さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名画に学ぶ世界史

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ジェームス1世(1566〜1625)

アルマダの海戦で強国・スペインを破り、世界の表舞台に登場したイングランドのその後をお伝えします。「私は国家と結婚した。」と言って生涯独身を貫いたエリザベス1世は1603年に亡くなる。エリザベスの遺志もあり、議会は次の王をメアリー・ステュアートの一人息子でスコットランド王・ジェームス6世を両国を兼ねた王として迎え、イングランドではジェームス1世として即位させた。

しかしジェームス1世は王は神であるという「王権神授説」を信じ込み、議会を軽視した。また国教会を強制しようとしたためピューリタン(清教徒)が議員に多かったので王と議会は関係を悪化させた。おまけに財政難のスコットランドでは贅沢が出来なかった王妃アンが好きなだけ浪費したので国民の評判は最悪だった。


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チャールズ1世(1600〜1649)

その息子であるチャールズ1世の代になるとさらにピューリタンに対する弾圧を激しくした。そこで議会は議会と国民の権利を尊重するよう要望書を提出した。これが「権利の請願」と言われ、議会の承認なしに課税をしないこと、国民を逮捕しないことを王に確認させた。ところが王は議会を解散させて11年間も議会なしの専制政治を行う。混乱の中でスコットランドにて反乱が起った。チャールズ1世は自ら軍隊を率いて、反乱鎮圧に出かけたが逆に反乱軍に降伏、賠償金を支払うことになる。そこで増税するために議会を開くことになるが、議会は王の専制を批判して対立した。


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オリバー・クロムウェル(1599〜1658)

ついに内乱となり「ピューリタン革命」と呼ばれる戦争に発展した。議会派の中心グループはピューリタンであり、始めはプロの軍隊を擁する王党派に敵わなかったが宗教的な団結力でついに王党派を壊滅させた。このピューリタン軍の中心「鉄騎隊」を率いたのがオリバー・クロムウェルである。行き詰ったチャールズ1世はスコットランドに逃げ込むが、スコットランド軍も王を捕えてイングランド議会に引き渡す。議会ではそれまでの王の罪状を「暴君、反逆者、殺戮者」として裁判の上、公開処刑とした。

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チャールズ1世の処刑

王のいない政治体制を取り仕切ったのはクロムウェルである。世界史史上最初の共和制とも言えるが実際はクロムウェルによる独裁政治だった。クロムウェルは積極政治を断行し、王党派のスコットランドとアイルランドを占領する。1651年には海外貿易のライバル・オランダから権益を奪取するために航海法を制定した。そのため英蘭戦争が何度も起こったが終にはイングランドが優位に立つ。ニューアムステルダムがニューヨークになったのもその頃である。

議会ではクロムウェルを王にしようとしたが、クロムウェルは望まなかった。1653年、クロムウェルは王に替わる地位として護国卿になるが、1658年に59歳で死亡する。クロムウェルは厳格なピューリタンだったので国民に酒も博打も禁止したので人気はなかった。息子が護国卿を継ぐといっせいに反発が起ったが、息子には父のような政治的手腕はなく直ぐに政権を放棄する。クロムウェルの統治した間は王なしの時代を過ごしたが国家というものは例え飾りでも上に立つものがいないと混乱するもののようだ。


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チャールズ2世(1630〜1685)

議会はフランスで落ちぶれた生活をしていた処刑したチャールズ1世の息子をチャールズ2世として迎えることにした。1660年の王政復古である。チャールズ2世は処刑された父の二の前は御免とばかり、始めは大人しくしていたが次第に専制君主になりかける。それに対して議会は「審査法」を作り官僚は国教会信者に限るとし、「人身保護法」を作り王による不法逮捕と投獄を禁じた。チャールズ2世は父の敵・クロムウェルをウェストミンスター寺院の墓から遺体を掘り起し、国王殺しの罪で絞首刑にした上、その首を晒しものにした。王妃との間に子は出来なかったが、多数の愛人たちに認知しただけでも14人の庶子がいる。チャールズ2世が死去すると、弟のジェームズ2世が即位する。

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ジェームズ2世(1633〜1701)

ジェームズ2世は海軍の軍人として戦争体験もある剛の者で、熱心なカトリック信者でもあった。イングランド議会はカトリックは拒否であるので対立する。しかし王は既に52歳になっており、オランダ総督ウィレム(ジェームズ2世の甥)に嫁いだ娘メアリがいたが男子はいなかったのでもう少しの我慢と辛抱していた。ところがその後息子が誕生したのでこれは大変だとばかりに議会は王を追放して別の王を迎えることにした。ちょうどオランダ総督のウィレムが熱心なプロテスタントだったので、ウィレムを王として迎えることにした。1688年、軍隊とともにウィレムが上陸するとジェームズ2世はフランスへ亡命した。一滴の血も流さなかった革命という意味でこれを「名誉革命」という。


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ウィリアム3世(1650〜1702)

