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アヘン戦争
イギリスの東インド会社は18世紀中頃から中国貿易にも乗り出していた。イギリス人の欲しいものは茶、絹、陶器だった。喫茶の習慣が始り、中国茶は大人気で輸入は激増した。中国へ支払う銀の流出が国内経済に影響を与える程だった。産業革命が進んでいたイギリスはその綿製品を売り込みにかかるが買ってもらえない。大量生産ではないが、中国には独自の機織り機があり綿布も充分賄えていたからだ。
当時でも人口4億人・巨大国家の清朝政府では「地大物博」といって国土は広大で物は豊富であると自負していた。加えて清朝では世界の中心にあり、世界を支配しているという「中華思想」があった。貿易を求める外国人商人には「三跪(き)九叩頭(こうとう)令」なるものがあり、三回跪き、九回頭を床につけて礼をすることを要求した。世界一の先進国を自負するイギリス使節団は「自分たちはイギリス国王の代理人である。そんなことは出来ない。」あくまで対等の交渉を要求していた。
アヘン窟
売るものが見つからないイギリス商人は苦肉の策でアヘンの密売に手を染めた。アヘンの密売はその頃でも重罪だったが、清の役人たちは賄賂を貰うと黙認した。北京から約2千キロ南にある広州でアヘン密売は徐々に拡大していく。1800年頃から始まったアヘン輸出額は1827年には茶の輸入額を上回るという程だった。アヘン中毒患者は蔓延し至るところに患者がたむろすアヘン窟が出来た。広州から全土に広がり始め、銀の流出、財政の悪化、犯罪の増加などで清朝政府も看過出来なくなった。
道光帝(1782〜1850)
1830年代になるとアヘン問題は深刻になり、1838年、皇帝・道光帝は全国の地方長官にその対策を尋ねた。このままアヘンを放置したら国が崩壊するとして厳重に取り締まるべしとする「厳禁論」が8人。今更取り締まる必要なし、やがて治まるだろうから放置すべしとする「弛禁論」が21人だった。官僚たちは国のことより自分たちの私利私欲に明け暮れしていた証拠である。官僚たちの平和ボケが見てとれる。
林則徐(1785〜1850)
道光帝は厳禁論を主張する者の中で林則徐に注目した。林則徐の意見書は国を憂う気持ちにあふれ、理論も整然として取締りの方法も明確に述べられていた。道光帝は林則徐を紫禁城に連日呼び出し、詳しく対策を聞いた上で、全権を託すという欽差大臣に任命、広州に向かわせた。林則徐は賄賂の横行する広州へ、絶対に賄賂を受け付けず接待禁止の命令を出しながら現地に向かった。
イギリス商人に対しても一切の妥協を許さず、膨大な量のアヘンを全てを出させ厳重に処分した。イギリス商人たちは広州を追い出され、香港島周辺に集まって居た。アヘン没収処分の知らせが届いたイギリス議会では熱い議論が戦わされる。清に対して戦争をすべきかという議論である。
グラッドストン(1809〜1898)
後に首相になった自由党のグラッドストンは「中国がアヘンを禁止するのは当然だ。こんな犯罪行為はイギリスの恥である。ここで戦争をしたなら世界に恥をさらすことになる。」と熱弁する。反対意見もあった。「アメリカ独立戦争以来我が国の財政赤字は深刻だ。なにより重要なのは経済である。アヘン取引は違法ではあるが、相手国の取締りが問題であってこちらには非はない。」正義か経済かで、採決をとることになる。開戦賛成271対反対262で経済優先。出兵が決定された。
1840年6月、軍艦16隻、輸送船27隻、陸軍4千のイギリス軍は広州に向かった。林則徐は戦争に備えて要所要所に砲台を築いて防備を固めていた。そこでイギリス軍は北京に近い天津に向い、清政府を威嚇する。清朝宮廷では弛禁論の官僚・キ善(きぜん)たちが道光帝に「全ては林則徐の責任ですよ。イギリス軍に侘びを入れれば済みますよ。」と説いた。優柔不断の道光帝は林則徐を解任してキ善を欽差大臣に任命した。キ善は広州にてイギリス全権使節エリオットと交渉する。
全権使節エリオット
キ善はエリオットに取り入るため、林則徐が築いた砲台を全て撤去し無防備で交渉に当ろうとした。それはエリオットには逆効果でナメられてしまう。一発大砲を打つ度に、キ善は譲歩を迫られ、様々な条約に加えて香港島の割譲も認めさせた。ところが、その報告を聞いた道光帝は激怒し、キ善を解任し、強硬派官僚を交渉に向かわせた。条約は決裂、イギリス軍はやりたい放題の暴行略奪を始めた。
