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マッツィーニ(1805〜1872)
しばらく忘れられていた存在だったイタリアも独立へのドラマが始まった。ローマ帝国で名高いイタリアであるが、その帝国崩壊後は1000年以上も統一されることはなかった。ローマやミラノ、フィレンチェ、ヴェネツィアといった都市はそれぞれ文化の発展はあったが、其々の都市はフランスやハプスブルグ家の支配が続いでいた。しかしナポレオンの出現後、ヨーロッパ中で民族運動や統一運動が盛んになる。
1848年、フランスで2月革命が起るとイタリア各地でも独立運動に火がつく。その中心になったのがサルデーニャ王国・ジュノヴァ出身の弁護士・マッツィーニだった。若いころから独立運動に参加し、ロンドンで労働運動を学び「青年イタリア」というグループを結成していた。「ローマ共和国」を旗揚げ、独立を呼び掛けたが、フランス・ナポレオン3世によってあえなく潰され、関係者は海外に亡命、ローマにはフランス軍が駐屯することになる。
青の部分がサルデーニャ(1769年)
1849年、オーストリアからの独立を目指すロンバルト・ヴェネト王国を支援し、イタリア統一への先頭に立ったのがサルデーニャ王国の国王カルロ・アルベルトだった。サルデーニャ王国は地中海の島とフランスに接する領土を持ち、立憲君主制国家として自由主義的憲法、教育の充実、工業化が進み最も近代化されていた。一時はオーストリア軍を退けたが、共和制を目指す独立運動家と対立している間にオーストリア軍の反撃に遭い敗戦、失脚した。
エマヌエーレ2世(1820〜1878)
失脚した父王の後を継いだエマヌエーレ2世が首相に任命したのがカブールだった。
カブール(1810〜1861)
カブールはフランスとオーストリアの両大国の支配を脱し、独立をするためにはフランスに協力を仰ぎ、オーストリアと戦うより道はないと考えた。
1853年にロシアとオスマントルコとの間でクリミア戦争が起る。ロシアの南下を阻止したいイギリスとフランスは参戦する。そこでカブールはイギリスとフランスに恩を売るために1万5千人の援軍を送ることにした。兵士たちに「これがイタリア独立の第一歩だ。」と激励した。1856年、戦争終結後のパリ講和会議でカブールは独立への協力を訴えた。ナポレオン3世との間に「プロンビエールの密約」を結び、オーストリアと戦争になった時はフランス軍からの援軍を約束させた。
ソルフェリーノの戦い(1859年)
1859年、用意周到の体制を整えた上で、サルデーニャ軍は再びロンバルト・ヴェネト王国の独立を求めてオーストリア軍と一戦を交える。オーストリア軍は14万名の大軍を動員した。サルデーニャ軍は7万名だったが、フランス軍は15万名の援軍を送った。激戦の末、連合軍はオーストリア軍をソルフェリーノの戦いに勝利、西側半分のロンバルディアを割譲する。
しかしここでナポレオン3世が約束を破る。ナポレオン3世はこのまま進軍し、東側ヴェネト王国もサルデーニャのものになると、フランスの南に強大な国が出来てしまい得策ではないと考えた。そこでオーストリアと単独交渉し、戦いを終わらせてしまう。ナポレオン3世の裏切りにはショックを受けたが、イタリア中部のパルマ、モデナ、トスカーナ各王国が住民投票の結果、反オーストリアでサルデーニャ王国に合流する意思を表明してきた。
カブールはイギリスを味方にナポレオン3世と再度交渉する。これ以上支配を広げないことと、サルデーニャのサヴォイとニースの割譲を条件に承認を得る。ここでサルデーニャ王国のイタリア統一戦争は北部と中央イタリアの支配で中断してしまった。
ガリバルディ(1807〜1882)
ここにニース出身で青年イタリアの一員だったガリバルディが登場する。ガリバルディはローマ共和国旗揚げにも参加し、その後南米に亡命、アンデスの革命家ソモン・ボリバルとも行動し独立運動のスキルを身につけて帰国していた。カブールが故郷ニースをナポレオン3世との交渉で割譲したことには激怒していた。行き詰った統一運動に自ら1000人の義勇兵を組織して2隻の船でシチリア島に向かった。イタリア半島の南から統一運動を完成させるためである。ガリバルディのトレードマーク赤シャツから「赤シャツ隊」と呼ばれた。
