さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名画に学ぶ世界史

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「真珠の耳飾りの少女」1665年作

レンブラントとともに17世紀のオランダ・バロック美術の巨匠と言われるのがフェルメール(1632〜1675)である。年齢差は26才、一世代後といったところだが、繁栄を謳歌していた時代から衰退に向かった時代に生きたのがフェルメールである。

スペインを出し抜いて一躍経済発展を遂げたオランダであるが、協力関係にあったイギリスが次第にその地位を脅かし始める。オランダ経由の貿易より直接取引の貿易を望んだイギリスは1652年第1次、1665年第2次、1672年第3次の英蘭戦争を起こした。東インド会社も西インド会社もイギリス優位のものとなり、北米のニュー・アムステルダムはニューヨークと改称された。経済大国はオランダからイギリスにその地位を譲ることになる。

フェルメールはオランダの古都・デルフトで酒屋と宿屋を営む親のもとに生まれている。(デルフトは東インド会社を通して日本から輸入された伊万里焼の影響でデルフト焼として知られる陶器が発達した都市でもある。) フェルメールが画家となるために誰の弟子になり、どんな修行を積んだかはよく解っていない。 21歳でカトリックの女性カタリーナと結婚しているが、彼がプロテスタントのため裕福な義母には反対された。結婚の翌年、デフルトで起った大規模な弾薬庫の爆発事故にでもあったのだろうか、子供が生まれ一家を養うには大変だったのか、しばらくして妻の母マリアと暮らし始めている。


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「聖ルカ組合の理事たち」1675年作

父の死後は家業を継いで居酒屋、宿屋を営みながら年間2、3作の画を描いていった。幸い裕福な義母のお蔭で滅多に手に入らない高価な原料も使うことができ、ビーテル・デ・ホーホという良き友人でありライバルにも恵まれた。地味ではあるが洗練された画風は画家の組合である聖ルカ組合でも高い評価を受けるようになる。何度も組合の理事に推薦されており、人柄としても愛されていた。

「窓辺で手紙を読む女」

25歳のとき生涯最大にして唯一人のパトロンともなるデルフトの醸造業者で投資家のファン・ライフェンに認められ生活の支援を受ける。フェルメールの作品は生涯に40作と言われるほど寡作だったが、その内の20点もファン・ライフェンが購入している。フェルメールが描く画は「〜〜する女」というようなありふれた日常のひとこまが多い。教会の宗教画や上流階級の肖像画だけではなく、絵画がオランダの市民の間に文化として広まっていたことを伺わせる。


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「牛乳を注ぐ女」1658年作

フェルメール夫妻には15人の子供が授かり、11人が元気に育っている。さぞやにぎやかな家庭風景だったことだろう。ところが40歳を迎えた頃、イギリスとの間に第3次英蘭戦争が始まる。一気に不景気風が吹き渡り作品は一点も売れなくなった。義母も裕福ではなくなり、頼りのパトロンであるファン・ライフェンも亡くなった。画家たちは次々廃業を余儀なくされ、その数は4分の1にもなる。フェルメールは莫大な負債を抱え、必死に駆け回ったが、とうとう首が回らなくなり43歳で死亡した。その後、破産宣告を受けた妻と義母は子供たちの為、全ての資産を投げ出して立ち直るべく懸命に努力したが疲れ果て相次いで死亡した。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は山
***  *** 動かない、君臨する
***  ***
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、影、柔
***  ***

「山地剥」の卦。剥は剥製の剥。剥ぎ落ちる。高くそびえる山もいつの間にか浸食が進み山崩れが起きようとしている象である。天下に君臨する存在もしのびよる危機により、いつの間にかその地位を奪われてしまうようなものである。いつまでも盛運は続かないということだ。フェルメールの家族にとっては気の毒ではあるが、オランダという国家が衰退に向かってしまった。犠牲になるのはいつも庶民である。

一時は世界の頂点に立ったオランダであるが、頂点を目指す国は次々とその地位を狙っていた。これからイギリスそしてフランスがしのぎを削る時代となっていく。元々オランダは領土も広くなく、人口も少ない。軍隊もそれほど強力ではない。一時でも世界の頂点に立ったことだけでも天晴なことである。日露戦争に勝って世界に躍り出た日本とどこか共通してはいないだろうか。お互いにナンバー1よりオンリー1を目指せば良いのではないか。

