さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名曲はこうして生まれた

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クラシックの名曲を残した巨匠たち。彼らはどんな人生を送ったのか。どんな時代にどんな問題にぶつかり、どんな悩みの中からあの名曲の数々を生み出したのか。そんな巨匠たちの生きざまに迫ってみたいと思います。(猶興)
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ハリエット・スミッソン。1800〜1854
 
ベルリオーズは1803年、フランスのリオン郊外にあるラ・コート・サンタンドレという小さな町に生まれた。祖父は法律家、父・ルイは開業医、町一番の文化人一家だった。ただ都会育ちの母・マリーは何の刺激もない町に来たためうつ病になったというから余程の田舎町だったのだろう。
 
6歳で小学校に入学するものの2年後には学校改革で閉鎖となった。幅広い教養の持ち主だった父が18歳まで、ラテン語、文学、歴史、地理、数学と全ての科目を教え、大学の検定試験に合格させている。
 
音楽との出会いは15歳の時、父の机の引き出しから縦笛を見つけて吹き始めたのがきっかけだった。興味を示すので、父はフルートを買い与え先生をつけて学ばせた。何とも理解のある父親である。15歳になるとギターも弾くようになり、自分で作曲した曲をバンド仲間と演奏をしたりした。
 
開業医の長男であるので、18歳になるとパリの医科大学に入学した。ところが2年目になると、医学の勉強よりも近くの音楽学校の図書館に通い始める。そこでグルックのオペラ「アウリスのイフィゲニア」の楽譜を読んで感激する。実際にオペラ座に行って観ると、その感動は身震いするほどであり、ベルリオーズの人生を決定する出来事となる。思いつめると一直線のベルリオーズは医学を捨てて、音楽家になる決意を固める。

父の猛反対で仕送りを止められてしまうが、一直線男はアルバイトで学費を稼ぎながら作曲の勉強を始める。23歳にして父の許しを得るとパリ音楽院に入学して本格的に作曲の道に邁進する。24歳の時に英国のシェークスピア劇団によるパリ公演があった。この芝居に感動したベルリオーズはシェークスピアに夢中になると同時に出演した女優のハリエット・スミッソンに一目惚れしてしまう。この一直線男は断られても断られてもラブレターを出し続け楽屋を訪ねる。人気の大女優が無名の学生を相手にする筈はない。公演が終るとさっさとイギリスに帰ってしまった。

諦めらめきれない一直線男は悩みに悩んだ末、ついには女優を恨み復讐を誓う。この失恋体験をオペラにしてロンドンで上演し、びっくりさせてやろうというのだ。誇大妄想狂的な発想であるが、本人は大真面目に取り組み、朝から晩まで猛烈な意気込みで作曲にかかる。3年間の試行錯誤の挙げ句、「ある芸術家の生涯のエピソード」という副題をつけて「幻想交響曲」が完成した。ベルリオーズ27歳の時にパリで初演され、一躍注目を集めた。「ロマン派」音楽の先駆けと言われてる「幻想交響曲」は一直線男の失恋体験から誕生したのである。
 
***  *** 上卦は沢
******** 喜ぶ、親睦、少女
********
******** 下卦は山
***  *** 動かないもの、勤勉、少男
***  ***         
 
「沢山咸」の卦。咸は感動、感激。若い男が若い女に恋をする象である。理性や立場も忘れて恋の火花を散らす。そこから人生のドラマは始まる。男が下にいて愛を誓うのが望ましく、結婚にも吉である。

一直線に進むことは一歩間違えば飛んでもない問題につながる。ベルリオーズの恋もストーカー犯罪一歩手前だった。作曲という世界に転化出来たので音楽史にその名を残した。何が幸いとなるか、何が災いとなるか解らない。音楽も人生もだからこそ面白い。
 
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ベルリオーズ。1803〜1869
 
これより舞台をフランスに移す。18世紀後半に起きたフランス革命は王制から共和制に移行するのだが、この激動によりあらゆる文化、価値基準が変わり始めた。文化面から見ると、形式や秩序に重きを置く「古典主義」から理性や合理的思想による「啓蒙主義」へ、さらに個人の主観や自由な感情表現を主張する「個人主義」「ロマン主義」が勃興してきた。
 
