さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名画に学ぶ世界史

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ロシアの南下政策

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黒海

前回、「沈みゆくハプスブルグ帝国」をお伝えしたのだが、時を同じくしてかつて大帝国だった「オスマン帝国」が衰退していた。ハプスブルグ帝国とほぼ同じく約600年間も続いた大帝国だった。ハプスブルグ帝国の場合はそれに替わるドイツ王国が躍進することになったが、オスマン帝国に替わる国はなかった。

この大帝国の衰退は列強各国がその利権を巡って、その後「東方問題」となって国際紛争の舞台となる。今日に続く中東紛争、イスラム過激派台頭の世界を揺るす問題はここから出発している。それ程、オスマン帝国の存在は重大な地域を支配していたことになる。


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エカチェリーナ2世(1729〜1796)

ロシアは軍事力を持つと、海外貿易をすすめるために冬でも凍らない不凍港を求めて南方へ領土拡大に勉めた。18世紀末に活躍した多くの愛人を抱えたことでも知られる女帝エカチェリーナ2世は黒海北岸のクリミア半島を獲得した。只、上の図で解るように黒海から地中海に出るには狭い海峡を通過する必要があるがオスマン帝国の許可は得られない。

ところが19世紀になって、ナポレオンの後に各地で独立運動が盛んになる。それまでオスマン領だったエジプトがギリシャに続いて独立を求めてオスマンと戦争になった。劣勢のオスマン帝国はロシアに通行権を認めて援軍を求める。しかし結局、イギリスが間に入って、エジプトは占領したオスマン領を返す代わりに事実上独立を認めさせた。ロシアへの通行権は取り消しにする。その上、イギリスはオスマンと不平等条約を結んだ。


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クリミア戦争(1853年〜1856年)

ロシアの南下政策には不凍港獲得以外にもう一つ大義名分があった。それは東ローマ帝国から引き継いだギリシャ正教の盟主を自認しているからである。ブルガリアやセルビアなどのバルカン半島に多い信者のためにオスマンにその保護権を要求していた。ところが、オスマンはフランスに聖地イェルサレムの管理権を与えたが、ロシアへの保護権は拒否する。

対立はエスカレートし1853年に戦争が勃発した。ナポレオン戦争以後の最大の戦争となったクリミア戦争は3年間続いたが、オスマンにはイギリス、フランス軍の連合軍に加えてイタリアのサルディーニャ軍が加わわった。ロシアは52万人という戦死者を出して敗北、南下政策はまたも挫折に終わる。この戦争でロシアは新兵器と技術力の差を痛感した。


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ナイチンゲール(1820〜1910)

このクリミア戦争で従軍看護婦として活躍したのがナイチンゲールである。野戦病院の衛生状態を改善して、負傷者の死亡率を40%から2%に改善したという。敵味方の区別なく、すべての負傷者を手当てするという人道的行為は賞賛され、その後1864年に国際赤十字の設立につながった。

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アレクサンドル2世(1818〜1881)

戦争のショックで皇帝ニコライ1世は亡くなり、後を継いだのがアレクサンドル2世だった。イギリスの工業社会の目覚ましい発展と政治経済制度の近代性に比べ、未だに農奴制が続くロシアの後進性に愕然とした。「何とかしなけりゃロシアは亡びる。」とまで考えたアレクサンドル2世は抜本的改革に乗り出した。

1861年に、思い切って農奴解放令を実施する。ところが土地を所有する貴族たちの大反発を食らい、かえって農民一揆が続発、自由主義改革は一向に進まない。1863年には自由主義改革に刺激されてポーランドで独立反乱が起る。結局、「やはり上から押えるしかないのだ。」と180度方針転換、ツァーリズムと言われる専制政治を強化することになった。

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ドストエフスキー(1821〜1881)

今度は自由主義政治体制を目指す知識人や学生がツァーリズムに反対する。一方で社会主義運動に動くインテリ青年たちの活動は続いていた。彼らは農村の中に入って行き、「農民よ、立ち上がれ!」と説いて回る。そんな運動を「ナロードニキ運動」と呼んだが、政府は厳しく取り締まり、容疑者たちはシベリアへ流刑になった。

ドストエフスキーは社会主義サークルの一員だったため、官憲に逮捕されシベリアへ流刑となり、5年間服役する。その体験を「死の家の記録」にて著している。結局、彼らは最後はテロで皇帝を倒すしか方法はないと考える。それが将来の暴力革命に繋がっていったのだろう。


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露土戦争最大の激戦地・シブカ峠

クリミア戦争いらい約20年後に、南下政策のチャンスが訪れた。1875年からヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、ブルガリアが相次いで独立を求めて蜂起する。その時にオスマン軍による4万人に及ぶブルガリア人への大虐殺が報じられる。ヨーロッパ人に顰蹙を買ったオスマン帝国はイギリスからの支援を受けられなくなる。

1877年、ロシアは汎スラブ民族独立のための戦争だと宣言してオスマン帝国に宣戦布告する。約1年の戦闘の末、ロシア軍の勝利で終戦となった。ロシアはイギリスからのイチャモンが来ないうちに「サン・ステファノ条約」を結んだ。クリミア戦争敗北以来のアレクサンドル2世が行った大改革の成果でもあった。