シチリア島はイタリア半島の南半分を支配するナポリ王国の領土だったが、その支配に抵抗する農民運動が起きていた。「赤シャツ隊」はたちまち島を占領、南イタリアに上陸した。義勇兵は次第に膨れ上がり2万5千名にもなった。半島を北上し、ナポリ王国軍を滅ぼしてしまう。ここまでくれば後は教皇領のあるローマだけである。しかしローマにはフランス軍が駐留している。フランス軍と戦闘になったら大変と肝を冷やしたのはカブールだった。
テアーノの握手(1860年)
カブールはガリバルディを止めさせるため、急遽エマヌエーレ2世に出陣を願い出る。エマヌエーレ2世は軍を率いて南下した。国王対ガリバルディの対決も予想されたが、ガリバルディは征服したナポリ王国をそっくり国王に献上することを決断した。青年イタリアの目的は共和制だったが、現実的には時期尚早であることも感じたのだろう。テアーノにてガリバルディは臣下の礼を執ると国王は固い握手で応じた。
ほぼイタリアは統一され1861年2月、エマヌエーレ2世はイタリア王国の成立を宣言し初代イタリア国王に即位する。(その年の6月、カブールが病死する。)残るヴェネトは1866年に、ローマ教皇領は1870年に編入され、ローマがイタリアの首都となった。青年イタリアを創ったマッチーニ、サルデーニャ首相カブール、赤シャツのガリバルディの3人はイタリア統一の3傑と呼ばれている。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は沢
******** 喜び、親睦 ******** *** *** 下卦は雷 *** *** 活動、発動、志 ******** 「沢雷随」の卦。随は従う、随行、随喜である。人に従うことも主体性を持って、信念に従って決断することが大切である。実力のある者が一歩譲って自分以下の者に従うこともある。その場合でも真摯な態度で従うなら良い結果に恵まれる。また自分の盛気も衰えることもあるので謙虚な姿勢は忘れてはならない。
ガリバルディは元船乗りだったこともあり、世界中を駆け巡っている。32歳でブラジルに居た頃、18歳の牧童の娘アニータと熱愛の末結婚している。そのアニータは義勇兵たちに慕われた女傑として知られ、「ローマ共和国」壊滅後はフランス軍に追われ、イタリア各地を転戦する中で戦死した。ガリバルディの晩年は叙勲や議席を一切断り、地中海の小島・カプール島で農業をしながら青い海を眺めて家族とともに余生を送った。
ガリバルディの生き様は幕末の坂本竜馬を思い出す。南イタリアで集まった義勇兵に、「おまんら、北とか南とか言ってる時じゃないぜよ!イタリアという一つ国が出来る時ぜよ!」と言ったかどうか。その言葉には人を振るい立たせる力があったのだろう。ガリバルディが南イタリアで大活躍した頃は、日本では龍馬が脱藩した頃である。同時期に活躍した東西の英雄には共通する心意気があったようだ。
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名画に学ぶ世界史
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ビスマルク(1815〜1898)
オーストリアを退け北ドイツ連邦を創ったプロイセンであるが。ドイツ統一にはハプスブルグ家との繋がりが強い南ドイツの10か国をも傘下に入れねばならない。首相ビスマルクは外交に手を尽くすが、その牙城は容易なものではなかった。ドイツ全体が一つに結束するには外国との戦争により、民族意識が高揚するチャンスより方法はないことを改めて知った。
イサベル2世(1830〜1904)
そんな折、1868年兼てより内紛が続いていたスペインの王室でクーデターが起り、女王のイサベル2世がフランスに亡命してきた。スペインではカトリックの王家の中から新国王の選定をしたところ、ホーエンツォレルン家の一族にあたるレオポルトが候補になった。ホーエンツォレルン家はプロイセン王・ヴィルヘルム1世の家系でもある。
ビスマルクはスペイン政権の実権を握っているプリム将軍と折衝し、レオポルトのスペイン王立候補が正式に要請されるに至った。ところがフランス皇帝・ナポレオン3世から反対の声が上がる。フランスは16世紀始めフランソワ1世の時代にドイツとスペインのハプスブルグ家により挟み撃ちにされた経験があった。その二の前は何としても避けたかったのだ。
ナポレオン3世(1808〜1873)