フェルメールは死後、作品が寡作だったこと、個人の所有であったことからほとんど忘れられた画家になっていた。脚光を浴びたのは19世紀のフランスにおいてであった。民衆の日常生活をモチーフにしたクールベやミレーが登場するとフェルメールの評価は高まる。また、フェルメールの作品は贋作事件でも有名である。中でもナチス・ドイツを相手に莫大な金額が動いたメーヘレンによる贋作事件は大スキャンダルとなった。被告人のメーヘレンが法廷内で衆人環視の中で贋作を描いて見せたという美術史上、稀なる事件も起きている。





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レンブラント(63歳自画像)1606〜1669
 
19世紀フランスの画家ドラクロワは「レンブラントはラファエロよりも有名になるだろう。」と言ったという。17世紀のオランダで活躍したレンブラントとはどんな芸術家だったのだろうか。又当時のオランダはどんな世界だったのだろうか。

16世紀はスペインの躍進が際立っていたが、17世紀になるとそのスペイン支配から独立を果たし、繁栄したのがオランダだった。独立原因の第一はカトリック絶対のスペインに対し、オランダはカルヴァン派(プロテスタント)が勢力の中心だったからだ。独立を後押ししたのはイギリスでイギリスの毛織物はオランダを重要な販路としていた。1588年のアルマダの海戦でスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れると、次第に繁栄の中心はオランダに移っていった。

アムステルダムを中心に商業が発達し、世界最初の株式会社・東インド会社を先頭に貿易の相手はアジア各国に及ぶ。1600年には日本にも貿易を求めてやってきた。アメリカへの進出は西インド会社が活躍し、ハドソン川河口にニューアムステルダム(後のニューヨーク)という港を築いた。大航海時代に先鞭をつけたポルトガル、スペインをしのぐ、経済大国になろうとしていた。

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ライデン

レンブラントはオランダの静かな都市ライデンにて、製粉業を営む中流家庭に生まれた。4人の兄たちは家業に就いたが、レンブラントはライデン大学の法科に進む。しかし法律には興味を持てず、イタリア留学経験をもつ画家スヴァーネンブルグの弟子となる。その後父親の勧めで当時オランダ最高の画家ピーテル・ラストマンに師事するためアムステルダムに向かった。その工房で同じくライデン出身で1歳年下の神童・ヤン・リーフェンと知り合いライバルとして腕を磨いた。それまで画家はイタリアで修行を積むのが常識だったが、二人ともイタリアにはいかず一時ライデンにて一緒に工房をもった。その後、レンブラントはアムステルダムで、リーフェンはイギリスに渡り活躍した。

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「テュルプ博士の解剖学講座」1632年作

アムステルダムで一躍名声を挙げた作品は外科医組合から依頼を受けて描いた上の画である。これまでの集団肖像画とは異なり、各人物の威厳より主題、ポーズ、構図を重視した。これが高い評価を得、出世作となる。ここで注目したいのはその注文主である。それまでの一流画家たちは教会か宮廷をスポンサーにしている。この時代のオランダの市民階級が絵画を注文する程、経済的にも豊かであったことを意味している。


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「妻・サスケア」1635年作

1633年、レンブラント27歳の時、工房の主であり画商でもあったアイレンブルグの従弟である22歳のサスキアと知り合い翌年結婚する。サスケアの父は市長を務めたこともあり、その一族は有力であり裕福だった。新妻は多額の持参金と富裕層への人脈をレンブラントにもたらしてくれ、国の提督オラニエ公からも注文がきた。富と名声を得たレンブラントは壮大な工房を構え多くの弟子を抱えるようになる。大芸術家に相応しく豪邸を購入し、美術品、刀剣などの工芸品、民族衣装、装飾品など手当り次第に収集した。