イングランド議会はウィレム夫妻にウィリアム3世とメアリー2世として即位させ共同統治とした。二人は議会の要請を受け入れ、議会の権利、国民の権利を守ることを宣誓する。これが「権利の章典」である。以後今日のイギリスに至るまでイギリス王室は「君臨すれども統治せず」という立憲君主制が確立していく。政治の主導権は議会が責任を持つという「責任内閣制」が誕生したのである。当時のイングランドがカトリック拒否だったのはフランスとのライバル関係だったことにあり、絶対王政の絶頂にあったルイ14世とは対立が激化していた。

〜〜さわやか易の見方〜〜

***  *** 上卦は地
***  *** 陰、弱、小
***  ***
******** 下卦は天
******** 陽、剛、大
********

「地天泰」の卦。天地を反対にしたのが地天である。一見逆のようだが、これが安泰、安定の意味で理想的な和合の象である。上に在る者が下を気遣い下に在る者が上を目指して元気があるように上下間に意志の疎通がある。親と子、先生と生徒、経営者と従業員、政治家と国民、全て和合が大切である。共和制はその理想政治だが、なかなか理想通りにはいかない。しかし、これを目指して進歩していかねばならない。

16世紀に入ったころのイングランドはスペインやフランスに比べると未だ先進国とは言えなかったが、17世紀末には絶対王政から議会が政治の中心になるほどの進化を遂げている。フランス、スペインは絶対王政の全盛期、ドイツやロシアは絶対王政を目指して王たちがしのぎを削って悪戦苦闘、アメリカは未だイングランド、フランス、オランダの植民地だった。日本では徳川時代の初期、3代将軍・徳川家光とクロムウェルとがほぼ同世代である。

チャールズ1世から政権を奪い取ったピューリタン革命の中心はオリバー・クロムウェルだが、彼の爺さんの爺さん、4代前がトマス・クロムウェルである。このトマス・Cがあのカリスマ王・ヘンリー8世の側近でイングランド国教会の理論的支柱として王を支えていた。そのトマス・Cが王の4番目の王妃を連れてきたのだが、王は気に入らず即刻離婚した揚句、トマス・Cを処刑してしまう。何という暴君だろう。そのトマス・Cの孫の孫が王室を裁いたのだ。それでも王室にとっては墓を暴きたくなる程の恨みがあったのだろう。歴史はかくも容赦のないものである。


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メアリー・ステュアート(1542〜1587)

「イギリス王室物語(3)」の中では伝えきれなかったメアリー・ステュアートのドラマを語りたいと思う。エリザベス女王にとって、その存在感の大きさはライバルでもあり終世悩みの種でもあったスコットランド女王・メアリー・ステュアート。今回は悲劇の女王として文学や映画に幾度も登場したヒロインを訪ねて見よう。


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ヘンリー8世(1491〜1547)

「イギリス物語(1)」に詳しく述べたように、16世紀中頃はヘンリー8世がその強烈なカリスマ性で飽くなき野心を欲しい儘にしていた。離婚問題から端を発したイングランド国教会と旧教カトリックの宗教対立も深刻な争いになる。イングランドの北隣にあるスコットランドはヘンリー8世のために領土と宗教の脅威にさらされた。スコットランド国王ジェームス5世(ヘンリー8世の姉の子)は強国フランスとの結びつきを深める目的で王妃としてマリー・ド・キーズをフランス王室から迎える。

1542年、メアリー・ステュアートは2人の3番目の子として生まれるが上の2子は夭折していた。メアリーが生まれた直後に父である王ジェームス5世が辛労のため亡くなった。そのため生後6日にしてスコットランド女王となる。さらにメアリーは血筋の上からはイングランドの正式の王位継承権を有する。スコットランド併合の野心を抱くヘンリー8世は好機到来とばかりに貴族たちを買収して、当時5歳の息子エドワードと婚約させた。しかしフランス王室生まれの母マリー・ド・キーズはヘンリー8世の死後、婚約を破棄して5歳になったメアリーをフランス王のアンリ2世に預けることにした。


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フランソワ2世とメアリー

フランスの王室はメアリーを大切に育て、女王に相応しい躾と教育を受けさせる。生来の利発さを発揮してメアリーは学業のみならず、乗馬や文芸にも才能を開花させた。しかもすらりとした長身で美しさも兼ね備え女王の気品さえ漂う女性に成長する。喜んだアンリ2世はメアリーにすっかり惚れ込んで長男フランソワと結婚させる。1558年のこと、メアリー15歳、フランソワ14歳だった。ところが翌年、突然王アンリ2世が事故により急死してしまう。そこでフランソワはフランソワ2世として即位、メアリーはスコットランド女王とフランス王妃を兼ねることになる。(その頃イングランドでは25歳のエリザベスが女王として即位する。)