ナポレオン3世の意向を耳にしたヴィルヘルム1世はもともと乗り気ではなかったので辞退する。レオポルトも特に執着せず辞退した。余りにあっさり辞退したため、ナポレオン3世はフランス大使に辞退への挨拶とともに「将来に渡って王位継承者をホーエンツォレルン家から出さない。」との約束を取り付けるよう命じた。
大使がドイツ西部の温泉地エムスに静養中のヴィルヘルム1世を訪ねると国王は「辞退すると言ったのに将来への約束をしろとな。」と不快感を示した。その話を電報で知ったビスマルクは「しめた!」と手を打った。戦争開始にはしかるべき大義名分が必要なのだ。「これは戦争にもっていける口実になる。」フランス大使がドイツを侮辱したように話を脚色すれば良いのだ。
エムス電報事件記念碑
ビスマルクは非礼なフランス大使がドイツを軽く見て国王を立腹させたと、国民がフランスに敵愾心を持つように何度も文面を練り上げ、新聞に公表した。かねてからくすぶっていた両国間の敵対心は煽られ、両国の世論は一気に戦争へと傾いた。「かつてのナポレオンは英雄だったが、今の皇帝はただのエロ爺だ。フランス国民も軟弱で腰抜けばかりだ。」ドイツの週刊誌は書きたてた。
ナポレオン3世は既に62歳で体調も悪かった。まさか戦争にまで発展するとは考えてもいない。方やプロイセンは戦争に備えて用意周到である。ビスマルクは相手国より宣戦布告するよう挑発を繰り返した。フランス国民も兵を挙げない皇帝にいらだってきた。伯父のナポレオンに比べられ、窮地に立ったナポレオン3世はついに1870年7月、宣戦布告し戦争に突入した。
普仏戦争(1870年)
開戦となると南ドイツの諸王国も挙ってドイツ軍へ兵隊を送り全ドイツとして一つになった。ビスマルクの思惑通りだった。野戦砲と鉄道輸送を巧みに活用したプロイセン軍の精強さは到底フランス軍の及ぶものではない。防戦一方となったフランス軍、ついにナポレオン3世は降伏、自ら捕虜となった。
ビルヘルム1世の皇帝即位式 ビスマルクたちプロイセン首脳たちの真の目的は戦争ではない。この戦争勝利に沸き立つ勢いをドイツ統一に結び付けることにある。ナポレオン3世投降の後も戦争は続けられ、パリを包囲した。ビスマルクはヴェルサイユ宮殿においてバイエルン王国などの南ドイツ王国代表たちと統一ドイツにむけ必死の説得を行った。ついに1871年1月、ヴェルサイユ宮殿・鏡の間においてヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が挙行されることになる。
国王は「帰国してからで良いではないか。」と言ったが、ビスマルクは「このチャンスを失えば何時になるか解りませんよ。」と強引に説得した。かくして、敵国フランスにおいて即位式が行われた。国王はドイツ国民への布告を読み上げ、「連合したドイツ諸侯と自由都市の要請によってドイツの帝位につく。」と宣言した。4月、ドイツ帝国憲法が発布され、新帝国の体制が定まった。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は火
*** *** 文化、文明、英知
********
*** *** 下卦は雷
*** *** 活動、出発、志
********
「火雷噬こう」の卦。噬(ぜい)こうとは噛み合わせのことである。卦の形は上と下の陽爻は上顎と下顎を表し、中にある一つの陽爻は障害物を表している。つまり、噛み合わせをしようとした時にそれを邪魔をするものがあり苦労する様である。組織と組織が合併しようとする時にも、必ずそれを妨げようとする者がいる。それを成し遂げようとする者は余程の覚悟と忍耐が必要である。
ドイツ統一に向かって全力を尽くすビスマルクに障害は次々やってきた。伝統や宗教が違うと南ドイツの王たちは反対した。参謀総長のモルトケは「政治家は戦争に口を出すな。」と言ってきた。国王さえ、「君のやり方は邪道だ。正義ではない。」と言ってきた。ドイツ統一はあらゆる障害を跳ね除けて、強引に目的に向かって突き進んだビスマルクがいなかったら実現しなかったと言われる。
ドイツ統一の3年前に日本では明治維新が始まった。1873年(明治6年)3月、岩倉使節団がドイツを訪問した。ビスマルクは使節団に「大国の植民地獲得には気を付けなさい。外交は弱肉強食なのだ。貴国は富国強兵で国力をつけることだ。」と語り使節団を大いに励ました。その一員だった大久保利通は目から鱗がとれ、これから進むべき日本の青写真がはっきり見えたという。その青写真に沿って明治日本は近代化に向け快進撃を始める。