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サン・ステファノ条約のブルガリアの領域

サン・ステファノ条約により、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの各国は独立を、ブルガリアはエーゲ海にも面する領土を確保する大ブルガリア公国になった。

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ベルリン会議

ところがブルガリアはロシアの保護国なので、これではロシアの勢力が地中海にまで及ぶと、イギリス、オーストリアがイチャモンを付けてきた。紛争が激しくなってきたので、ドイツの首相ビスマルクが仲介に入る。

1878年、6月からベルリンに於いて、サン・ステファノ条約は修正され、ブルガリアの領土は大幅に減らされる。ロシアの勢力を押さえ、イギリスの主張を取り入れることになる。これにより、ロシアは南下政策は又しても頓挫させられ、再び煮え湯を飲まされる。尚、この会議にはオスマン帝国は参加して居らず、自国の領土を都合の良いように分割されてしまった。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は山
***   *** 守る、止まる、固い
***   ***
***   *** 下卦は水
******** 困難、悩み、
***   ***

「山水蒙」の卦。蒙は暗い、幼い。蔓草が蔽う樹木の中を光を求めて歩いている状態である。困難に遭遇して、中々前に進めない。しかしこれが成長の過程である。やけくそになるのが一番よくない。誠心誠意を尽くせば良いのだ。いつか必ず光が見えるだろう。

ベルリン会議から17年後、1895年、日清戦争に勝った日本は、下関条約で清から遼東半島を割譲した。しかしこの条約にイチャモンをつけて撤回させたのは、ロシア、フランス、ドイツの三国である。ロシアは自分が飲まされた煮え湯を日本に飲ませてきたのだ。その上、不凍港を遼東半島に築こうとしてきた。帝国主義時代とは強国が弱国を従わせることは常識だったのだ。

オスマン帝国はベルリン会議により殆ど壊滅状態になった。現在のシリアもイラクもオスマン帝国の中にあった。現在もそうであるが、先進国といわれる国の外交は常に自国の利益だけを考えるだけで、20年先、30年先を考えない。そんな先進国のその場しのぎの外交が、やがて紛争を生じ、それが深刻な事態を招いているのである。
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フランツ・ヨーゼフ1世一家
(前列エリーザベトと母ゾフィー、後列左がフランツ、その隣弟マクシミリアン夫妻)

フランツの母ゾフィーはエリーザベトに皇后に相応しくウィーン流の宮廷教育を施したが、自由奔放に育ったエリーザベトは期待に答えてはくれなかった。いつもフランツは母とエリーザベトとの板挟みになっては母を立て、母のいないところで妻への理解を示した。

エリーザベトは美貌の皇妃で有名だが、マリー・アントワネットも顔負けする程の浪費家でもあった。高価なドレス、宝石、馬車、別荘、豪華旅行、莫大な税金を好きなだけ使った。とくに旅行が大好きで宮廷にいるより旅行先にいる方が多かったので、フランツの方が旅行先に訪ねて行くこともあったという。それでもフランツの愛は変わることなく、「好きなだけ旅行しておいで。」と送り出した。そして寝室に置いた妻の写真を眺めていたという。

そんなエリーザベトだが、彼女にしか出来なかったことがあった。それはハンガリー人に人気があり、エリーザベトのお蔭でハンガリーが治まっていたのだった。エリーザベトはハンガリーが気に入り、ハンガリー語を習得し、ハンガリーの文化を愛したからである。


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ソルフェリーノの戦い

時代の逆風は激しくなった。サルディーニャ王国がフランスと密約を結んでイタリアの独立、統一戦争を仕掛け、北イタリアのロンバルディアを奪いに来た。ロンバルディアを守るのは引退したラデツキー元帥の後任として副王に就いていた弟のマクシミリアンだったが、敵の勢い凄まじく手の尽くしようがない。

ロンバルディアの中心地ミラノを奪われると、フランツは自ら軍を指揮して戦場に向かう。1859年7月、「ソルフェリーノの戦い」は壮絶を極める戦いだったが、敵軍にはフランス軍の加勢もあり、敗戦を喫する。フランスのナポレオン3世と交渉の末、ヴェネティアのあるヴェネト地方はオーストリア領を維持させる条件でロンバルディアをサルディーニャ王国に割譲することになった。

ロンバルディアを割譲するという屈辱を味わされたフランツだったが、屈辱はそれだけではなかった。翌年になると、中イタリアのハプスブル家が統治するトスカーナ、モデナ、パルマの3公国が国民投票によりサルディーニャ王国に併合されたのである。

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ビスマルク(1815〜1898)

逆風はイタリアだけではなかった。ドイツ連邦のもう一つの雄プロイセンが首相ビスマルクを中心にドイツ統一のためにオーストリアと開戦の準備をしていたのだった。フランツには開戦の理由はなく平和を望んでいたが、ビスマルクは巧みな挑発を繰り返し、ついに1866年7月、「ケーニヒグレーツの戦い」となる。近代兵器を要すプロイセンは強く、大敗を喫し、講和を結ぶ。プロイセンに味方した北イタリアのヴェネトも割譲された。