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「夜警」1642作

1642年、36歳のとき完成させたのが、火縄銃組合からの注文の「夜警」である。観ても解るが劇的にしようとの芸術家の意図が発注者の理解を得られずクレームがついた。その頃からレンブラントの人生は暗雲が垂れ込める。妻サスキアの生んだ子が3人とも短命で亡くなり、1642年にはサスケアが体調を崩し寝込んでしまう。4人目の子である息子ティトゥスが生後8か月のとき、結核のため29歳の若さで亡くなってしまった。遺書には遺産はレンブラントと息子ティトゥスが相続するが再婚したときは無効にするとあった。

幼い息子ティトゥスを抱えたレンブラントの人生は暗転する。旺盛な制作活動は変わらなかったが、画家として完璧主義を貫くレンブラントのやり方はお客を怒らせることもあった。必要と思えば骨董、古着、外国の絵画、版画、デッサン、何でも高値で買い入れたので財産は次第に減っていく。プロテスタント教徒の多いオランダでは「無駄使い」「放蕩」とされ、サスケアの遺産を使い果たしていると親族は非難した。乳母として雇った未亡人からは結婚を迫られ、若い家政婦ヘンドリッキエを雇い愛人関係になると、さらに泥沼に陥った。
 
未亡人は裁判沙汰となった末、精神病院に入りその後に亡くなる。ヘンドリッキエはレンブラントを支え続けたが、金銭に事欠くようになり、美術品コレクションを次々売却する。1652年、英蘭戦争が勃発し経済が不況になると債権者は強硬になり裁判にかけて財産処分を求める。財産は次々と競売にかけられ、邸宅を追われ貧民街に移り住むことになる。57歳の時、ヘンドリッキエは38歳で亡くなる。62歳の時、結婚して半年の息子ティトゥスが急死した。その翌年ティトゥスの忘れ形見ティティアを得るが、ヘンドリッキエとの娘コルネリアを残して世を去った。行年63歳。


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「ユダヤの花嫁」1667年作

ゴッホがレンブラントの晩年の作「ユダヤの花嫁」を見て、「この画の前に2週間座っていられるなら、自分の人生の10年間を喜んでくれてやる。」と言ったという。レンブラントは死ぬまで創作意欲を失うことはなかった。注文がないときは自画像を描いた。自画像の作品が多いのはそのためである。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、才能、太陽
********
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、柔、大地
***  ***

「火地晋」の卦。晋とは進むこと。地上に太陽が登っていく象である。「旭日昇天」、時を得て運にも恵まれ、働けば働くほど周囲にも認められる。自信を持って行くなら何事にも順調である。ところが、この順風満帆は永くは続かない。そしてその次に待っているのが、「火」と「地」を反対にした「地火明夷」の卦である。明夷(めいい)は明が夷(やぶ)れる。明なるものが傷つき害される。太陽が地に沈む象。暗黒の世界に覆われるのである。このように易には順番が説かれている。つまりは良いときの後には悪い時が来るのである。


富、権力、名声は時代とともに移り変わる。運よく富や名声を得たとしてもそれはいつまでも留まってくれるものではない。レンブラントが華やかに持て囃された時期は短かった。しかしレンブラントは芸術に生きた。どんなに逆境に陥ろうとも芸術家としてのプライドを失なうことはなく、ますます高みを目指して精進した。レンブラントの晩年の自画像を観るとき、風雪に耐えたその目が語りかけるものは深い人生の真理である。


オランダと日本の関係はこの時代に始まっている。日本に始めてオランダ人が来たのは1600年の春、関ヶ原の戦いの半年前のこと。五大老主座だった徳川家康が漂着したオランダ商船・リーフデ号の航海士ヤン・ヨーステンを取り調べたことに始まる。家康に信任されたヨーステンが住むことになったのが江戸城下で、その名に因んで地名となったのが八重洲である。以来、鎖国中もオランダだけが交易を許された唯一の国であり、幕末には蘭学は西洋に関心を持つエリートたちが熱心に学んだ。幕臣の勝海舟や緒方洪庵の書生だった福沢諭吉たちである。明治維新は彼らが切り開いたのである。