メアリーとフランソワは子供の頃から気心が知れており、二人の関係は仲睦ましいものだった。しかし幸福は長く続かない。フランソワは生まれつき病弱だったため、その病弱を克服しようと周囲の意見も聞かず狩りなどの運動を繰り返した。無理が原因だったのか2年後に16歳の若さで亡くなってしまう。メアリーは何と17歳にして未亡人になってしまった。その半年後にスコットランドではメアリーの代わりに国政を担っていた母マリー・ド・キーズが辛労が重なり亡くなってしまう。


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フランスを去るメアリー

母国スコットランドでは新教プロテスタントの反乱が起り、イングランドとフランスが軍事介入するという混乱の最中だった。また、イングランドの王位継承も問題になっていた。ローマ教皇を始めカトリックの国(フランス、スペイン、オーストリアなど)はエリザベスは庶子であるとして女王として認めておらず、メアリーこそイングランド女王だと主張していた。新旧の宗教対立、イングランド王位継承権を廻り、国と国の対立、国内の貴族間も対立するという複雑な混乱が渦をまいていた。最愛の夫と頼りの母を亡くした18歳の女王メアリーは傷心癒えぬままスコットランドに帰ることになる。

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ダーンリー卿(ジェームス・スチュアート)
1545〜1567

女王であるメアリーが誰と再婚するかは国内貴族のみならず各国にとっても利害がからむ大問題である。次々と縁談が舞い込んだ。フランス、スペイン、オーストリアのみならずスウェーデンやデンマークからも申し出があった。エリザベスは自分の恋人であるロバート・ダドリーを打診してきた。最も有力だったのがスペインの王太子ドン・カルロスであったが、フランスとエリザベス1世が妨害したためお流れになる。正に引く手あまたという候補者たちだったがメアリーが選んだのはイングランドの貴族でメアリーとは従弟の関係である2歳年下のダーンリー卿だった。(メアリーと同じくイングランドの王位継承権もある)長身でロンドン王室仕込みの洗練された身のこなしにメアリーは一目ぼれしたという。


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マリ伯(ジェームズ・ステュアート)
1531〜1570

周囲の貴族も各国首脳たちも大反対だったが、メアリーは耳を貸さなかった。猛反対したのが国政を預かる地位にあったメアリーの庶子の兄・マリ伯である。マリ伯はメアリーの再婚により自分の地位が危うくなると感じ、エリザベス1世と手を組んで政治的圧力をかけたが二人は結婚してしまう。その直後にマリ伯はエリザベス1世の援助を受けて1200人の兵力を集め反乱を起こした。その反乱を鎮圧したのがスコットランド軍を率いたボスウェル伯であり、マリ伯はイングランドに亡命した。メアリーにとって結婚前は最も信頼していたマリ伯だったが結婚後は敵となり、替って信頼を得たのがボスウェル伯だった。


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ボスウェル伯(ジェームズ・ヘップバーン)
1535〜1578

ボスウェルはメアリーの母マリー・ド・キーズがその有能ぶりに貴族に取り上げた軍人であり、スコットランド貴族では飛び抜けた政治的能力もあった。マリー・ド・キーズが亡くなる前にボスウェルを呼んで「メアリーを守るように。」と頼んで逝った。ボスウェルはマリーの枕元で「命に替えてもお守りします。」と誓った。


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リッチオ殺害事件

メアリーとダーンリーの再婚は大失敗だった。ダーンリーは王位を勝ち取ると途端に人が変わった。両親から甘やかされて育ったせいか、我が儘で傲慢な性格を表しメアリーにも冷たくなった。メアリーも愛情が覚めて仕舞いなるべく顔を合わさぬようになる。王室はダーンリー派とメアリー派に別れ、ダーンリー暗殺、メアリー暗殺、という噂が飛び交う有り様だった。ダーンリーの友人である音楽家のリッチオが二人を気遣いメアリーの話し相手になっていると、メアリーが浮気をしていると因縁をつけた。ダーンリーは配下の貴族たちと計らい食事中メアリーの目の前でリッチオを殺害し、メアリーの側近ボスウェルも殺害しようとしたボスウェルは辛くも2階の窓から脱出した。

妊娠していたメアリーは流産の危機を迎えたが、無事に息子ジェームズを出産する。子供は生まれたが二人の仲は冷え切ったまま修復は不可能となる。教会の大司教も心配し、メアリーに一刻も早く和解するよう手紙を送る。ある日メアリーは病床にあった夫の館に和解するために会いに行く。数日の間和やかに過ごしたが、メアリーが寵臣と女官の結婚祝いの舞踏会に出席するため外出すると、ダーンリーは不機嫌になり大酒を煽りながら悪態を繰り返した。その晩のことダーンリーの館が爆破され、ダーンリーの遺体が発見されるという大事件が起こった。

