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エジプトは古代文明の発祥地であるが、ローマ帝国消滅後、長くイスラム王朝が支配、16世紀からはオスマン帝国が支配していた。1798年、ナポレオンがエジプト遠征によりフランスの支配下にしようとしたが失敗したことがある。その後、オスマン帝国から派遣された司令官がムハンマド・アリーだった。アリーはナポレオンと同年生まれ、抜群の政治力を認められ、ウラマー(宗教指導者)たちからエジプトの新総督に推挙された。
ムハンマド・アリー(1769〜1849) ナポレオン失脚後にオスマン帝国支配下のギリシャが独立戦争を起こした。ヨーロッパを巻き込む大戦争に発展し、エジプト軍はオスマン帝国軍とともに大敗北を喫した。しかしアリーはオスマン帝国からエジプトを独立するチャンスを得た。アリーは軍事、経済を立て直し、富国強兵の近代国家を目指す。弱体化するオスマン帝国に替わり、シリアなどアラビア半島に領土を広げる。
2度にわたるオスマン帝国との戦いに勝利したものの、エジプトの勢力拡大を阻止したいイギリスの干渉を招く。イギリスは親エジプトのフランスを除いた列強を集め、ロンドン条約を締結する。エジプトの総督職世襲を認め事実上の独立を承認したが、支配した領土は全て放棄させ、エジプトとスーダンに限定された。ヨーロッパ諸国に肩を並べる先進国への夢は絶たれた。
レセップス(1806〜1894)
アリー在世中の1833年、フランス人の外交官フェルディナン・ド・レセップスはエジプトに着任する途中で、偶然ナポレオンあてのフランス人技師からの手紙を発見した。それはナポレオンのエジプト遠征の別の目的だったスエズ運河建設の資料だった。それからレセップスはスエズ運河建設の夢を抱いた。
レセップスはアリーの遺族たちを説得、親族であるナポレオン3世(皇后ウジェニーはレセップスの従妹)や、各国要人の協力を取り付ける。1854年、国際スエズ運河株式会社設立、政治的妨害や難工事、疾病の蔓延を克服し、1869年に完成させた。「東と西の結婚」と呼ばれた開通式では、フランス皇后ウジェニーが乗る皇室所有の「エーグル号」が先頭を切った。ヨーロッパ中から1000名以上の賓客が乗船した。
スエズ運河開通直後の風景
運河の建設に一貫して反対したのはイギリスだった。イギリスはインド貿易を独占するため他国の交通が便利になることを好まなかった。オスマン帝国にも反対するよう圧力をかけ、各国にも株式を買わないよう手を回した。しかし運河開通は世界貿易にとっては劇的成功だった。蓋を開けてみると通過する船舶の約8割がイギリス船籍だったのだ。
一方、運河建設には想定の2倍の資金がかかった。エジプト総督は対外債務に耐えきれず国家が保有する株式を手放す決意をした。その情報を入手したイギリス首相ディズレーリは早速手を打ち購入し筆頭株主になった。議会の承認手続きなどしていれば、チャンスを失うので、購入資金を財閥ロスチャイルド家から借り受けた。(後にディズレーリは憲法違反だと自由党党首のグラッドストンに告訴された。)
アフマド・オラービー(1841〜1911)
その後イギリスは運河の管理を名目に軍隊を駐留する。国家予算の8割を借金返済に充てるという財政危機に陥ったエジプトでは国民に重税につぐ重税を課し、債権国英仏の支配下に置かれてしまう。巨額な負債をつくった総督イスマーイール(アリーの孫)は英仏人とトルコ人を要職につけエジプト人を弾圧した。次第に国民の不満はエスカレートし民主主義を求めて1882年には暴動が起る。
陸軍大臣だったエジプト人のアフマド・オラービーは民主主義を掲げ改革の先頭にたった。革命がエジプト全域に広がるとイギリス政府は軍隊を上陸させる。イギリスが心配したのはエジプトへの借款を破棄されることとスエズ運河の支配権である。イギリス陸軍はエジプト陸軍を圧倒し、オラービーを反乱者として逮捕、英領セイロン島へ流刑にした。
ムハンマド・アフマド
エジプトはムハンマド・アリーの時代から南方のスーダンを支配下にしていた。しかしその圧制にスーダン人は度々抵抗していた。エジプトを半植民地にしたイギリス軍はさらにエジプト軍を使いスーダンにも手を伸ばす。ところが自らマフディー(救世主)と名乗るムハンマド・アフマドがスーダン人の熱狂的支持を得て対抗してきた。1885年、手を焼いたイギリス軍は中国の太平天国の乱で活躍した将軍ゴードンを派遣する。