19世紀になると、小説家のヴィクトル・ユゴー(1802〜1885)や画家のドラクロア(1798〜1863)らの芸術家たちはロマン主義運動をパリのサロンを中心に熱心な議論を戦わしていた。音楽においても同様に美しさを追求した「古典派」や哲学的メッセージの「啓蒙派」から自由な発想と個性重視の新しい胎動が始まろうとしていた。そんな激動と混沌の潮流の中から突如として生まれ出たのがベルリオーズの「幻想交響曲」であった。
 
そもそもモーツァルトもベートーヴェンもシューベルトも幼年時代に才能を認められ、音楽の英才教育を受けている。ヴァイオリンやピアノを弾きこなすのは作曲家として当たり前の基礎的能力であった。ところがベルリオーズは15歳頃まで楽器という楽器すら知らずに少年時代を過ごしている。作曲家になった後も弾ける楽器と言えば、ギターとフルートを少々たしなむ程度だったと言われる。そんな青年が音楽史を変える新時代の扉を開けてしまった。
 
音楽の常識から考えるとアマチュア同然の作曲家・ベルリオーズの「幻想交響曲」はロマン主義の先駆けとなって、その後、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リスト、ワーグナーたちが続々と登場し名曲を発表していく。現在の音楽ファンが好んで演奏を楽しんでいる「ロマン派」の作曲家たちである。ベルリオーズの果たした役割はそれ程革命的な出来事であった。
 
では音楽界に突然現れた風雲児は果たしてどんな人物だったのだろうか。そして「幻想交響曲」はどんな動機や背景のもとに誕生したのだろうか。それは次回に譲ることにする。
 
***  *** 上卦は沢
******** 楽しむ、親睦
********
******** 下卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
 
「沢火革」の卦。革は革命、改新である。古いものから新しいものへ変化する。改革による混乱は避けられないが、改革が成功するためにはその時期が熟しているかどうかが問題である。
 
ベートーヴェンの「第九」がウィーンを席巻したとき、シューベルトは「この交響曲の後には誰も作曲することは出来ない。」と語った。事実、「第九」に続く交響曲としては半世紀後のブラームスの登場を待たねばならなかった。しかしベートーヴェンの死からわずか3年後に異国で異次元の交響曲が生まれている。まさに「後生、畏るべし」である。
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ウィーン中央墓地(左・ベートーヴェン、中・モーツァルト、右・シューベルト)
 
シューベルトが最も尊敬し目標にしたのはベートーヴェンである。シューベルトが生まれた時、ベートーヴェンは27歳。既にウィーンで演奏活動をしていた。11歳で神学校の寄宿生になった頃は、次々と交響曲を発表し、寄宿生にとっては憧れの的であった。かつてベートーヴェンを教えた宮廷楽長のサリエリからはとくに熱心に学んだ。貧乏だったシューベルトだが、なけなしの金を工面してはベートーヴェンのコンサートを聞きに行った。
 
成人となって作曲と演奏に明け暮れする頃はヴェートーヴェンは難聴も酷くなり、作曲も止めウィーンから姿を消していた。もう2度とヴェートーヴェンの演奏は聞けないのかと諦めていたが、シューベルト25歳の時、52歳になったベートーヴェンは奇跡の復活を果す。ウィーンを席巻した「交響曲第九番」である。シューベルトが狂喜したことは言うまでもない。
 
その圧倒的スケールと内容に「この交響曲の後にどんな作曲が出来るだろうか。」と第2楽章まで出来ていた自身の交響曲の続きを断念してしまう。それが死後30年後に発見された「未完成交響曲」と言われている。シューベルトは思い切ってベートーヴェンを訪ねることにした。ピアノ連弾曲10曲をベートーヴェンへの献辞を添えて持参した。しかし残念なことに留守のため会えなかった。
 