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ベラスケス(自画像)1599〜1660
 
印象派の代表であるマネが「画家の中の画家」と惚れ込んだベラスケスは17世紀のスペイン・バロック絵画の黄金時代を築いた。宮廷画家として生涯を過ごし、晩年には王宮の鍵をすべて預かる王宮配室長という重職にもなった。衰退期にあったスペインの王族を始め、内外の要人たちと真近で接した芸術家ベラスケスが見たものはどんな世界だったのだろうか。
 
その前に17世紀に至るスペインについて押えて置こう。コロンブスによる新大陸発見以来、16世紀のスペインは命知らずのコンキスタドール(征服者)たちによるアメリカ大陸への進出は目覚ましいものだった。1556年に引退した神聖ローマ帝国皇帝であるハプスブルグ家のカール5世からスペインを引き継いだのは息子のフェリペ2世だった。当時のスペインは西ヨーロッパの大部分を持ち、新大陸・アメリカに進出していた。1571年にはレバントの海戦で宿敵オスマン・トルコを破り、1580年には大航海時代のライバル・ポルトガルを併合する。スペインの勢力は全地球に広がり「日没なき国」とも称される超大国になる。
 
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フェリペ2世(1527〜1598)
 
スペインの快進撃に待ったをかけたのは、ここでも宗教戦争、カルヴァン勢力である。北部ネーデルランドはオランダ共和国としてスペインからの独立戦争を興す。オランダを支援したのがイギリスであり、イギリスは海賊行為でアメリカ大陸からのスペイン・銀輸送船を強奪していた。業を煮やしたフェリペ2世はスペインの無敵艦隊を派遣、イギリス本土上陸を目指した。イギリスは海軍と海賊船を総動員してプリスマ沖で迎え撃つ。1588年、雌雄を決するアマルダの海戦だったが激戦の末、スペインは壊滅した。これによりスペインの凋落が始まり、替わってイギリスが台頭することになる。
 
失意を抱いたフェリペ2世の死後の翌年、1599年にベラスケスはスペイン南部のセビリアに生まれている。画家としての才能は天性のものだったと見え、11歳で有力画家パチューコの弟子となり、19才の時パチューコの娘ファナと結婚する。24歳のとき、スペインの首席大臣・オリバース伯爵の紹介で国王フェリペ4世の肖像画を描いた。18歳のフェリペ4世はすっかりベラスケスを気に入り宮廷画家として向かい入れ、その後も度々ベラスケスのアトリエを訪ねる程厚遇した。
 
 
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「バッカスの勝利」1628年作
 
ベラスケスの画は近くでは筆の運びが荒々しいタッチにしか見えないが、離れて見ると衣服のひだに見えるというように近代の印象派に通じる卓越した技術を持っていた。フランドルから来たルーベンスは大いに絶賛、意気投合し一緒にイタリア旅行を約束した。ルーベンスの多忙のため実現しなかったが、ベラスケスは30歳から2年間、49歳から3年間もイタリアに滞在し、傑作を制作している。中でも注目に値するのが、その内面を映し出すほどの肖像画である。
 
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フェリペ4世
 
フェリペ4世の肖像画であるが、その精気もなく自信もない国王の目は国の行く末を暗示している。国王の性格は到って善良でありスポーツや芸術を愛した。国民には人気者だったが、政治的には先進国だったスペインがオランダ、イギリス、フランスに後れを取り、領土を減らし、国力を衰退させた。
 
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「教皇インノケンティウス10世」1650年作
 
2度目のイタリア滞在中の作品であるが、カトリックの最高位にある聖職者にしては目の鋭さ、人を計りにかけているような狡猾で陰険、俗人そのものにしか見えない。(実際にこの教皇を調べてみると、権謀術数の末権力の坐についたことが解る。)
 
 
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「ラス・メニーナス」1656年作
 
フェリペ4世の長女マルガリータを中心に王家の家族を描いたものである。マルガリータの母マリアナはフェリペ4世の妹マリア・アナである。従って実の叔父と姪の間の子ということになる。このようにスペイン・ハプスブルグ家とオーストリア・ハプスブルグ家は近親結婚を繰り返していた。このマルガリータも叔父にあたるオーストリアのレオポルト1世に15歳で嫁ぎ、第6子を出産後21歳の若さで亡くなっている。その後スペインの王位をめぐりオーストリアとフランスの間でスペイン継承戦争が勃発する。
 