ところがゴードン将軍率いるイギリス軍も破れゴードン将軍は戦死した。イギリス軍はスーダンを諦め、引き上げる。ベルリン会議でアフリカ分割は早い者勝ちと決まったこともあり、イギリス軍は再び最大の準備を整え遠征する。将軍キッチナーが鉄道を敷設、機関銃を使い制圧した。1898年にはフランス軍と遭遇するファショダ事件があったが、イギリスは譲らなかった。面積アフリカ最大のスーダンはイギリスの植民地になり、1956年まで続いた。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は水
******** 困難、悩み
*** ***
*** *** 下卦は雷
*** *** 活動、始まる、志
********
「水雷屯」の卦。屯(ちゅん)とは生みの苦しみ。行き悩み。草木の芽が地上に出ようとするが、固い地面を中々突き破ることが出来ないでいる。無理に顔を出そうとすると踏みつぶされる。あせってはいけない。充分エネルギーを蓄えることである。やがて時を得て、発展のチャンスはきっと来る。
日本の明治維新に続こうとしたオラービーだった。明治政府の農商大臣だった谷干城がセイロンで面会した。オラービーは「日本の地理的条件が羨ましい。」と語ったと伝えられている。日本は主要産業は生糸しかなかったが、列強にとってエジプトには重要な干渉地帯・スエズ運河がある。何が幸いするか、何が災いとなるか、解らないものである。
世界一の豊かさを誇るイギリスだったが、「共存共栄」という考え方はないのだろうか。イギリスの「栄光の孤立」は自国だけの豊かさを誇るものなのか。帝国主義の先頭を走り続けたイギリスだったが、これでは世界の範とはならないのではないか。その証拠にやがてドイツが目の敵にすることになる。あの大戦争を引き起こすことになったのではないだろうか。
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名画に学ぶ世界史
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ビスマルク(1815〜1898)
ドイツは多数の領邦国家で成り立っていたが、1871年、普仏戦争後にプロイセン王国を中心に統一され、ドイツ帝国になった。その立役者は鉄血宰相と呼ばれたビスマルクである。統一間もないドイツは屈辱的大敗を喫したフランスの復讐も警戒せねばならず、国内も不安定でビスマルクは難しい舵取りが必要だった。
ドイツは強力な軍隊を武器に、オーストリアを叩き、フランスを叩いてその勢いを統一へのエネルギーにしてきたが、統一後は一転して巧みな外交に力を発揮した。ビスマルクは約20年間、巧みな外交でヨーロッパの安定を維持し、国内をイギリス、フランスに追いつく工業国に急成長させた。
ビスマルク体制
ビスマルクが最も警戒したのは、フランスだったのでフランスを孤立させ、周辺国と手を結ぶことにした。その為には1866年に戦争したばかりのオーストリアとも犬猿の仲であったロシアとも手を結び、さらにフランスの植民地政策に不満をもっていたイタリアとも手を結んだ。
当時、盛んに行われていた植民地政策ではフランスのエネルギーがなるべく領土拡張に向かうよう、ドイツでは植民地拡大には消極的態度をとった。そこに1878年に露土戦争が起り、オスマン帝国に勝利したロシアはかねてからの南下政策を実現するため、サン・ステファノ条約により、バルカン半島に勢力を広げる。保護下にあるブルガリアの領地を広げ、エーゲ海に面する大ブルガリア公国を成立させた。
サン・ステファノ条約による大ブルガリアの領域
しかしこの条約には真っ先にイギリス、オーストリアが反対し抗議ののろしを挙げた。イギリスはロシアに地中海への権益を侵されることを拒み、オーストリアはスラブ勢力のバルカン半島拡大を拒んだ。ヨーロッパ全体を巻き込む紛争に発展したが、その調停役を買って出たのがビスマルクだった。
ベルリン会議
