さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名画に学ぶ世界史

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アレクサンドル2世(1818〜1881)

新生日本の明治政府にとって何より脅威であったのは南下政策をとるロシアであった。1853年のクリミア戦争に敗北したロシアは皇帝アレクサンドル2世が捲土重来を期して1875年の露土戦争でオスマン帝国に勝利した。サン・ステファノ条約を結び保護国・ブルガリアの領土を拡大させ、地中海を経由するルートを確保した。ロシアにとって念願だった不凍港を獲得出来たのだ。

ところが早速イギリス、オーストリアが反対の声を上げる。紛争を仲介するためドイツの宰相ビスマルクがベルリン会議を引き受ける。結局、ブルガリアの領土を縮小し、ロシアの不凍港は夢と消える。またしても煮え湯を飲まされたロシアは本腰を入れてアジアの極東地域に不凍港を築くことになった。


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大院君(1820〜1898)

いよいよ差し迫る脅威に明治政府は朝鮮国と手を結び対策を取ろうとした。当時、李氏朝鮮では君主は高宗だったが、高宗は政治に関心がなく女遊びに興じる毎日を送っていた。政治の実権は父である大院君が握っていた。

ところがこの大院君が根っからの西洋嫌いで鎖国を続け、日本からの度々の呼びかけにも耳を貸さなかった。フランス船やアメリカ船が国交を求め、江華島事件という衝突もあったが断固拒絶した。西洋と国交を開いた日本を馬鹿にし、宗主国である清国との冊封、朝貢体制を頑なに堅持するばかりだった。

閔妃(1851〜1895)

この大院君と20年に渡り政争を繰り広げるのが高宗の妃である閔(びん)妃とその閔一族である。世継ぎが生まれ勢力を獲得した閔一族は大院君を追放し、その配下を殺害する。閔妃は開国路線をとり、日本とも「日朝修好条規」を締結、日本から顧問を呼んで軍隊の近代化を図った。

すると大院君時代の旧軍隊が反乱を起こし、1882年閔一族や日本人が殺害され日本大使館は焼き討ちにされるという壬午(じんご)事変が起った。危険が迫った閔妃は駐屯していた清国の袁世凱の陣に逃げ込む。大院君は袁世凱により連行され天津に幽閉される。この事変により閔妃は日本を裏切り袁世凱を頼るようになる。


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金玉均(1851〜1895)


朝鮮にも日本の幕末に於ける吉田松陰や高杉晋作のような志士がいた。
その一人が金玉均である。金は早くから日本の明治維新に習って近代化を進め、日、清、朝の3国が同盟して列強に備えねばならないと考えていた。福沢諭吉の支援も得て改革の準備を進めていた。

1884年、ベトナムを巡って清仏戦争が始まると時機到来と判断、日本公使・竹添進一郎の協力を得て、クーデターを決行した。(甲申政変) ところが閔妃の通報で駆け付けた袁世凱の1500人の軍により失敗に終わる。金は一旦日本に亡命したが、その後上海で閔妃の刺客により暗殺された。一族3親等まで処刑され、金は凌遅刑(遺体を切り刻み晒しものにする)にされた。


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当時の風刺画
(朝鮮という魚を釣ろうと日本と清国が競っているのをロシアが狙っている。)

その頃ロシアは着々とシベリア鉄道を敷き、極東の不凍港を目指していた。一方、政争の連続で朝鮮は乱れに乱れ、国民は重税にあえぎ、窮乏の極みに達していた。苦しむ農民を救おうと崔済愚という宗教家が東学という教団を作った。集まる農民は次第に増えて、1894年、ついに反乱が起る。(東学党の乱または甲午農民の乱という)

閔妃は清国に援軍を要請する。日本は公使館警護を名目に軍隊を派兵する。反乱収束後も両軍は撤兵せず、イギリスが仲介するも混乱が続く。復帰していた大院君がクーデターを起こし閔氏政権を追放、日本軍に清軍掃討を依頼したと思うと今度は東学党を集結し日本追放を図る。ロシアの南下を阻止したい日本と冊封を維持したい清国はついに朝鮮支配を巡って「日清戦争」が勃発した。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は山
***   *** 動かない、止まる
***   ***
***   *** 下卦は水
******** 困難、悩み
***   ***