ドイツの統一問題はオーストリアを中心とする大ドイツ主義かプロイセンを中心にする小ドイツ主義に別れていたが、小ドイツ主義が勝利しオーストリアはドイツからも締め出されることになった。北イタリアも失いオーストリアは必然的に東欧に活路を開くしかなくなった。

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戴冠式に臨むフランツ帝とエリーザベト妃

東欧のスラブ民族も独立運動が盛んであり、一歩間違うと戦争の危険があった。フランツはハンガリーを王国領として分割し、二重君主国オーストリア・ハンガリー帝国を成立させることに成功した。このアウスグライヒ(妥協)が実現できたのは、皇后エリーザベトがハンガリー民衆に愛されていたことも大きい。1867年6月、フランツとエリーザベトはハンガリー国王として戴冠式を執り行った


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処刑されるマクシミリアン

華やかな戴冠式の直後にフランツは天を仰いで暗然とすることになる。メキシコ皇帝になっていた愛する弟マクシミリアンが処刑されたとの知らせを受け取ったからである。

6年前のこと、ナポレオン3世からフランスが政権を握っているメキシコの皇帝に弟を推挙してきた。ナポレオン3世はイタリア統一戦争に加担し、オーストリアに損害を与えたので、その償いにしたかったのだろう。しかしメキシコでは独立運動が盛んでとても平穏とは言えなかった。フランツも母ゾフィーも反対した。しかしマクシミリアンからは北イタリアを奪われた名誉を挽回したいとの思いもあり、引き受けたいと言ってきた。フランスは軍を配備し、安全は保障するとの約束だった。

メキシコ皇帝に即位したマクシミリアンは人身売買を禁止し、貧困層の撲滅に取り組むなど良い皇帝たろうと心血を注いでいた。やがて独立勢力はアメリカ軍の援助を得て宮廷に迫ってきた。なのにフランスはドイツとの開戦が迫ってきたからと、皇帝を置き去りにしたまま軍を撤退してしまう。1867年5月、新政権によりマクシミリアンは逮捕された。兄とは二つ差の35歳だった。

処刑が決まるとマクシミリアンはフランツに手紙をしたためる。「尊敬する兄上、不甲斐ない弟をお許し下さい。愛する母上には男らしく死んだと伝えて下さい。温かい家族のもとに生まれ、幸福な人生でした。」 ウィーンに遺体が運ばれると、母ゾフィーは「なんと可哀そうに、罪人のように処刑されるなんて!」といつまでも泣き崩れていた。あの気丈な母の姿はなく、すっかり気落ちしてしまい、6年後に亡くなった。

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幼少のルドルフ皇太子(1858〜1889)

その後のフランツは益々激しく吹き荒れる逆風に立っているだけで精一杯だった。何より辛かったのは唯一頼りにしたい息子ルドルフが反抗ばかりして将来が思いやられたことだ。ルドルフは殆ど宮廷に居ないエリーザベトに代わって祖母ゾフィーが教育した。息子たちと同様に帝王学を学ばせるために教師を付けたがスパルタ教育についていけず引き籠ってしまう。

母エリーザベトは心配し、自由主義の教師につけると今度は父フランツに強く反発し、時代遅れの絶対君主と言って非難した。家族との接触が少なかったエリーザベトは理解者とはなり得ず手がつけられない。長じても頭が良かっただけに自由主義思想を振り回し、帝位継承を拒否、皇太子にあるまじき行動を繰り返していた。1889年、30歳の若さで謎の心中事件を起こし死亡した。

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祈るフランツ皇帝

ルドルフ皇太子の自殺に母エリーザベトは耐えられない悲しみに沈んだ。その後エリーザベトは死ぬまで喪服を脱ぐことは無かった。9年後、1898年9月、スイスを旅行中、レマン湖のほとりで惨事が起こる。突然、イタリア人無政府主義者の短剣で心臓を刺され死亡した。かけがいのない伴侶を失いフランツは「この世は何処まで余を苦しめれば気が済むのか」と泣き崩れるばかりだった。エリーザベト61歳、フランツ68歳だった。

その後、フランツは86歳まで皇帝であり続ける。帝国主義時代に入り大国どうしの激しい競争が激化、ドイツがライバルのイギリスに挑み、世界が大戦争の渦の中に巻き込まれていく。経済の悪化を心配し、火種を抱える周辺国に気を配り、平穏を祈り続けたフランツだったが恐れていた戦争が自国から始まろうとは。亡くなる日まで公務を続けた老帝の崩御後、2年後にハプスブルグ帝国は姿を消す。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は山
***   *** 守る、止まる、動かざるもの
***   ***
***   *** 下卦は地
***   *** 陰、影
***   ***

「山地剥」の卦。剝とは剥ぎ落とす。崩壊寸前の状態を表す。衰運を表してはいるが、最後の砦を守る将軍のイメージもある。人生は上り坂だけではない。衰亡の危機にある時もある。そんな時にも心衰えることなく、最後の最後まで戦うこと。破産する時も、取り乱さず、正気でいることだ。

