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ジェームス1世(1566〜1625)
アルマダの海戦で強国・スペインを破り、世界の表舞台に登場したイングランドのその後をお伝えします。「私は国家と結婚した。」と言って生涯独身を貫いたエリザベス1世は1603年に亡くなる。エリザベスの遺志もあり、議会は次の王をメアリー・ステュアートの一人息子でスコットランド王・ジェームス6世を両国を兼ねた王として迎え、イングランドではジェームス1世として即位させた。
しかしジェームス1世は王は神であるという「王権神授説」を信じ込み、議会を軽視した。また国教会を強制しようとしたためピューリタン(清教徒)が議員に多かったので王と議会は関係を悪化させた。おまけに財政難のスコットランドでは贅沢が出来なかった王妃アンが好きなだけ浪費したので国民の評判は最悪だった。
チャールズ1世(1600〜1649)
その息子であるチャールズ1世の代になるとさらにピューリタンに対する弾圧を激しくした。そこで議会は議会と国民の権利を尊重するよう要望書を提出した。これが「権利の請願」と言われ、議会の承認なしに課税をしないこと、国民を逮捕しないことを王に確認させた。ところが王は議会を解散させて11年間も議会なしの専制政治を行う。混乱の中でスコットランドにて反乱が起った。チャールズ1世は自ら軍隊を率いて、反乱鎮圧に出かけたが逆に反乱軍に降伏、賠償金を支払うことになる。そこで増税するために議会を開くことになるが、議会は王の専制を批判して対立した。
オリバー・クロムウェル(1599〜1658)
ついに内乱となり「ピューリタン革命」と呼ばれる戦争に発展した。議会派の中心グループはピューリタンであり、始めはプロの軍隊を擁する王党派に敵わなかったが宗教的な団結力でついに王党派を壊滅させた。このピューリタン軍の中心「鉄騎隊」を率いたのがオリバー・クロムウェルである。行き詰ったチャールズ1世はスコットランドに逃げ込むが、スコットランド軍も王を捕えてイングランド議会に引き渡す。議会ではそれまでの王の罪状を「暴君、反逆者、殺戮者」として裁判の上、公開処刑とした。
チャールズ1世の処刑
王のいない政治体制を取り仕切ったのはクロムウェルである。世界史史上最初の共和制とも言えるが実際はクロムウェルによる独裁政治だった。クロムウェルは積極政治を断行し、王党派のスコットランドとアイルランドを占領する。1651年には海外貿易のライバル・オランダから権益を奪取するために航海法を制定した。そのため英蘭戦争が何度も起こったが終にはイングランドが優位に立つ。ニューアムステルダムがニューヨークになったのもその頃である。
議会ではクロムウェルを王にしようとしたが、クロムウェルは望まなかった。1653年、クロムウェルは王に替わる地位として護国卿になるが、1658年に59歳で死亡する。クロムウェルは厳格なピューリタンだったので国民に酒も博打も禁止したので人気はなかった。息子が護国卿を継ぐといっせいに反発が起ったが、息子には父のような政治的手腕はなく直ぐに政権を放棄する。クロムウェルの統治した間は王なしの時代を過ごしたが国家というものは例え飾りでも上に立つものがいないと混乱するもののようだ。
チャールズ2世(1630〜1685)
議会はフランスで落ちぶれた生活をしていた処刑したチャールズ1世の息子をチャールズ2世として迎えることにした。1660年の王政復古である。チャールズ2世は処刑された父の二の前は御免とばかり、始めは大人しくしていたが次第に専制君主になりかける。それに対して議会は「審査法」を作り官僚は国教会信者に限るとし、「人身保護法」を作り王による不法逮捕と投獄を禁じた。チャールズ2世は父の敵・クロムウェルをウェストミンスター寺院の墓から遺体を掘り起し、国王殺しの罪で絞首刑にした上、その首を晒しものにした。王妃との間に子は出来なかったが、多数の愛人たちに認知しただけでも14人の庶子がいる。チャールズ2世が死去すると、弟のジェームズ2世が即位する。
ジェームズ2世(1633〜1701)
ジェームズ2世は海軍の軍人として戦争体験もある剛の者で、熱心なカトリック信者でもあった。イングランド議会はカトリックは拒否であるので対立する。しかし王は既に52歳になっており、オランダ総督ウィレム(ジェームズ2世の甥)に嫁いだ娘メアリがいたが男子はいなかったのでもう少しの我慢と辛抱していた。ところがその後息子が誕生したのでこれは大変だとばかりに議会は王を追放して別の王を迎えることにした。ちょうどオランダ総督のウィレムが熱心なプロテスタントだったので、ウィレムを王として迎えることにした。1688年、軍隊とともにウィレムが上陸するとジェームズ2世はフランスへ亡命した。一滴の血も流さなかった革命という意味でこれを「名誉革命」という。
ウィリアム3世(1650〜1702)
イングランド議会はウィレム夫妻にウィリアム3世とメアリー2世として即位させ共同統治とした。二人は議会の要請を受け入れ、議会の権利、国民の権利を守ることを宣誓する。これが「権利の章典」である。以後今日のイギリスに至るまでイギリス王室は「君臨すれども統治せず」という立憲君主制が確立していく。政治の主導権は議会が責任を持つという「責任内閣制」が誕生したのである。当時のイングランドがカトリック拒否だったのはフランスとのライバル関係だったことにあり、絶対王政の絶頂にあったルイ14世とは対立が激化していた。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は地
*** *** 陰、弱、小
*** ***
******** 下卦は天
******** 陽、剛、大
********
「地天泰」の卦。天地を反対にしたのが地天である。一見逆のようだが、これが安泰、安定の意味で理想的な和合の象である。上に在る者が下を気遣い下に在る者が上を目指して元気があるように上下間に意志の疎通がある。親と子、先生と生徒、経営者と従業員、政治家と国民、全て和合が大切である。共和制はその理想政治だが、なかなか理想通りにはいかない。しかし、これを目指して進歩していかねばならない。
16世紀に入ったころのイングランドはスペインやフランスに比べると未だ先進国とは言えなかったが、17世紀末には絶対王政から議会が政治の中心になるほどの進化を遂げている。フランス、スペインは絶対王政の全盛期、ドイツやロシアは絶対王政を目指して王たちがしのぎを削って悪戦苦闘、アメリカは未だイングランド、フランス、オランダの植民地だった。日本では徳川時代の初期、3代将軍・徳川家光とクロムウェルとがほぼ同世代である。
チャールズ1世から政権を奪い取ったピューリタン革命の中心はオリバー・クロムウェルだが、彼の爺さんの爺さん、4代前がトマス・クロムウェルである。このトマス・Cがあのカリスマ王・ヘンリー8世の側近でイングランド国教会の理論的支柱として王を支えていた。そのトマス・Cが王の4番目の王妃を連れてきたのだが、王は気に入らず即刻離婚した揚句、トマス・Cを処刑してしまう。何という暴君だろう。そのトマス・Cの孫の孫が王室を裁いたのだ。それでも王室にとっては墓を暴きたくなる程の恨みがあったのだろう。歴史はかくも容赦のないものである。
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