「山水蒙」の卦。蒙とは蒙昧、語源はつる草がはびこり樹を蔽い尽くし暗い状態をいう。無知蒙昧な幼児とも言える。無知なる者を啓蒙するには刑罰をもって厳しくしつけるのが良い。素直な心で良い指導者に導かれれば吉である。

朝鮮の若き志士・金玉均は日本の支援者も多くいた。彼の大志が通じなかったことは誠に残念である。福沢諭吉は彼が殺されたとき、「もう朝鮮は救いようがない。見捨てる他はない。」と言ったという。それでも日本の有志は東京・青山墓地に彼を祀ってやっている。当時の朝鮮では救世主とも言うべき人も全く理解出来なかったのか。残念としか言いようがない。

頑迷固陋という言葉がある。当時の朝鮮の政権にあった者たちである。そのお陰で民衆はどれ程の苦難を味わったことだろう。東南アジアでは唯一タイだけが植民地を免れたのだが、その王朝には賢君というべき王ラーマ4世がいた。王は西洋の思想を積極的に学び、近代化を進め列強の圧力には巧みな外交で独立を守った。危急存亡の時、血で血を洗う政争を繰り返していた朝鮮とは正反対ではないか。肝心な時に国のトップが賢か蒙かでその後の100年が決まる。

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アヘン戦争(1840〜42)

19世紀の中頃からは列強各国は世界中に支配の手を伸ばす帝国主義時代が始まっていた。中東では弱体化を見せたオスマン帝国に対し、ロシアが南下政策ためクリミア戦争(1853〜56)を仕掛けている。地中海を守りたいイギリスとフランスによりロシアの野望は挫かれた。

一方、アジアでは超大国の中国(清国)がアヘンの密貿易を拒否されたイギリスにより戦争を仕掛けられた。圧倒的軍事力の前に為すすべももなく侵略されるより致し方なかった。いづれも列強の横暴であるがそんな力による支配が罷り通る時代だった。日本にとっても列強の脅威は目の前に迫りつつあった。


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モリソン号

19世紀に入ると度々日本近海にはアメリカの捕鯨船がやって来ている。1837年には日本人漂流民7人を乗せたアメリカの商船モリソン号が浦賀沖に現れた。ところが鎖国を続ける幕府のもと、浦賀奉行は異国船打払令に従い砲撃し追い払うという「モリソン号事件」が起こっている。

江戸でも外国事情を学んでいた知識人はいた。開明派の藩主、幕臣、藩士、学者、様々な人たちが西洋を学んでいた。医師の高野長英と画家の渡辺崋山は新時代の到来と列強の脅威を警告する冊子を著した。ところが幕府の対外政策を批判したという罪により逮捕投獄されるという事件「蛮社の獄」が起った。


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マシュー・ペリー(1794〜1858)

1853年、ついに開国を迫るアメリカ大統領の書簡を携えてペリーの艦隊が来航した。幕府は翌年に再度来航したペリーと日米和親条約を結び開国する。さらに1858年、公使タウンゼント・ハリス(1804〜78)と幕府大老・井伊直弼の間で日米修好通商条約が締結された。同じ内容で、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも国交を開いた。

開国を巡っては日本中が騒然となり、幕府の弱腰を非難、「尊王攘夷」運動が各地に起る。桜田門外にて井伊大老が暗殺されると、下級武士たちを中心に倒幕、新政府樹立運動が湧きあがる。1868年、この動きの中から薩摩藩と長州藩が同盟して倒幕、明治新政府を成立させる。


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明治天皇(1852〜1912)

明治新政府は次々と大改革を断行する。1871年には廃藩置県を行い藩を失くし中央集権制度を確立する。徳川時代の士農工商を改め、華族、士族、平民とする。国民皆兵の制度による常備軍の設置。義務教育の実施。殖産興業、富国強兵のスローガンを掲げ、近代国家を目指す。

