さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名曲はこうして生まれた

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クラシックの名曲を残した巨匠たち。彼らはどんな人生を送ったのか。どんな時代にどんな問題にぶつかり、どんな悩みの中からあの名曲の数々を生み出したのか。そんな巨匠たちの生きざまに迫ってみたいと思います。(猶興)
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ロンドン・ウエストミンスター寺院
 
エステルハージ家で楽長として約30年間過ごしたハイドンだったが、当主・ヨーゼフ候が亡くなり息子のアントンが後を継いだ。アントンは音楽に興味がなく、儀式に必要最低限の人員を残し、楽団を解散してしまう。58歳のハイドンは長年の功績により、十分な年金を支給されたが、楽長の地位は名ばかりのものとなった。
 
その代わり作曲するには十分な時間が与えられ、ウィーンに居を移す。そんな時にハイドンの前にロンドンで活躍する音楽興行師・ザロモンが現れる。ハイドンの交響曲を40人のオーケストラで演奏するという「ロンドン公演」を打診してきた。この大プロジェクトにハイドンの心は動いた。ハイドンはロンドン行きを受諾した。モーツァルトを始め長旅を心配する大勢の友人たちに見送られウィーンを立った。
 
始めて海を見たハイドンはドーバー海峡を渡り、約2週間かけてロンドンの地を踏んだ。ロンドン公演は大成功だった。毎週金曜夜、4か月に渡る公演が前後2回開かれ、間に追加公演も次々と行われ、2年間に及ぶ大演奏会となった。ザロモンとの契約を全うし帰国したが、1年後には再びロンドンに招かれ半年に及ぶ演奏会を行った。この2度にわたる演奏会で、ハイドンはエステルハージ家での30年間の収入をはるかに超える巨額の報酬を得たという。
 
ハイドンのロンドン滞在中にエステルハージ家ではアントン候が死去、息子のニコラウス2世が新当主になっていた。父と違い音楽を愛好した新当主はハイドンに楽団の再建を依頼してきた。62歳のハイドンは喜んで応え、一連の大ミサ曲を作曲した。ロンドン滞在中にヘンデルの作品に触発されたこともあり、63歳で作った交響曲104番「ロンドン」、64歳から2年がかりで作ったオラトリオ「天地創造」、その後のオラトリオ「四季」と晩年に次々と大作を世に送り、72歳まで楽長としての責任を果たし、77歳で天に召された。
 
アメリカの音楽評論家・ショーンバークの「大作曲家の生涯」によると、ハイドンの活躍した時代は「貴族政治の黄金時代であり、理性が人間と社会の機能を導くことができると、哲学者が本気で信じていた時代」と述べている。ハイドンはクラシック音楽の作曲家の中でもとりわけ健全さを感じさせる。どこまでも健康的で、どこまでも光に溢れている。
 
***  *** 上卦は地
***  *** 陰、柔、女性的
***  ***
******** 下卦は天
******** 陽、剛、男性的
********
 
「地天泰」の卦。泰は上下和合、泰平を意味する。地が上にあり、天が下にあるので一見逆のようだが、地は下を向き、天は上を向くので、上下が和合し意志が通じあうと見る。「外柔内剛」易の中では最も理想的とする卦である。
 
車大工の子に生まれ、貴族社会の中でその才能と志一つで堂々と成功を収めたハイドン。歴代の作曲家の中でもここまで人々の尊敬を集めた作曲家は稀だろう。パパ・ハイドンと慕われたハイドン。「交響曲の父」に相応しい人生と言えるだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
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ミヒャエル・ハイドン。1737〜1806
 
ハイドンには5歳下にミヒャエルという弟がいたが、この兄弟は揃いも揃って音楽家として大成功している。。車大工をしていた父と母の躾が良かったのか、学習能力に優れていたのか、辛抱強く環境に順応し、人間関係を築いて生涯を全うしている。プライドの高い芸術家にしては二人とも高い社会性が備わっていたことが特筆される。
 
