときシューマンは16歳のクララに愛を込めた手紙を送る。その後二人の愛は大きく発展していく。
 
二人の関係を知った父ヴィークは激怒する。全てを賭けて幼いクララを天才少女に仕立て上げ、苦労して演奏旅行を続けて来た。結婚させるなら然るべき貴族にと思ったのも父親としては当然である。それを無名の弟子にさらわれるとは、飼い犬に手を噛まれるようなものである。断じて許さないとシューマンを破門する。二人が会うことも手紙のやり取りも禁じ、クララを遠ざけるため頻繁に演奏に連れ出した。
 
ヴィークも一流のピアノ教師であったので、シューマンの非凡さは解っていたが、彼の精神的不安定さも見抜いていた。姉の自殺もあり、シューマンの暗い影には不安を覚えたのだろう。しかしクララの気持ちは変わらずシューマンとの結婚を決心し二人は婚約する。シューマンはヴィークに結婚を願い出るがすげなく無私される。シューマン29歳のとき、ヴィークはクララに対してシューマンとの婚約を破棄しなければ、相続権を取り上げ今までの報酬も没収すると言い渡した。
 
事情を聞いたシューマンはクララとともに裁判所に行くことにした。父の同意なしで結婚の許可を求める書類に署名する。法廷闘争に持ち込まれた結婚問題は父からの激しい非難中傷にも遭うが結局認められた。1840年9月、クララ21歳の誕生日に教会で結婚式を挙げる。
 
******** 上卦は天
******** 陽、剛、強
********
***  *** 下卦は水
******** 問題、艱難、悩み
***  ***
 
「天水訟」の卦。訟は訴訟の訟であるので、争う、裁判をすること。天は上に在り、水は下に降りる。卦象は天にあった水蒸気が雨となって地に落ちてゆく様を表している。個人も集団も国家も時に対立し、争うことがある。よく反省して折り合えば吉だが、最後まで争い続ければ凶である。
 
娘の幸福を願う父ヴィークの怒りは当然であろう。国が違っても、時代が違っても、親子の情はそれ程変りはしない。それにしても父ヴィークは社会的常識、経済的常識に縛られてしまってはいないだろうか。早く和解していれば、その後の運命も違ったものになったかも知れないものを。残念。

シューマンの青年時代

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シューマン。1810〜1856
 
ショパンやリストは主にパリで活躍していたが、殆ど同時代にドイツで活躍したのがシューマンである。因みにシューマンが生まれた1810年前後にロマン派を代表する作曲家たちが集中して誕生しているのも面白い。1810年にショパンとシューマン、1年前にメンデルスゾーン、1年後にリスト、3年後にワーグナーとヴェルディという具合である。それぞれの人生は栄光に包まれているが、最も苦悩の人生を送ったと思われるのがシューマンだろう。
 
現ドイツ・ライプツィヒから南70キロのところにあるツヴィッカウでシューマンは生まれた。父ロベルトは出版業を営むかたわら小説などを執筆していたというのでシューマンの文学的素養は父譲りかも知れない。少年時代からピアニストを夢みていたが、シューマン16歳の時、14歳年上の最愛の姉エミーリエが病気を苦に自殺をした。その半年後に音楽的才能を支援していた父が、病に倒れ急死してしまう。相次ぐ家族の死はシューマンにはショックであり心に深い傷を残した。
 
家業である印刷業は上の兄たちが引き継いだので、経済的心配はなかったが、生活第一の母の希望により音楽への道は断念しライプツィヒ大学の法科に進学する。ライプツィヒにきたシューマンは母の知り合いであるライプツィヒ大学医学部教授のカールス家の夜会に出席した。そこでピアノ教師のフリードヒ・ヴィークの9歳の娘クララの見事な演奏を聴いた。シューマンが諦めていた音楽への夢が再び点火し始める。
 