1871年、外務卿の岩倉具視は大久保利通、木戸孝允、伊藤博文などの閣僚とともに岩倉使節団を結成、欧米各国への視察を兼ねた親善外交に出発した。統一したばかりのドイツを訪れた一行は宰相・ビスマルクより「富国強兵に勉めよ。列強の植民地政策には気をつけよ。」との忠告を受ける。大久保利通は感銘を受け日本の青写真が出来たという。


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西郷隆盛(1828〜1877)

岩倉使節団の帰国を待っていたのは朝鮮への特命大使派遣問題だった。留守を守った西郷隆盛が開国を拒否する朝鮮に対し、特命大使として朝鮮に行こうとしていた。西洋を見聞してきた大久保たちは大反対を唱える。一刻も早く西洋に追い付くためには、軍備、殖産、教育、交通整備などすることは山のようにあったからだ。朝鮮行きは戦争のリスクがある。それは避けねばならないと考えた。

西郷には別の考えがあった。当面の日本の脅威はロシアの南下政策である。それを食い止めるためには、清国、朝鮮、日本の三国が同盟を結ぶ必要がある。そのために自分が朝鮮を説得するという決心だった。


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大久保利通(1830〜1878)

会議は連日続き、最後に明治天皇は大政大臣の岩倉具視に結論を託した。岩倉は反対を奏上し天皇が裁可した。西郷は板倉退助らとともに辞表を提出、西郷の配下の将校らも後を追って下野した。1877年、西郷を盟主とする士族による反乱は「西南戦争」と呼ばれ国内の最後の内戦になった。明治政府はその後「脱亜入欧」、全ての面で西洋を手本とする大久保の方針に従い内務省を設置、官僚機構の基礎を築いた。


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伊藤博文(1841〜1909)

富国強兵を目指す明治政府には難問が山積していた。その一つが開国以来押しつけられていた不平等条約である。憲法すら確立していないレベルでは国際的に認められないのが原因である。憲法制定への責任者として伊藤博文が任命される。伊藤は研究に取り掛かった結果、最も参考になるのはドイツとの結論を得てドイツに赴いた。

ドイツの宰相ビスマルクは日本の憲法にはドイツの前身であるプロイセン王国の憲法を土台にするのが良いと助言した。そこで紹介されたベルリン大学教授ルーゴフ・グナイストから学ぶことになった。1889年(明治23年)、大日本帝国憲法が明治天皇より発布された。翌1890年、第1回の帝国議会が開設されている。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
********
***   *** 下卦は沢
******** 柔順、親睦、少女
********

「天沢履」の卦。履は踏む、実践する。虎の尾を踏むというように、危険を冒しても一歩を踏み出すことである。人生には自分にとって怖い存在である大きな相手に立ち向かわねばならない時もある。そんな時は目上の者や先輩からの言葉を参考に慎重かつ大胆に進むことである。めくら滅法に猪突猛進してはいけない。

「征韓論論争」というのは間違えで、本当は「朝鮮への特使派遣問題」である。西郷は朝鮮と戦争をするとは言ったことがない。西郷は亡き君主・島津斉彬から西洋に関する薫陶を受けていた。「脱亜入欧」には疑問を持っており、植民地政策に於ける西洋には「文明国のすることではない。未開国を力で征服するのは野蛮ではないか。」と言っている。日本は東洋人として清国、朝鮮国とも同盟するべきだというのが西郷の考えだった。

明治の日本人に勇気を与えた人物の中で福沢諭吉は傑出している。26歳の時、日本人による航海で始めてアメリカに渡った「咸臨丸」にも乗船している。彼の著した「学問のススメ」は超ロングセラーとなって日本人を鼓舞した。明治政府には入らず民間にあって国民を啓蒙することを使命とし、慶応義塾を創設、幾多の人材を世に送った。