流石は650年の伝統あるハプスブルグ家の最後である。その伝統はオーストリアに受け継がれて今も健在であることが嬉しい。この2話を「滅びゆく〜」としないで「沈みゆく〜」としたのはそのこだわりがあった。沈みゆく夕陽の美しさを思ったからだ。かつてドイツの盟主はハプスブルグ家だった。役割を果たし現在のドイツにその地位を譲ってはいるが、世界史の中では今でも盟主である。

クラシック音楽ファンにはウィーンは故郷のようなものだろう。ウィーン出身のハイドン、モーツァルト、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、マーラー、数えればきりがない。ベ−トーヴェンもブラームスも活躍したのはウィーンである。彼らの音楽に親しむ時には彼らの文化を守ってくれたハプスブルグ家の家族たちに思いを馳せたいものだ。
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メッテルニヒ(1773〜1859)

19世紀のヨーロッパはナポレオンの登場で幕を開け、それまでの絶対王制の時代が民衆の時代へと変貌していった時代と言っていいだろう。ドイツやイタリアの様に小さな王国や公国が統一され、近代的国家が成立し、先頭を走るイギリスを猛烈に追いかける競争が始まった。

ナポレオン後にヨーロッパの主導者としてオーストリア宰相・メッテルニヒはフランス革命以前の体制に戻す「ウィーン体制」を取りまとめた。しかし次々と起る独立運動を軍隊で押さえてきたが近代化の波には勝てなかった。プロイセンを中心にオーストリアを除いて統一を果たしたドイツとは対称的に従来の古き良き帝国を固持したため、かつての輝きを失いつつあったのがハプスブルグ家のオーストリアである。



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即位後のフランツ・ヨーゼフ1世(1830〜1916)

今回のドラマはヨーロッパの名門貴族であり、神聖ローマ帝国皇帝を世襲し、婚姻によりヨーロッパ中の王家と親族関係にあったハプスブルグ家の有終の物語です。(ハプスブルグ家の登場のドラマは「ハプスブルグ家物語①〜③」を参照頂ければ幸いです。)

時代の逆風の中、名門家を最後まで支え、国民から慕われ「国父」「不死鳥」「最後の皇帝」と呼ばれたのがフランツ・ヨーゼフ1世である。帝王学を学び、困難に勇猛果敢に挑戦し、帝国を守り抜き、文化を奨励した最後の皇帝。その波乱万丈の生涯にはどんなドラマがあったのだろうか。


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母ゾフィーとフランツ

フランツはナポレオンにより神聖ローマ帝国を壊滅させられ、オーストリア帝国を始めた皇帝ヨーゼフ1世の3男フランツ・カール大公とバイエルン王女・ゾフィーの長男として生まれた。皇帝継承者の伯父と父が皇帝には不向きであったため、誕生前から将来の皇帝として期待を背負って生まれてきた。

母ゾフィーは「宮廷内のただ一人の本物の男だ。」と臣下の間でささやかれる程、美しいが毅然とした信念の女性だった。フランツ5歳のとき、皇帝が崩御したため、病弱の伯父フェルディナンドが即位したが、この日から峻烈なフランツへの帝王学教育が始まった。

授業は7歳の時には週32時間、12歳のときには週50時間、14歳からは朝6時に始まり夜の9時まで続いた。科目は37科目、外国語だけでもラテン語、フランス語、ハンガリー語、チェコ語、ポーランド語、イタリア語と多くの言語がある。多民族国家オーストリアの君主として必要なカリキュラムである。水泳、体操、馬術、フェンシング、軍事訓練、フランツは黙々と取り組んだ。

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ウィーンの3月革命

1848年、フランスの2月革命がヨーロッパ中に飛び火してオーストリアでも3月革命が勃発した。群衆はシェーンブルン宮殿前に殺到し、出版の自由、検閲の廃止、自主憲法の制定を要求した。宰相のメッテルニヒは職を辞しイギリスへ亡命。事態は予断を許さなかったが、母ゾフィーは最後の帝王学として、フランツを戦争が行われている北イタリアのラデツキー将軍の元に遣った。

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ラデツキー将軍(1766〜1858)

ラデツキー将軍はナポレオン戦争など多くの戦争に参加し、オーストリア軍の元帥だった。ヨハン・シュトラウス1世が作曲した「ラデツキー行進曲」は将軍を讃えて作曲したもので、今でもオーストリア国民には人気があり、「ニューイヤー・コンサート」では欠かせない一曲になっている。

北イタリアではサルディーニア軍とのサンタ・ルチアの会戦の真っ最中だった。ラデツキー将軍の報告書によればフランツについて「殿下は幾度となく、迫りくる砲火のもとに身をさらされ、しかも平然と落ち着き、冷静そのものであられた。」とあった。その間、ウィーンでは革命軍が宮廷を取り囲み、皇帝たちは都落ちし、メーレンのオルミュッツに逃れていた。急きょフランツは混乱するオルミュッツに馬を走らせる。