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F・ヴィルヘルム3世(1770〜1840)
1806年、イエナの戦いでナポレオン軍がプロイセン、ロシア軍を破り、翌年「ティルジット条約」を締結した。もともと軍事強国を誇るプロイセンにとって、自分の領土にナポレオンの弟を国王とする「ウェストファリア王国」なるものを創られ、支配していたポーランドを「ワルシャワ大公国」として奪われたことは屈辱に堪えないことだった。
「ティルジットの屈辱」と言われ、王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は無能の王と言われてしまう。哲学者フィヒテは占領下のベルリンで「ドイツ国民に告ぐ」と題して講演を行い国民の民族意識を喚起させた。誇り高きドイツ人が復讐に燃えたことは言うまでもない。ナポレオン軍がロシアの冬将軍に敗れた翌年1813年に、プロイセン軍はオーストリア、ロシア、スウェーデン軍とともにライプチヒの戦いにてナポレオン軍を破った。
フィヒテ(1762〜1814)
翌年、ナポレオンはエルバ島に流されるが、半年後に復活する。プロイセン軍はイギリス軍との連合で1815年のワーテルローの戦いで雌雄を決し、最終場面でのプロイセン軍の奇襲で勝利した。ついにナポレオンの時代はセントヘレナ島流刑で終わり、ウィーン体制が敷かれ領土は元に戻された。
プロイセンは近代化を目指すがイギリス、フランスに追いつき追い越すためにはドイツの統一が必須だった。何故なら、ドイツは大小30の君主国に別れる連邦国家であったため、商品を運ぼうとすると国境を通過するたびに関税を払わねばならない。これでは経済の発展はありえない。そこで1833年、プロイセンが中心になって「ドイツ関税同盟」を結成、関税なしでの流通、自由貿易を行う。
ベルリン3月革命
1848年、フランスで起った2月革命に続いて、プロイセンではベルリン3月革命が起き、翌年オーストリアではウィーン3月革命が起った。王政を守るウィーン体制を支えたオーストリアの宰相メッテルニヒは亡命し、自由主義を求める国民運動が高まる。「フランクフルト国民議会」に於いて自由主義の憲法制定が議論される。
同時に議論されたのが、ドイツ統一であり、オーストリアを中心にする「大ドイツ主義」で行くか、オーストリアを除外してプロイセンを中心にする「小ドイツ主義」で行くかの大議論が始まる。何と言ってもヨーロッパに覇を唱えたことのあるハプスブルグ家のオーストリアが大国ではあるが、この頃は東のハンガリー、ベーメンなど他民族を支配しての勢力になっていた。
ヴィルヘルム1世(1797〜1888)
1861年、兄王崩御にともない64歳で即位したヴィルヘルム1世は王子の頃から軍制改革を行いプロイセンの軍事力によるドイツ統一を目指していた。かねてより信頼しともに軍制改革に取り組んだローン大将を陸軍大臣に、戦略の天才と言われたモルトケを参謀総長に任命する。「小ドイツ主義」には反対する勢力が多かった議会を説得するためにヴィルヘルム1世が首相に任命したのがビスマルクだった。
ビスマルク、ローン、モルトケ
こうしてドイツ統一に向けての3本の柱が揃うことになった。ビスマルクは議会にて演説した。「統一問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によって解決されるものである。」この演説は自由主義者たちから批判を浴び、以後ビスマルクは「鉄血宰相」の異名を得た。
1864年、北ドイツとデンマークの間にあるシュレスヴィヒとホルシュタインの地方を廻って領土紛争が起った。出兵に際し、プロイセン軍だけでも足りるが3人はオーストリア軍の実力を知るためにオーストリア軍に援軍を求めた。デンマーク戦争に勝利してシュレスヴィヒはプロイセンが、ホルシュタインはオーストリアが獲得した。