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オランダ植民地だったインドネシア・ジャワ島

古来より大国インドと中国の間にある東南アジアは両国の影響を受け進んだ文化を持っていた。ヨーロッパ人にとっては肉料理に欠かせない香辛料の産地として古くから貿易が行われている。16世紀になると勢力を拡大したオスマン帝国が壁となり、東南アジアからの香辛料は金と同じ程高値になったこともある。ヨーロッパ各国は競って香辛料貿易に乗り出した。

インドネシア諸島では16世紀はポルトガルが貿易を独占していたが、17世紀になるとオランダ、次いでイギリスが乗り出して来た。1623年、オランダ人がイギリス商館を襲い商館員全員を殺害するという「アンボイナ事件」が起った。オランダはイギリスをインドネシア諸島から排除し植民地にした。19世紀にはコーヒー、サトウキビ、藍などを強制栽培させ巨額の利益を得た。一方、現地では食料生産が減少し凶作の年には多数の使者が出たという。


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マレーシア

マレーシアもポルトガル、オランダ、イギリスが争奪戦を繰り返したが、1795年からオランダを退けたイギリスが支配することになった。シンガポール、マラッカを併せて海峡植民地とする。19世紀には領土を拡大してマレー連合州とし、フランスと対抗してミャンマーにも進出する。

マレー半島では錫(すず)高山の開発を進めた。そのため、労働力として中国人、インド人を移民させたので、マレーシアでは様々な民族が混在する複合社会が形成された。

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ベトナム阮朝宮殿

フランスはインドに進出したかったが、イギリスから締め出されたので、その東にあるインドシナ半島を狙うことにする。現在のベトナムは19世紀には阮(げん)朝という王国が成立していた。漢字文化圏であり清国を宗主国としていたが、清国はアヘン戦争以後次第に弱体化しつつあった。

ナポレオン3世時代の1858年、フランス軍はベトナムの侵略を開始し、1862年ベトナム南東部を割譲させた。さらにインドシナ半島中央のカンボジアも保護国化にする。大平天国の乱などもあり混乱した宗主国・清国は、1884年から清仏戦争で抵抗するが敗北した。フランスはベトナムとカンボジアを併せてインドシナ連邦とし植民地にする。

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イギリス・ビルマ戦争

インドシナ半島の西にあるビルマ(現ミャンマー)は19世紀にはコンバウン朝が強国として勢力を堅持していた。清国・雲南地方に侵入したり、タイのアユタヤ朝を滅ぼしたりしていた。西にあるインドにも領土を広げようと進出しようとした。ところがこれは完全にやぶ蛇だった。イギリスという虎の尾を踏むことになり、逆に侵略を受けることになった。

1824年、第1次イギリス・ビルマ戦争が始まり、1852年に第2次、1885年に第3次と断続的に攻撃された。1885年にコンバウン朝は滅ぼされ、イギリスの植民地にされてしまう。


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ラーマ5世(1853〜1910)

一方で賢明だったのはタイ・チャクリー朝のラーマ4世(1804〜1868)である。王は47歳で即位するまで27年間出家して、仏教から西洋哲学まで幅広く学んだ学者肌だった。世界情勢を見抜き、清国との朝貢を辞め冊封体制から脱した。イギリスと通商条約を結び、自由貿易を開始し米の輸出を行った。

イギリス人の家庭教師を雇い息子の教育を託した。(この話は後に「王様と私」でミュージカルにされた。) 若干15歳で即位したラーマ5世は近代化に向けて「チャクリー改革」を実行した。各地の王を廃止し中央集権国家にする。官僚制、議会制度を実施する。学校教育を開始。道路の整備、鉄道の敷設、電話業務を開始するなどインフラを近代化させた。

イギリスもフランスも植民地として食指を伸ばして来たが巧みな外交で支配下を免れた。両植民地の中間にあり、緩衝地帯となったことも幸いだった。タイは日本を別にしては、東南アジアで唯一独立を保った国になる。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は風
******** 柔順、へりくだる
***   ***
******** 下卦は天
******** 大、強、剛
********