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ハンガリーのジェールに進軍する

フランツは一国の危機の中、伯父フェルディナンド帝から帝位を譲位され、フランツ・ヨーゼフ1世として即位することになった。異例の18歳での新皇帝となったフランツは軍服に身を包み、軍靴の足音を響かせながらウィーンの宮廷に入り、直ちに戒厳令を布く。革命運動に身を投じる市民たちは失望したが、ウィーンの平穏を取り戻すためには戒厳令も必要だと擁護する者もいた。

革命運動には一切妥協しなかったが、国民のための経済、行政、教育システムを構築した「新絶対主義」を宣言した。イギリス、フランスに同調せず、絶対君主による絶対主義国家に徹した。その信念は「王権神授説」に基づく。亡命していたメッテルニヒも帰還させた。

独立闘争が続いていたハンガリーの都市ジェールには自ら先頭に立って進軍した。余りにも危険過ぎる前線での指揮ぶりに、付き従った弟マクシミリアンは唖然としたという。鎮圧後は独立を企てたハンガリー人計114人を処刑。「血に染まった若き皇帝」として怖れられた。


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ハンガリーでの暗殺未遂事件

1853年2月、軍事訓練の様子を見ていたフランツは、2週間前から暗殺の機会をうかがっていたハンガリー人に襲撃される。首から胸を突き刺されその場に崩れ落ちた。一時は失明の恐れもある重傷だったが次第に回復する。犯人に対しては刑一等を減じてやりたいとの意向だったが、裁判により死刑になった。

弟マクシミリアンが皇帝の命が救われたことに感謝して新しく教会を建立しようと呼びかけると30万人の市民が賛同、ヴォティーフ教会が建立された。ヨハン・シュトラウス2世は「フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲」「フランツ・ヨーゼフ1世万歳」という行進曲を捧げた。フランツの傷は完治するまで1年を要したが、国民が一つになるきっかけにもなり、激しすぎた闘争心を反省し、君主としての自覚を養ったことだろう。

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エリーザベト(1837〜1898)

フランツの花嫁探しは母ゾフィーが心を砕いていたが、フランツ23歳の誕生日にバイエルン公女ヘレーネとお見合いが行われる。ところが、フランツは一緒にきた自分より7歳下の妹エリーザベトに一目ぼれしてしまった。熱心な懇願に母もバイエルン家も折れて承諾、フランツとエリーザベトは婚約した。

1854年4月、シェーンブルン宮殿の「鏡の間」で招待客3000人の祝賀舞踏会が行われた。舞踏会の指揮はヨハン・シュトラウス2世で、彼は作曲した「ミルテの冠」というワルツを演奏する。皇帝の人気は高まり、夫妻が馬車で町を巡幸すると沿道には大勢に市民が詰めかけた。仲睦ましい二人の間には1男3女が恵まれる。


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ヨハン・シュトラウス2世(1825〜1899)

一方でウィーンは古い城壁に囲まれた首都で、19世紀になり急増する人口を受け入れることが出来ず、首都改造が問題になっていた。フランツの英断により1857年よりウィーン城壁の撤去と近代都市建設の大工事が開始される。20年後を見据えた都市計画により音楽の都、文化都市ウィーンは着々と築かれることになる。

フランツは芸術、文学、音楽には疎かったと言われるが、あらゆる芸術文化を庇護したことでも知られる。ウィーンを舞台に19世紀後半には多くの文化人が活躍している。音楽家としてはヨハン・シュトラウス2世、アントン・ブルックナー、グスタフ・マーラーなど。文学ではフランツ・カフカ、美術ではグスタフ・クリムト、心理学のジークムント・フロイトなどが活躍している。

〜〜さわやか易の見方〜〜

***   *** 上卦は水
******** 困難、悩み
***   ***
***   *** 下卦は雷
***   *** 活動、始め、志
********

「水雷屯」の卦。屯(ちゅん)とは行き悩み、生みの苦しみ。若木が困難に直面し伸びることが出来ないでいる状態。ここから若々しい生命力を発揮し、困難の中に新しい進路を自ら切り開いて行くのである。この卦は4大難卦の一つであるが、新しい世界が始まろうとする時でもあり、悪いことを指すものではない。君子はこんな時こそ国家経綸の志を興すのである。

若い日のフランツは織田信長の勇猛果敢を彷彿とさせる。ナポレオンは時代を味方に大活躍をしたが、フランツの場合は時代が完全に逆風だった。それでも時代に押し流されることなく、650年ヨーロッパの代表選手として君臨した名家の有終の美を飾ったのは流石と言える。それを成し遂げたハプスブルグ家の団結力をも讃えねばならない。

元旦に行われるウィーン・フィルによるニューイヤー・コンサートはシュトラウス一家の作品を中心に演奏される。「ワルツ王」として有名なヨハン・シュトラウス2世は音楽界では「ウィーンのもう一人の皇帝」とも呼ばれる程今でも人気は絶大である。アンコールでは必ず2世の「美しき青きドナウ」と1世の「ラデツキー行進曲」が演奏される習わしだ。オーストリア国民にとってもフランツ皇帝の時代こそ忘れられない時代の故郷なのだろう。