館を爆破させたのはボスウェルの配下である。ボスウェルは亡き母マリーとの約束を守りメアリー救出のため、最後の手段を決行したものと思われる。事件の2か月後にメアリーを説得し、教会に連れて行くと結婚式を挙げた。ボスウェルの計画はメアリーの女王を廃位させ、息子のジョージを王位に就け、二人はスペインで暮らすつもりだった。しかし計画は失敗する。枢密院にてボスウェルの有罪が宣告され首に懸賞金がかけられると、宿敵マリ伯がボスウェルを標的に軍を立ち上げ追ってきた。メアリーを殺めることはないと判断したボスウェルはメアリーを投降させる。ボスウェルはオークニー諸島に向かい、さらにシェトランド諸島、そしてノルウェーまで逃れたが連行され投獄の身になり、11年後に獄死した。一方のマリ伯は一時は王ジョージ6世の摂政となったが、ボスウェル伯の配下に暗殺された。


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ウエストミンスター寺院、メアリーの墓

女王を廃位させられロッホリーヴン城に幽閉されていたメアリーは1年後にメアリー派の貴族たちにより城を脱出した。6千人の軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、エリザベス1世を頼ってイングランドに亡命する。エリザベスは国内での自由と安全は保証したが、国外への出国は厳重に禁止する。25歳のメアリーは引退した老婦人のような生活を送るが、宗教対立とイングランド王位継承問題があり、スペインやフランスからの政略と陰謀はメアリーを平穏には置かなかった。エリザベスにとってもメアリーは次第に自らの地位を脅かす存在となり看過することが出来なくなった。亡命から18年、メアリーも関与したとされるバビントン事件(エリザベス暗殺未遂)が発覚すると、メアリーに有罪・死刑が言い渡された。1587年2月、フォザリンゲイ城にてメアリーは処刑され、44年の生涯に幕を閉じた。スペインの無敵艦隊がイングランドに向かい「アルマダの開戦」があったのは翌年のことである。

〜〜さわやか易の見方〜〜

***  *** 上卦は雷
***  *** 活動、行動派、長男
********
***  *** 下卦は沢
******** 喜ぶ、親睦、少女
********

「雷沢帰妹」の卦。帰妹(きまい)とは若い女が嫁ぐこと。しかし良い意味ではない。正常な結婚というよりも女の方から積極的に追いかけて結婚するようなもので愛情に乏しいと見る。元来、女は男の求婚を待って順序を踏んで結婚すべきもので、その反対は易ではよしとしない。易の中に男女の関係を表す卦が4つある。すなわち、咸、恒、漸、帰妹であるが、最も良くないのがこの帰妹である。結婚は末永い結びつきが大切であり、周囲の理解、応援、祝福があることが望ましい。

「私は国家と結婚した。」と言って生涯独身を貫いたエリザベス1世とは対称的に結婚を選んだ女王メアリー。エリザベスは庶子とされ、王位継承権を失い、復権したあとも前女王により一時はロンドン塔に幽閉されるという死の恐怖を体験させられている。そうした試練を経た上で25歳にして女王に即位した。メアリーは生まれながらの女王であり、全てを手にしていたが結婚の失敗により25歳の時にその一再を失った。家庭生活、女王の地位、生んだばかりの我が子とも別れた。歴史上、中興の女王として今も尊敬を集めるエリザベス1世、そして悲劇の女王として今も愛され続けるメアリー・ステュアート。輝きかたは違ったが、それぞれ同じ時代に燦然と光を放ち、消えていった。

メアリー・ステュアートの生涯は小説や映画として作品になっている。1829年、20歳のメンデルスゾーンは初めてイギリスを旅行した。スコットランド・エディンバラのメアリー・ステュアートゆかりのホリルード城の遺跡を訪れた時のこと、悲劇の女王を偲び涙が止まらなかったという。その後、崩れた礼拝堂の屋根から差し込む光に霊感を受け厳かな楽想が湧き上ってきた。その後何度もイギリスを訪れ、1835年バッキンガム宮殿でヴィクトリア女王に献呈したのが、その時の楽想を完成させた交響曲第3番「スコットランド」である。
































































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エリザベス1世(1533〜1603)

ヘンリー8世の死後、幼いエドワード1世、そしてメアリー1世と11年間の混乱が続いたイングンランドだった。混乱を終結させ、経済大国に向け発展に導いたのが女王・エリザベス1世である。母アン・ブーリンが父ヘンリー8世に処刑され庶子の身分にされたり、異母姉メアリー1世に処刑寸前まで追い込まれたりもした。数奇な運命を強いられたエリザベスだったが、その波乱の運命を自らの糧として大きく成長したのがこの女王の偉大なところである。

1558年、25歳で女王の坐についたエリザベスが直面する最大の難題は、カトリックとイングランド国教会との宗教対立だった。当時ヨーロッパ全体がその渦中にあったが、カトリックを守ろうとするローマ教会、スペイン、ハプスブルグ家、フランスなどの王室に対し新興のプロテスタントが各国に勢力を拡大していた。イングランドはヘンリー8世から始まったイングランド国教会の勢力が強かった。亡きメアリー1世の夫だったスペインのフェリペ2世はエリザベスに結婚を申し出て来た程であるから、何としてもイングランドをカトリックを維持したかったのだろう。そこを巧みな外交で乗り切り、統一法によってカトリックと妥協しながら、イングランド国教会の基盤を確立していったのはエリザベスの最大の事績と言えるだろう。