このデンマーク戦争で3人はオーストリア軍の装備、指揮系統、指揮官の能力、兵士の士気をつぶさに観察した。軍制改革によりプロイセン軍は新型武器の装備、鉄道、電信の活用などでオ−ストリア軍を圧倒していることに自信を持つ。「小ドイツ主義」にはオーストリアとの戦争に勝つのが先決である。デンマーク戦争の処分問題からプロイセンとオーストリア間に対立が生じると、ビスマルクは巧みに若いオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を挑発して戦争に持ち込んだ。
ケーニヒグレーツの戦い
1866年7月、モルトケの指揮するプロイセン軍はオーストリア軍を圧勝した。ホルシュタインその他を併合、ついにドイツ統一の主導権は「小ドイツ主義」のプロイセンが握ることになった。敗れたオーストリアはハンガリーとの二重帝国を目指すことになる。
1867年、プロイセンはドイツ連邦の約3分の2。22の領邦で北ドイツ連邦を結成した。しかし一体感になるには未だ道半ばであり、統一にはもう一つ領邦国を納得させる文句のない決定打が必要だ。ヴィルヘルム1世は3閣僚らと協議、60年前の敵フランスを討つことにする。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は水
********
*** ***
*** *** 下卦は地
*** *** 陰
*** ***
「水地比」の卦。比は人が並んでいる象形文字で親しむという意味がある。下から5番目の爻は天子の位であり、この位だけ陽の爻になっている。これは良き指導者のまわりに人々が慕い寄っている様子を表している。大きな目的を持つときは良き指導者に全員が一致協力する必要がある。紆余曲折はあるが、指導者は協力者を最後まで信じて任せることが大切である。
ヴィルヘルム1世はドイツ統一を成し遂げたとき、「ローンが剣を研いで準備し、モルトケがこの剣を振るい、ビスマルクは外交で今日の勝利に導いた。」と自分の功績ではなく3人の功績であると語った。また、ビスマルクを「帝国にとって私よりも重要な人物である」と認め、ビスマルクの幾度もの辞職願いを「首相は余人を持って代えがたい」として却下し続け、崩御するまで25年間首相として用いた。
ハプスブルグ家のオーストリアはもともとドイツを代表する最大勢力であった。今でも言語はドイツ語である。19世紀の後半にドイツ統一をプロイセンに譲ったのは歴史がその役目を交代させたのだろう。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は最後の皇帝と言われる。首都はウィーン。今では音楽の都、文化都市として訪れる者を魅了して已まない。 |
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サン・シモン(1760〜1825)
ナポレオン3世は「馬上のサン・シモン」といわれる程、その社会主義思想に影響を受け、実践しようとした。サン・シモンはフランスの貴族として生まれ、宮廷人としての教育を受けた後、16歳でラファイエットの義勇軍士官としてアメリカ独立戦争に参加した。アメリカの産業階級の勃興に感銘を受け、帰国後に産業、商業、社会、資本家、労働者について研究を重ね、サン・シモン主義の実証主義社会学を唱えた人物である。
皇帝となったナポレオン3世はその思想を実践しようと、国民に関心を寄せ、国民が喜ぶ様に特に力を注いだ。思い切った自由貿易政策に転換し、関税の大幅引き下げ、輸入禁止項目の廃止などを実行した。それによりフランス産業はイギリス産業との競争にさらされたが、技術革新が進み、金融、社会資本の整備が進み、首都機能の改造も進んだ。
パリ万博・産業館(1855年)
フランス資本主義社会が離陸する時代を迎え、産業革命が大いに進んだ。投資銀行の設立、鉄道の普及、水道、下水道の整備、道路網の整備、パリ大改造と言われた。万国博覧会の開催も大成功だったし、彼の治世は時代の上げ潮にも乗って好調に推移したと言って良いのではないだろうか。
ハリエット・ハワード(1823〜1865)
一方で問題にされるのがナポレオン3世の異常ともいえる女性関係だった。側近たちにとって困った問題は、44歳になり皇帝に即位しても独身のままでは跡継ぎさえいない。友人でもある側近・ペルシニーは何とか然るべきヨーロッパ君主家から皇后を迎えようと八方手を尽くしていた。ペルシニーの努力により、スウェーデンの王室とイギリスのヴィクトリア女王の親戚から縁談を取り付けることが出来る。