「風天小畜」の卦。畜とはとどめる。小畜とは小なるものが大なるものをとどめることである。剛強なるものに対してソフトに応対することによって大人しく導く。クレームをつける居丈高なお客様を上手にさばくようなものだ。見た目は柔であり小であるが、剛なる相手より賢さと人間力では上位にいなければ出来ないことである。

外交力がいかに重要かはビルマ(ミャンマー)とタイのその後の歴史を見れば明らかである。剛の態度は一時的には勇ましく強そうである。それに対して柔の態度は一見弱そうに見える。しかし本当に強い者は偉そうな態度はとらない。勿論、弱いだけの柔では話にならない。外見は柔であり、内面に剛の志を秘めていることが理想である。

日本とタイの友好関係には長い歴史がある。16世紀末には朱印船による貿易も盛んだったし、度々攻撃してくるビルマ軍に対して当時のアユタヤ王は日本人傭兵を頼りにした。日本人町の頭領・山田長政はアユタヤ朝で重要ポストを与えられた。またラーマ5世は明治天皇と同世代で即位したのも同じく15歳だった。明治政府も法典編纂に法律家を派遣するなどタイの近代化には大いに貢献している。

































































































































































































































































































































































































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アフリカ分割


ヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、15世紀の大航海時代に始まるが、当初は沿岸部に限られており、中央部については長く「暗黒の大陸」と言われる程未開の地であった。19世紀に入り産業革命が進むと工業原料の供給地として、また工業製品の市場として、列強は植民地支配を開始した。

奴隷貿易を廃止し、原住民の権利は認めるようにはなったものの、人種的文明的には劣等にあるもので、植民地支配は文明の名のもとに正当化され当然なものとされた。1884年のベルリン会議で「先に征服したもの勝ち」と決められ、植民地獲得競争は一段と激しくなった。

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アブド・アルカーディル(1807〜1883)

フランスはイギリスと植民地獲得競争をし、エジプトとアルジェリアの獲得を目指す。エジプトはスエズ運河建設で一時はフランスが優位に立ったが、エジプト政府所有の株式をイギリスに買われて事実上イギリス支配になった。

アルジェリアはオスマン帝国の支配地だったが、16年に及ぶ戦争の末、1847年フランス領になった。最後まで抵抗したアルジェリアの指導者アルカーディルは逮捕、投獄されたが、1860年にナポレオン3世からレジオン・ドヌール勲章を授けられた。


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キッチナー将軍(1850〜1916)

その後フランスは1881年にチェニジアを保護国とし、モロッコを影響下に置くとサハラ砂漠を越えて東アフリカを目指す。南北縦断を目指すイギリスに対し、フランスは東西の大陸横断政策を推進した。1881年に東アフリカにジブチ植民地を建設する。同年、スーダンのファショダに於いてナイル川を南下して来たキッチナー将軍率いるイギリス軍と遭遇する。

この「ファショダ事件」はあわや両軍の激突かと思われたがキッチナー将軍とフランス軍のマルシャン将軍との会見で事なきを得た。スーダンの植民地問題についてはフランス外相デルカッセの英断により、イギリスに譲ることになる。見返りにフランスはモロッコへの優先権を獲得した。


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ベルリン会議

1871年に統一されたばかりのドイツ帝国は国内問題の解決優先だったので、植民地獲得には大きく出遅れる。1884年、ベルリン会議で早い者勝ちと決まったのでそこから猛ダッシュをかけ、カメルーン、タンザニア、西南アフリカ、トーゴランドを支配下にした。

1890年、ビスマルク引退後にヴィルヘルム2世はモロッコを支配しようと、何度もフランスに挑みかかった。この「モロッコ事件」はフランス側に付いたイギリスとの関係が深くなり、ドイツは孤立することになっていく。


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アドワの戦い

イタリアも統一されたばかりなので、植民地競争には出遅れた。残っていた紅海沿岸のエリトリア、ソマリランドをどうにか領有した。1896年にエチオピアに手を伸ばそうとして戦争を始めたが、「アドワの戦い」に敗れてしまう。エチオピアはアフリカで唯一独立を守った国になった。