〜〜さわやか易の見方〜〜
 
******** 上卦は山
***  *** 動かないもの
***  ***
******** 下卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
 
「山火賁」の卦。賁(ひ)は飾る、装飾である。下の火卦は太陽の意味もある。夕映えが山を美しくいろどっている象でもある。それはやがて沈んでいくことでもある。文明の爛熟が進むと、次に好まれるのは退廃美であり、その生命力は失われていく。
 
コンキスタドール(征服者)の勇猛果敢から100年が経過したスペインである。いつの時代もどこの国でも繁栄の後はその勢いを失うものだろう。高度成長を成し遂げ、さらにバブルと言われた繁栄を謳歌した後の日本の現状は正に「山火賁」である。
 
王家に生まれることは幸福なことだろうか。21歳で亡くなったマルダリータのウィーンでの生活はたった6年間だった。結婚する時は大歓迎で迎えられ、レオポルト1世とは趣味の音楽を共有し、幸福なスタートを切った。しかし王室で求められるのは世継ぎを作ることだった。幼い頃から甲状腺腫に苦しみ華奢な身体のマルガリータにとって次々と子を産むことは大変だった。しかも生んだ子が次々夭折すると、ウィーン宮廷には反スペイン感情も広がる。マルガリータの弱った身体をさらに鞭打つことになったのは、次の嫁取りが話題になったことである。

ルーベンスは名外交官

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ルーベンス自画像(1577〜1640)
 
16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパはカトリックとプロテスタントがしのぎを削る宗教戦争が激しく行われていた。プロテスタント色の強いドイツの西にあるネーデルランド地方はカトリック色のスペインの支配下にあり、混乱していた。北部ネーデルランドはプロテスタント勢力が強く、独立戦争の末、1581年にオランダ共和国として独立を果たす。一方、スペイン支配の強い南部フランドル(ベルギー周辺)はカトリック教会がその地位を譲ることはなく長い争いが続いていた。
 
そんな時代、商業貿易で繁栄していたフランドルのアルトウェルペンを中心にバロック絵画の黄金時代を築いたといわれるのがルーベンスである。ローマのカラヴァッジョの明暗法を吸収し、バロック美術を開花させ教会画や宮廷画家としても成功し大規模な工房で活躍した。カラヴァッジョとは違い、洗練された知識人であり、7か国語を話す外交官としても活躍した。 そんな大芸術家の生涯を辿ってみよう。
 
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最初の妻イザベラとルーベンス(1609)
 
ルーベンスを語るには父ヤン・ルーベンスの秘話を語る必要がある。ヤンはオランダ総督オラニエ公ウィレム1世の妃アンナの法律顧問であった。ところがそのアンナと愛人関係になり庶子が生まれた。アンナは離婚されその後精神を病んで死ぬ。ヤンは投獄されたが後に釈放され国外追放となる。加えてヤンは熱心なプロテスタントのカルヴァン主義者だったためネーデルランド総督のプロテスタント迫害にも遭っていた。結婚していたヤンは妻とドイツのケルンに逃れた。ルーベンスはヤンの次男としてドイツのジーゲンで生まれ、ケルンで育った。ルーベンスが10歳の時、父が死亡し一家は母マリアの故郷アントウェルベンに戻った。
 
アントウェルベンで教育を受けたルーベンスはラテン語を始め、他の学業も画の才能も抜きん出ていたと思われる。ところが生活に困窮していた母マリアは13歳の息子を知り合いの貴族に小姓として出す。しかし芸術的素養を見込まれたルーベンスは幸運にも一流の画家に弟子入りすることができた。ルーベンスの芸術家としての修行はラファエロを始めルネサンス期の先人たちの模倣、模写だった。21歳までひたすら修行を続け、一人前の芸術家として芸術家ギルドの聖ルカ組合の一員として認められるまでになった。
 
