さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名曲はこうして生まれた

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クラシックの名曲を残した巨匠たち。彼らはどんな人生を送ったのか。どんな時代にどんな問題にぶつかり、どんな悩みの中からあの名曲の数々を生み出したのか。そんな巨匠たちの生きざまに迫ってみたいと思います。(猶興)
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モーツァルトの死

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モーツァルトの子供たち
 
ウィーンでのモーツァルトの活躍は作曲、演奏、音楽教師、オペラ制作と超多忙を極めた。妻・コンスタンツェとの間には4男2女が生まれたが、成人したは2人の男子だけだった。31歳のときにウィーンの宮廷作曲家にもなっているので収入は安定し、それ以外の収入も半端ではなかっただろう。しかしモーツァルトも妻も生活は派手好みだったので支出も多く、34歳を過ぎた頃からは知人への借金が増えていた。
 
35歳の時、ある貴族から亡き妻を追悼するレクレイム(安息を)の作曲を依頼され、破格の前渡金を受け取り制作に取り掛かっていた。後年、最高傑作と言われるこのレクレイムを作曲中、モーツァルトは急死した。妻・コンスタンツェは約束通り完成させ、依頼主に渡さなければ残りの作曲料も貰えないばかりか前渡金まで返さなければならない。困ったコンスタンツェは夫の弟子であるジュスマイヤーに頼み込み完成させたという。
 
35歳の若さで亡くなったモーツァルトの死因については謎とされている。医学的に確定された病名がないからである。そのため後年、諸説が飛び交い病死、毒殺、撲殺、いろいろな説があり、映画にもなっている。信憑性が高いとされる「撲殺されたモーツァルト」(ジョルジュ・タボガ著)を照会すると・・・・
 
モーツァルトが死亡した1791年12月5日の翌日、1人の最高裁判所書記官が自分の妻を剃刀で切り付け、自分の喉を切って自殺する事件があった。妻は一命を取り留めるが彼女は妊娠5か月だった。実はこの妻はモーツァルトのピアノの弟子であり、モーツァルトと不倫関係にあった。妻の不倫に嫉妬し、お腹の子もモーツァルトの子だと思い込み、逆上した書記官が12月3日にモーツァルトの頭部を棒のようなもので殴った。モーツァルトは命からがら自宅に戻ったが、翌日頭蓋の外傷から脳出血を起こし、日付が変わった深夜に息を引き取った。モーツァルトの死を知った書記官は妻を切り付け、自殺したというのだ。
 
さらに驚くことがある。妻・コンスタンツェは夫の不倫を知っていたが、同じ頃自分も夫の弟子であるジュスマイヤーと不倫をしていたというのだ。当時コンスタンツェは静脈瘤治療のために湯治場であるバーデンに療養に行っていた。忙しい夫に代わりジュスマイヤーに付き添いをさせていたが、その際に二人は親密になったらしい。その後に生まれたモーツァルト4男の父親はジュスマイヤーだという説もあり、モーツァルトもそれを認めていたとも言われる。
 
******** 上卦は天
******** 大きな世界、陽の代表
********
***  *** 下卦は雷
***  *** 志、活動
********
 
「天雷无妄」の卦。无妄(むぼう)は妄(みだ)りが无(な)い。天の計らいに嘘、偽りはないということである。天の下には人間の小さな活動があるだけで、才能だとか、善悪だとか、愛憎だとか、成功も失敗もなるようにしかならない。結局、人知を超えたところに治まるものである。
 
謎に満ちたモーツァルトの死ではあるが、その遺作であり、最高傑作になった「レクレイム」は今なお西洋音楽史上に燦然と輝く名曲であることに変りはない。芸術とは天にある光の一部がある芸術家を通して降ってきたものではないだろうか。感謝して受け取れば良いのだ。

モーツァルトの大活躍

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18世紀のウィーン
 
モーツァルトは父の意見に従い2年ぶりに故郷・ザルツブルグへ帰る。コロレド大司教に頭をさげて復職願いを提出し認められた。楽長であるミヒャエル・ハイドン(大ハイドンの弟)はモーツァルトの才能を高く評価し、作曲にも影響を与え合った。その後、オペラの制作依頼があり休暇を取ってミュンヘンへ出向くが、6週間の予定が4か月を要した。ミュンヘンに滞在していた大司教から呼び出しを受け激しい叱責を浴びる。ザルツブルグへ帰ると大司教の部下から足蹴にされる事件もあり、今度こそ宮廷を去る決心をした。
 