中国人にも骨のある人たちはいた。住民たちは2万人の自衛軍を組織し、イギリス軍部隊1000人を包囲する事件を起こした。にもかかわらず骨のない、役人たちはイギリス部隊を救出し、自衛軍を解散させている。その内、イギリス軍の援軍が到着、再び北上し、今度は南京に向かった。1842年5月には長江に入り、鎮江を占領、大運河を封鎖する。8月、清朝政府は降伏を宣言、南京条約を結んだ。
南京条約調印式
条約の内容は上海などの港を五港を開港、香港島割譲、賠償金2100万ドル、イギリス領事裁判権の承認、関税自主権の放棄などで完全な不平等条約だった。キ善とエリオットが結んだ条約よりもっと酷い内容である。アヘン貿易については一言も触れておらず、その後も密輸は続いた。その2年後にはアメリカとフランスが同様の条約を結んでいる。
〜〜さわやか易の見かた〜〜
******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
********
******** 下卦は風
******** 従順、侵入する
*** ***
「天風姤」の卦。姤(こう)は邂逅の意味があり思わぬ出会いでもある。思わぬ出会いは良いこともあれば悪いこともあるが、易では悪い方がよく当て嵌まる。陽ばかりの世界にいつの間にか陰が忍び寄るという感じだ。男の世界に忽然と一人の悪女が混じって来て、男たちを誘惑する。始めは美しく魅力的に見えたが、次第にしたたかさを発揮し取り返しの付かない結果になっていく。悪い兆しには敏感でなければいけない。
中国の古典「中庸」には「国家将に亡びんとすれば、必ず妖孽(ようげつ)有り。」という言葉がある。妖孽とは、妖しい兆しということであり、アヘンの蔓延など正に妖しい兆しと言える。そんな時に厳重に取り締まらない「弛禁論」の官僚が多いというのはどうしたことか。しかも役人たちは賄賂さえ貰えばアヘンの密輸にも目をつぶるという。これでは国が亡びても仕方ないではないか。イギリス議会でも経済の前には正義が負けるというのは、法のイギリスは何処に行ったのか、残念でならない。
林則徐は大臣を解任され、遠く中央アジアへ左遷になった。しかし腐ることなく行政官として業績を残し、民衆にも慕われたという。その林則徐は外国情報を友人の魏源に託すと魏源はその資料をまとめ「海国図志」を著し警鐘を鳴らした。しかし中国ではそれを活かすことは無かった。「海国図志」を学び列強の植民地政策から国を守ったのは隣の国、日本の志士たちだった。明治維新を成し遂げた私たちの先祖には深く感謝しなければいけない。
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名画に学ぶ世界史
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奴隷市場
舞台はイギリス。イギリスは海に囲まれているせいか、海外進出は何処よりも盛んだ。16世紀にライバル・スペインからの海賊行為を国家公認にしたような国である。東インド会社もライバル・オランダを退けインド貿易を独占した。18世紀前半には東アメリカの大部分を植民地にした実績もあり、アメリカ独立後も貿易は盛んだった。最も利益を上げた貿易が「奴隷貿易」と呼ばれたものだった。
本国から武器や雑貨を積んで、西アフリカへ行く。それをもとに船に詰め込めるだけの奴隷を買う。その奴隷をアメリカの奴隷商人に売る。アメリカから砂糖、タバコ、綿花を買い付け本国に運ぶというものだった。この「三角貿易」で莫大な利益を上げた。フランス革命が起る18世紀の後半頃からはイギリスはこの利益を投資して技術革新に取り組んでいた。産業革命が始まった。
リヴァプール&マンチェスター鉄道
まずは綿布の製法が次々と機械化され、大量生産されるようになった。動力源が蒸気機関になると従来の手作業に比べ効率は100倍にもなり、一気に世界が変わる。機械の使用は製鉄業、炭鉱業にも波及し、輸送手段も蒸気船が実用化した。さらに1830年代になると蒸気機関車も実用化。交通手段も運河による蒸気船と陸上を走る鉄道が発達していく。