ルーベンスにとって最も幸運に恵まれたのは23歳になった時、推薦状を携えてイタリア留学の機会を得たことである。ヴェネツィアではティツィアーノ、ヴェロネーズ、ティントレットの画を観賞できた。運よくマントヴァ公ヴィンチェンツォ1世に気に入られ宮廷画家として採用された。しかもマントヴァ公からモンタルト枢機卿への紹介状を手に芸術の都・ローマを訪れることができた。ルネサンスの巨匠たちの作品を始め、古代ギリシャ、古代ローマの芸術にたっぷりと浸る毎日を送る。また当時最先端を行く新進画家カラヴァッジョにも魅了され、マントヴァ公に薦めて彼の画をいくつも購入した。
 
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 「ヴァリチェッラの聖母」1608年作
 
ルーベンスのマントヴァ公からの信頼は絶大だったと見え、26歳のときには外交官としてスペイン王フェリペ3世を訪問している。その宮殿では先代王フェリペ2世が収集したラファエロとティツィアーノの膨大な作品を堪能できた。その後もローマでの滞在は多く、肖像画や祭壇画を描くと同時にあらゆる芸術に触れてその才能に磨きをかける。上の画はローマに新設されたある教会に主祭壇画制作という重要な依頼を受けて制作したものである。この画がルーベンスをして画家としての地位を不動のものにした作品となった。31歳のとき、母の病のためイタリアを離れるが、第2の故郷イタリアに心を残しつつもその後イタリア帰還が叶うことはなかった。
 
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「キリスト昇架」1610作
 
母の死には間に合わなかったが、アントウェルベンに戻ったルーベンスには次々と仕事が舞い込んだ。ちょうどスペインとフランドルとの戦争が停戦協定が結ばれた時期でもあり、ローマで名を成したルーベンスはネーデルランド君主と王女イサベルから宮廷画家として迎えられ、制作依頼に大活躍することになる。有力者の娘イザベラとも結婚し、アルトウェルベンに自身がデザインした新居はイタリア風建築様式、弟子たちとの大工房も併設され、最高級の美術館兼図書館でもあった。(現在は博物館になっている) 上の「キリスト昇架」は聖母マリア大聖堂の祭壇画であり、バロック期宗教画の最高峰と評価されている。
 
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 「マリー・ド・メディシスの生涯」の一点(1622作)
 
44歳の頃、フランス王ルイ13世の母である太后マリー・ド・メディシスから宮殿の装飾用に自身の生涯を24点の連作画として描いて欲しいと依頼される。7年後1630年、連作は未完であったが、何とマリーはルイ13世に国を乱すとして国外追放され、ルーベンスを頼ってきた。相手は国王の母である。ルーベンスは幼少期を過ごしたドイツのケルンにあった邸宅を改造し住まわせることにした。マリーはルーベンスの死後、1642年67歳で死去した。 (*「フランス文化とメディチ家」参照)
 
1621年にスペインとの休戦期間が終わると、君主たちはルーベンスを外交官として重用、スペイン、フランス、イングランドの王宮を何度も往復する。平和をもたらすためルーベンスは尽力、その功績を認められスペイン王フェリペ4世からもイングランド゙王チャールズ1世からもナイト爵を授かっている。スペイン滞在中、宮廷画家ベラスケスと意気投合し、一緒にイタリア旅行を約束したが、多忙のため実現しなかった。絵画制作の注文の量は半端ではなく、ルーベンスは「黄金の工房」と呼ばれる組織的大規模な工房で大勢の弟子に役割を任せた。そこからフランス・スナイデルス、ヴァン・ダイク、ヤーコブ・ヨルダーンスなど錚々たる優れた画家たちが世に出た。
 
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「毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」1638年作
 
家庭生活ではゆっくり寛ぐ暇はなかっただろうと想像される。49歳の時、最初の妻イザベラが死去し、53歳の時、自分の長男より若い16歳のエレーヌ・フールマンと再婚した。58歳の時、「ルーベンスの城」と呼ばれる邸宅を郊外に建て、晩年は妻をモデルにした画や風景画を描きながら過ごした。63歳で心不全のため死去。残した子女はイザベラの子が3人、エレーヌの子が5人だった。
 