それから4年後にベートーヴェンは病床の身となる。その床の中でベートーヴェンはシューベルトの歌曲を知る。「この作曲家は素晴らしい。今に大成するだろう。」と言った。死の数日前、見舞い客のなかにシューベルトの姿があり、死に直面した巨匠の病室にじっと立ちすくんでいた。終にシューベルトは偉大な先輩と言葉を交わすこともないままに、盛大な葬儀にはその棺を囲んで進む集団の一人となっていた。
 
「俺はベートーヴェンのように成りたいんだ。」常に友人たちに語っていたシューベルトは次の年、若干31歳の若さで亡くなった。友人たちは驚いた。「あんなに好い奴が何でこんなに早く逝ってしまうのか。」「彼奴はこれから花が咲くはずだったのに。」「あんな天才を世に出せなかったのは俺たちのせいじゃないのか。」友人たちは、せめて天国でベートーヴェンの側にいられるようにと、その墓をベートーヴェンの隣に造ってやることにした。
 
***  *** 上卦は雷
***  *** 活動、志、長男 
********
***  *** 下卦は沢
******** 喜ぶ、希望、少女
********
 
「雷沢帰妹」の卦。帰妹(きまい)は若い女が嫁ぐ意味。この卦は結果的にはよくないという戒めの卦である。結婚に限らず好きな道に進むときは一時的感情だけではなく、末永い努力を継続させて実を結ぶべきであると説いている。
 
シューベルトはベートーヴェンの芸術家としての毅然としたプライドや貴族も民衆も同じだという考え方に惹かれていたのではないだろうか。31歳の若さで世を去ったことは友人だけでなく、世界中の音楽ファンにとっても残念なことである。彼の才能はもっと大きな花を咲かせたに違いない。シューベルト自身もまた「未完成」のまま世を去った。

シューベルトと女性

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ツェレスの近く・タタ湖

シューベルトは寄宿生時代の仲間に愛され作曲と演奏生活が出来た話を前話に述べたが、では女性関係はどうだったのだろうか。サロン・コンサートには大勢ファンが集まっていたので、当然女性たちも居た筈である。しかし何故かそこから恋人が出来たという話はない。男友達には人気があったが、女性にはモテなかったのだろうか。
 
シューベルトの身長は154㎝だったという。かなりのチビであり、体型はずんぐりで、頭が大きく、首が太く短い。丸く突き出た広い額、張り出した顎。濃い眉毛、茶色の瞳、やや上を向いた団子鼻、豊かな褐色の巻き毛が頭部を覆っていた。寝る時も眼鏡を外さない強い近眼、シューベルト自身が自分の容姿には自信がなく、常にコンプレックスを抱えていた。
 
ならば服装に気を遣い、女性に好かれるように気を使えば良いと思うのだが、全くその努力をしない。貧乏育ちのせいもあるが、服装には無頓着、風呂にも殆んど入らない、おまけに歯も滅多に磨かないので口臭がひどかったという。これでは女性が近づいて来る訳がない。それでも女性には関心はあったようで、上流階級の女性に憧れ、たびたび恋心を抱いていたという。コンプレックスのゆえに、自分の気持ちを伝える勇気は無かった。
 
21歳の夏、友人の紹介で名門貴族のエステルハージ家(ハイドンが長く楽長を務めていた)に音楽教師として臨時に雇われた。仕事はツェレス現スロバキア共和国東部にあるという自然豊かなリゾート地)の別荘に赴任して2人の令嬢に歌とピアノを教えることである。1日2時間レッスンするだけであとは自由時間、しかも教師には世話係りがついた。ピペという8歳年上の活発な娘で、すっかり仲良しとなり、ベッドで過ごす時間もたっぷりあった。貧乏音楽家にとっては、夢のような3ヶ月間であり、その昂揚感と解放感に身も心も浸りきった。6年後、27歳の夏に再びジュリスに行く。美しく成長した18歳になった下の令嬢・カロリーヌには恋心を抱いたが憧れただけで終っている。
 
幼馴染で初恋の相手と言われるテレーゼがいたが、彼女は定職を持たないシューベルトより堅実なパン職人と結婚した。一人前の音楽家になるまでは結婚どころではないと考えたシューベルトはも毎日部屋に閉じこもって作曲に明け暮れてる毎日だった。
 
