さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名曲はこうして生まれた

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クラシックの名曲を残した巨匠たち。彼らはどんな人生を送ったのか。どんな時代にどんな問題にぶつかり、どんな悩みの中からあの名曲の数々を生み出したのか。そんな巨匠たちの生きざまに迫ってみたいと思います。(猶興)
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ベートーヴェンのお墓
 
数々の名曲を送り出したベートーヴェンであるが、42歳を過ぎるとまたまた大スランプに陥り創作は止まった。耳は完全に聴こえなくなり、体調も優れない。経済状況も悪化し、様々な悩みがベートーヴェンに押し寄せる。何より死んだ弟の子である甥・カールの親権をめぐる裁判闘争が身心ともに疲弊させた。
 
10年の長いスランプからようやくベートーヴェンは立ち上がる。少年の頃に感動した詩人・シラーの「歓喜に寄す」に曲をつける決心をした。ベートーヴェンは貴族と平民の差別を否定しており、民衆が立ち上がるために自分を投げ出すことが自分の使命であると自覚していた。「歓喜に寄す」は民衆が立ち上がり、革命により自由と平等を自ら勝ち取ろうという啓蒙思想である。フランス革命に先だって書かれたシラーの理想であった。ただ専制君主側からすると反体制の危険思想であり、曲の発表は間違えば投獄される危険も伴う。
 
作曲家としての集大成、人間・ベートーヴェンとしての最後の仕事。この世に永久に残したい一曲、それが「交響曲第九番」である。演奏時間も異例の一時間を超える長さ、しかも交響曲に声楽を加えるという常識を破った壮大な作品。しかしウィーンの音楽界は10年の間にロッシーニの軽い曲が流行しており、重厚な作風は時代遅れと言われていた。そこでベートーヴェンはベルリンでの初演を考えた。それを知ったウィーンの文化人たちは「どうかウィーンで初演を。」と嘆願書を持参してベートーヴェンを感激させた。1824年ウィーンにて初演が挙行された。
 
為政者側からは危険人物とされたベートーヴェンだったが、初演には大勢のウィーン市民が押し掛けた。クライマックスの自由、平等、博愛を歌い上げる合唱では貴族も平民も超えた兄弟愛、人類愛が轟き渡り会場を一つにした。演奏が終わって聴衆から大喝采が起る。ところが耳の聞こえないベートーヴェンは気付かない。見かねた団員の一人がベートーヴェンを客席の方に振り向かせると、聴衆は総立ちとなりスタンディング・オベーションを繰り返した。
 
自由と平等を謳う「民衆賛歌」の「第九」は当局からは危険思想と見なされ、その後苦難の道を歩むことになる。演奏にも時間を要し、合唱団への出演料などの問題もあった。しかし民衆のための音楽は徐々に世界中に広まっていくエネルギーがある。メンデルスゾーン、リスト、ベルリオーズ、ワーグナー、傑作を知るものは傑作を残した天才たちである。彼らは「第九」に魅せられ、演奏し指揮をし、聴衆に感動を与え続けた。現在ではEUの国家ともなり、人類史に燦然と輝く文化遺産ともなった。
 
1827年3月、ベートーヴェンはこの世を去った。葬儀にはウィーン市民が駆けつけ沿道を埋め尽くした。世紀の巨匠との別れを惜しんだ。その数は2万人とも3万人とも言われている。
 
***  *** 上卦は雷
***  *** 行動、志
********
******** 下卦は天
******** 剛強、大いなるエネルギー
********
 
「雷天大壮」の卦。陽気が盛り上がってくる象。新しいエネルギーが下から湧き上ってくる。時代で言えば下から民衆のエネルギーが押えられない勢いで進んでくる時代。日本で言えば明治維新の頃だろうか。
 
始めて「第九」が演奏されてからまもなく200年が経つ。年末の行事にもなった「第九」。「苦難を突き抜け歓喜に至れ」という天からの声である。東日本大震災を体験した日本人にはピッタリの声。ベートーヴェンの苦難の人生を思えばどんなことでも出来るという気がしてくる。
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ナポレオン。1769〜1821
 
ハイリゲンシュタットの遺書はベートーヴェンの復活宣言となった。それからの約10年間は才能が大爆発した時代と言える。タイミング良くパリのピアノ製作者から最新型のグランドピアノを贈られたベートーヴェンはその音域の広さや使い勝っての良さにやる気を奮い立たせた。10年間に6つの交響曲、ピアノやヴァイオリンの優れた協奏曲を次々と作曲した。ロマン・ロランはその時代を「傑作の森」と呼んだ。
 