ミヒャエルも兄に続いて、ウィーンのシュテファン大聖堂聖歌隊に入り、ソプラノのソリストになった。順調に才能を伸ばし、兄よりも高い評価を得たのであろうか20歳の若さで教会の楽長に抜擢されている。25歳のときにザルツブルグの宮廷楽団のコンサートマスターに就任、まもなく楽長となる。その後、より高い待遇でのスカウトを受けるが、終生ザルツブルグを離れることはなかった。
 
ザルツブルグの楽団にはモーツァルトの父・レオポルト・モーツァルトも団員として活躍していた。既に神童の誉高い少年・モーツァルト父子はヨーロッパ中を旅をする生活だったが滞在中は19歳の年の差を忘れて親しく交わった。作曲にはお互いに影響を受け助けあっている。そんな楽団を率いたのだからミヒャエルの実力も相当なものだったのだろう。、
 
兄であるハイドンも青年・モーツァルトとは年の差24歳だが親しく交流している。ハイドンが「ロシア四重奏曲」という全6曲の弦楽四重奏曲を作曲すると、モーツァルトはその完成度の高さに感銘を受け、2年を費やして自分も全6曲の弦楽四重奏曲を完成させハイドンに献呈した。「ハイドン四重奏曲」である。お互いを敬愛し尊敬し影響を与え合った。モーツァルトはハイドンを父親のように慕っていた。
 
58歳のハイドンがロンドンに出発する時には、泣いて反対したと伝えられている。「貴方はもう高齢です。英語だって出来ないじゃありませんか。無理して行くことは有りません。どうか思い止まって下さい。もう2度と貴方に会えなくなるような気がしてならないのです。」涙にくれるモーツァルトに見送られてロンドンに出発したが、モーツァルトの心配は現実となった。その後急逝したのは35歳のモーツァルトだった。
 
***  *** 上卦は水
******** 困難、悩み
***  ***
***  *** 下卦は地
***  *** 陰の代表
***  ***
 
「水地比」の卦。比は人が二人並んでいる形の字であり、親しみ合うことを意味している。下から5番目の陽爻に他の陰爻が慕って集まる象でもある。良き指導者の元、団結しているチーム。指導者は私心なく公明正大を心がけねばならない。
 
パパ・ハイドンと言われた由縁である。ハイドンは音楽家としても一流だったが、それ以上に人物としても一流だったと思われる。ドイツの国歌「ドイツの歌」はハイドンの作曲であるが、ドイツ国民にも慕われているのだろう。
 
 

ハイドンの大失敗

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アイゼンシュタットの宮殿
 
ハイドンは若い時に苦労もしたが、エステルハージ家という名家にて楽長の地位を得た。ヨーゼフ候からも信頼され、楽団員からも慕われ音楽家としては申し分のない成功者となったが、唯一失敗したことがある。結婚である。結婚に関しては失敗も失敗、大失敗と言える。
 
定職もなく苦労していたとき、ハイドンはある音楽好きのケラーというカツラ師の世話になっていた。二人の娘に音楽を教える条件で貸し部屋に住まわせてもらっていたのだ。姉のマリア・アンナは容姿もよくないし、性格もよくないが、妹のテレーゼは容姿も美しく、性格も申し分なかった。やがてハイドンはテレーゼに恋をし、プロポーズするつもりでいた。
 
ところが熱心なクリスチャンだったテレーゼは尼僧院に入ってしまう。傷心のハイドンに父親が姉のマリア・アンナとの結婚を勧めてきた。ハイドンは断るつもりでいたが、父親の勧め方が上手かったのか、落胆の余り少しヤケクソになっていたのか、ハイドンは結婚を承諾してしまった。エステルハージ家に雇われる1年前で、ハイドン28歳、妻は3歳上の31歳だった。
 
妻は癇癪持ちで嫉妬深く、家事や家計のやりくりは苦手の浪費家だった。しかも夫の仕事には全く理解はなく、大切な自筆の楽譜を野菜の包み紙にしてしまったこともある。音楽家の妻としては史上最悪の妻として語り継がれている。夫婦の関係は最初から上手くいかず、改善の余地もない。それでも辛抱強いハイドンはやがて別居はしたが、離婚はせず生活費を届け続けた。
 
