さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名曲はこうして生まれた

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クラシックの名曲を残した巨匠たち。彼らはどんな人生を送ったのか。どんな時代にどんな問題にぶつかり、どんな悩みの中からあの名曲の数々を生み出したのか。そんな巨匠たちの生きざまに迫ってみたいと思います。(猶興)
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ノアンの館
 
ショパンとサンドが急接近したのは1838年4月、ショパン28歳の時である。次々と恋人を替えていたサンドがショパン一人を愛人にすることは、そう容易ではなかった。「ショパンと決闘する。」という元愛人までいた。そこでサンドは今までの男たちを清算し、ショパンと新たな生活をするために地中海のマジョルカ島に子供たちとともに移り住むことにした。病弱なショパンには「冬でも温暖な島なら健康にも良いし、作曲するには最適よ。」と言って説得した。
 
地中海に一度は行って見たいと思ったショパンは心を動かされ同意する。11月、一行はマジョルカ島に着いた。ところがその年は例年になく、島は天候不順で雨が多く、肌寒い日が続いた。その上、島民たちに結核患者が来たと噂がたち、町の中に住むことを拒否されてしまう。仕方なく山の中腹にある空き家になった修道院に住むことにした。ショパンのためにパリからピアノを運び入れたが、島での生活は劣悪でショパンの健康をさらに悪化させてしまう。
 
翌年の春には島を引き揚げ、パリから南に270キロのノアン村に移った。サンドが少女時代を過ごした父から相続した館があったのだ。ノアンはショパンには祖国・ポーランドの田園風景を思い起こし、お気に入りの場所となった。マジョルカ島の失敗もあり、サンドはショパンに献身的に尽くした。その年から夏はノアン、冬はパリに住む生活が7年間続く。健康も取り戻し、雑事を忘れて作曲に専念できたショパンは全作品の3分の2をこの時期に作曲した。
 
それにつけてもサンドの経済力と行動力には驚かされる。ショパンはピアノ教師で高額の収入を得ていたのだが、全て断ってしまい、サンドの作家としての印税で暮らした。しかも恋多き女盛りのサンドが殆ど浮気もせず、9年間もショパンと暮らしたのだから奇跡的というしかない。しかしショパンとサンドの生き方、考え方、恋愛体質の違いは一緒に暮らすには限界があった。加えて、子供たちが成人になると家族にも亀裂が生じ始めたのだ。
 
主なる原因は売れない彫刻家と結婚したサンドの娘ソランジュが母と対立しショパンを頼った。ショパンはソランジュを擁護したのでサンドの怒りを買った。一方の息子モーリスはショパンに反発し、サンドの肩を持つ。ノアンで画家ドラクロワが描いたショパンとサンドのツーショットの肖像画を真っ二つに切り裂いた。1847年7月、サンドがショパンに宛てた「別れの手紙」をもって2人の関係は終息する。
 
サンドと別れたショパンは立ち直ることが出来ないまま、体調を悪化させ、作品を作ることもなく、2年後にパリで永眠する。死を看取ったのはポーランドから駆け付けた姉ルドヴィカとポーランド時代から親交のあったポトツカ夫人だった。サンドは死の床にも葬儀にも姿を見せることはなかった。ショパンが愛し続けた祖国ポーランドには姉に抱かれて亡骸だけの無言の帰国となった。享年39歳。
 
***  *** 上卦は雷
***  *** 活動、志
********
******** 下卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
 
「天水豊」の卦。豊は豊かである。盛大豊満である。才能や能力が発揮され、充実した生活を表している。しかし太陽も中天に達すればやがて傾き始める。月も満ちれば欠け始める。恋愛関係もいつまでも熱くは居られない。やがて衰えることを暗示している。

ショパンがサンドと過ごした9年間は芸術家としては最も充実した年月だったのではないだろうか。ショパンもサンドも芸術家、悔いは無かっただろう。お陰で私たちはショパンの残した素晴らしい贈り物をたっぷりと鑑賞することが出来る。ありがとう、ショパン。ありがとう、サンド。

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ジョルジュ・サンド。1804〜1876
 
ショパンの人生ドラマを語る上で、最も重要にしてドラマチックな時代はジョルジュ・サンドと過ごした10年間である。当時音楽家を始め他の芸術家、文学者、貴族たちはサロンに集まり、情報交換する習慣があった。その一つがピアニスト・リストの愛人で知られるダグー伯爵夫人が開くサロンであった。リストと親しいショパンもよく出入りしていた。そこで出会ったのがジョルジュ・サンド(ペンネーム。本名はオーロール・デュパン)で売れっ子の小説家だった。
 