大学生活は始まったものの学業には興味が沸かず、悶々たる日々を過ごす。葉巻を吸い、酒に溺れ、娼館に通い、自堕落な生活の中に音楽への夢だけが救いだった。「やはり俺がやりたいことはピアノしかない。」シューマンはクララの父ヴィークの門を叩いた。20歳のとき、母に打ち明け、自分の才能について師のヴィークに問い合わせてくれと願い出た。母からの手紙にヴィークから「3年修行すれば立派なピアニストになれる。」という返事がきた。母は渋々音楽家への道を許可する。
 
師ヴィークはクララの演奏旅行に付き添って不在がちだったが、独学でも猛練習と音楽の勉強に明け暮れる。右手の指が弱いと感じたシューマンはピアニスト用の指の矯正器具を使い強化しようとした。ところが無理が祟ったのか、シューマンの右手の指が動かなくなってしまう。ピアニストにとっては致命的な事態に、医師に相談、様々な治療を施す。ついに効果はなく、ピアニストを断念せざるを得ず、お先は真っ暗になった。
 
***  *** 上卦は水
******** 困難、問題、悩み
***  ***
***  *** 下卦は雷
***  *** 活動、生命力、志
********
 
「水雷屯」の卦。屯(ちゅん)とは生みの苦しみ、行き悩むこと。草木の芽が固い地面に阻まれて中々芽を出せないでいる。社会に出た若者が中々認められずに苦労している姿である。焦ってはならない。目的を忘れず、辛抱することがなにより大切である。
 
才能に恵まれ、実力があっても、様々な原因で人は挫折を体験する。挫折を乗り越えた時、芸術の花が咲く。シューマンの音楽家への道は挫折から始まった。お先真っ暗なシューマンの人生にどんな花が咲くのだろうか。

リストとワーグナー

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コジマ。1837〜1930
 
リストはピアノ・リサイタルを始めた音楽家と言われている。その演奏は超絶技巧ともアクロバット奏法とも呼ばれピアノ1台で、見せ、聞かせ、、酔わせ、感動させた。ピアノを横向きに置き、横顔を見せながら演奏すると感激のあまり失神する女性もいたという。ある時は過激な弾き方によりピアノの弦を切ってしまうこともあり、演奏会は常に盛り上がった。各地で洪水や大火などの災害があると進んで慈善コンサートを開き、義捐金を送った。
 
マリー・ダグーと別れたリストはさらに演奏活動に打ち込みヨーロッパ中を駆け巡っていたが、35歳の時、28歳のカロリーネ・イワノフスカと巡り合う。カロリーネは裕福なポーランド貴族出身、ロシアの公爵と結婚し、1女を儲けたが無趣味の夫とは始めから気が合わず別居中だった。マリーのような華やかさはないが、信仰心厚く、教養豊かで、音楽への造詣も深かった。やがてリストが演奏活動を控え、作曲活動に専念するのはカロリーネの影響である。
 
カロリーネと同居してリストの恋愛遍歴はようやく落ち着き、縁のあったワイマール宮廷楽団の楽長として、ピアノ曲、交響曲などを集中的に作曲し、リストを慕う若い音楽家を指導した。リストはピアノ教師では報酬を受け取らなかったので弟子たちは喜び人気を集める。実力はあったが名声のない親友・ワーグナーのために彼の「タンホイザー」、「ローエングリン」を上演し、ワイマールでの名声を築くのにひと肌脱いでやった。
 
リストが貴族でないという理由で、カロリーネとは結婚が出来なかったが、カロリーネの努力により、リスト50歳の時、結婚式を挙げるところまで漕ぎつけた。しかし、親族の執拗な妨害により二人は別れカロリーネはローマに移住する。その後50代のリストを悩ませた最大の問題が起こる。マリー・ダグーとの次女・コジマはリストの弟子であるハンス・ビューローと結婚して子供もいたが、何と親友・ワーグナーと愛し合い同居したのだ。大反対のリストは親友と絶交する。
 