機械工業が産業の中心になると、工場の経営者、資本家が社会、経済、政治の主導権を握るようになる。それまでの土地を中心とした身分関係より、経済を中心にした資本主義の社会が定着する。銀行や保険、株の売買などの金融業が発達していく。産業革命がすすむにつれて社会の構造は従来の貴族(地主)と農民に替り、、産業資本家と工場労働者の二つの階級に二分していった。
スラム街となったロンドン
世界の工場となったリヴァプールやマンチェスターでは職を求めて人口が集中した。人口増加は1760年から100年の間で、リヴァプールでは4万人から49万人、マンチェスターでは3万人から46万人にもなった。資本家は儲けのためにはやりたい放題で、低賃金、長時間労働、児童労働に走る。1842年の平均寿命を見ると、農村地帯の労働者は38歳(これでも短いが)に対し、リヴァプールの労働者は何と15歳だったという。(綿布製造機では大量の綿埃が機械の下にたまるので、それを掃除するのは背の低い子供を使用し、殆ど休みなく働かせたという。)
伝統的な手工業に従事していた者たちは、職を失い工場の賃金労働者になっていく。農民たちも農村を離れ、職を求め都市に流入してくる。住宅問題、衛生問題は劣悪で犯罪、伝染病が蔓延し、世界一豊かな先進都市ロンドンはスラム街をかかえる世界一の問題都市でもあった。さすがに常識あるイギリス人たちは何とかしようと立ち上がった。労働者階級の地位向上のために「チャーチスト運動」が始まる。「すべての人に土地を、すべての人に家を、すべての人に選挙権を。」これがスローガンだったが議会は中々受け入れようとはしなかった。
ロバート・オーウェン(1771〜1858)
工場経営者のロバート・オーウェンは人道的立場から工場経営の常識に反して労働者の待遇改善に取り組んだ。賃金を引き上げ、社宅を作り、労働者の子供たちのために世界で初めての幼稚園や夜間学校を作った。そんなことをしたら破産すると言われたが破産しなかった。何故なら感激した労働者たちが一生懸命働いたので生産効率が上がったからだ。
一時は評判になり見学にくる者もあったほどだが、やがて失敗に終わった。何故か、待遇に慣れ、それが当たり前になると労働者は働かなくなったからである。やがてオーウェンの会社は倒産した。しかしオーウェンの努力によって、児童労働を制限する工場法が成立した。労働問題を解決しようという試みになったことは大なる功績である。
ルイ・ブラン(1811〜1832)
産業革命はヨーロッパにも広がり、労働問題はフランスでも同様だった。社会主義という思想も盛んに議論された。ルイ・ブランは「不合理な競争をなくし、国家が生産を統制すれば良い。」と考えた。1848年の「2月革命」後の臨時政府において大臣になったルイ・ブランは「国立作業所」を作る。登録さえすれば仕事と賃金が補償されるとあって、またたく間に10万人の労働者が集まった。
そんなに仕事がある訳ではない。それなのに賃金だけは支払ったので、たちまち行き詰まり廃止せざるを得なくなる。労働者を切り捨てる臨時政府に反対して、民衆は武装隆起を起こす。政府は軍隊を出動させ鎮圧にあたり、ルイ・ブランはイギリスに亡命した。実権を握ったのは産業資本家であり、資本家が中心の政治体制が定着した。一方で労働者問題から「社会主義思想」に真剣に取り組む者も出てくる。
マルクス(1818〜1883)
エンゲルス(1820〜1895)
ここに二人のドイツ人の社会思想家が登場する。マルクスは哲学者でもあり経済学者でもある。資本主義社会が発展すると必然的に共産主義社会が到来するという「マルクス主義」を打ち立てた。
エンゲルスはマルクスの友人でジャーナリストや実業家、軍事評論家としても活躍した。マルクスが書き残した膨大な著作「資本論」を彼の死後、ライフワークとして完成させた。二人の思想は20世紀になり、世界を席巻する大思想となり、現代に至るまで重大な影響をもたらしている。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は沢