父・レオポルトは、「未だ、お前は独り立ちは出来ない。我慢してコロレドに謝罪しろ。」しかしモーツァルトの決心は変わらない。「父さんは僕を音楽の天才だと言ったじゃありませんか。お前の音楽は世界中が認めてくれると言ったじゃありませんか。音楽の解らないコロレドの下にはこれ以上一刻たりとも居たくないんです。今度こそザルツブルグには帰りません。」今度は父の意見も聞けなかった。辞表を叩きつけるように宮廷を去った。
 
今度こそ後には引けない。モーツァルトはウィーンに旅立った。前回とは覚悟が違ったのだろうか、ウィーンはモーツァルトを歓迎した。宮廷にも教会にも属さないフリーの身ではあったが、仕事は次々と恵まれた。演奏会にも客が満席になり、オペラ「後宮からの誘惑」も大成功を収める。音楽という文化が古典派からロマン派に移り始める時期でもあり作曲家が芸術家として独立できる時代になってきた。
 
1782年、26歳のモーツァルトは結婚する。相手は4年前に失恋したアロイジアの妹であるコンスタンツェ・ウェーバー、二人は愛し合い幸せな家庭を築く。結婚には反対していた父も息子の成功には手を叩いて喜んだ。息子の新居を訪れ、娘のナンネルにあてて、「君の弟は素敵な家具に囲まれた綺麗な部屋に住んでいる。演奏会には身分の高い方々が多数集まっている。演奏は素晴らしいものだった。」と手紙を書いている。
 
また父は尊敬するハイドンからも、「御子息は私の知る中で最も偉大な作曲家です。」と言われた。1785年にはオペラ「フィガロの結婚」が、翌年には「ドン・ジョバンニ」が大ブームとなるほどの成功を収める。交響曲でも「第35番」以後の傑作が次々と、弦楽四重奏曲では「ハイドン・セット」と呼ばれる6曲が書かれた。我が子の天性を発見し、宝物のように育て、才能を伸ばすため父子でヨーロッパ中を演奏旅行をした父・レオポルトは1787年、息子の成功を見届けて世を去った。モーツァルト32歳のときだった。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 陰、柔、未知なる世界
***  ***
***  *** 下卦は沢
******** 喜ぶ、少女
********
 
「地沢臨」の卦。臨(りん)は臨(のぞ)むである。全体を三つにすると、下が陽の雷となる。雷は志であり、活動を表す。実力が通じるか通じないか未知数だが挑戦することである。太平洋を始めて渡った「咸臨丸」の咸臨はこの卦が語源である。甘い気持ちで事に臨んではいけない。
 
天才と言われたモーツァルトも人間である。未知の世界に挑戦することは勇気が要ったことだろう。何の才能もない若者でも世に出ようという時は決心と覚悟が求められる。どんな世界でも一人前になれるかなれないかは、この決心と覚悟にかかる。

モーツァルトの失恋

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アロイジア・ウェーバー。1760〜1839
 
モーツァルト父子の演奏旅行はその後も続いた。特に音楽の先進国・イタリアには3度も出かけている。演奏旅行を通して各地の大作曲家たちと接し、新しい楽器を知り、ザルツブルグにはない大オーケストラを体験した。それもザルツブルグ大司教・シュラテンバッハがモーツァルトの才能を愛し、父子に対して寛大だったからである。
 
しかし、モーツァルト16歳の時、大司教がコロレドに代わった。コロレドは音楽を芸術とは考えず、協会の道具と考え、演奏家たちも彼の使用人として扱った。モーツァルト父子の演奏旅行にも簡単には許可を出さなくなる。
大司教と対立したモーツァルトは21歳の時、新たな職を求めてミュンヘンそしてマンハイムへ旅立った。
 
父の同行しないモーツァルトは何もかも上手く運ばない。天才も父という名プロモーターがいればこそであった。すっかり自信をなくしてしまう。そんなモーツァルトを慰めたのは従弟のマリアだった。落胆し悲しくなるとモーツァルトはマリアの白い胸に顔を埋めて泣いた。一方でモーツァルトは別の女性に恋をした。相手はソプラノ歌手のアロイジア・ウェーバー。その4歳年下の美貌で美しい声の持ち主にすっかり心を奪われてしまった。
 