しかし本人は相変わらず宮廷に女性を出入りさせる。お相手は女優、女官、社交界の女性、高級娼婦など手当たり次第だった。特別お気に入りはハリエット・ハワードという元女優でイギリスの富豪の娘だった。ロンドン亡命時代からの関係で、パトロン的存在でもあり、選挙では財政的援助も受けていた。
ウジェニー皇后(1826〜1820) そんな時、舞踏会で3世はスペイン貴族テバ伯爵の娘であるウジェニーと知り合い結婚することになる。ウジェニーの父が大のナポレオンファンだったことが決め手になった。ウジェニーは熱心なカトリック信者であり教養豊かで容姿も美しい。その美しさの評判はヨーロッパ各国にも伝わる程で各国の王侯貴族からの求婚もあったが断り続けていたという。
しかし皇帝一族、内閣、宮中関係者は挙って反対した。スペインの伯爵令嬢でもその地位に相応しくないというのだ。ヴィクトリア女王も身内の縁談を断られ、不快感を示したという。しかし結婚後に公式訪問するとウジェニーの優雅さは女王からも愛され、以後親密な関係になった。
ナポレオン3世とウジェニー
1853年、愛し合って結婚した二人だが、ウジェニーには早速試練が待っていた。ウジェニーが懐妊し、流産した時、気落ちするウジェニーに気を使うこともなく、3世は浮気を始めた。別れた筈のハリエットとも寄りを戻した。激怒したウジェニーは3世が寝室に入ることを拒否したという。
その3年後に待望の4世が生まれると、3世は大いに喜び、政治犯3000人を恩赦した。ウジェニーは学識もあり、政治的センスもあったので、3世の相談相手にもなる。1856年に3世暗殺未遂事件が発生すると皇帝不在中にはウジェニーの摂政が布告され、以後ウジェニーの政治介入が本格化していった。
クリミア戦争(1854年)
ナポレオン3世の政治は国民の支持を受けて、大国フランスの威信を発揮することによって成り立っているので、外交は積極的、戦争も辞さなかった。イギリスと組んで、ロシアの南下政策を阻むクリミア戦争は3世の名声を高めた。植民地拡大にも積極的にかかわり、中国とのアロー戦争、インドネシア出兵、ベトナム進出、アフリカのアルジェリア、セネガルへと植民地帝国を形成した。
失敗はイタリアのサルデーニャ王国を巡るオーストリアとの一貫しない講和でサルデーニャの反発を招いたこと。アメリカの南北戦争に乗じてメキシコ出兵するもアメリカの反発で撤兵し、メキシコ皇帝として自らお願いしたオーストリアのマクシミリアンを見殺し処刑されたことだった。この失敗は皇后・ウジェニーが深くかかわっているという。
スダンの戦いに敗れる(1870年)
60歳を過ぎた頃、3世は持病の膀胱炎が悪化し排尿もままならない状態だった。そこにドイツ統一を目指して台頭してきた鉄血宰相ビスマルク率いるプロイセン王国とスペイン王位継承問題で対立、衝突が不可欠となってきた。戦力はどう見てもプロイセンが上だった。あくまで強気なウジェニーは3世にこう言った。「貴方は好きなだけ生きたわ。この戦争で立派に戦死しなさい。そうすれば貴方は英雄に成れます。貴方が英雄になれば、国民は私たちの息子を4世として歓迎するわ。いいわね、絶対に戦死するのよ!」
1870年9月3日、14歳の皇太子と共に戦場スダンに出て指揮を執った3世からウジェニーに電報が届いた。「軍は敗れた。軍を救わんがため、私は投降する道を選んだ。」 ウジェニーは一読するや、叫んだ。「何で、死なないのよ!捕虜になったらお仕舞じゃないの。馬鹿、馬鹿、馬鹿〜〜」
投降した3世とビスマルク 翌日、パリ民衆は立法議会になだれ込み議長に迫り、「帝政廃止」を宣言させた。ウジェニーはいち早く宮殿から脱出し、イギリスに亡命した。捕虜となった3世は半年間捕囚生活を送った後、解放されイギリスに渡った。元皇帝夫妻と息子ルイはイギリス王室には鄭重に歓迎され、ドーバー海峡に面した郊外で生活。3世は2年後に亡くなる。
息子ルイは王室に感謝しイギリス軍に志願、1879年のアフリカでのズールー族との戦争に参加した。ウジェニーは「もう私には貴方しかいない。絶対に死なないで!」と嘆願したが、23歳の若さで戦死した。ウジェニーはハンプシャーのファーンバラにある別荘で静かな余生を送り、94歳で亡くなる。夫と息子の眠る聖マイケル修道院に埋葬された。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は沢