主な作品としては
34歳のとき、交響曲第3番「英雄」。
35歳のとき、オペラ「フィデリオ」。
36歳のとき、メンデルスゾーン、ブラームスと合わせて3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれる「二長調」。
37歳のとき、交響曲第4番、ピアノ協奏曲第4番、ミサ曲ハ長調。
38歳のとき、交響曲第5番「運命」、第6番「田園」。
39歳のとき、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」。
40歳のとき、ピアノ小曲「エリーゼのために」。
41歳のとき、ピアノ三重奏曲第7番「大公」
42歳のとき、交響曲第7番
43歳のとき、交響曲「ウェリントンの勝利」
44歳のとき、交響曲第8番
 
特筆したいのは交響曲第3番「英雄」である。ベートーヴェンは根っから貴族と民衆との身分の違いを否定しており、あくまでも民衆の時代の到来を熱望していた。そこでフランス革命を支持し、同年代で平民出身のナポレオンがヨーロッパの王政を次々倒していたことを歓迎していた。自らどん底から立ち上がった体験を持つベートーヴェンはナポレオンには親近感を持っていた。いつか政治や芸術を超えて、民衆の時代を創ったもの同志として固い握手をするつもりでいた。

この交響曲は従来のものより時間も倍ほどあり、全身全霊を投入した壮大な内容に満ちた作品である。2年間を費やして完成させたこの交響曲を同志であるナポレオンに献じようと、「ボナパルトへ捧ぐ」と賛辞を記して発表するつもりでいた。ところがナポレオンが自ら終身皇帝に就任したことを知り落胆した。「彼奴も民衆の上に君臨し、権力が欲しかっただけの男だったのか!」曲を献じるのを中止した。代わりに「かつて英雄だった男の思い出に」と書き換え、これから立ち上がるだろう民衆に献じることにした。
 
******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、才能、明知
********
******** 下卦も火
***  ***
********
 
「離為火」の卦。火(離)は太陽を表し、明知を発揮すること。前項の「坎為水」は悩みの象徴であるが、こちらは反対に才能が開花するのである。大いに才能を発揮し、太陽の如く天下に遍く照らせば良い。ただし「牝牛をやしなえば吉。」とあるように、天狗にならず、従順さを合わせ持つことが肝要である。
 
ベートーヴェンは音楽の天才。ナポレオンは戦略の天才。どちらもその道で頂点を極めた。死後200年、どちらが何を残しただろうか。その後の民衆に勇気と希望を与えてくれたのはどちらだろうか。芸術の力は戦争にも勝ることを我々は今、強く深く感じている。
 
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ハイリゲンシュタット
 
ベートーヴェンはモーツァルトとハイドンを尊敬し教えを乞いたいと願っていたが、21歳を迎えようとする時、モーツァルトの急死が報じられた。再会を楽しみにしていたベートーヴェンはさぞや残念だったことだろう。22歳を迎えようとする時、師・ネーフェやヴァルトシュタイン伯爵の尽力により、宮廷の給費留学生としてハイドンの弟子になることが決まった。喜び勇んでウィーンに出発する。
 
ところがハイドンは1回目のロンドン公演から帰ったばかりで忙しく、しかも1年後に2回目のロンドン公演が決まっていた。ハイドンは殆ど弟子たちを指導する暇はなかった。しかしベートーヴェンは貪欲に宮廷楽長のサリエリから声楽やオペラを、シュテファン大聖堂のアルブレヒツベルガー楽長から対位法を学ぶ。ある時、ハイドンが弟子たちに作曲した楽譜には「ハイドンの教え子〜」と記すようにと言ったので、ベートーヴェンは「私は貴方の弟子になりましたが、貴方からは何も教わっていません。」と答えた。 
 
その後、ベートーヴェンは即興演奏の名手として有名になる。定期的な演奏会も決まり、サロンからサロンと渡っては演奏をし、モーツァルト亡き後の社交界の寵児となった。アル中だった父・ヨハンは亡くなったが、ボンの弟たちのために仕送りをせねばならず、寸暇を惜しんで精力的に演奏と作曲に明け暮れる毎日が続く。正に飛ぶ鳥を落とすほどの勢いではあったが、ベートーヴェンの耳は少しづつ聴こえなくなっていた。
 
