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19世紀のヨーロッパはナポレオン旋風で幕が開ける。ほぼヨーロッパを席巻する勢いであったが、ロシアの冬将軍の前に力尽きる。ナポレオンは失脚したが、ナポレオンが蒔いた自由化の波は世界中に広がる。資本主義は発展し、列強による帝国主義時代となり、植民地獲得競争が起る。
「ナポレオン1世の戴冠式」 作者:ダヴィット 1804年
革命により国王を処刑したフランス国民だったが、トップを失くした喪失感があった。そこに連戦連勝の将軍ナポレオンという英雄が現れたので、国民は狂喜した。
「マドリード、1805年5月3日」 作者:ゴヤ
自由と平等を旗印にしたナポレオンだったが、スペインでは反ナポレオンへの民族運動が起る。
「チェルシーの年金受給者たち」 作者:デイヴィッド・ウィルキ 1822年
ナポレオンは1815年のワーテルローの戦いに敗れ、大西洋の孤島セント・ヘレナに流される。この絵は勝利を喜ぶロンドン市民である。
「民衆を導く自由の女神」 作者:ドラクロワ 1830年
ウィーン体制により王朝が復活したフランスだったが、1830年、1848年に再び革命が起り共和制が成立した。大統領になったのはナポレオンの甥であるナポレオン3世だった。
「皇帝マクシミリアンの処刑」 作者:エドゥアール・マネ 1869年
独立運動は南米の植民地でも続き、メキシコでも1867年フランスから独立した。(マクシミリアンはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。)
「ドイツ皇帝の戴冠式」 作者:ヴェルナー 1881年
1861年にイタリアが統一を果たす。長く連邦国家だったドイツは宰相ビスマルクの巧みな政治力により、普仏戦争の勝利後の1871年ヴェルサイユ宮殿にて統一・戴冠式を行った。
「アヘン戦争」 作者:エドワード・ダンカン 1843年
19世紀後半は列強による植民地獲得競争が盛んに行われた。アジア、中東、アフリカでは殆んどの国がいづれかの植民地になる。アジアの大国だった清国は1840年からのイギリスとのアヘン戦争とその後のアロー戦争により半植民地になる。その後、日清戦争で日本にも敗れる。
*今回で約2年間続けてきた「名画に学ぶ世界史」を終了します。しばらくの間準備期間を頂き、8月頃から「20世紀からの世界史」をスタートする予定です。何かのご縁でご覧頂き、厚くお礼申し上げます。(猶興) |
名画に学ぶ世界史
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18世紀は「啓蒙思想」の時代。17世紀に確立した絶対王政に批判的な芸術、学問、思想が発達した。パリの貴族の間では各分野の有力者を自宅に集め、情報交換する習慣が流行した。また王侯貴族の間でも啓蒙主義は流行し、プロイセンのフリードリヒ2世、ロシアのエカチェリーナ2世、オーストリアのヨーゼフ2世などは率先して学び政治にも反映させた。
「ジョフラン夫人のサロン」 作者:シャルル・ガブリエル・ルモニエ
貴族のジョフラン夫人(1699〜1777)のサロンにはモンテスキュー、ルソー、ヴォルテールなど各分野の有力者が国内外から集まったことで知られる。
「ポンパドール夫人の肖像」 作者:フランソワ・プーシェ 1756年
ルイ15世の公妾・ポンパドール夫人(1721〜1764)は政治に関心のないルイ15世に代わって国政、外交にも関わった。
「フリードリヒ大王のフルートコンサート」 アドルフ・メルツェル 1852年
荒廃したドイツ連邦の中からプロイセン王国が台頭してくる。啓蒙思想家のフリードリヒ2世は(1712〜1786)はオーストリアの継承問題に抗議してシュレジエンを獲得する。
「マリア・テレジアと子供たち」 作者:マーティン・マイテンス2世
三十年戦争の敗北により権威を低下させたオーストリアは男子の継承者がなく窮地に陥る。復活を成し遂げたのは女帝マリア・テレジア(1717〜1780)だった。プロイセンに奪われたシュレジエンを取り戻すため7年戦争を起こすが果たせなかった。