******** 笑う、叫ぶ
********
******** 下卦は天
******** 陽、剛、大
********
「沢天夬」の卦。夬(かい)は決壊、決裂の決と同じ。最後の決断である。また、独裁者を断罪するという場面や、バブルが崩壊するという場面も考えられる。我慢に我慢を重ねてきた民衆が我慢の限界を超え爆発することもある。政治のリーダーはそのような場面を迎えても、私利私欲を去って正義を貫く覚悟が求められる。
「絶対に死ぬのよ」と言って送り出した夫は生きて帰った。「絶対に死なないで」と言って送り出した息子は戦死した。ウジェニーさんよ、そこまで貴女の思い通りにはなりませんよ、世の中は。それにしても、皇帝たるものはこんな場面にも戦場に行かねばならないのか。始めはあんなに人気があったのに、捕虜になったときの民衆の態度はこんなものなのか。民衆心理とは残酷なものである。
ナポレオン3世は周囲の顰蹙を買う程の好色で、女狂いとも言われた。実のナポレオンの庶子であるアレクサンドル・ヴァレフスキーは外務大臣としてクリミア戦争後の外交にも活躍した。その美人の妻・マリアンヌも3世には追いかけ回された。ある時、アレクサンドルが妻の部屋に行くと、そこに3世がいたという。3世が英雄に成れなかった原因は3世を怨む女性たちが英雄にはさせなかったのだろう。
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ナポレオン3世(1808〜1873)
19世紀中ごろのヨーロッパは「産業革命」「資本主義の発達」「植民地争奪」と経済発展と同時に列強の派遣争いが始まり、やがて到来する帝国主義時代を予想させる。とくにフランス・パリでは「自由主義」「ロマン主義」が一気に開花し、ヨーロッパ中から音楽家、画描き等が集まる芸術の都となっていた。最もパリがパリらしい華のある時代だったのではないだろうか。そのパリを舞台に活躍したナポレオン3世は時代を象徴する人物でもあり、兎角スキャンダラスなイメージをつくったフランスの政治家の先駆けとも言える。
ナポレオンの全盛時代に生まれているが、その後40歳までは、亡命生活、投獄生活、脱獄、放蕩生活など彼の人生は波乱万丈で中々の苦労人でもある。マルクスやヴィクトル・ユーゴーからは好色、間抜け、無能と酷評されているが、20年間もフランスに君臨しただけあって政治家としても捨てたものではない。日本の幕末に公使・ロッシュを駐在させ幕府を支援したのもナポレオン3世である。
オルタンス(1783〜1837)
ルイ(後のナポレオン3世)が成長するにあたり最も影響力があったのは母オルタンスである。オルタンスはナポレオンが結婚する前のジョゼフィーヌの娘であるが、母以上にナポレオンの信奉者だった。ナポレオンに勧められ、ナポレオンの弟・ルイ・ボナパルトと結婚した。しかし母に似て陽気で社交的なオルタンスと陰気で暗い夫とは始めから不仲であり、息子・ルイが生まれて間もなく離婚している。ルイは母が引き取った。
1815年、一世を風靡したナポレオンがセントヘレナ島に幽閉された後、一族は亡命生活になる。幸い母オルタンスはバイエルン王女と結婚した兄のウジェーヌのおかげで経済的に困ることはなく、スイスのアウグスブルグに落ち着くことができた。ルイは厳格な家庭教師・フィリップのもとで猛勉強を強いられ、名門校にも通う。卒業するとスイス軍の歩兵隊に入隊した。
フィリップ王(1773〜1850)
1830年の7月革命が起り、ブルボン家の王政復古が打倒される。ナポレオン信奉者のボナパルティストたちはナポレオン2世によるナポレオン帝政復活を期待したが、ウィーンに幽閉されており動けなかった。(ナポレオン2世はその2年後に病死する。) 結局、ブルボン家の分家であるオルレアン家のフィリップ公爵が王位につく。フィリップ王はボナパルト家復興を警戒して一族の追放を法律で確定させる。王とも面識のある母オルタンスは密かに親子のフランス帰還を願い出るが許されなかった。
ペルシニー(1808〜1872)
ルイは28歳の時、熱心なボナパルティストのペルシニーらのグループとともにフランス帰還を試みたが、逮捕され国外追放となる。(ペルシニーはルイと同年生まれ、生涯の友として後に内務大臣になっている。) ルイはブラジルを経て、ニューヨークに到着、社交界ではナポレオン人気で歓迎される。遊び歩いていると母オルタンス重病の知らせが届きスイスへ帰国、母を見送る。母の莫大な財産を相続したルイはロンドンの豪邸に移住しロンドン社交界にも顔を出した。しかし女遊びが過ぎて3年ほどで遺産を使い果たす。