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メアリー・ステュアート(1542〜1587)

もう一つの難題はもう一人のメアリーである。このメアリーは悲劇の女王として名高いメアリー・ステュアートである。スコットランドの女王でもあり、イングランドの王位継承権を有するメアリーだが、その波乱万丈の人生とともに終世エリザベスの悩みの種であった。生まれながらの女王、フランス王室育ち、美人で長身、聡明で優雅、恋多き女、フランス王妃、結婚の失敗、絶頂からの転落、数奇な運命、ドラマとしてみるとこれほどドラマチックなヒロインもないだろう。

詳細を述べると長文になってしまうので、次回に「悲劇のメアリー・ステュアート」として掲載することにする。ここでは簡単に述べることにするが、混乱の中にあったスコットランド王室で、結婚に失敗したメアリーを救うためある貴族がその王を殺害するという大事件が起こる。何もかも失ったメアリーがエリザベスを頼ってイングランドに逃げてくる。18年間もイングランド国内に幽閉されるが、エリザベスへの暗殺計画が明るみに出て処刑される。王位継承と宗教対立もからんだメアリー事件はやがてスペインとの戦争にも突入することになる。


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ロバート・タドリー(1533〜1588)

エリザベスは様々な混乱や悲劇をその目にしているので結婚には慎重過ぎるほど慎重だった。最も心を許した男は幼馴染のロバート・ダドリーだと言われている。前回に登場したジェーン・グレイを担いで処刑されたジョン・ダドリーの4男である。事件の後、ロンドン塔に幽閉されたとき、別の容疑で幽閉されたエリザベスと密かに手紙の交換をしたというから困難を共にした同志の関係と言える。ロバートは先に結婚したがその後もエリザベスとは親密だった。ロバートの妻が謎の事故死をすると「もしや」とばかりにスキャンダルとなる。周囲の貴族の猛反対もあり、二人は結婚することはなく終世相談相手で通した。


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アンジュー公(1555〜1581)

他にもアメリカ大陸にエリザベスに因み「ヴァージニア」を開拓したエセックス伯なども愛人とされる。各国から大使を通して王族との縁談は引く手あまたであったが、検討はするものの実現には至らない。結婚話を外交交渉に利用したとも言われた。最後の縁談はフランス皇子のアンジュー公であったが、交渉中に亡くなってしまった。50歳を過ぎるとその処女性が神格化するようになり国民の崇敬を集める。結局、エリザベスは「私は国家と結婚した。」と言って独身を貫いた。


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フランシス・ドレーク(1543^1596)

その後の大英帝国への基礎になったのが、エリザベス時代と言われる。最も顕著な政策は経済政策だろう。当時の経済大国は何といってもスペインであるが、その源泉は南米から大量に運ばれる銀であった。もともとスペインのコンキスタドールたちが現地人から略奪し、その後アフリカの黒人を奴隷として連れて行き、強制労働で採掘させた銀である。南米から略奪したものなら、運ぶ途中で略奪してしまえとばかりに海賊行為が横行した。世界一周で名を上げたフランシス・ドレークもそんな海賊の一人である。エリザベスはスペインの船からの海賊行為に対し、「私掠免許」というお墨付きを与えた。ドレークの献上する金銀財宝は当時の国庫歳入より多く、エリザベスは彼に叙勲を授け海軍中尉に任命する。


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アルマダの海戦

私掠船の略奪も手が付けられぬ程頻繁になるとスペインの忍耐も限界に達してくる。加えて北ネーデルランド(オランダ)の独立をイングランドが影から支援していることを知ると両国の関係は一層悪化した。そこにカトリックの元スコットランド女王メアリー・ステュアートが謀反の罪で処刑されるとスペインの無敵艦隊アルマダはイングランド侵攻を開始した。急きょ海軍副司令官に任命されイングンランド艦隊の指揮をとったのは元海賊のドレークである。海賊らしく燃える船を無敵艦隊に突入させるという奇襲攻撃を決行する。1588年のアルマダの海戦は世界中の予想に反してイングランドの勝利に終わった。

エリザベスの治世は混乱の続いた王室を安定させ、国民に平和と繁栄をもたらし、ヨーロッパでの経済大国へ躍り出た。1600年には東インド会社を設立積極的に海外にも進出する。メアリー・ステュアート事件ではスコットランド国民の不満もかったが遺児であるジェームズをイングンランドとスコットランド両国の王とするよう遺言し、グレート・ブリテンとして今日のイギリスの幕開けともなった。1603年、70歳で生涯を閉じる。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は風
******** 入る、従順、長女
***  ***
******** 下卦は天
******** 陽、剛、大
********