サンドについて少し語ると、父は軍人貴族だが母はその本妻ではなかったが、父の死後他に子がなかったため莫大な遺産を相続した。18歳である貴族と結婚し、一男、一女を儲けたが退屈過ぎるという理由で夫と離婚する。2人の子供を抱えながらも、型破りで自由奔放な生き方を選択する。次々と恋人を替え、その恋愛体験を小説にし、文壇にデビューした。 
 
その恋愛遍歴には数々のエピソードが残されている。例えば、6歳若い詩人・ミュッセとの恋愛中に二人でヴェネツィアに旅に出た。そのときサンドが熱を出したので医者を呼んだが、そのイタリア人医師・パジェロが魅力的な男性だった。そしてサンドは回復したが今度はミュッセが高熱を出した。再び現れた医師パジェロとサンドは病気のミュッセを放って一夜を過ごしたという。
 
「カルメン」の作者・メリメは名うてのプレイボーイで知られるが、サンドと二晩過ごしたがついに自分の女にすることが出来なかった。メリメはサンドを「あの女は不感症だ。」と周囲に漏らしたが、それを聞いたサンドは「あの人の言葉には心がないのよ。」と言い返した。リストとも関係があり、ダグー夫人とは同性愛の関係もあったと言われている。サロンには颯爽と男装姿で現れ、葉巻を燻らし、常にセクシーな目線を放っていた。
 
そんなサンドをショパンは始めのうちは「あれでも本当に女なのか。」などとリストに話したりしていた。ところがサンドに見つめられているうちに、すっかり変わってきた。マリアとの婚約が解消され、傷心を抱えていたショパンの心は捕えられた。一人の女性を深く愛すタイプのまじめ系男子・ショパンと、次々と相手を変える悪女系女子・サンドの波乱の恋愛劇が始まる。ショパン26歳、サンド32歳の運命の出会いである。
 
***  *** 上卦は沢
******** 喜び、親睦、少女
********
******** 下卦は山
***  *** 動かないもの、勤勉、少男
***  ***
 
「沢山咸」の卦。咸は感動、感激。心がふれあう恋はまさしく感動である。若い男が若い女に恋をして、情熱を燃やすことが人生ドラマの出発である。長続きすることが望ましいが、咸の時期は先のことまでは解らない。
 
草食系と肉食系という分け方もある。明らかにショパンの草食系に対してサンドは肉食系である。しかも多食系でもある。この対照的な二人が果たして幸福になったのだろうか。それは次回に譲ることにする。
 

ショパンの青春

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ポトツカ夫人。1807〜1877
 
ウィーンでのショパンは毎日憂鬱だった。わずかな縁故を頼って演奏会を開こうとするが殆どは無駄足だった。たまに開いた演奏会も評判は芳しくなかった。当時、ウィーンではヨハン・シュトラウスのワルツが流行しており、ショパンの繊細さは馴染まなかったのだろう。ポーランドという国柄や民族色もあまり好意を持たれなかったのが原因かも知れない。ショパンはウィーンを去ることに決めた。
 
1831年、21歳のショパンはパリにやって来た。当時のパリは大都会であり、文化の中心でもあり、外国の芸術家が集まる街でもあった。その頃はロマン派がいっせいに開花した時代であり、ベルリオーズ、リスト、メンデルスゾーン、シューマンたちが勢ぞろいし、画家のドラクロワ、詩人のハイネたちも活躍していた。ショパンもそんな芸術家たちと交流していく。
 
始めての演奏会に出演したのは、プレイエル・ホールという一流の大ホールだ。25歳年上のドイツ人の名ピアニスト・カルクブレンナーが自分の演奏会に共演させてくれた。ショパンはそれなりに存在感を示したが、ショパンは大ホールよりもサロンなどの小さな空間が自分に向いていると感じた。
 
サロンで演奏していると、思いがけずポーランド人から声がかかった。その頃、祖国の混乱を避けて貴族たちが多くパリに亡命してきたからである。旧知の人もあり、新たな出会いもあり、ショパンはパリの街に居場所を見つけ、自信を取り戻していた。何より重要な出会いはショパンの憧れの人と言われているポトツカ伯爵夫人との再会である。ポトツカ夫人のお蔭で大財閥のロスチャイルド家にも出入りするチャンスを得、活動の場は広がっていった。