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1861年のロンドン地下鉄工事

イギリスの歴史家ホブズボームは1789年のフランス革命から1914年の第1次世界大戦までを「長い19世紀」と言った。1848年までを「革命の時代」、それから1878年までを「資本の時代」、それから1914年までを「帝国の時代」と名付けた。

イギリスは産業革命に成功し世界の工場と言われ、経済力と軍事力を背景に自由貿易、砲艦外交で東洋やアフリカを植民地にした。その豊かな繁栄と平和は絶頂期に達して、ローマ時代の黄金期を指す「パクス・ロマーナ」(ローマの平和)になぞらへ「パクス・ブリタニカ」と呼ばれた。

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ロンドン万国博覧会(1851年)

第1回万国博覧会開催はパクス・ブリタニカを象徴するするような出来事であり、イギリスの工業力を世界に見せつける一大イベントであった。フランスのナポレオン3世夫妻を始め世界各国から国王や要人が集合した。中でも圧巻だったのはニレの巨木がそのまま収容されている鉄骨とガラスで建設された大パビリオンだった。

この万国博覧会の開会式で、32歳のヴィクトリア女王は「わが生涯での最大の光栄」と挨拶している。夫であるアルバート公は、自ら融資したこの博覧会の熱心なプロモーターでもあった。世界で始めて旅行会社を創ったトーマス・クックは団体割引で入場者を集め大ヒットした。5か月間の入場者は600万人と言われている。

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ヴィクトリア女王とアルバート公

イギリスの繁栄と平和の象徴であったのがヴィクトリア女王(1819〜1901)であり、18歳で即位し1901年まで在位した。夫であるドイツ出身の同年生まれアルバート公とは仲睦ましく9人の子供に恵まれる。おしどり夫婦と子供たちは理想の家族として国民の間では憧れの存在であり、対外的にもイギリスの豊かさと安定を示す存在でもあった。

アルバート公が42歳の若さで病死すると、ショックのあまり女王は以後10年余り喪服で過ごし、公務にも一切出席しなくなった。その後、ユダヤ人首相のディズレーリに励まされ公務にも積極的に参加するようになる。政権は自由党のグラッドストンと保守党のディズレーリが交互に首相に成る二大政党による議会制政治が定着。特に女王の後ろ盾を得たディズレーリは帝国主義的政策を勧め、侵略戦争、植民地拡大を推し進めた。

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反乱軍を大砲で吹き飛ばす死刑

繁栄するイギリス経済を支えていたのは植民地政策だった。犠牲になった多くの国を忘れてはならない。例えばインドである。イギリスが東インド会社によりインドに進出したのは17世紀で、ライバルのフランスを1757年にプラッシーの戦いで退け、インド支配を独占する。インド人から徴税し、綿花を生産させ、イギリスで綿布を大量生産、その綿製品を売りつける。高く売れる染料の藍やアヘンの原料ケシも強制的に栽培させた。

食料生産より儲けを優先させたので、インドでは度々飢饉に襲われた。19世紀を通して2000万人以上が餓死に追い込まれる。1857年にはインド人による大反乱が起るがイギリス軍が鎮圧する。反乱軍の捕虜を大砲で吹き飛ばすという見せしめの処刑を行っている。1877年にはヴィクトリア女王を即位させてインド帝国を成立させ、完全に支配下に置いた。この帝国は第2次世界大戦後まで続いている。

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アロー号を取り調べる清国兵

中国への進出は以前「アヘン戦争はこうして起った」を掲載したので参照して頂きたい。イギリスはアヘンより綿製品を売りたかったのだが、その後も売り上げは伸びなかった。中国製の綿製品はイギリス製に比べても遜色がなかったからである。そこで、もう一度戦争をしかけて開港場を増やそうと考え、そのチャンスを狙うことにした。

1856年に、清国の海賊がアロー号という船でイギリス国旗を掲げて広州港にいるとの情報があり、清国兵が乗り込み逮捕する事件があった。広州の領事だったハリー・パークスは清国兵が船のポールからイギリス国旗を引きづり下したとして「我が国を侮辱した。」とイチャモンをつけた。ヤクザが喧嘩を売るようなものだ。戦争を始めるきっかけになれば理由は何でも良いのだ。

これがイギリスの砲艦外交であり、フランスを誘い連合軍で北京にまで迫り美しい宮殿だった円明園を略奪破壊する。再び清朝を降伏させ、北京条約を結んだ。天津や南京、上海など新たに11港を開港させる。先の南京条約で触れなかったアヘンの輸出も認めさせ、取り締まりも禁じてしまう。世界一の大帝国を誇った清朝はこうして滅んでいくしかなかった。


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開通直後のスエズ運河

大英帝国と呼ばれたイギリスの勢力は地球を覆うほどだったと言える。主だった植民地だけでもカナダ、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド。エジプトの財政難に乗じて完成したスエズ運河も買収した。運河の警備を名目に軍を駐屯させ、事実上エジプトも支配下に置いた。