ピョートル大帝(1672〜1725)
ロシアではピョートルが西洋化を図り北方戦争を制し、領土を拡大した。
エカチェリーナ2世(1729〜1796)
さらにロシアの領土を拡大させたのはエカチェリーナ2世である。エカチェリーナ2世はプロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世とポーランドを分割する。
「デラウェア河を渡るワシントン」 作者:エマニュエル・ロイツェ
1775年から始まったアメリカ独立戦争は1783年にパリ条約にて独立が承認されアメリカ合衆国が誕生する。
「球戯場の誓い」 作者:ダヴィット 1791年
18世紀末、フランスの財政は危機的状況に陥った。民衆に後押しされた改革派議員たちは特権階級の課税を求めて立ち上がる。ついにフランス革命の勃発へとつながる。
「マリー・アントワネット」 作者:ルブラン 1783年
フランス革命により国王ルイ16世とともに王妃マリー・アントワネット(1755〜1793)も処刑された。
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16世紀後半からの宗教戦争はフランスでは内戦となり、混乱する。アンリ4世が「ナントの令」によりプロテスタントへの信教の自由を認める。17世紀になるとドイツにて「30年戦争」に突入、ここでもプロテスタント勢力の勝利となり、ハプスブルグ家が世襲する神聖ローマ帝国は権威を低下させる。
「レンブランド自画像」 1640年
1609年、スペインから独立したオランダは経済発展を遂げた。英蘭戦争によりイギリスに敗れるまで繁栄が続いた。レンブラント(1606〜1675)はその時代に活躍する。
「リュッツェンの戦い」 1632年
「三十年戦争」ではドイツの人口が1700人から800万人になり荒廃を極めた。
「狩り場のチャールズ1世」 作者:ヴァン・ダイク 1635年
イギリスでは国王の専制政治を「ピューリタン革命」により打倒する。チャールズ1世(1600〜1649)は処刑された。他国に先駆けて議会主導を目指す。
「マリー・ド・メディシスの生涯」 作者:ルーベンス
フランスの暗殺されたアンリ4世の王妃マリー・ド・メディシス(1575〜1642)はルーベンスに自分の生涯を神話にした20の連作を描かせた。
「ルイ14世」 作者:イアサント・リゴー 1701年
フランスの絶対王政を確立したのは太陽王と呼ばれたルイ14世(1638〜1715)である。30年以上かけて建設したのが「ヴェルサイユ宮殿」である。
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ヨーロッパの近代史はイタリアで興るルネサンスにより「神より人」の時代が到来。スペイン、ポルトガルから始まる大航海時代による経済発展。そしてドイツから始まる宗教改革がほぼ同時に起こることから始まる。16世紀からの出来事を振り返ると。
カール5世(1500〜1558)はハプスブルグ家の全盛期にヨーロッパ統一を目指すが一歩手前で力尽き断念した。
「レオナルド・ダ・ヴィンチの死」 作者:ドミニク・アングル 1518年
同時代のフランスのフランソワ1世(1494〜1547)である。フランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチをパトロンにする。師とも仰いだことでも知られる。
「バヴィアの戦い」1525年 作者:ベルナード・ファン・オルレイ
16世紀の半ば、ハプスブルグ家のカール5世とフランスのフランソワ1世は激しくライバル争いを繰り広げた。このバヴィアの戦いではフランソワ1世は破れ捕虜になった。その後、フランソワ1世はスレイマン1世率いるオスマン帝国と手を結ぶ。
「マルティン・ルター」 作者:ルーカス・クラナッハ 1529年
マルティン・ルター(1483〜1546)による宗教改革はその後、ヨーロッパ中でカトリック対プロテスタントの壮絶な宗教戦争が繰り広げられる。
「ヘンリー8世」1537年頃 作者:ハンス・ホルバイン