******** 上卦は風
******** 従順、謙虚
***  ***
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、柔
***  ***
 
「風地観」の卦。観るとは上から見渡す観方と下から見上げる観方が考えられる。上の陽爻からすると見渡すであり、下の陰爻からは見上げるになる。とくに上から観るものは指導的立場であり、君子の道にかなっていなければならない。
 
シューベルトにとっては貴族の令嬢は高嶺の花だった。物の見方は立場、身分、地位、信念によって異なってくる。シューベルトが尊敬したベートーヴェンは貴族を上に見上げたことはないが、真面目でコンプレックスのかたまりだったシューベルトは下から見上げてばかりいたことだろう。

シューベルトの素顔

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シューベルト。1797〜1828
 
シューベルトというとどんなイメージをお持ちになるでしょうか。「未完成交響曲」や歌曲「野ばら」「魔王」などを思い浮かべて「大作曲家」というイメージをお持ちでしょう。また31歳で生涯を閉じた「天才作曲家」というイメージでしょうか。ところが少し調べて見ると、天才ではあるが、天才のイメージとは大違いでチビでデブで陽気、人懐っこく気さくな青年の姿が目に浮かんできます。
 
シューベルトは音楽の都・ウィーンに生まれます。父親は音楽愛好家の小学校の先生でした。父からヴァイオリン、長兄からはピアノの手ほどきを受けます。ところが6歳の頃には父や兄では手に負えない程に上達してしまい、父は教会の聖歌隊指揮者のホルツァーに指導をお願いする。ホルツァーはオルガンや音楽理論、声楽を教えたがその才能に「こんな生徒には会ったこともない。」と驚いた。
 
聖歌隊のボーイ・ソプラノとして活躍していたが、11歳のとき宮廷礼拝堂聖歌隊のコンヴィクト(寄宿制神学校)の給費生に見事合格、寮生活が始まった。ここでは音楽だけではなく、地理、歴史、数学などの授業もあり、卒業生たちは官僚、教師、弁護士など各方面に活躍している。シューベルトは一気に才能を開花させた。宮廷楽長のサリエリからも目をかけられ個人レッスンも受けている。シューベルトは貧乏で五線紙も買えない程だったが、陽気で人懐っこいキャラだったので仲間たちが何かと助けてくれた。
 
ボーイ・ソプラノは声変わりすると退学しなければならない。その後は父の勧めで学校の先生になるが、この職はシューベルトには合わなかったようである。友人にも説得され音楽家への道に専念する決心を固めた。19才になったシューベルトは実家を出て友人たちの家を転々としながら音楽家を目指す。コンヴィクト時代の友人たちは何とかシューベルトを世に出そうと部屋を貸し、食事をさせ、仕事を探してくれたり、何かと応援してくれた。
 
作曲家としてのシューベルトが得意としたのはリート(歌曲)である。17歳の年に50曲、18歳の年に140曲、19歳の年に106曲と生涯600曲の約半分を10代に作っている。「魔王」「野ばら」も18歳の作品である。その歌曲を中心に披露するサロン・コンサートが友人宅で毎回開かれていた。
「シューベルティアーデ」と呼ばれたサロン・コンサートは次第にファンが増えウィーンの音楽ファンの知るところとなった。全て友人たちのお蔭である。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 陰、柔、順
***  ***
******** 下卦は山
***  *** 動かざるもの、勤勉
***  ***
 
「地山謙」の卦・謙遜、謙虚の謙である。高い山が地の下に隠れている象である。すぐれた才能を有しながらも、おのれを虚しくして人にへりくだっている。優れた才能や美しい容貌をもつ人が謙虚であるとき、その才能や美しさは一層引き立つものである。
 
シューベルトの周りにはいつも友人たちが集まり、四方山話に花を咲かせていた。何故シューベルトは友人たちに愛されたのだろうか。人気の秘密は自分の才能を鼻にかけることは決してなく、いつも謙虚で控えめ、柔和で穏やかだった。純粋で誠実な人柄がシューベルトの素顔であった。

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