結婚も考えるが定職も見つからない身では相手にもされない。やがてアロイジアはプリマドンナとして活躍し始める。モーツァルトは愛の告白をするのだが、あえ無く袖にされる。職は見つからない。未来をかけた女性には失恋する。立ち直れないほど悲しみのどん底に突き落とされたモーツァルトは父親に助けを求めた。「僕はもうダメだ。このまま死んでしまいたい。」と弱音の手紙を送った。
 
父・レオポルトは直ぐにも息子の所に行こうと大司教に休暇願いを出そうとすると、「解雇されても良いなら行きなさい。」と冷たく言われた。思い止まり妻・アンナを行かせ、「私が有力者に手紙を書くからパリに行きなさい。」母子はパリに向かうが、パリではさらにモーツァルトを落胆させた。かつての神童も忘れられ、頼みのシャボレー公爵夫人からも冷遇された。演奏会を開いても空しい称賛だけで稼ぎにならない。
 
悲しみに追い打ちをかけるように、半年後に母が病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。余りの現実に父への手紙には「母さんが病に倒れた。」と書いたが死んだとは書けなかった。モーツァルトは逃げ場のない悲しみに浸かるだけで何もすることもできない。
 
***  *** 上卦は水
******** 困難、悩み
***  ***
******** 下卦は山
***  *** 動かざるもの
***  ***
 
「水山蹇」の卦。蹇(けん)は足なえのことで、行き悩みを意味する。前に困難が立ち塞がり、動きがとれない象である。人生にはこのようなにっちもさっちも行かないような時が必ずある。こんな時には無理をして局面を打開しようとせず、静かにしていることが大切である。必ずよい時が向こうからやってくるものだ。
 
モーツァルトの音楽には悲しみが後から後から絶え間なく追いかけてくるような曲が多い。若い日に体験した悲しみの時代がいつ迄もモーツァルトの記憶から去らなかったのだろうか。天才にも人一倍悲しい時代があったことを知っておきたい。
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モーツァルト。1756〜1791
 
3歳にしてその天分を現したモーツァルトは父・レオポルトから音楽の基礎から正確に教え込まれた。その吸収力はずば抜けていて、一度聞いた音律は直ちに覚えてしまい忘れることは無かった。レオポルトは自分の仕事以外の時間は殆ど息子の教育にあて全力を投じて神童を創り上げる。順調に才能を伸ばしたモーツァルトは演奏は大人顔負け、5歳にして秀作を作曲するまでになった。
 
テレビもラジオもレコードもない時代である。音楽の天才を知らしめる方法は生の演奏を聞かせるしかない。レオポルトは王侯貴族たちに息子の演奏を聞かせるために演奏旅行を計画した。1762年、6歳になったばかりのモーツァルトと姉・ナンネルを連れてレオポルトは最初の旅に出る。行く先はミュンヘン。音楽の愛好家で知られるバイエルン選帝侯の宮殿にて姉弟演奏会を開いた。結果は大成功、絶大な称賛を得た。
 
半年後、ハプスブルグ帝国の首都・ウィーンへ向かう。シェーンプルン宮殿にて皇帝・フランツ1世と皇妃・マリア・テレジアの御前にての演奏の光栄に浴した。モーツァルトは皇帝のリクエストに応え目隠しで演奏したり、皇妃の膝に飛び乗って首に抱きつき、何度もキスをしたりした。愛らしい振る舞いに皇帝ご夫妻は大喜び、この神童をすっかり気に入った。レオポルトは身に余る褒賞金を手にした。
 
7歳になった神童・モーツァルトの名声を不動のものにするために、レオポルトは一家4人と従僕での「西方大旅行」に出ることにした。神聖ローマ帝国のフランクフルトでは当時14歳のゲーテが聴き称賛したという。文化・芸術の中心都市であったパリには5か月も滞在し、ヴェルサイユ宮殿では国王・ルイ15世に拝謁、御前演奏を行った。
 