イングランドのヘンリー8世(1491〜1547)はカトリックのローマ教会から離脱し、イギリス国教会を設立する。きっかけは王の離婚問題。世継ぎをつくるため6人の妃をもつ。
「狩りをするヘンリー8世」
2度目の妻アン・ブーリンの産んだ子がエリザベス1世である。しかし男子を産まないアンはその後、処刑される。
「ジェーン・グレイの処刑」1553年 作者:ポール・ドラローシュ
ヘンリー8世の死後、王位を巡る相続争いで犠牲になるジェーン・グレイ(1537〜1554)。16歳だった。
エリザベス1世(1553〜1603)
苦難の末、25歳で即位したエリザベス1世はイングランドの黄金時代を迎える。
スコットランドの女王として生まれたメアリー・スチュアートはフランス王妃となるも、その後数奇な運命が待っている。
「アマルダの海戦」1588年 作者:フィリップ・ジイムズ
南米からの銀の輸送船を略奪していたイングランドに対し、ついにスペインがアマルダ(無敵艦隊)にて海戦を挑むが海賊ドレイクの奇襲に遭い壊滅する。以後、スペインに代わりイングランドが制海権を掌握、台頭する。 |
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帝国ホテル開業(1890年明治22年)
「富国強兵」「殖産振興」のスローガンのもと明治日本の大改革は目を見張るものがあった。西洋に学んだ渋沢栄一は銀行、電気、ガス、鉄道、海運、紡績、石油、セメント、ほとんど全ての産業にかかわり、生涯に500社に及ぶ会社を設立している。
他にも関西の五代友厚、三菱の岩崎弥太郎、住友の広瀬宰平、三井の三野利左衛門、安田財閥の安田善次郎、山陽鉄道の松本重太郎たちは日本の資本主義を創った創業者である。彼らに共通するのはスケールの大きさであり、国の繁栄まで視野に入れた志と強靭なチャレンジ精神である。国民は偉大な指導者のもと、一致団結して近代化社会を築いていった。
井上毅(1844〜1895)
明治政府は西洋の学術を吸収しエリートを育成するために、高官並みの待遇で各方面に外国から指導者を招請した。彼らは[お雇い外国人]と呼ばれ、札幌農学校のクラーク博士、建築家ジョサイヤ・コンドル、畜産課エドウィン・ダン、美術家アーネスト・フェノルサ、医師エルヴィン・フォン・ベルツなどがいる。明治22年までに延べにして2000人以上の外国人が招かれている。
一方、一般の国民には憲法作成にもかかわった井上毅(こわし)に日本人として指針になるべき規範を立案させた。井上は国学と儒学を基に「父母に孝に、夫婦相和し、朋友相信じ、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を習い、以って知能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、政務を開くべし」という美しい天皇の言葉として「教育勅語」を創る。教育勅語は近代化した日本人の精神的バックボーンとして国民に自信を持たせた。
李鴻章(1823〜1901)
1894年(明治27年)に朝鮮の宗主権を巡り日清戦争が始った。当時の清国で最大の実力者・李鴻章は太平天国軍を曽国藩とともに破り、洋務運動で西洋の機械化を導入近代化を図っていた。彼の私軍とも言える北洋艦隊には「定遠」「鎮遠」という巨大な装甲艦を有し、日本を威圧していた。
しかし開戦してみると日本軍は連戦連勝、圧倒的に強かった。軍規厳しく統制がとれ、兵士の行動は機敏だった。明治天皇も広島の大本営に激励に足を運ぶ。翌年2月、威海衛の戦いで北洋艦隊の提督・丁汝昌が自殺、清軍は降伏した。李鴻章は下関にて首相・伊藤博文、外相・陸奥宗光らと講和会議に臨み、台湾、遼東半島の割譲、賠償金支払い、朝鮮の宗主権の放棄が「下関条約」として決まった。
陸奥宗光(1844〜1897)
新生明治の大快挙に国民は湧きに沸いた。ところが喜びもつかの間、ロシア、フランス、ドイツ三国が「下関条約」に待ったを掛けて来た。「三国干渉」である。特にロシアは着々と遼東半島・旅順に不凍港を建設する予定だったからである。「遼東半島の割譲は許さない。見返りに賠償金を倍にせよ。」と言うものだった。