ハイドン47歳の頃、楽団にヴァイオリニズトとメゾソプラノ歌手のイタリア人夫妻が入団した。夫はかなりの年上で病弱、妻・ルイジアは19歳だった。2年の期間終了後、夫が契約を更新できないので、子供もいた夫妻は生活に困る。楽長のハイドンはルイジアだけは契約を更新し、生活を助けた。ハイドンの同情はいつしか愛情に変わり、ルイジアもハイドンの愛に応えて二人は愛人となった。
 
ハイドンの妻も、ルイジアの夫も二人の関係を壊すことは出来なかった。その後ハイドンがエステルハージ家を去るまで約12年間この関係は続く。ハイドンは2人の息子をとても可愛がり経済的援助は最後まで続け、遺言書にも遺産の一部をこの母子に贈るように記した。(下の息子はハイドンの子だと言われている。) 一方、妻のマリア・アンナは夫が死んだときの財産ばかり心配していたが、ハイドンより先に71歳で亡くなった。
 
******** 上卦は山
***  *** 動かないもの、守る、勤勉、
***  ***
******** 下卦も山
***  *** 
***  ***
 
「艮為山」の卦。艮(ごん)は泰然自若として動かないこと。易では動かないという要素も重要な性質である。変わることも重要な時もあるが、一度決めたことは簡単に変更しないということも重要である。動くより余程努力が必要なときもあり、決断がいることもある。
 
パパ・ハイドンの偉さはここにも見える。社会的にも経済的にも家庭的にも健康面でも何もかにも恵まれたら、それは言うことはないだろう。中々そうはいかないのが、私たちの人生である。欠けた部分も黙って受け入れてこそ、残りの部分で充分幸福になれるものではないだろうか。
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ニコラウス・ヨーゼフ・エステルハージ候。1714〜1790
 
ハイドンは音楽家として生きていくため、何でもやる覚悟だった。合唱団OBを頼り屋根裏に住まわせてもらうと、ウィーン市内を歩き回る。わずかな日銭を稼ぐため、流しの楽団に潜り込みヴァイオリンやヴィオラを弾いたりもした。有名なイタリアの作曲家・ニコラ・ポルポラがウィーンに来たときに「何でもやりますので使って下さい。」と頼み込み、付け人のように雑用係りにもなった。
 
ポルポラ老先生はやがてハイドンの才能を見抜き、作曲や声楽を教えてくれた。音楽で生きて行くには貴族階級に雇われることだと気付いたハイドンはそのチャンスをいつも探していた。やがて運よくトゥーン伯爵夫人がクラヴィーアと声楽の教師として雇ってくれた。このトゥーン伯爵夫人がサロンを開くことが好きで貴族階級に顔が広かったので、夫人の紹介でハイドンに次々と仕事が舞い込むようになったのである。
 
どんな仕事でも熱心に取り組み、礼儀正しかったハイドンは貴族たちに愛された。27歳の時、楽長兼作曲家としてモルツィン伯爵に雇われた。ハイドンは張り切って楽長の仕事に取り組んでいた。ところが、2年後に「良くがんばってくれたのに、済まないが、君を解雇することにした。」と伯爵に言われた。モルツィン家の財政状況が急激に逼迫したためだった。
 
しかし、ハイドンにはもっと壮大な幸運が開けた。ハイドンの才能を高く評価したモルツィン伯爵が友人のエステルハージ家を推薦してくれたのだ。エステルハージ家はハンガリーで最も富裕で、ハプスブルグ家をしのぐほどの財力があった。アイゼンシュタットに居城を構え、29の領土、21の城、6つの町、400の村を持ち、ウィーンに3つの宮殿を所有している。
 
エステルハージ家では立派な楽団を持っている。なんとその楽団の副楽長に就く契約書に署名したのだ。ハイドン、29歳。ハイドンはエステルハージ家と、その後約40年間、生涯に渡り活動することになる。ハイドンを雇ったパウル・アントン候は1年後に急死したが、後を継いだ弟のニコラウス・ヨーゼフ候も音楽の愛好者でハイドンとは気が合った。34歳の時に老楽長が亡くなったため、ハイドンは新楽長に就任し、指揮、作曲、写譜の実務から団員の雇用、解雇、争いの調停など膨大な量の仕事をこなしていった。
 