「風天小畜」の卦。小畜(しょうちく)とは小(陰)なるものが大(陽)なるものを制するということ。例えば女性が剛なる男たちを制するように、常軌を逸した君主を賢い臣下が宥めるようにである。剛なる者を従わせるには力をもってするより、陰徳すなわち品性や教養をもってする方が効果がある。内に剛を秘め外面は従順さを失わず、感情をコントロールすることが肝要である。

エリザベス女王のモットーは「私は見る。そして語らない。」だった。政治には口を出さないというのが女王の基本だった。各国との外交官たちとももっぱら文学や哲学の話をしていたという。その洗練された品性と豊かな教養でいつの間にか困難な問題も解決してしまったそうである。とは言え、イングランドがヨーロッパの中でも経済大国となったのは、したたかな計算も戦略も持ち合わせていたのだろう。やはり偉大な女王だったのだろう。

興味深いのは海賊ドレークの処遇である。海賊出身でありながら叙勲を与え、ナイトに抜擢した。感激したドレークはエリザベスの前にひれ伏したという。その後のアルマダの海戦に総司令官の重責を任せられ、国家の存亡を一身に背負ったドレークはエリザベスへの大恩に命がけで報いようとしたことだろう。日本海海戦で東郷平八郎が荷った重責を元海賊が荷ったことになる。いかにもイングランドらしい向こう見ずな戦略である。
















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エドワード6世(1537〜1553)

カリスマ王・ヘンリー8世(1491〜1547)の死後に残されたものは、世継ぎ問題と、カトリックとイングランド国教との宗教対立だった。イングランドにとってはエリザべス1世が即位する1558年までの11年間は混乱の真っただ中にある。今回は王室内で繰り広げられた王権を廻る野心と陰謀の葛藤と悲劇のドラマである。

ヘンリー8世は生前に王位継承順位を1、エドワード、2、メアリー、3、エリザベスと遺言していた。そこでヘンリーの死後は9歳のエドワードが王位に就いたが、エドワードは生まれながらに病弱であった。そこでエドワードの亡き母ジェーン・シーモアの兄エドワード・シーモアが摂政となり国政を握った。エドワード・シーモアは最大の権力者となったのだが、弟のトマス・シーモアが事件を起こす。


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トマス・シーモア(1508〜1549)

弟トマスはヘンリー8世の最後の妻キャサリン・パーが王妃になる前に恋人同士だった。王が亡くなると寄りを戻しキャサリンと結婚した。キャサリンは教育係をしていたエリザベスが自分を母親のように懐いていたので邸宅に引き取る。(これが間違いのもと) トマスは40歳に近かったが精悍で性的魅力があり女性の扱いに長けていた。14歳のエリザベスは恋心を抱いてしまう。キャサリンは妊娠していたが、ある日エリザベスの寝室で二人が抱き合っているところを目撃してしまう。衝撃を受けたキャサリンはエリザベスを邸宅から追い出した。

翌年、キャサリンは女子を産んだが産褥熱のため死去する。トマスは権力を掌握した兄への妬みもあり、エリザベスとの結婚を計画するが、摂政である兄エドワードは猛反対する。この話が表ざたになるやシーモア家の王室支配であるとして貴族たちに追及され、トマスは逮捕、処刑される。エドワードも反逆の疑いで次に摂政となるジョン・ダドリーによって2年後には逮捕、処刑された。

王位継承は宗教対立も深刻だった。今度は実権を握ったジョン・ダドリーが病弱な王の次にカトリックのメアリーが継ぐことを回避するため陰謀を廻らす。自分の息子と結婚したジェーン・グレイ(ヘンリー8世の妹の曾孫にあたる)を王位に就けようというものだ。そこでダドリーは病床のエドワードに迫り、王位継承者はジェーン・グレイだとする勅諚を書かせる。そして1553年、15歳で王が死去すると、「これが王の遺言である。」と発表してジェーン・グレイを女王にした。


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17歳のジェーン・グレイの処刑

そんなにうまく行くものではない。この陰謀は他の貴族たちには反発を招き、メアリーを支持するものたちによってダドリーは逮捕され裁判にかけられ処刑された。女王の坐、9日間でジェーン・グレイはロンドン塔に幽閉され、翌年に処刑される。イングランドでは久しぶりの女王としてメアリー1世が即位すると国民は歓呼したがやがて失望することになる。スペインの王女だった母キャサリンを誇りに思うメアリーは父ヘンリー8世の母への冷遇を忘れなかった。エリザベスの母アン・ブーリンが自分を侍女と言った屈辱も忘れたことはない。


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メアリー1世(1516〜1558)
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フェリペ2世(1527〜1598)