ビスマルクの調停による「ベルリン会議」はヨーロッパ全体の勢力均衡を重視、ロシアの南下政策は阻止され、イギリスが地中海への拠点を確保する。ロシアには不満が残ったが、国際紛争を解決し、ドイツの国際的地位を高めることに成功した。一方、この会議には敗戦国のオスマン帝国は蚊帳の外で、その凋落は決定的なものになった。
1880年代に入ると、ヨーロッパ各国のアフリカ進出はすさまじい勢いだった。当然、各国の利害は衝突し、紛争が起こり始める。そこで1884年、再びビスマルクは列強14カ国をベルリンに集め100日間に及ぶ2回目の「ベルリン会議」を開いた。そこでは、先に占領した国が領有権をもつという「先占権」が決まった。結果としてアフリカ分割は「早いもの勝ち」となり、進出は加速した。
水先案内人の下船
この「ベルリン会議」はナポレオン戦争後の「ウィーン会議」、クリミア戦争後の「パリ会議」と並んで、19世紀の三大国際会議と言われている。19世紀の後半はビスマルク体制によりヨーロッパには殆んど戦火もなく平和裏に経過、ドイツも第2次産業革命を果たし大工業国になっている。
しかし1890年、若き皇帝ヴィルヘルム2世によりビスマルクは更迭され、政界を引退する。その後、ヴィルヘルム2世による絶対君主制が始まり、他国との協調関係よりも帝国主義的利害を重視する。ヴィルヘルム2世の拙劣な外交政策により、ドイツは列強諸国との対立を深め孤立していく。
フランス外相デルカッセ(1852〜1923)
一方でビスマルクの外交を研究していたのは隣国フランスだった。外務大臣になったデルカッセはイギリスと宥和策をとり、ロシアとは同盟関係を構築した。ドイツと同盟関係にあるイタリアとも水面下では密約を締結している。ビスマルクが作ったドイツ中心のフランス包囲網を解体させ、ドイツを孤立させるドイツ包囲網を形成していった。「デルカッセ体制」と言われている。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
********
******** 下卦は火
*** *** 文化、文明、太陽
********
「天火同人」の卦。同人とは志を同じくするもの。「同人雑誌」の語源でもある。組織や集団をつくるのは、その中心になる人物次第でもある。中心になる者は明らかな文化を根気よく発信することだ。始めは孤独に苦しんでも初志を貫徹することである。いつかは喜びに満たされる。
ドイツにとってビスマルクは生みの親でもあり、育ての親でもあった。時代はもはや専制君主の時代ではなかった。政治は政治のプロに任せねばならなかった。そこがドイツが一歩遅れていたところだったのだろう。我が国の明治憲法もプロイセンの憲法をたたき台にした。そこに大きな落とし穴があったことに気が付くのは大戦争に負けてからだった。
現在、集団的自衛権の論議が盛んである。戦争を出来る国にすることは容易い。しかし国際紛争は軍事で解決するのではなく、あくまで外交で解決しなくてはいけない。その為にはもっともっと外交力を付ける必要があるのではないか。拉致問題しかり、日中、日韓問題しかり、外交力はこのままでよいのか。軍事より外交。日本の政治家に求めたいことはそこだ。
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1890年建設のニューヨーク・ワールド・ビル
南北戦争が北軍の勝利で終わると、アメリカは北部を中心に一大工業国家建設にまい進することになる。産業革命は綿製品などの軽工業から、鉄鋼、造船などの重工業が中心となる第2次産業革命の時代に入っていた。19世紀後半には工業生産はイギリスを抜いて世界一になっている。
石油、鉄鋼、自動車などに巨大企業が出現し、巨大企業は巨大資本と一体になっていく。その中で、ロックフェラー、カーネギー、モルガンなどの大財閥が出現した。巨大資本家は政治をも動かし、業界を独占し、企業は世界的規模にまで発展していった。やがて世界に君臨するアメリカの原点はここから始まる。今回はその大財閥誕生の物語をお伝えしたい。
ジョン・ロックフェラー(1839〜1937) ニューヨークの行商人の子として生まれたロックフェラーは20歳の頃、友人と二人でビジネスを始める。1863年(24歳のとき)に鯨油に替る新燃料として灯油に目をつけ、石油精製業を起こす。その後石油は発電、輸送、自動車には欠かせないものとなり、やがて「スタンダード石油」となり、世界最大の石油会社となる。