60歳を過ぎたリストは全てを受け入れ、コジマと再婚したワーグナーとも和解し、ワーグナーの夢であった歌劇の殿堂・バイロイト祝祭劇場の建設にも協力した。バイロイト音楽祭はワーグナーの死後、コジマ、息子ジークフリートが受け継ぎ現在まで健在である。晩年のリストはワイマールの私邸で時折親しい貴族や弟子たちを集め日曜コンサートを開いたが、70歳を過ぎてもそのテクニックは衰えを知らなかった。75歳にて死去、バイロイトの墓地に眠る。
 
******** 上卦は天
******** 陽、剛、強
********
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、柔、弱
***  ***
 
「天地否」の卦。天はあくまでも上にあり、地はあくまでも下にある。上下が交わらず、和合しない象である。国王と民衆、経営者と社員、先生と生徒、上下が対立し、意志の疎通がなければ混乱を招く。小人が蔓延り、君子の道は中々開かない。
 
貴族ではないという理由でリストは初恋の相手カロリーヌとも、夫婦以上に助け合っていたカロリーネとも結婚出来なかった。人爵と天爵という言葉がある。貴族は人が決めた爵位であるが、芸術の天才は天が与えた爵位である。人爵と天爵、果たしてどちらが本物の貴族だろうか。
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マリー・ダグー。1805〜1876
 
リストの恋愛遍歴は華やかであるが、その中心は何と言ってもマリー・ダグーであろう。マリーは銀行家でもあるフランス子爵の令嬢で20歳の時、20歳も年上のダグー伯爵と結婚した。2人の子供を授かるが夫とはしっくりいかなかった。パリ社交界にデビューすると絶世の美人マリーは社交界の花形となった。当時、結婚後の恋愛は社交の一部として貴族の間では夫も公認の習慣だったので、マリーは美青年のリストを恋人にした。
 
一方のリストはカロリーヌとの失恋からも立ち直り、精悍な野性的魅力にあふれ、相手がどんな高い身分でも気に入れば自分のものにしていた。いつもは誇り高く沈着冷静なマリーもこの美青年には理性が揺らいだ。やがて二人は愛し合い激しい恋にのめり込み、パリを逃れてスイスに逃避行をする。伯爵夫人と若きピアニストの恋はパリ中を騒がす大スキャンダルとなり、ダグー伯爵はマリーと離婚した。1835年、リスト23歳、マリー29歳の出来事である。
 
マリーは余程財産を相続していたのだろう、その散財ぶりには驚く。二人はスイスのジュネーブに居住し、妊娠していたマリーは女の子を出産し、翌年にはアルプスを旅行する。蜜月はさらに続き、リストの子を1男2女と儲けたが子供は全て乳母に任せ、パリの邸宅では連日のようにサロンを開いた。ジョルジュ・サンドのノアンの館に長期間滞在したり、ヴェネチア、フィレンツェ、ローマにも遊んだ。
 
リストはマリーと暮らしながらもジュネーブ音楽院の教師にもなり、演奏活動は以前にも増して頻繁にこなした。ウィーン、ミラノなど、ヨーロッパ中を演奏のために出かけるリストと留守を過ごすマリー。何処に行っても女性に囲まれるリストに対して、リストの愛人と思われることが誇り高いマリーには耐えられなくなってきた。リストが浮気をしていると疑い、嫉妬に狂ったマリーは「この成り上がり者の女たらし!」と激しく非難した。
 
1844年、ついに激しく燃えた恋愛劇は幕を閉じた。リストと別れたマリーは自分たちをモデルにした「ネリダ」という小説を著し、文壇にデビューする。その後も「1848年革命史」などの著作を残している。
 
******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
******** 下卦も火
***  ***
********
 
「離為火」の卦。易での離は別れではなく火、太陽を象徴する。明であり知でもある。もっている才能、能力を発揮し開花させることである。ただ易の原則は循環であるので、太陽の次には月、歓喜の後には涙がくる。
 