メアリー女王は熱心なカトリック信徒でイングランド国教会を否定する。ローマ教会、スペイン、ハプスブルグ家の支持を得て国教会に対する徹底的な弾圧を開始、300人もの関係者を血祭りに挙げ「ブラッディー(血まみれ)・メアリー」と恐れられた。国教会支持者たちが反乱を起こし、エリザベスに期待をかけると標的はエリザベスになった。エリザベスは宮廷に召喚され尋問を受けロンドン塔に収監された。支持者たちの必死の助命活動により地方へ移され1年間の幽閉生活を送った。

1554年、周囲の反対を押し切って38歳のメアリー女王は、27歳のスペイン王太子・フェリペと結婚する。フェリペの結婚は2度目で2年後にはフェリペ2世としてスペイン王に即位した。その後フェリペ2世からの要請を受け、フランスに出兵するが敗北し、大陸での唯一の地カレーを失う。メアリーには一度出産騒ぎがあったが妊娠していないことが判明すると女王の権威は喪失した。病床の身となると、フェリペ2世までが次期女王のエリザベスを相手に協議している。1558年、メアリー死去。エリザベスが王位を継承した

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は天
******** 陽、大、剛、
********
***  *** 下卦は沢
******** 少女、喜ぶ
********

「天沢履」の卦。履とは踏み出す。上に天があるので、剛強で怖い環境の中を進んで行く象である。「虎の尾を踏む」危険がある。危険いっぱいのところを進むには目上の者や経験者の助言を素直に聞いて、礼儀正しく慎重に進むことが大切である。猪突猛進のような態度をとれば、どんな目に遭うか知れたものではないだろう。

エリザベスは若い時の体験から少しでも気を緩めると大変な目に遭うことを身に沁みて知ったことだろう。父の恐さ、母の悲劇、姉メアリーとの複雑な関係、キャサリン王妃への恩、男からの誘惑から大切な人を傷つけたこと。全ての体験が女王としての毎日の行動に活かされたことだろう。生涯独身を貫いたことも、国を混乱させてはならないとの慎重さがそうさせたのかも知れない。

一方で、メアリーが背負った人生には同情すら覚える。当時最大の大国スペインの王女だった母が父ヘンリー8世に冷たくされ無理やり離婚させられたこと。母の侍女だったアン・ブーリンからエリザベスの侍女になれと言われたこと。誇り高きメアリーにとっては生涯忘れられない屈辱だったであろう。スペインとカトリックに執着し、まるで父への復讐をするために女王になったと言えるような生涯である。

















ヘンリー8世(1491〜1547)

近代以後、世界に君臨したのはスペインそしてオランダだったが、その後に世界の表舞台に登場するのがイギリス(当時はイングランド)である。少し歴史を遡ることになるが、16世紀のヨーロッパは大航海時代と宗教改革が同時に進行する激動の時代だった。「ハプスブルグ家の物語(3)」に語ったが、神聖ローマ皇帝のカール5世とフランス王・フランソワ1世が激しいライバル闘争をした同時代にもう一人のカリスマ的英傑がいた。その名はヘンリー8世。イングランドの王であり、エリザベス1世の父である。そのイングランドを語るには王室の世継ぎのドラマを抜きにすることは出来ない。

30年間も続いたランカスター家とヨーク家の争い(ばら戦争)がようやく治まりチューダー家として再出発したイングランド王家は世継ぎを確保することは国家の大事だった。王・ヘンリー7世とエリザベス王妃の間には幸い2男、2女が授かった。ヘンリー(後の8世)は次男だったが、長男のアーサーがスペインの王女・キャサリンとの結婚後20週間で亡くなってしまう。(元来病弱だったという)キャサリンはスペインの王女イサベルの娘でありハプスブルグ家のカール5世の叔母に当たる名門だった。キャサリンは莫大な持参金を持ってきたため、王のヘンリー7世はスペインとの関係を持続するためにもキャサリンを帰す訳にもいかず、当時10歳の弟・ヘンリーと婚約させる。

キャサリン・オブ・アラゴン(1487〜1536)

4歳年上のキャサリンとの結婚を渋っていたヘンリーに対し、父ヘンリー7世は自分の妻・エリザベスが死亡すると「だったら俺が結婚する。」と言い出した。さすがに周囲から顰蹙を買い取りやめになる。そうこうしている内、ヘンリー7世が52歳で死亡したので、1509年18歳のヘンリーはヘンリー8世として即位しキャサリンと結婚する。キャサリンは何度も妊娠したが流産を繰り返し、29歳にして始めて女児・メアリーを出産する。その後10年経っても男子の世継ぎは終に出来なかった。