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ジャガイモ飢饉

豊かさを極めた「パクス・ブリタニカ」の影は国内にもあった。19世紀のイギリスは正式の国名は「グレート・ブリテン・アンド・アイルランド連合王国」という。西側にあるのがアイルランドである。工業の発達が遅れ、貧しい農民が多いアイルランドでは主食はジャガイモだった。このジャガイモに伝染病が発生し大流行したのだ。本国が豊かさを極めていた1845年からアイルランドでは「ジャガイモ飢饉」という大規模な飢饉に襲われていた。

ところが本国政府は経済発展に夢中になるばかりで、同胞に対する救済を後回しにしてしまった。その結果、数年の間に餓死者が続出し100万人以上にもなった。80万人が飢えから逃れるためにアメリカに移住した。病死も含め、850万人いた人口が約半数にもなったという。ケネディ大統領やウォルト・ディズニーの先祖も飢饉から移住したアイルランド人である。1997年、ブレア首相が追悼集会に出席し、イギリス政府の要人として始めて謝罪したという。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は天
******** 陽、剛、大、強
********
***   *** 下卦は地
***   *** 陰、柔、小、弱
***   ***

「天地否」の卦。上に天、下に地といえば、最も自然のように思えるが、易では最も不安定な状態をいう。何故なら、天はあくまで上を向き、地はあくまで下を向く。すると上下はますます交わらず離れていく。上下関係に意志の疎通がなく、和合がないのである。政府と国民、経営者と社員、先生と生徒、和合がなければ破滅の道を辿ることになる。

ヴィクトリア女王の君臨した時代はイギリスの絶頂期であり、同時にヨーロッパの絶頂期だったと言えるだろう。しかしその絶頂はアジア、アフリカ、南米などの犠牲の上に立っていたとも言える。この時代は白人は有色人種より優越することが当然のように考えられていた。人類のDNAは人種に何の優劣の差がないことは後に証明される。20世紀になって最初にそのことを証明したのが日本人だったことが嬉しいではないか。

長州の高杉晋作は1862年の上海を見聞した。日本人にとっては最大の大国だった中国人がヨーロッパ人に奴隷のように使役されている姿を目の当たりにした。「尊王攘夷などと言っている場合じゃない。」目を覚ました日本人のその後の行動は見事なものだった。清国にイチャモンをつけアロー戦争に持ち込んだハリー・パークスはその後公使として来日してきた。下関で晋作とも会談している。日本人には優れた人物がいると舌を巻いたことだろう。

アメリカの飛躍的発展

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仏領ルイジアナ(緑部分)

独立後、急速に発展し、やがて世界の王者に君臨することになるアメリカにはどんなドラマがあったのだろうか。

ヨーロッパではフランス革命に続いてナポレオン旋風が吹き荒れ、ナポレオン後にウィーン体制が敷かれる。1848年にはフランスでは2月革命により共和制が実現した。各国で民衆の独立運動、統一運動は激しくなり、イタリアやドイツが統一される。各国は先進国イギリスに追い付き追い越せと産業振興に力を注ぎ、国力を拡大していた。



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ジェファーソン(1743〜1826)

その間、大西洋の向こう側ではアメリカが劇的に発展していた。アメリカがイギリスとの独立戦争に勝利し、合衆国として誕生したのが1787年。その頃は東海岸からミシシッピ川までであったが、1803年フランスの権力を握っていたナポレオンは仏領ルイジアナをアメリカに売却した。イギリスと戦いヨーロッパ支配を目論むナポレオンは将来のアメリカを味方にしようとしたのだ。アメリカの領土は一気に2倍になった。時のアメリカ大統領は独立宣言の起草文を作成したことで知られるジェファーソンである。

テキサスやカリフォルニアのある西側はメキシコ領だった。そこにアメリカの移住者が増えた結果、1846年にテキサス共和国として独立し、合衆国として併合された。さらにメキシコと戦争を起こし、1848年までにカリフォルニアとニュー・メキシコも合衆国の領土になる。カリフォルニアの北にあるオレゴンは1846年にイギリスより併合し、ほぼ現在のアメリカ領を確保している。

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砂金採り

1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されたというニュースは一攫千金を夢見る移住者を殺到させた。西部開拓史の象徴的な出来事でもあり、アメリカン・ドリームの由来でもある。ゴールドラッシュの影響は大変なもので、サンフランシスコは人口数百人の辺境の村だったが、あっという間に数十万人の町になった。中でも1849年に移住した人たちを49(フォーティーナイナーズ)と言って生粋のカリフォルニア人を表す。アメリカン・フットボールのチーム名にもなっている。

各地からサンフランシスコ港への定期航路が出来、大陸横断鉄道も計画された。住民は増加し大金を手にした工夫を目当てに酒場、売春宿、賭博場、あらゆる商売で賑わった。喧嘩や殺人は日常茶飯事のことで治安などの行政は追いつかない。住民は自衛のために銃を持ち自分の身は自分で守るしかない。それが今日まで続くフロンティア精神で、銃規制に反対するルーツである。

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バッファロー

もともとアメリカ西部の大草原はバッファローの生息地だった。スー族と言うネイティブ・アメリカンは衣食住全てを依存して暮らしていた。19世紀始めにはバッファローの生息数は6千万頭だったと推定されているが、19世紀の末にはわずか1000頭にまでに激減している。それはいかに西部開拓がもの凄い勢いだったかを証明するもので、バッファローとともにインディアンたちも生活を奪われ、悲惨な目にあわされたことを物語る。