リストの激しいピアノを聞くとこの恋愛劇が思い浮かぶ。ロマン派全盛の時代に相応しいリストとマリーの恋愛劇。リストもマリーもこの恋で終わらず、次のドラマを作っていったところが流石である。二人の結晶である娘・コジマもさらに激しいドラマを奏でてゆく。

リストの青春

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リスト。1811〜1886
 
ピアノと言えばショパンと人気を二分するのがリストだろう。この二人の天才は同年代であり、パリで活躍し互いに親しい関係にあり、影響を与え合った。ロマン派の全盛期に2人は活躍するのだが、その音楽も性格も人生も全く対照的であるところが面白い。ショパンは真面目で繊細、女性的な草食系男子だが、リストは長身の美男子、行動的、野性的、肉食系男子だ。恋愛に於いてもショパンは一人の女性を深く愛すタイプであるが、リストは数々のスキャンダルが常に話題になったドンファンである。
 
リストはハンガリーに生まれ、音楽を嗜む父の手ほどきで早くからピアノの天分を発揮する。9歳の時、エステルハージ伯爵の目に留まり奨学金を受けたので一家は息子の音楽教育のためウィーンに出る。ウィーンではチェルニーに教えを受けますます才能を開花させる。父とパリ、ロンドン、スイスへと演奏旅行に出ると、各地で美少年でありながらモーツァルト以来の天才として女性ファンには大もて大喝采を浴びる。
 
リスト15歳の時、父が急死すると、一家の稼ぎ手としてパリでピアノ教師を始め母を呼び寄せる。人気者のリストには貴族の娘たちが教えを乞いに集まったので生活には困らなかった。16歳の時、ピアノの生徒だったカロリーヌに恋をする。二人は文学、歴史、芸術について語り合い、愛情を深め合って将来の約束を交わすまでに発展していた。しかしカロリーヌの父はリストが貴族でないという理由で反対し、二人の仲を強引に引き離し、貴族どうしで結婚させる。
 
父の死をも乗り越えたリストだったが、カロリーヌとの失恋の痛手からは容易に回復出来なかった。17歳のリストが遭遇した人生の壁、社会の矛盾だったのである。発狂しそうな発作にたびたびに見舞われ、2日間意識不明になったこともあり、死亡のデマ記事が新聞に載る騒ぎもあった。リストの悩める精神は完全に現実から離れ、救いを求めて宗教書、哲学書を貪り読んだ。3年間さ迷った精神はベルリオーズの幻想交響曲を聞くことによってようやく快方に向かう。折しも1830年7月、パリでは7月革命が勃発。パリ市民は興奮のるつぼに、そのエネルギーは若者たちに火をつける。
 
20歳になったリストは完全復活した。そんなときにヴァイオリンの魔術師・パガニーニの演奏に接する。「俺はピアノのパガニーニになる。」と決意して猛練習を開始する。自信を取り戻し活動を再開したリストは芸術家が集まるサロンに参加し、ベルリオーズを始めユゴー、ミュッセ、サンドらの文学者にも出会い、生涯の友人となるショパンとも出会う。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 陰、柔、
***  ***
***  *** 下卦は沢
******** 喜び、親睦
********
 
「地沢臨」の卦。臨は望むこと。下二つが陽の爻であり、これから陽の気が伸び始める様を表している。幕末に勝海舟を艦長として日本人が始めて太平洋を横断した「咸臨丸」の咸臨はこの卦が出典である。世に羽ばたこうとする若者の姿である。
 
ピアニストというだけで恰好が良い。ましてピアノの天才で美青年とくれば女性が放っとくはずはない。リストがもてたのも当然だが、なかなかリストも苦労人であり、努力家であったようだ。早くに父を亡くしたことでハングリー精神もあったのだろう。これからどうなるのだろうか。

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