ロックフェラーは次々とライバル社を吸収し、石油パイプライン、林業、鉄鉱山、鉄道、流通などの分野に手を伸ばし、世界最大の大企業になる。関連する石油製品の製造企業は数百社にも及ぶ。余りに発展したため、独占を防ぐための「反トラスト法」違反に問われ、複数企業に分割されることになるが、彼の総資産は現在の換算では約35.6兆円と推定される。
ロックフェラーが設立したシカゴ大学
歴史上、もっとも裕福な男・ロックフェラーは実業界を引退した後、世界屈指の慈善家となる。医学研究、教育、科学、芸術方面に可能な限りの寄付を行った。97歳で死亡したが、その遺産は慈善寄付団体とロックフェラー財団を通じ、現在も受け継がれている。
アンドリュー・カーネギー(1835〜1919)
アンドリュー・カーネギーはスコットランドの手織り職人の子として生まれる。手織り職は機械化により職を失い、一家は1848年に移民として、アメリカのペンシルベニア州アレゲニー(現在のピッツバーグ)に渡る。貧しいながらも、働くことと学ぶことには労を惜しまない少年だった。18歳頃にペンシルバニア鉄道のトマス・スコットが社員として採用すると運が開けた。
スコットから仕事、経営、原価管理について多くを学んだ。やがてスコットは副社長に昇進、カーネギーは現場責任者となる。ある時、鉄道の通る木橋が焼けて、数日にわたり鉄道が不通になる。カーネギーはこれからは鉄橋の時代だと考え、鉄橋を建設する会社を創設する。スコットとの関係は続き、車体やレールをも製造し、やがて最新式の製鉄工場を設立する。その後に起こる南北戦争では艦船の装甲、砲、その他様々な工業製品に鉄鋼の需要が高まる。ピッツバーグは軍需産業の一大拠点になっていた。
シラキュース大学のカーネーギー図書館
カーネギーの帝国は成長し、1889年にはアメリカの鋼生産量はイギリスを抜いた。カーネギーはその後も実業家として活動し続けたが、イギリスの首相やアメリカ大統領などの政治家や著名な作家とも親交し、自ら著作活動も始める。カーネギーは裕福な実業家は蓄財の期間とその富を大衆に分配する期間を持つべきだと主張し、社会に奉仕することを自ら実践した。
アメリカ国内、イギリス、他の英語圏の国に資金提供した公共図書館の数は3000にもなるという。またカーネギーはアメリカが帝国主義に走ることには反対し、キューバやフィリピンの独立を支援した。83歳の生涯に幕を閉じる時に墓碑銘に刻ませた言葉は「ここに、自分より優れた人々を、周囲に集める術を知っていた1人の人間が横たわる」だった。
J・Pモルガン(1837〜1913)
J・Pモルガンは銀行家の家庭に生まれ、父から銀行を引き継ぐと積極経営により19世紀末には世界最大の金融業者になる。モルガンは金融から一歩踏み出し、主に鉄道の開発、吸収、再編により莫大な利益を得た。その手法はモルガニゼーションと呼ばれた。
1895年のアメリカの鉄道バブルが崩壊し、合衆国財務省が保有する金がヨーロッパに流失した。銀行の取り付け騒ぎが起る恐慌に陥った。時の大統領・クリーブランドはモルガンに救済を申し出てきた。モルガンは銀行団を組織し、財務省の発行する1億ドルの債権を引き受けた。資本の引き上げに走ったヨーロッパの信用を回復し財務省を見事に救った。
アメリカ政府よりモルガンが大きいとする戯画
モルガンはカーネギー・スチールを吸収し、USスチールを設立、海運、電力、通信事業にも進出した。巨大な芸術品コレクションをニューヨークのメトロポリタン美術館とコネチカット州の美術館に寄贈した。関東大震災の後には多額の義捐金を送るなど、日本との関係も深い。一族は現在も健在、アメリカ、イギリスの財閥とは親族関係にもあり、世界の政財界には隠然たる影響力を持ち続けている。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は火
*** *** 文化、文明、太陽
********
******** 下卦は天
******** 陽、大、剛
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「火天大有」の卦。大有は陽なるもの、大なるものを有り余るほど所有することである。天の真ん中に太陽が輝く象である。順風満帆、何をやってもうまく行く。恐れず、何処までも積極的に前進すればよい。ただ、易の64卦には順番があり、「大有」の次に「謙」がくる。大なるものを有したものは、謙虚になれという教えである。