大陸横断鉄道が完成すると東西の物流は活発となり、さらに西部開拓は進んだ。テキサスから牛を追いかけ鉄道に運ぶカウボウーイの姿が目に浮かぶ。法秩序が間に合わない西部では無法地帯でもあり、住民たちは自衛のため保安官を雇い、リンチ法などを自ら作って治安を守った。


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ジャクソン(1767〜1845)

西部開拓時代を代表する大統領が1829年から37年までの7代目のジャクソンである。西部出身で粗野で荒くれ男ではあったが、庶民的で普通選挙制度を広め民主主義を発展させた。この時代を「ジャクソニアン・デモクラシー」とも呼ばれた。ただ、インディアンや黒人にとっては鬼より怖い大統領だった。先住民に対しては強制移住政策で有無を言わさず滅亡に追い込んだからである。

この西部の男ジャクソンは軍人時代には各部族のインディアンを徹底的に迫害したことで知られる。モンロー大統領のもと、セミノール族対策には自ら司令官を志願し、大量虐殺の方針を採る。徹底的な焦土作戦を決行、とくに子供を産むからと女であれば子供でも優先的に殺害した。セミノール族はその残忍冷酷ぶりにジャクソンを「シャープ・ナイフ」と呼んで恐れたという。

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綿花プランテーション

驚異的スピードで発展し続けてきたアメリカだったが、1850年代になった頃に南北の対立が激しくなってくる。理由は産業の成り立ちにある。北部は商工業が中心であるのに対して南部は綿花を中心にした大規模農場プランテーションであった。南部としては綿花を主にイギリスに買ってもらっている。ところが北部の工業製品にとってはイギリス製品がライバルなのだ。

そこで北部はイギリス製品に関税をかけて自分たちを保護するよう政府に働きかけていた。するとイギリスはそれなら南部からの綿花にも関税をかけるぞ言ってきた。南部はそんな保護貿易は困る。あくまで貿易は自由主義が良いと主張する。そこに黒人の奴隷制度が問題になってくる。


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リンカーン(1809〜1865)

それまでどの大統領も奴隷制度は当然のこととして問題にしなかったが、南北の対立が奴隷制度を認めるか認めないかの対立に置き換わった。奴隷を認める州を奴隷州、認めない州を自由州と言うようになる。次第に対立はエスカレートし、新しく州が出来ようとすると奴隷州か自由州かで殺人まで起るようになる。

1860年、ついに大統領選挙の争点になり、奴隷制度に反対する北部のリンカーンが当選した。すると南部11州は新たに「アメリカ連合国」を結成した。1861年、大統領に就任したリンカーンはこれを許さず南北戦争に突入する。しかしリンカーンは南部の独立に反対したのであり、奴隷を解放することには賛成していない。どちらでも良いからアメリカは一つであるべきだというのが彼の持論だった。

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ゲティスバーグの戦い

戦争は激戦を極め双方戦死者が増えるばかりであった。リンカーンは戦争終結と奴隷制度廃止は切り離すことは出来ないと判断し、北軍に黒人兵を18万人採用し1863年には奴隷解放宣言を出した。南北戦争の勝敗を決定づけたのは1863年のゲティスバーグの戦いである。壮絶な戦いにより南北合わせて4万5千人の戦死者が出る。

この戦闘の後、戦死者追悼集会が開かれ、そこでリンカーンが演説したのが「人民の人民による人民のための政治」という有名な「ゲティスバーグの演説」である。その2年後にようやく戦争は終結した。南北戦争の戦死者は両軍で61万8千人。この戦死者数は第2次世界大戦の戦死者数の約2倍でアメリカ史上最も多くの犠牲者を出したことになる。しかし、リンカーンは終戦の5日後に南部出身者により暗殺された。56歳だった。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は火
***   *** 太陽、文化、文明
********
***   *** 下卦は地
***   *** 大地、陰、
***   ***

「火地晋」の卦。晋は進む、昇る。旭日昇天。地上に太陽が昇っている象である。天の時、地の利、人の和、全ての条件が整い、能力をフルに発揮するのである。あわてることはない。やりたいことは全て叶う。

19世紀のバッファローを考えてみたい。6千万頭いたバッファローがほぼ絶滅し、19世紀末にはほぼ同数のアメリカ人に入れ替わったことになる。そして20世紀はアメリカの時代だった。アメリカの飛躍的発展は世界史上稀に見る奇跡の出来ごとだろう。しかし変化の法則では興るものはやがて衰退することは必定である。世界に君臨したアメリカであるがこの法則から逃れることは出来ない。

アメリカに替ってこれから君臨するだろう国は何処だろうか。それはかつて君臨しており、その後200年間辛酸を舐めてじっとしていた中華民族だろう。大きな流れで見ると、西洋に傾いていた陽がこれからは東洋に傾いて来ることだろう。世界史的に考えると民族の興亡、宗教の興亡、人種の興亡もある。西洋が輝いた時代は既に終盤に入り、もう既にアジアの時代が始まっている。






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