******** 喜び、親睦、少女
********
******** 下卦は火
*** *** 文化、文明、中女
********
「沢火革」の卦。革は革命、革新、変革。古いものを新しいものに改めることである。またこの卦は少女と中女が争っている象とも見る。新しい文化が創造されるためには古い文化との闘争が避けられない。「火」は明知と勇気の意味もあり、あくまで正道を貫いて高い文化を創り出すべきものである。
産業革命こそ人類が「パンドラの箱を開けた」ともいうべき大変化をもたらした。あるゆる分野に機械化が進んだ。人間は便利で快適な生活を求め、自然の中で動物や植物に囲まれ汗をかいて労働することを嫌うようになった。田舎暮らしを嫌い都会生活を好むようになった。生活は常に経済が支配し、精神の世界を置き去りにするようになった。
その産業革命は今尚続いている。コンピューターが発達し、インターネット世界が現実になった。現代人はこの文明の海の中を泳ぐしかない。しかし、どんなに文明が進んでも人間は自然の中にしか生きることは出来ない。核家族化が進んでも、心の拠り所はやはり家族である。精神が肉体の中心にあることには変わりはない。どんなに時代が移り変ろうとも、移り変わらない精神をしっかり持ち続けたいものである。
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メッテルニヒ(1773〜1859)
ナポレオン旋風が吹き荒れたヨーロッパ社会のその後について考えて見よう。ナポレオンをエルバ島に追放し、各国の代表がウィーンに集まった。その「ウィーン会議」をリードしたのは、オーストリアの名門貴族で外務大臣を務めるメッテルニヒである。超保守的な貴族主義者で、革命や自由主義がヨーロッパの平和を乱すものとして各国代表に訴えかけた。宰相となり「ウィーン体制」を築き上げ、ナポレオン後のヨーロッパを約30年に渡り牽引する。
タレーラン(1754〜1838)
最も非難を浴びたのは当然のことながらフランスである。しかしフランス代表の外務大臣・タレーランは全く動じることもなく、言い返した。「フランスこそ最も犠牲を払わされた被害者です。この20年の出来事は貴族階級と市民階級の戦争だったのです。加害者は市民階級であり、革命です。革命によって私たちは愛する国王と王妃を処刑され、次々と同胞を殺されました。貴族の多くは祖国を追われ、亡命したのです。土地も財産も奪われたのです。皆様と同じ被害者なのです。」
「どうかフランスを敵と思わず、市民階級の革命を今後起こさないように対策を立てましょう。油断していれば明日にでもまた革命は起ることでしょう。この会議で私が提唱したいのは「正統主義」です。貴族階級が団結して反乱が起らないようにしようではありませんか。」各国代表たちは皆貴族たちだ。「それもそうだな。」ということになった。お蔭でフランスは領土を減らすことも賠償金を払わされることもなかった。タレーランは名外交官としてその名を残す。
アレクサンドル1世(1777〜1825)
ウィーン会議出席者の中で最も勢力があったのは自ら代表となって出席したロシアの皇帝・アレクサンドル1世だった。焦土作戦でナポレオン軍を退けたのだから意気軒昂だったのだろう。彼を中心にタレーランの提案を汲んで、「神聖同盟」を結成することにし、今後どこかで市民革命が起ったときは結束して軍隊を出動させ弾圧することで合意した。かくしてヨーロッパの新秩序「ウィーン体制」が出来、特権階級が自由主義の市民階級を抑圧する旧体制に戻すことになった。。
「自由主義」は時代の流れであり、市民階級にとっては元に戻せるものではない。1820年代に入ると各地で自由主義運動の波が起ってくる。しかし事件が起こるたびに軍によって弾圧された。「ウィーン体制」によりヨーロッパは一旦落ち着きを取り戻し、大国同士の大戦争は第一次世界大戦までは起こっていない。
ギリシャ独立戦争
ところがここに特殊な反乱が起った。ギリシャの独立運動である。15世紀以来オスマン帝国の支配下にあったギリシャはナポレオンの民族運動に刺激を受けて決起した。各国の反応は複雑だった。ウィーン体制を守りたいオーストリア、南下政策に道を開きたいロシア、それを阻止して地中海に進出したいフランスとイギリス。オスマントルコは奪回を許さず、反撃に出てキオス島にて大虐殺を行った。