〜〜さわやか易の見方〜〜
 
******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
******** 下卦は天
******** 陽、剛、盛
******** 
 
「火天大有」の卦。大有(たいゆう)とは陽なるものを大いに有すること。豊、盛、裕福、盛運を保ち続けるであるからこんなに景気の良い卦はない。何をやっても順風満帆なので積極的に行動するがよい。ただし心構えだけは謙虚を忘れてはならない。世の中には日の当たる人ばかりではないことを忘れると飛んだ落とし穴が待っている。
 
ルーベンスは前回登場したカラヴァッジョとは6歳下とほぼ同時代であるが、その生涯は何という違いだろうか。マイペースで社会性のないカラヴァッジョに比べルーベンスは芸術家としての才能も偉大であるが、その社会性に於いても堂々たるものである。7か国語を話すだけでも驚くしかない。この様に幾つもの能力に恵まれ、しかも運勢にも恵まれている。恵まれた運勢を素直に受け入れ、素直にチャンスを自分のものにしていく。勿論本人の努力も大きいだろうが、持って生まれたDNAがそうさせるのか、人生に無駄がないところが立派というしかない。
 
中国の古典に「中庸」がある。その中に「富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行う。」という一節がある。高い地位や裕福な富に恵まれれば、それにふさわしく堂々と天下のために力を尽くす。また失職したりして貧賤になるようなことがあっても、決してひがむことなく、それらしく行動するということである。ルーベンスならば、もし貧賤の身分になったとしても悪びれず淡々と生きたのではないだろうか。それが出来る人こそ人物というものである。
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カラヴァッジョ(1571〜1610)
 
1564年、1人の偉大な芸術家がこの世を去った。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並ぶ盛期ルネサンスの巨匠ミケランジェロ・ブオナローティである。ところが、ミケランジェロの死から7年後にもう一人のミケランジェロが誕生している。ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョである。ルネサンスの偉大な芸術は3大巨匠により既に完成されたものになっていた。その完成された様式(マニエリスム)に、明暗法という斬新な技法を展開して「バロック時代」を切り開いた。

そんな天才画家・カラヴァッジョではあるが、その生き様は破天荒である。2週間を絵画制作に没頭すると、その後2カ月は札付きの暴れん坊と化す。仲間を引き連れて街を練り歩き、居酒屋で喧嘩に明け暮れる毎日。乱闘騒ぎはいつものこと、喧嘩相手を殺してしまい、お尋ね者になったり、乱闘相手に待ち伏せされ、重傷を負ったこともある。39歳の若さで世を去ったカラヴァッジョは一体どんな人物だったのだろうか。
 
 
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「果物籠を持つ少年」1593〜1594年作
 
カラヴァッジョは1571年にミラノで3人兄弟の長男として生まれている。父は貴族の管理人、母も地主の娘だから貧しい家庭とは思われない。父を5歳で亡くし、母を13歳で亡くした。その歳からミラノの画家・ペテルツァーノのもとに徒弟として画家修業に入る。ミラノにはレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」があるので、その影響を受けたろうと想像できる。しかし少年時代から、度々暴れては警察の世話になった。21歳の時に喧嘩で役人を負傷させ、ミラノに居られなくなり、行く宛もなくローマに向かった。「果物籠を持つ少年」はローマの画家・チェーザリの助手をしていたときの作品である。
 
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「トランプ詐欺師」1594年作
 
 まもなくチェーザリの工房もクビになり、1人で生きるしかない。裏社会に通じる画家仲間も出来、悪いことも覚えたが才能だけはますます進化した。「トランプ詐欺師」はローマの優れた美術鑑定家に認められた最初の作品といわれるが、それまでの作品はタダ同然でしか売れなかった。
 
 
「ホロフェルネスの首を斬るユディト」1598〜1599年作
 
カラヴァッジョの作風は他人の評価を一斎気に留めないのが特徴だ。題材もありふれたものではなく、特別な状況を瞬間的に捉えたものや、目をそむけたくなるようなテーマが多い。劇的なもの、暴力的なもの、斬首、拷問、娼婦等、平穏な生活の裏側に潜む、本音や真実を大胆に暴き出した。反対するものもあったが、カラヴァッジョは注目を集め、作品は売れ始める。宗教画も描いたが「キリストの捕縛」など平穏なテーマは皆無。その斬新な画法は当時の美術界に革命を起こした。
 