アメリカの大富豪たちは晩年になると、社会貢献をするという伝統がある。この習慣があればこそ、アメリカン・ドリームも健全なものになる。ギリシャの海運王と言われたオナシスは大富豪にはなったが、社会貢献など何もせず、税金さえろくに払わなかったという。大富豪にして「謙」の精神を持つならば、一族は益々繁栄するのだろう。
世界史で見るとアメリカは新興国である。モルガンたちが活躍するわずか100年前のアメリカは人口よりバッファローの方が多かったのだ。建国して100年、世界の大工業国になろうとは、世界史の奇跡だろう。アメリカも奇跡だが、封建社会が続いていた日本という島国が一気に近代国家に変身したのも奇跡的な出来ごとである。だから19世紀の歴史はおもしろい。
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1870年に起った普仏戦争に敗れ、発足した第3共和制のフランスでは経済の不振から国民の間に不満が充満していた。不満の原因は一方的に戦争をしかけ鉄鉱石と石炭の豊富な産地アルザス・ロレーヌ地方を奪っていったドイツへの怒りとなっていた。
又、経済不振の中で、国民の貯蓄を東ヨーロッパへの投資を行い、その後の1882年の金融恐慌により多くの投資銀行が破産に追いやられた。貯金を失くした国民のストレスは金融界を牛耳っていたロスチャイルドなどのユダヤ系財閥そしてユダヤ人へ向けられていた。
ドレフェス(1859〜1935)
1894年、そんな状況のなかであるスパイ事件が起きた。フランス陸軍情報部にて対ドイツに関する機密情報が漏えいしたのである。参謀本部は情報を知り得る立場にいた人物達を調査する。その過程でドイツ領アルザス出身のユダヤ人砲兵大尉のアルフレド・ドレフェスを容疑者として逮捕し、取り調べを行っていた。
証拠もなく、容疑者も否定している事件を、反ユダヤ系新聞の「自由言論」がすっぱ抜き大々的に報道した。「祖国を裏切る売国奴ユダヤ人」「軍部は売国奴を庇って公表さえしない優柔不断」 国民の反ユダヤ人感情に一気に火を付けた。
慌てた軍上層部は証拠不十分ながら非公開の軍法会議を行い、ドレフェスを有罪にする。公衆の前で官位剥奪式を執り行い、剣を折るという不名誉な除隊とした上、重罪人として南米ギアナ沖のデヴィルズ島への終身城塞禁錮とした。ドレフェスは1899年まで4年間を監獄で過ごした。
デヴィルズ島(悪魔島)はフランスの流刑地として、8万人以上の政治犯や重罪人がこの監獄に送られた。疾病の蔓延する環境で受刑者の多くは生きて島を出ることは無かった。脱獄も殆んど困難で脱獄したものは極少数だという。(1973年映画「バビヨン」の舞台になった。)
エステルアジ(1847〜1923)
ドレフェスの誠実な人柄から無罪を信じる妻リシューと兄マテューらは再審を求めるが相手にされない。しかし1896年に情報部長に着任したピカール中佐は真犯人を突き止めた。ハンガリー生まれのエステルアジ少佐であり、借金返済のためスパイ行為に走ったことが判明した。
ところが、軍上層部は権威失墜を恐れてもみ消しを図ることにする。ピカールを脅して左遷させる。エステルアジを形式的な裁判で無罪とし、除隊させた上、イギリスに逃亡させる。真相は闇に葬られ、ドレフェスの少数の関係者を除いて殆どのフランス人が事件を忘れようとしていた。
エミール・ゾラ(1840〜1902)
1898年、作家エミール・ゾラは「私は弾劾する。」という大見出しで新聞「オーロール」紙に大統領フォール宛てに軍部の不正と虚偽の数々を徹底的に糾弾した。この記事により世論は一気に沸騰、これまでに起ったユダヤ人迫害事件が改めて浮き彫りにされる。ゾラは軍への名誉棄損で告発され有罪判決を受け、イギリスへの亡命を余儀なくされた。
ドレフェス事件は正義と真理、自由と平等を唱える軍国主義批判に発展する。一方で、愛国主義者たちは「フランス祖国同盟」を結成して国家の尊厳、軍部の威信を力説する運動を発展させた。軍部は世論に押されて、再審軍法会議を開いたが、威信にかけても有罪判決は履さなかった。しかし首相の特赦により釈放される。ドレフェスはその後も無罪を主張し続け、1906年になってようやく無罪判決を勝ち取った。