ロスチャイルド家では夫人や令嬢にレッスンすると、他の貴族からもレッスン依頼がきた。1回のレッスン料は現在の日本円にすると10万円ほどで、サロンでの演奏では1回の謝礼金は100万円にもなった。ショパンはすっかり裕福になり、稼いだ金はオペラを観まくり、仕立てのいい服を身につけ、「カブリオレ」と呼ばれる高級二輪馬車を所有してレッスンに通った。女性たちの人気を集めたのもその頃である。

25歳のとき、ワルシャワ時代に交流のあった亡命ポーランド貴族のヴォジンスキ家を訪ねると、少女の頃にピアノを教えたマリアが16歳の美しく魅力的な女性に成長していた。ショパンは恋に落ち、翌年にはプロポーズするとマリアも応えてくれた。ところがショパンの健康面を案じた両親から結婚を諦めるよう説得されたマリアから婚約解消の手紙が届いてしまう。失意のショパンは涙の中で作ったワルツを贈くる。「別れのワルツ」と呼ばれている。
 
******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
******** 下卦は天
******** 大きな社会、陽のパワー
********
 
「火天大有」の卦。大有は大(陽)なるものを有することで、豊作、裕福、盛運を表す。太陽が中天にあるという状態とも言える。順風満帆ですべてが自分の味方になるようだが、盛運の中に暗雲の兆しも見え始める。要注意。
 
ショパンはとかく悲しみに包まれた人生を連想させる。しかし、20代の半ば頃は何もかも順調で青春を謳歌した時代もあった。ただ残念ながら、その盛運はそう長くは続かなかった。ここからがショパンのドラマなのである。
 
 

ショパンの旅立ち

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ショパン。1810〜1849
 
ショパンと言えばピアノ。作曲した殆どの曲がピアノ独奏曲であり、一流の演奏家でもあったので「ピアノの詩人」と言われている。北国のポーランド出身の為か、北を感じさせる哀愁、郷愁、メランコリーは「もののあわれ」に敏感な日本人には特に人気がある。現在、フランスに「ラジオ・ショパン」というFM局があり、一日中ショパンの曲だけを放送しているので、インターネットによって好きな時に聴けるのは嬉しい。
 
ショパンはポーランドのワルシャワ郊外に生まれ、ワルシャワで育った。フランス語教師の父と母、3歳上の姉、2歳下の妹の5人家族だった。家族はとても仲が良く、音楽が好きな母が子供たちにピアノを教えている。ただショパンが17歳のとき、最愛の妹を結核でなくし、自分も病弱な体質を悩んでいるので遺伝的にも家族は丈夫ではなかったのだろう。その繊細なメロディもそんな体質が紡ぎ出したものだろうか。
 
ショパンは4歳からピアノの手ほどきを受けるがたちまち才能を発揮し、7歳にしてポロネーズを作曲するほどで、その天才はモーツァルトやベートーヴェンにも比較されている。12歳からワルシャワ音楽院院長・エルスナーに師事し、本格的に作曲の勉強をしている。16歳から20歳まで音楽院で友人たちと学生生活を送った。ショパンは音楽の才能だけでなく、似顔絵、漫画、物まね、声帯模写が得意で、学校では常に人気者だった。
 
学生時代の最大の思い出はコンスタンツィア(初恋の人と言われる)にも歌手として出演してもらい大成功したコンサートである。ショパンの才能はワルシャワでは知らぬ者はなく、貴族の集まりや外国からの賓客の前で演奏する機会も多かった。しかし当時ポーランドは実質的にはロシアの支配下にあったため、音楽家が活躍する場は殆どなかった。学校を卒業したショパンは、愛する家族、大勢の友人に見送られ、新天地を目指してウィーンに旅立つことになった。
 
ウィーンに到着して間もなく、ワルシャワでは独立を求める若者たちが武装蜂起する11月革命が起った。しかし翌年にはロシアの大軍により鎮圧されワルシャワは陥落される。「身体の弱いお前は兵隊は無理だ。お前は音楽で身を立てるんだ。」父に言われて祖国を後にしたショパンだったが、愛国者のショパンの心情はいかばかりであったことだろう。その怒りと悲しさをぶつけるように作曲したのが「革命のエチュード」だ。ショパンの作品とは思えない狂ったように激しい一曲である。
 