その後20世紀になって、弱体化したオスマン帝国と戦争を起こし1912年にリビアを領有した。

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ベルギー王レオポルト2世

アフリカの中央にあるコンゴでは許されざる非道支配が行われていた。かねてより植民地を探していたベルギーの国王レオポルト2世は探検家スタンリーより象とゴムの木が豊富なコンゴを知る。議会で反対にあった国王は私費で購入、私有地にする。象牙とゴムの生産で巨額の財をなし、豪華な宮廷をいくつも建設し、何人もの愛人を持ち優雅に旅行する。

ゴム生産では強制労働を課し、ノルマを達成できないと右手を切り落とした。そのため働けなくなり死んだコンゴ人は数百万人にもなった。支配する公安軍は完全歩合制で右手の数で賃金が払われたので、腐らないように切った右手を薫製保存していたという。

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手を切り落とされたコンゴ人

次々と領土を広げ、ベルギー本国の77倍の面積になった。実態を知ったアメリカ人宣教師やイギリス人ジャーナリストにより悲惨な実態が暴かれた。コンゴはベルギー政府が国王より植民地として買い取ることになる。

レオポルト2世の名声は地に堕ち、王妃や娘にも疎んじられた。死の直前に愛人と結婚を強行したが、死後は無効とされ愛人は宮廷を追われる。敬意を持つ国民はなく、葬儀での棺に唾を吐きかける者もあったという。生前、親族であるオーストリア帝国のフランツ・ヨーゼフ皇帝は「本物の悪党」と呼んでいた。

〜〜さわやか易の見方〜〜

***   *** 上卦は沢
******** 水が流れる 
********
***   *** 下卦は水
******** 困難、悩み
***   ***

「沢水困」の卦。困の字は四角の中に木が閉じ込められている象である。囚われの身ということが出来る。植民地とは支配する方と支配される方がいる。支配される側は困そのものだ。喜んで受け入れることなど出来ないだろう。しかし、希望を失わないことだ。いつか光は必ず差してくる。

コンゴ人には本当に気の毒な時代である。新大陸発見で沸いた16世紀のコンキスタドール(征服者)を思い出す。あの時も銀を持参できない原住民の手足を切った。まるで動物扱いである。これでは人間も動物と変わらないではないか。レオポルト2世などは動物以下としか言えない。

植民地獲得競争ではドイツが出遅れた。この不公平感が次の大戦争に繋がる。イギリスを最大のライバルとして建艦競争が始まる。帝国主義が戦争につながるのは必然なのだ。世界の指導者が最も戒めねばならないことだろう。「和をもって尊しとなす。」この精神が広くゆき届くことを望まないではいられない。






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ズールー人

人類はおよそ300万年前にアフリカに出現したと言われる。大自然の中で狩猟生活から農耕と牧畜を営み、多くの部族が住み着いていた。気候にも恵まれた南アフリカ東部では、19世紀始めに他の部族を制圧したズールー族が王国を作っていた。

ヨーロッパ人がやってきたのは17世紀になってからである。大航海時代が始まり、海上交通の補給基地としてオランダ人が入植しケープタウンを建設した。彼らは黒人たちを奴隷として農場を営んでいた。次第に入植者たちは増えてゆき、民族集団ボーア人と呼ばれていた。


グレート・トレック

ナポレオンが失脚してウィーン会議の結果、1814年ケープタウンはイギリス領ケープ植民地となる。公用語は英語に定められ、ボーア人にとっては深刻な事態になる。1833年、イギリスは奴隷制を廃止する。奴隷に頼って大農場を経営していたボーア人たちは後からやってきたイギリス人に追い出されることになる。

ボーア人たちは自分らの新天地を求めて決死の覚悟でケープを去ることにする。「グレート・トレック」言われる大移動は困難を極めた。凶暴なズールー族が他の民族を追いやった東のナタールを目指すが、何度もズールー族の襲撃に遭った。ボーア人たちは1839年にナタール共和国を建設した。