演奏家にとって聴覚は命である。26歳頃から聴覚障害が徐々に悪化していく。他人には気付かれないように隠し続けるが、今後のことを考えると気が重くなる。そんな時、弟子である伯爵令嬢・ジュリエッタにピアノソナタ「月光」を捧げている。ベートーヴェンは密かに彼女に恋をしていたが、耳のこともあり、身分の差もあり、悩み苦しんでいた。転地療養のためウィーン郊外のハイリゲンシュタットへ引っ越したが、悩みはさらに大きく、重く、ベートーヴェンを追い詰める。32歳、終に不安と絶望が頂点に達して自殺を決意し、独り机に向かい遺書をしたためる。
 
「私は6年前から不治の病に冒されてきた。回復への希望は徐々に打ち砕かれ、ついに回復の見込みはなくなった。活発な性格で社交好きの私が、孤立し孤独な中で生きなければならない。『もっと大きな声で話して下さい。私は耳が聞こえないのです。』私は音楽家だ。そんなことはとても言えない。医師の勧めで半年前からこの田舎で暮らしてみた。人には羊飼いの歌声が聞こえるのに私には何も聞こえないとは、何という屈辱だろうか。こんな出来事の繰り返しにもう絶望しかない。命を絶つしかないのだ。」
 
そこまで書いたベートーヴェンはペンを置いた。真っ暗な暗闇の遠くに何やら小さな明かりを見た気がした。再びペンを握った。「芸術。芸術だ。私が天からの使命だと自覚していた仕事。その仕事をやり遂げないでこの世を捨てるのは卑怯だ。私は卑怯者にはなりたくない。よし、この肉体がどんなに惨めな姿になろうとも、その肉体を引きずってでも生きてやる。私の案内人は忍耐だ。願わくばこの不幸に耐えようとする決意よ、長く持ちこたえてくれ。世の中に自分を不幸だと思っている人がいたら、同じように一人の不幸な男が惨めな障害を背負って、価値ある芸術家、価値ある人間の列に加わろうとして全力を尽くしたことを知ってくれ。そして慰めを見つけてくれ。」始めは遺書のつもりだったが、終りは再出発の決意表明となった。
 
***  *** 上卦は水
******** 艱難、悩み、陥る
***  ***
***  *** 下卦も水
********
***  ***
 
「坎為水」の卦。坎(かん)は艱難に陥る。二つ重なるので一難去って又一難とも言える。しかし艱難に陥ったときに人間の真価が決まる。艱難そのものは変わらなくとも、それを受け入れる人間は変わることが出来る。忍耐と勇気があれば新しい道が開けてくる。
 
芸術家にスランプはつきものである。才能はスランプを乗り越えた時に開花する。この「坎為水」と次の才能の開花を表す「離為火」は裏と表の関係にある。芸術家やスポーツ選手を始め才能を発揮するべき仕事にはスランプが必ずある。忍耐すれば必ずスランプは解決する。
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ボンの大聖堂
 
ベートーヴェン家もモーツァルト家と同じく代々の音楽家の家系ではない。ベートーヴェンと同じ名前の祖父・ルートヴィヒが偉い人で、実家のパン屋から音楽家を志し、宮廷楽団のバス歌手から楽長にまでなった苦労人だった。父・ヨハンは楽団のテノール歌手であったが、若い頃の話題の中心は神童・モーツァルトであり、各地の宮廷に呼ばれては演奏し、高収入を得ていた。結婚したヨハンは何とかして自分たちもあやかりたいと願った。
 
長男は夭折したが幸いなことに二男のルートヴィヒは音楽の才能があった。「これは鍛えればものになるぞ。モーツァルト2世として売り出せるかも知れない。」そう思った。早速ヨハンは厳しいトレーニングを始める。時には体罰を加えてもピアノとヴァイオリンを徹底的に覚え込ませた。ベートーヴェンは着実に才能を伸ばしたが父・ヨハンには息子を売り込む能力がなく、神童として売り出すことは出来なかった。
 
12歳から宮廷オルガニストのネーフェがよき師となり実力を伸ばした。作曲も認められる程になり、14歳では宮廷オルガニストにもなって報酬を得ている。16歳になったベートーヴェンは武者修行の旅にウィーンに向う。最大の目的は大活躍をしているモーツァルトに会うことだった。臆することなくベートーヴェンはモーツァルト家を訪ね、ピアノの即興演奏を披露した。
 
「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」のオペラが大成功し、円熟期の31歳のモーツァルトも青年・ベートーヴェンの才能には感心した。「素晴らしい!」と言って「又、いつでも遊びにいらっしゃい。」2人の天才はお互いに固い握手をして別れた。「あの若者は今に全世界に名を轟かすだろう。」とモーツァルトは友人に語ったという。しかし2人の天才が顔を合わせたのはこれが最初で最後だった。4年後にモーツァルトは急死する。
 