******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
******** 下卦は山
***  *** 動かざるもの、勤勉
***  ***
 
「火山旅」の卦。旅は旅行。易での旅は楽しい旅行ではなく、孤独な一人旅を連想させる。馴染みのない異国への一人旅は期待と同時に不安は計り知れない。あせることなく、郷に入りては郷に従い、受け身で対処することである。大事なことは目的を忘れないことである。
 
ショパンは憂国の情を抱きながら、生涯異国の地に住み一度も祖国に帰る機会を持てなかった。ショパンの曲が悲しみに包まれているのは、祖国への郷愁があったからだろうか。ポーランドの国民性は何処か日本人と似ている気がする。

ショパンの生まれた国

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マリア・ヴァレフスカ。1786〜1817
 
ショパンは1810年にポーランドのワルシャワ郊外に生まれワルシャワで育った。20歳で一時ウィーンに出たが、後は死ぬまでパリで過ごした。当時、ポーランドでは音楽家が生活できる環境ではなかったからである。
 
ポーランドは14,5世紀には豊かで強国だった歴史をもつが、18世紀後半には国力が低下し、国土を囲まれているプロイセン、ロシア、オーストリアによって1772年、1793年、1795年の3回にわたる「ポーランド分割」により国土が全て失われる。ショパンの母も没落貴族の娘であるが、没落貴族の悲哀を知るために、ある娘の話を照会したい。
 
ショパンが生まれる少し前の話である。ポーランド名門貴族のウォンチスキ家の娘に生まれたマリアが8歳の時、義勇軍に参加した父が戦死し、一家は窮乏してしまう。美しく成長した16歳になったマリアに62歳のヴァレフスキ伯爵から結婚話がくる。伯爵は3度目の結婚で、マリアより6歳年上の孫もいた。マリアはショックで寝込んでしまうが、一家の窮状を救うためと母に説得されて結婚し、男の子を出産する。
 
20歳の時、ヨーロッパを征服しつつあったナポレオンにポーランド政府は救いを求めた。外務大臣・タレーランはナポレオン歓迎の舞踏会を開き、美しい貴族の婦人たちがもてなした。そこでナポレオンはマリアに一目ぼれし求愛する。「私には夫も子もいますので。」断るマリアに祖国復興を願う政府要人たちはヴァレフスキ伯爵邸を何度も訪れる。マリアとその夫を説き伏せ、ナポレオンの望みを叶える。
 
ナポレオンにとってマリアは妻・ジョセフィーヌや他の愛人とも違い、おだやかで慎ましく、欲がなく純真な性格であり、心を和ます唯一の女性だった。2人はプロイセンのフィンケンシュタイン城で1808年4月から6週間を共に過ごした。その後マリアから妊娠を告げられたナポレオンは自分に子ができるとの自信を抱き、ヨーロッパ最大の皇帝としてますます野心を膨らます。マリアはナポレオンの計画を見抜いたが、「たとえ貴方が私を愛さなくなっても、私は貴方を愛している。」と彫り込んだ指輪を贈った。
 
マリアの不安は的中し、ナポレオンはジョセフィーヌと離婚し、ヨーロッパ名門貴族・ハプスブルグ家のオーストリア皇女・マリー・ルイーズと結婚する。それでもマリアはナポレオンを心底愛し抜き、失脚し幽閉されたエルバ島にも幼子のアレクサンドルを連れて面会に行った。運命と時代に翻弄され病気でやせ細ったマリアはわずか31歳の若さでその生涯を終える。ナポレオンの指にはマリアが送った指輪が死ぬまではめられていたという。1970年には、マリアは国を救った恩人として、ポーランドで切手になった。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 大地、陰の世界
***  ***
******** 下卦は火 
***  *** 文化、才能、太陽
********
 
「地火明夷」の卦。明夷(めいい)とは、明が夷(やぶ)れる。明るい世界が傷つき害される。卦象の通り太陽が地下に沈んでいくのである。暗黒が支配する世の中になっていくが、こんな時はなまじ才能を発揮して打開を図ろうとせず、じっと我慢の日々を過ごすことが賢明である。苦難の中で磨かれた実力はやがて花開き、輝く日がきっとくる。

その後のポーランドはドイツとロシアの強国の間で苦難の時代が続いた。ようやく自由と独立を勝ち取るのは、冷戦が終る20世紀後半のことだった。国民の生命と安全を担う国の指導者たちの力量と叡知がいかに重要かということを知らされる。
 
 

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