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19世紀の南アフリカ

ところが国を統治した経験不足からの混乱が続き、せっかくの建国だったが、1842年イギリス軍に攻撃され降伏、英領ナタール植民地にされてしまう。ボーア人たちは又しても大移動をせねばならなかった。

今度は内陸部に進出する。オレンジ川の北とヴァール川の北に二つの政府を造った。ここにもイギリス軍が横取りしようとやってきたが、ボーア人たちは必死に防衛した。1852年にトランスヴァール共和国が、1854年にオレンジ自由国が相次いで独立を認められた。

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セシル・ローズ(1853〜1902)

ところが、その後オレンジ自由国にダイヤモンドが、トランスヴァール共和国に金鉱が発見されると様相は俄然違ったものになっていく。ダイヤモンド採掘にはイギリス人が殺到した。中でもセシル・ローズはダイヤモンドの採掘で財を成し、ケープ植民地の首相になった。イギリスの大財閥ロスチャイルド家とも手を組み、全世界のダイヤモンド産出額の実に9割を独占した。

ローズは帝国主義を推し進める大英帝国の方針に自分の野心を重ね、南アフリカ連邦を建設し、北のエジプトを電信と鉄道で結ぶ計画にまい進する。(上の風刺画はアフリカを南北に結ぶローズの野心を描いている) 政治、経済、軍隊の実権を一手に握り広大な領土を獲得しローデシアと名付けた。(現ザンビア、ジンバブエ)。 「アフリカのナポレオン」と呼ばれたローズは一気にトランスヴァール共和国を併合しようと陰謀を企てる。しかしその計画は失敗し、ローズは失脚した。


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ボーア戦争

ローズの失敗の後、イギリスはトランスヴァールの併合を宣言する。しかし何としても独立を守りたいボーア人たちは戦争を起こす。1881年、再び独立を勝ち取ったボーア人だったが、イギリスはそのままにはして置かない。ボーア人とイギリス人はその後も対立したまま紛争を繰り返す。


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強制収容所に収容されるボーア人女性と子供たち

いつまでも抵抗するボーア人に手を焼いたイギリス軍は1899年、スーダンを制圧した将軍キッチナーを司令官にする。キッチナーは強制収容所を設置し、焦土作戦を決行、広大な農地、農家を焼き払う。収容所では2万人が死亡した。近代兵器をフルに使用するイギリス軍、ゲリラ戦で応じるボーア軍、3年に及ぶ長期戦になった。

ボーア戦争は1902年5月、最後のボーア人が降伏することによって終戦を迎える。イギリスはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合したが、イギリス軍も大損害を被り疲弊した。その焦土作戦や非人道的強制収容所は国際的な批判をあびた。その後の南アフリカには癒えることはない後遺症が長く続いた。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は火
***   *** 文明、文化、英知
********
******** 下卦は山
***   *** 不動、勤勉、沈着
***   ***

「火山旅」の卦。易でいう旅は海外旅行や温泉旅行の旅とは違い、国を追われて放浪するような旅を指す。国でいえば新天地を求めの大移動だろう。国のリーダーは沈着な判断により英知を発揮せねばならない。そうすれば、思わぬ新天地が開けるだろう。

帝国主義の犠牲者としか言いようがない。ボーア人にとっては新参者のイギリス人ほど迷惑な存在はなかっただろう。オランダにとってはイギリスは天敵である。17世紀には世界一の経済先進国だったが、英蘭戦争を仕掛けられ、東インド会社を乗っ取られた。アメリカの植民地も横取りされ、ニュー・アムステルダムをニュー・ヨークにされた。それにしても南アフリカでは仲良く共存することは出来なかったのだろうか。

イギリスは1902年に日本との間に日英同盟を結んだ。それまで、栄光の孤立を続けていたイギリスが日本と同盟したのは、ボーア戦争により疲弊してしまい、ロシアの南下阻止に手が回らなかったからと言われる。その結果、日露戦争で日本が勝利し、ロシアの南下を防いだ。日本の実力を知ったイギリスの外交分析力は郡を抜いていると言わざるを得ない。


























































































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