ベートーヴェンの武者修行は「母危篤」の知らせを受け、急きょ切り上げボンに帰ることになる。母の死後、父・ヨハンが酒に耽溺するようになり仕事も出来なくなる。父に代わり家計を支え、二人の弟を養育する責任がベートーヴェンの肩にのしかかる。黙々として頑張るベートーヴェンに手を差しのべたのは近所の貴族・ブロイニング家の人たちだった。家族同様に親しくしてくれ、又そこに出入りしていた音楽好きの8歳年上のヴァルトシュタイン伯爵もベートーヴェンの才能を愛し、何かと才能が花開くよう支援してくれる。
 
******** 上卦は山
***  *** 動かざるもの
***  ***
***  *** 下卦は水
******** 困難、悩み
***  ***
 
「山水蒙」の卦。蒙(もう)とは蔓草がはびこり木の成長を妨げている様子。無限の可能性を秘めている幼児が中々成長出来ずにいる。ここで必要なのは良き師である。良き師弟は弟から師を求めるべきであり、師から求めるべきものではない。
 
モーツァルトには教育とプロモーターとして才能のあった父・レオポルトがいた。ベートーヴェンの父親はそれ程の才能はなかったどころか、気が弱く酒に溺れ、生活力もない。ベートーヴェンは若い時から苦労の連続だったが、自らの努力で才能を伸ばした。才能に精神力がプラスされたのがベートーヴェンだ。       

ベートーヴェンの時代

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ベートーヴェン。1770〜1827
 
今回からベートーヴェンに挑戦する。実はこの名曲シリーズに取り組むときに最も作って見たかったのがベートーヴェンだった。昔、ロマン・ロランの「ベートーヴェンの生涯」を読んで感激したこともある。「運命」や「合唱」等誰でも知っているベートーヴェンだが、一体彼はどんな人生を送り、この世に何を残したかったのだろうか。
 
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年に現在のドイツ、ボンで生まれ、1827年までの56年3ヵ月の生涯を送った。ベートーヴェンが生きた18世紀後半から19世紀前半はヨーロッパでは旧体制から近代へ移行する激動の時代であった。あのナポレオンの生涯が1769〜1821だからほぼ同世代である。イギリスでは産業革命が起こり、資本主義、工業化が世界を席巻し始め、アメリカでは独立宣言、フランスでは革命が起こった時代であった。
 
 ベートーヴェンが20才の時、出版されたカントの「 判断力批判」によると「哲学」や「文学」は人間がいかに生きるかを教える。「彫刻」や「絵画」は一定不変の物として存在する。しかし「音楽」は一過性の現象として作用するだけで直ぐに解消されてしまい、芸術としては低級なものと論じられた。この理論には強く反発したが、一方でベートーヴェンと同じ年に生まれたヘー ゲルは「美学講義」の中で「時代精神を反映する芸術こそに真理がある。」と説いた。ベートーヴェンはこれこそ自分の作る音楽だと心を強くした。

あらゆる価値観が変貌する時代であり、音楽の世界も例外ではなかった。西洋音楽史においては、ハイドン、モーツァルトの流れが「古典派」から「ロマン派」へと橋渡しされ、ベートーヴェンによって「ロマン派」が確立した時代となる。宮廷音楽、教会音楽の時代から民衆の音楽になる。作曲家も注文に応じて曲を作る「職人」から思想や個性を表現する「芸術家」になった時代である。
 
あらゆる芸術の中で最も尊いものが音楽だと信じたベートーヴェンは「民衆賛歌」「人間賛歌」をメッセージとして作品にした。晩年の大作「第九」は新時代の民衆に「苦難を突き抜け歓喜に至れ!」と音楽に勇気を吹き込むと、民衆はその高らかな雄叫びに自由と独立を叫んで立ち上がった。
 
******** 上卦は天
******** 広く大きい世界
********
******** 下卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
 
「天火同人」の卦。同人は志を同じくするものが集まること。広い天下のもとに新しい文化が生じることでもある。知性豊かにして剛健な君子のもとに民衆が集まる。その君子は始めは孤独に苦しむが、初志を貫徹すれば悔いはない。新時代はこうして幕を開ける。
 
作曲家として命とも言うべき聴力を失う。そんな致命的苦難とも戦いながら、数々の名曲を作ったベートーヴェン。音楽史を変えたと言われるベートーヴェンはどんな世界観を持っていたのだろうか。何が彼を支えたのだろうか。私たちは彼に何を学ぶべきだろうか。

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