******** 上卦は風
******** 従順、入る、巽徳
***  ***
******** 下卦は山
***  *** 動かざるもの、勤勉
***  ***
 
「風山漸」の卦。漸(ぜん)は徐々に成長する。易では成長や出世を表す卦として、「晋」、「升」、「漸」の3つがある。最も成長や出世が早いのは「晋」であるが、一面危険が伴うと考える。最も遅いのが「漸」である。ゆっくりではあるが、確実に成長することで、易では大変好ましいと見る。
 
芸術家というとプライドが高く人と折り合いを付けるのが苦手な人が多い。その点、ハイドンは辛抱強く、人間関係を大切にした。人に愛される人柄があったようだ。若いときの苦労がハイドンを大きく成長させたのだろう。
 

ハイドンの少年時代

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ヨーゼフ・ハイドン。1732〜1809
 
ハイドンはバッハと違い音楽家の家系に生まれた訳ではない。当時の音楽家は世襲が常識であったので、世襲外の者が一流の音楽家となるには余程の才能と幸運に恵まれなければ果たせることはない。しかも5歳下の弟のミヒャル・ハイドンも一流の音楽家としてその名を残している。いったいハイドン兄弟にはどんな人生ドラマがあったのだろうか。
 
ウィーンの近くローラウという小さな村に、歌が大好きな車大工(馬車の車輪を作ったり修繕したりする職業)がいた。両親は生まれた子(ハイドン)が6歳になったとき、何とか教育の機会を与えようとハインブルグで学校長をしている親戚に預けることにした。その1年後に早くも幸運が訪れる。
 
ウィーンのシュテファン大聖堂の楽長が児童合唱団員のスカウトの為、ハインブルグを訪れた。歌の得意なハイドンはオ−ディションに見事合格し聖歌隊の隊員としてウィーンに住むことになる。17歳まで合唱だけではなく、ヴァイオリンやクラヴィーアなどの楽器演奏、一般教育を受ける。美声を誇るハイドンはボーイ・ソプラノのソリストを務め、教会や宮廷に出張して合唱を披露した。13歳のときに弟のミヒャルも合唱団に入る。
 
合唱団の生活は楽しかった。元気な少年たちである。教師の目を盗んでは悪戯や喧嘩もしたようだ。ある宮殿の大きな庭で戦争ごっこをしたり、池の鯉を捕まえたりもした。見つかって大目玉を食らったこともある。とにかく明るく伸び伸びと大らかな合唱団時代だった。
 
しかし年長になり変声期を迎えた者は退団する決まりである。何とか音楽を続けたいハイドンに楽長が「才能ある君を辞めさすのは私も辛い、続けられる道が一つある。カストラートに欠員があるのだ。」 カストラートとは去勢手術した男性歌手のことだ。ハイドンは辞めさせられるより音楽を続けられるなら、それでもいいかと考えていた。
 
その話を聞きつけた父親が飛んで来た。「バカヤロウ!何を考えているんだ。男を捨ててまで音楽をやってどうなるんだ。さっさと辞めてしまえ!車大工になったらいいじゃないか。とにかく、去勢なんか絶対許さんぞ!」 ハイドンは父親の一言で合唱団を辞める決心をした。しかし、「ローラウには帰りません。音楽の道は捨てません。」と宣言した。17歳のハイドンは広い世間に当てのない音楽の道を求めて、10年に及ぶ下積み生活を始めた。(その頃、バッハが世を去っている。)
 
***  *** 上卦は水
******** 艱難、悩み、陥る
***  ***
***  *** 下卦は雷
***  *** 行動、志
********
 
「水雷屯」の卦。屯(ちゅん)は行き悩み、生みの悩み。草木の芽が固い地面から中々顔を出せないでいる象。青年期に社会の厚い壁に阻まれて、なかなか芽が出ない。生命力が試されているのだ。この苦難に耐えてこそ、未来が開けるのだ。
 
ハイドンは晩年に「パパ・ハイドン」と言われる位、若い者たちから頼りにされた。その人柄は若い時に人一倍の苦労を体験したからだろう。その苦労を前向きに受け止め卑屈にならなかったことがハイドンを大きく成長させたのだろう。

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