ドレフェス事件を巡る世論
軍部はドレフェス有罪の根拠とされる証拠類を「国家の安危に関わる軍事機密情報」として開示を拒んだが、ブリッソン元首相によって、「軍部の主張するような機密情報などはどこにもなかった。」と声明が出され、実際には真実を隠ぺいする口実に過ぎないことが明らかになった。
軍の自ら作り出した冤罪事件は、軍事機密を濫用し、権威を維持したものとして国民を失望させ、ますます権威を失墜させることになった。
ヘルツル(1860〜1904)
一方で、繰り返されるユダヤ人迫害にハンガリー生まれのユダヤ人作家のテオドール・ヘルツルはユダヤ人が祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした。1896年、シオニズム運動のさきがけとなる「ユダヤ人国家」を出版した。1897年、スイスのバーゼルにおいて最初の「シオニスト会議」を開いた。
200人の各国ユダヤ評議会代表の前で挨拶したヘルツルの立居振舞は「ユダヤ人の王」と呼ばれるほど堂々としていたという。1904年に44歳の若さで亡くなったが、その意志は多くのユダヤ人によって今日まで受け継がれることになる。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は沢
********
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******** 下卦は天
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「沢天夬」の卦。夬(かい)は決壊、決裂の決と同意。一番上に一つだけ陰爻があり、その陰爻が五つの陽爻に追い詰められている象である。独裁者を排除する様な場合にも当て嵌まるが、時には陽爻たちが間違っている場合もあるだろう。弱い者がいじめに遭っていることも考えられる。正義、正義と熱くなるのは時として飛んでもない正義と成ることもある。
群集心理という心理は往々にして間違った結果を残すことがある。集団の中にいると気付かないことがある。「原発反対!」「戦争憲法反対!」熱くなってデモに参加する前にエネルギー問題について、憲法問題について、しっかりと勉強して貰いたい。集団が叫ぶことが果たして正しいのだろうか。デモ隊の本当の目的は案外他にあることがある。
日本人には中々理解出来ないのが宗教対立である。自由、平等、博愛を叫んで共和制を創ったフランス人ではないか。ユダヤ人を排斥することが、どうして自由、平等、博愛と言えるのか。理性で解っていても、生理では受付られないのが、宗教対立なのだろう。その為に戦争が起り、幾多の人たちが犠牲になった。人類は果たして賢明と言えるのか。解決方法はないのだろうか。
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アヘン戦争(1840〜42)
中国はオスマン帝国の600年の歴史どころか、3000年の文化を誇る大帝国なのだ。アヘン戦争によってイギリスの侵略を受け、その後のアロー戦争によって清国はヨーロッパ列強の半植民地になってしまう。今回の歴史ドラマは国が衰退する時には何が起るか、そしてそんな乱世にも真剣に国を守ろうとしたある哲人の生き方に学ぶものである。
洪秀全(1814〜1864)
困窮し疲弊した中国南部に洪秀全という眉目秀麗な秀才が現れる。洪秀全は貧しい農民の子だが、神童と言われるほど頭が良かったので、科挙を受けて官僚を目指した。ところがいくら秀才でも簡単に合格しないのが科挙であり、30歳になるまでに4回の試験に不合格となった。親族に期待され皆が労働している間も勉強に明け暮れしていた洪秀全。力尽きて40日間、床に伏した。
ある晩、彼は夢を見る。その夢の中に神が登場し、お前は神の子でイエス・キリストの弟であると告げられた。目を覚ました洪秀全は聖書を手にするとキリストの教えが全く自分の考えと一致し、神の子であることを自覚する。混乱した国を立て直し、困窮した民を救うのは自分しかないと立ち上がる決心をする。