外相の陸奥宗光が残した日記によると、「彼等は今にも砲弾でも撃ち込むような剣幕で説得してきた。」 日本にとっても今回の戦争目的はロシアの南下阻止であり、その為の遼東半島獲得だったのだ。明治政府はいやという程、弱肉強食の帝国主義時代の現実を知らされた。列強の力の前に承諾し、清国からは多額(国家収入の四倍)の賠償金を受け取ることになった。
セルゲイ・ヴィッテ(1849〜1915)
明治政府から遼東半島を撤回させたのはロシアの外相・セルゲイ・ヴィッテである。ヴィッテはその後李鴻章と密約を結び、満州、モンゴルに進出、旅順を租借し、念願の不凍港を獲得する。日本への巨額の賠償金に悩む清国へ借款する見返りに、ドイツは山東省を、フランスは江東省と江西省、イギリスは九龍半島を租借した。租借とはほぼ割譲に等しい。
「眠れる獅子」と恐れられ、いつか目を覚ますと言われていた清国だったが、小さな島国・日本に負けたことにより唯の弱肉であることを証明してしまった。かくして強食たちは寄ってたかって昔の大国を食い物にし始めた。日清戦争の結果は、大清国が列強の半植民地になってしまう。
一方で朝鮮は清国との冊封から独立したのだが、あろうことか閔妃は今度はロシアに近づき始める。節操もなく世界情勢も解らず、強いところに頼ろうとする事大主義で強いのはロシアだと言うのだ。混乱はエスカレート、閔妃は暗殺される。首謀者は大院君とも日本公使・三浦梧楼とも言われるが真相は不明である。
閔妃が亡くなると高宗が20年ぶりに政権に返り咲く。しかし高宗には政治力は全くなくロシアの言いなりだった。鉱山採掘権や森林伐採権を売り渡すなどしたため、明治政府が買い戻す騒ぎも起きた。立場が悪くなるとロシア大使館に逃げ込むこと有り様だった。
官営・八幡製鉄所
清国からの賠償金で明治政府は初の製鉄所を八幡に建設するなど、さらに殖産振興にまい進した。日本国民は日清戦争勝利で鬼の首を取ったように喜び、近代化国家が実現したことに自信を持った。産業、文化、あらゆる分野に活躍する人材が出現し始める。
しかし明治政府にとっては着々と南下政策を進めるロシアに完全に行く手を阻まれた。伊藤首相、陸奥外相らは軍備の強化、イギリス、アメリカなどとの外交を強化、ロシアの南下阻止の戦略を考える日々だった。列強の脅威が現実のものとなり、喉元に匕首を突き付けられた様な「臥薪嘗胆」「危急存亡」の時代が続いた。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は水
******** 艱難、危険、悩み
*** ***
******** 下卦は山
*** *** 止まる、動かない
*** ***
「水山蹇」の卦。蹇(けん)は足なえのこと。行き悩みである。危険を前にして身動きが出来ない象。四面楚歌とでも言うべき、にっちもさっちもいかない状態である。人生にもこんな時が一度や二度は訪れるものである。こんな時は、あわてて行動しないこと。見識のある人の意見に耳を傾けること。慎重に相手を観察することである。一条の光を見いだせることもある。
日清、日露と一連の戦争のように考えるのは大きな間違えである。相撲で言えば、清国は引退寸前の衰えた元横綱だが、ロシアは現役の横綱である。明治の日本は未だ新入幕を果たしたばかりの平幕の一番下というところだろうか。世界から見れば小さな東洋の島国。ヨーロッパの人たちには名前も知らない無名の下っ端力士だったのである。
清国、朝鮮、日本の3国を考えてみたい。結果的に見ると日本だけが一早く近代化を果たし先進国の仲間入りした。それしか道は無かったのだろうか。現在、両国には反日感情がいつまでも続いている。明治の始め、日、新、朝の三国同盟を真剣に唱え、受け入れられず、反乱者にされた人がいた。西郷隆盛である。彼は今日を見据えていたのだろう。「日本人はもっと東洋に誇りを持ち、世界にも東洋人として堂々と発言するべきではないか。」西郷の声が聞こえるような気がする。
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