8歳のときには海を渡り、ロンドンに向かう。バッキンガム宮殿にて国王・ジョージ3世の前で演奏し、拝謁している。ロンドンで活躍中のヨハン・クリスティアン・バッハ(大バッハの11男)から大きな影響を受け、交響曲の作曲をしている。父の病気もあり、ロンドンには1年3か月の長逗留になったが、モーツァルトには貴重な体験の連続だった。こうしてモーツァルトの少年時代は旅を通して最先端の音楽に触れ、あらゆるジャンルの作曲を手掛け、天来の才能を磨いていった。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 大地、未知の世界
***  ***
******** 下卦は風
******** 謙虚、従順
***  ***
 
「地風升」の卦。升は登る、伸びる。地の下から若木がぐんぐん成長していく象である。真っ直ぐに伸びていくには、3つの要素が必要である。1、時を得ること。1、素直であること。1、よき指導者を得ること。
 
ヨーロッパを席巻した神童・モーツァルト。父・レオポルトの類いまれなる教育の才能とプロモーターとしての才能のお蔭である。天才を育てるには普通の育て方ではいけないだろう。厳しさも必要、大きなチャンスを次々用意する必要もあっただろう。音楽史上最大の「ステージ・パパ」の実力を忘れてはいけない。
 
 
 
 
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レオポルト・モーツァルト。1719〜1787
 
モーツァルトはクラシック音楽としてはベートーヴェンと並んで人気作曲家の双璧ではないだろうか。35歳という若さで亡くなっているので、その天才性が一層光を増しているのだろう。モーツァルトの出生地・ザルツブルグ市には「国際モーツァルト教会連合」があり、日本には「日本モーツァルト教会」がある。モーツァルトの愛好家が会員になっているという。私が最も参考にしている「名曲の履歴書」の著者である三枝成彰氏が理事長を務めている。
 
モーツァルトは確かに天才であるが、この天才が世に出てくるには一つのドラマがある。それは父・レオポルトの人生ドラマである。音楽家は世襲が常識の時代に、モーツァルト家は代々建築家であった。レオポルトは音楽も好きだったが学業に秀で18歳のときには哲学や法律を学ぶため大学に進学している。
 
その後に音楽の道で身を立てる決心しているから、余程集中力の持ち主だったのだろう。研鑚の結果、24歳でザルツブルグ大司教宮廷楽団のヴァイオリン奏者として採用された。妻・マリアと結婚後、自分の体験から我が子には早くから音楽を教え、バッハ家のような音楽家一族になることを夢に見た。
 
二人の間には3男、4女が授かったが、成人したのは3女と末の男の子だけだった。レオポルトは3女・ナンネルのためにクラヴィーア練習用に「ナンネル楽譜帳」を作り理論に基づいた練習を始める。ナンネル8歳の時、休憩中に3歳になったばかりの弟が鍵盤に手を伸ばし、今しがた聴いた和音を正確に弾いてみせた。レオポルトはその信じられない光景に全身が震えた。類い稀なる我が子の才能に驚き、夢ではないかと何度も疑った。
 
レオポルトは作曲家、演奏家であるが、その才能は平凡の域を出なかったが、音楽教育家としての才能は超一流であった。レオポルトの編み出した「ヴァイオリン教程」は楽器教則本として画期的なもので、その後各国語に翻訳され、現在も出版されているという。
 
レオポルトは神から授けられた幸運に感謝し、我が子を大切に育て、才能を伸ばし世界に送り出すことが自分に課せられた使命であると固く信じた。世に天才・モーツァルトが出現したのはその才能を見出した父親が全身全霊を注ぎ込んで育て上げた結晶である。
 
******** 上卦は火
***  *** 太陽、文化、才能、
********
******** 下卦も火
***  ***
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「離為火」の卦。離(り)は火を象徴する。明、知性、能力、を表す。火の卦が上下に重なることから、才能や能力が花開くと観る。明るい太陽の如く世界を照らす。輝かしいことである。易では「牝牛を養えば吉」とある。牝牛は謙虚、従順を意味し、才能に任せて走り過ぎることを戒めている。
 
世界中の音楽ファンにとって、天才・モーツァルトが父親によって育てられたことは幸運であった。ただ、天才・モーツァルトにとって短すぎた人生が幸福であったかどうかは誰にも解らない。 
 

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