ヘンリー8世はイングランド王室では最もインテリであり、ラテン語、スペイン語、フランス語に通じ、文学、哲学、神学を修め、馬上槍試合や狩猟を得意とするスポーツマンでもあった。長身で人並み優れた体力を誇り常に王としてワンマンに振る舞った。愛人も複数いて男子を産めない女を馬鹿にしていた感もある。ヘンリーは男子を産まないキャサリンと離婚し再婚しようとするが、思い通りにはいかない。カトリックの本山・ローマ教皇は離婚を認めなかった。それではとキャサリンは一旦兄と結婚したので自分との結婚そのものが無効とすれば問題ないではないかと反論した
ヘンリーはキャサリンの侍女だったアン・ブーリン(画)に熱を上げていた。アンは「結婚しなければ私は貴方のものにはなりません。」と結婚を迫る。ローマ教皇から良い回答を得られないヘンリーは思い切った手を打った。「離婚を認めないなら教会と離婚してやる。」というものだ。折から宗教改革の波がイングランドにも押し寄せて来てはいたが、国王からカトリックと縁を切るとは誰も想像すらできない。ヘンリーには別の目的もあった。財政難に陥っていた王家がカトリック教会が所有する莫大な資産を没収することだった。結局自らを長とするイングランド国教会を成立させカトリック教会から離脱した。以後、イングランドは王家の世継ぎ問題と宗教問題で混乱が続く。

1533年、ヘンリー42歳のとき、アン・ブーリンと結婚。キャサリンは宮廷から追放され娘・メアリーと会うことも禁じられる。アンは直ぐに女子(後のエリザベス1世)を産むと世継ぎの身分を獲得した。17歳の前王女・メアリーが赤子をあやそうとすると、「貴方はもう世継ぎではありません。この子に対しては臣下の礼を取りなさい。貴方はこれからこの子の侍女です。」と言い放った。メアリーは「妹であることは認めますけど、臣下の礼など飛んでもない。」この日から世継ぎ対決は憎しみを伴ってエスカレートする。アン・ブーリンの絶頂は長く続かなかった。男子誕生を切望するヘンリーは3年後には早くも見切りをつけ、アンを側近の男たちと浮気をしたと練れ衣を着せ側近ともども処刑してしまう。(3歳のエリザベスは世継ぎ取り消し。)

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ジェーン・シーモア(1509〜1537)

ヘンリーはアンを処刑した翌日にアンの侍女(この時代侍女は王家に繋がる貴族である)であったジェーン・シーモアと婚約、10日後に結婚した。ジェーンは期待通り男子(エドワード)を産んだが難産であったため出産直後に死亡した。ヘンリーは一時は落胆したものの、直ぐに立ち直り側近に次の花嫁を探せと命じた。4番目、5番目は省略するがヘンリーのとっかえひっかえの結婚は王室を混乱に陥れ、外国からの信頼を無くし、側近や侍女たちが処刑されたり国民からも顰蹙を買った。

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1542年(51歳のヘンリー8世)

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キャサリン・パー(1512〜1548)

1543年、52歳のヘンリーは6度目にして最後の結婚をする。暴君とも言えるヘンリーだが、イングランドにとって幸運だったのは最後の王妃・キャサリンが知性豊かで敬虔なプロテスタントであり王家の将来を考え、全体に気配りが出来る賢明な王妃だったからである。キャサリンはヘンリーの弁舌にも負けない教養を備え政治についても対等に話が出来る唯一の存在だった。キャサリンは既に27歳になっていたメアリーと10歳のエリザベスの王位継承権を復活させ、エリザベス及び6歳のエドワードの教育を引き受ける。結婚4年後にヘンリーが亡くなり翌年キャサリンも亡くなるが、混乱の後エリザベスが尊敬される女王になったのはキャサリンの教育に負うところが大きい。

〜〜さわやか易の見方〜〜

***  *** 上卦は沢
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******** 下卦は風
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「沢風大過」の卦。大過は大が過ぎる。大とは易では陽のことである。この卦は2番目から5番目までが陽となっており陽が過ぎるという象である。易は陰陽のバランスを重視する。陽に偏り過ぎることは災いを招く。個人でも家族でも集団でも国家でも陰陽のバランスが大切である。個人的には勇猛でありエネルギッシュであることは大変頼もしいように見えるが、結果的には大混乱を招いたり周囲が無気力になったりし、事業は失敗する。人の上に立つ者はそれではいけない。部下が元気よく働くためには陽に過ぎてはいけない。

シェークスピア劇に「ヘンリー8世」がある。歴史的事実とは修正されているようだが波乱万丈のドラマとしては面白いだろう。一国が世界に躍り出る前に特別なカリスマ性を持つリーダーが出現することも事実のようである。その後一時は混乱するのだが、次に国民が一つになるときに一気に上昇するようだ。そうするとヘンリー8世のワンマンもその役割上重要な存在であったと言えるのかも知れない。

そもそもイギリスの歴史は古い。BC2500年からBC2000年の頃に進んだ文化を持ったブリテン人が住んでいた。(ストンヘンジという巨大な石を組み立てた遺跡が残されている。)ローマ帝国の支配、アングロサクソンの侵略、フランスの支配、逆にフランスを領土にしたり、100年戦争、ばら戦争と闘争の歴史を繰り返した。勇敢を賞賛し、独立心を尊び、プライドの高いところはイギリス人の国民性である。現在も隠然として世界をリードする存在である。



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