31歳の時にルイは「ナポレオン的観念」を著し、民衆の意志を政治に反映させるには強力な指導者の必要を説くと、6か国語に翻訳されるヒットになる。一方フランス首相ティエールもナポレオン人気を利用してイギリスと交渉、遺骨の返還を実現した。この親ナポレオン・ムードを好機としてルイはペルシニーとともに再度の武装蜂起計画を企てた。1840年、ブロニューに上陸し隆起を決行するが再び逮捕され、今度は終身刑としてアム要塞に収監された。
アム要塞に服役するルイ
ルイは5年に及ぶ獄中生活を送るが、ここで真剣に学んだ。イギリス古典経済学、社会主義には影響を受け、36歳の頃「貧困の絶滅」という著作を発表している。38歳の時、ボナパルティストたちの手引きにより、要塞内で働く労働者に変装し脱走を図った。計画は成功し、ベルギーを経由しロンドンに逃れる。
フランス2月革命(1848年)
40歳を迎えたルイにとってようやく祖国帰還のチャンスが来た。1848年の2月革命によりフィリップ王政が倒れた。さらに6月暴動が鎮圧された後、立憲議会補欠選挙が行われる。ルイはナポレオンの後継者を名乗り、選挙に出馬、当選した。ナポレオン追放後、30年以上の歳月が流れていたが、フランス国民は嘗ての栄光を再び思い起こし、ルイは次第に国民的人気を獲得していった。
その年の12月、フランスで最初の男子普通選挙による大統領選挙が行われる。ブルジョワ派、社会主義共和派、正統主義者らの対立候補を退け、4分の3の投票を集め当選。フランスの大統領になった。ルイを支持したのは経済不況に苦しむ農民、債権に苦しむ商店主、小工場主たち。財産、宗教、家族の尊重を約束したので銀行家、産業家たちも支持に回った。
ナポレオン3世
さらにルイは権力強化に乗り出し、4年任期を10年任期にするための国民投票を実施、大差で承認された。1852年、44歳のルイは勢いに乗ってかねて念願のナポレオン帝国復活を国民投票で決することを決めた。「帝国、それは戦争だと一部の者たちは言う。しかし、私はこう言おう、帝国、それは平和だ!」演説は嘗てのナポレオンを彷彿とさせる迫力があった。 国民投票の結果は賛成782万4千、反対25万3千、圧倒的多数でルイはナポレオン3世として皇帝位についた。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は地
*** *** 陰、柔、大地
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******** 下卦は火
*** *** 文化、文明、太陽
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「地火明夷」の卦。明夷(めいい)とは明が夷(やぶ)れる。賢明なるものが破れ傷つくことである。太陽が地下に沈み暗黒の世界に蔽われる象。才能や能力のある者が世間から相手にされず、下積みの生活を余儀なくされることは良くある話だ。そんな時はじっと耐え忍ぶしか方法はない。臥薪嘗胆。苦難の中で磨かれた実力はやがて大輪の花となって咲くときがきっと来る。
ナポレオンがセントヘレナ島に流刑になったのはルイが7歳の時である。以来祖国に帰ることすら許されず40歳まで外国で暮らしている。フランス国民もすっかりナポレオンは過去の人であった筈だ。ルイの存在すら誰も気づきもしなかっただろう。そんなルイが1848年の2月革命後に忽然と国民の前に現れると、再びナポレオンブームが沸き起こる。戦争はこりごりと言っていた国民にとってかつての栄光だけが呼び覚まされる。国民心理とは不思議なものだ。
亡命を余儀なくされたナポレオン一族の中で、ジョゼフィーヌの孫(ウジェーヌとオルタンスの子)は華やかに返り咲いている。二人の父はジョゼフィーヌの最初の夫でフランス革命の時、処刑された名門貴族ボアルネ子爵だった。ウジェーヌの娘・ジョゼフィーヌはスウェーデンの王妃となり、今日の王室に繋がっている。余り注目する人もなく影が薄いがボアルネ子爵もどんな人物だったか知りたくもなる。
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