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「聖マタイの召令」1600年作
 
「聖マタイの召令」では一筋の光が差し込むことにより、テーマに劇的な効果が加わる。この明暗技法こそ後に「バロック時代」と言われる新時代が始まるきっかけとなった作品である。今にも動き出しそうな迫力、真に迫る衝撃、その並外れた才能は他の追従を許さぬものだった。
 
外国にも名が轟き、時代の寵児にもなったが、カラヴァッジョの素行は改まることはなかった。有力なパトロンに恵まれていたので度々起こす不祥事ももみ消してもらっていたが、ローマの酒場で飲んで暴れ、乱闘の果てについに人を殺してしまう。パトロンたちも最早庇うことは出来ず、指名手配された。カラヴァッジョは逃げ出し、ローマの司法権が及ばないナポリの有力貴族・コロンナ家を頼る。
 
謝礼に画を描いたので歓迎されていたが、ここでも問題を起こし出て行くことに。その後、軍隊機能を有するマルタ騎士団に入隊するが、ここでも喧嘩をし隊員にケガを負わせ逮捕投獄され除名追放されている。マルタを後にしたカラヴァッジョは無名時代の友マリオ・ミンニーティ(トランプ詐欺師のモデル)を頼りシチリアへ逃れた。二人でシチリア各地を旅をするが、カラヴァッジョの名声は轟いていたので、描いた画は高額で売れ、逃避行もまるで大名旅行だった。ただ旅先での品行は相変わらずで喧嘩乱闘は毎度のことだった。
 
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「ゴリアテの首を持つダヴィデ」1609〜1610年作
 
カラヴァッジョの恩赦に奔走してくれたパトロンたちのお陰で4年ぶりにローマに帰ることが決まった。「ゴリアテの首を持つダヴィデ」は恩赦権を持つローマ教皇の甥である枢機卿・ボリゲーゼへの贈答用に描いたものである。(ゴリアテは自身の自画像である) ナポリで迷惑をかけたマルタ騎士団には「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」を贈っている。しかしナポリからローマに向かう旅の途中、カラヴァッジョは熱病にかかり死亡した。
 
〜〜さわやか易の見方〜〜
 
***  *** 上卦は沢
******** 喜ぶ、親睦、少女
********
******** 下卦は火
***  *** 文化、才能、中女
********
 
「沢火革」の卦。革は革命、革新、変革、古いものを革めることである。上にある沢と下にある火がぶつかり合っている象と見る。面白い見方は上の卦は少女を表し、下の卦は中女を表すことから仲が悪い少女と中女が対立し喧嘩をしていると考える。仲が悪いというのは、良い悪いではなく、生理的に気に要らないのであり、とにかく面白くないのである。才能はそんなライバル関係にあるときに、開花することもある。
 
カラヴァッジョが何故に暴れてしまうのかは解っていない。少年時代から度々警察のやっかいになったというから、父親からの虐待でもあったのだろうか。自分の類い稀なる才能を自覚していたので、自分より才能もない者たちが社会の上層にいることが無性に気に要らなかったのだろうか。並外れた才能と社会への反抗とに何か関係があるのだろうか。心理学ではどう解説するのだろうか興味を持ってしまう。いずれにしても、革命的なことを成し遂げる人物には理屈では分からない巨大なエネルギーが潜んでいるのだろう。
 
近現代絵画はカラヴァッジョから始まったともいわれ、その影響はヨーロッパ各国に及んでいる。フランドルのルーベンス、スペインのベラスケス、オランダのレンブラントやフェルメールなど全てカラヴァッジョの影響を受けている。ヨーロッパ各地にカラヴァッジョ主義(カラヴァッジェスキ)が生まれたという。その後、文化の中心はローマからフランスに移ることになるのだが、ルネサンス文化の上にさらにバロック文化を生み出したローマは流石に文化発祥の地といえるのではないだろうか。

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