太平天国が支配した地域(赤)
「拝上帝会」というキリスト教教会をつくり「太平天国」という理想国家を目指し布教活動を行う。科挙の落ち武者たちが集まり、数年後には1万人の大集団となる。規律厳格な軍を作り進軍すると、腐敗した清朝軍は歯が立たない程強かった。略奪いっさい禁止の太平天国軍は民衆にも支持され、次々と占領地を増やす。1853年には南京を占領、ここを首都として天京と改名した。
太平天国は清朝打倒を目指す。「滅満興漢」(満州人を滅ぼし漢人の国を興す)がスローガンだった。仏教と儒教の偶像は廃止。纏足(てんそく)の禁止、男女平等、アヘンと賭博は禁止。彼らは清朝が強制した弁髪を禁止し髪を伸ばしたので長髪族とも言われた。弱体化した清朝軍を倒し、破竹の勢いで勢力を拡大し続ける。
天京の天王府のミニチュア
地上の天国を創ろうという理想を掲げた洪秀全だったが、中国の国土はとてつもなく広い。現実的政治は伝統的考え、土着的習慣、価値観をどうすることも出来ないこともある。やがて理想と現実の間に限界を感じ、洪秀全は天京に造った豪華な宮殿の奥に引き籠ったまま出て来なくなった。美女たちに囲まれる生活に埋没してしまう。
洪秀全は皇帝に当たる天王となり、その下に北王、南王、東王、西王、翼王という幹部が其々豪華な宮殿をもった。実務は幹部が取り仕切り、清朝軍と戦うのは若い幹部に任せる。清朝政府は清朝軍とは別に全国の官僚に呼びかけ義勇軍を結成し戦うよう呼びかける。その義勇軍を指揮する官僚の中に憂国の士である曽国藩がいた。
曽国藩(1811〜1872)
曾国藩は科挙に合格した官僚でもあり、朱子学を講ずる学者でもあった。荒廃する国の大事に、軍人とは無関係ではあったが、湘軍という義勇軍を組織する。3人の弟、弟子である李鴻章(後に清国を代表する外務大臣)たちとともに太平天国軍の討伐に向かった。敵軍の猛攻に弟2人を戦死させ、自らも死を覚悟すること度々だったが、国を救わんとする信念は曲げなかった。
1864年、李鴻章が別働隊・淮軍を組織、太平天国軍を挟み撃ちにする態勢で、天京攻防戦での激戦を制し太平天国を滅亡させた。曾国藩はこの功績により侯爵にされると湘軍を解散させる。その後は洋式の兵器工場の設立、弟子たちを西洋に留学させる等の「洋務運動」に力を注いだ。
太平天国の幹部たちは権力を手にすると自ら墓穴を掘るように仲間割れの末殺しあった。洪秀全は天京陥落の前に病死(栄養失調)する。最後まで戦った李秀成は曾国藩により処刑された。
フランス人が描いた中国半植民地化
曽国藩たちの洋務運動も及ばず、清国は1894〜95年には日清戦争にも破れた。中国王朝が長年続けてきた冊封体制は崩壊、イギリス、ドイツ、ロシア、フランス、日本により沿岸地域を租借地とする半植民地化への動きは止まらなかった。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は水
******** 困難、窮乏、悩み、
*** ***
*** *** 下卦も水
********
*** ***
「坎為水」の卦。四大難卦の一つ。困難を表す水が上下に重なるところから、一難去っても又一難というように次々と艱難に襲われる象である。前門の虎、後門の狼。人の人生には進退窮まることもある。こんなときにどうするかで、人の真価が決まる。慌てず、騒がず、たじろがず、進んで行けばよい。道が開けることもある。
曽国藩の座右の銘は「四耐四不」である。すなわち「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、激せず、躁がず、競わず、随わず、以て事を成せ」である。この言葉は昭和の戦前戦後、日本の危機に人物を養成した安岡正篤師が好んで照会したことから、政官財の指導者たちにより知られるようになった。
アヘン戦争により清国は衰退したと一言で片付けることは出来ない。その乱世の中にも人物はいて、その人物たちは懸命に国を守ったのである。中国は衰退した。しかし衰滅した訳ではない。アジアの雄はやがてエネルギーを蓄えて出直すのである。日本と手を携えて共存共栄すること祈る。
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