列強三国イギリス、フランス、ロシアは神聖同盟を守り、イスラムとの対決を鮮明にしギリシャ独立に乗り出すことになり1832年、ギリシャは独立した。しかし列強三国は共和制は認めず、三国とは繋がりが薄いドイツのバイエルン家からギリシャ王を即位させた。領土の面でも権限の面でも半独立としか言えず、トルコとの紛争はその後も続く。そしてこのギリシャ独立戦争はウィーン体制の結束も綻ばせることになり、「ウィーン体制」も次第にうやむやになっていく。
民衆を導く自由の女神(ドラクロワ作)
一方、文芸、美術、音楽、演劇の分野では「ロマン派」という自由精神文化が一気に花を咲かせた。自由への流れは潮流となり、もはや抑圧された時代には戻ることは出来ず、芸術家たちは争って個性的、主観、感受性あふれる劇的な世界を作り出していった。上の画は1830年のフランス7月革命をテーマにしたロマン派の騎手・ドラクロワの作品である。(フランス革命というとこの画を連想する人も多いがフランス革命はナポレオン登場までなので、これはウィーン体制に対する反乱第1弾である。第2弾が共和制が実現する1848年の2月革命である。)
ベートーヴェン(1770〜1827)
ロマン派音楽の先駆けといわれるベートーヴェンとナポレオン(1769〜1821)とは1歳違いの同世代人だ。交響曲第3番「英雄」は35歳のナポレオンが皇帝になった年の作品だが、交響曲第9番「合唱」はナポレオン死後3年の1824年の初演である。「民衆賛歌」の第9番がウィーン体制のおひざ元ウィーンで大歓迎されたことは、時代の流れは誰にも止められないことを証明している。
ナポレオンが絶頂期にあった1810年前後にロマン派を代表する大作曲家が次々誕生したのも偶然ではない気がする。すなわち1810年に、ショパンとシューマン、1年前にメンデルスゾーン、1年後にリスト、3年後にワーグナーとヴェルディという具合である。
マリー・ダグー(1805〜1876)
ジョジュ・サンド(1804〜1876) パリの社交界も元気を取り戻した。文化人たちは貴族夫人たちが開くサロンに集まり激論を戦わした。ピアニストとして売り出していたリストやショパンもその中にいた。当時の貴族夫人たちは美男と恋愛することは社交の延長で夫も公認だったという。サロンを開いていたダグー夫人はリストと愛人関係になり、3人の子を儲けた末に別れた。人気作家のジョルジュ・サンドはショパンと地中海のマズルカ島に恋の逃避行、10年間の恋愛生活の末別れた。女性たちの人生もドラマチックで「ロマン派」そのものだ。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は沢
******** 喜び、親睦
********
*** *** 下卦は地
*** *** 柔、順、大地
*** ***
「沢地萃」の卦。萃(すい)は草が群生していること。人や物が集まることでもある。地の上に沢があることから砂漠でオアシスがあるような、乾いた時に癒しを得るようなものともいえる。砂漠にオアシスであるから基本的には良いことだが、人が集まればどんな問題が起きるか解らない。思いもかけないトラブルにも備える必要がある。
フランスのタレーランはオーストリアのメッテルニヒとともに名外交官と称される。ナポレオンの片腕として活躍したかと思うと、王政を唱える。老獪、変節漢とも言われたが、これは外交官としては褒め言葉である。変わり身の早さは天才的だった。何よりの功績はそれまでライバルとして長年対立を続けたイギリスと同盟関係を築いたことだろう。その後の両国は第1次と第2次世界大戦をも同盟を維持し、常に戦勝国側にいる。これはタレーランの外交遺産とも評されている。
タレーランにせよメッテルニヒにせよ王ではない。この時代から政治の主役はもはや王ではなく、有能な政治家が行っている。イギリスは既に200年前から決定権は王より議会になっていた。遅れているのはロシアとドイツ(プロイセン)で、ロシアはロシア革命まで、ドイツは第1次世界大戦まで王の権勢が続いた。王制から議会制への移行はどの国も長い年月と多大の犠牲を伴う大革命だった。それを思うと日本の明治維新がどれほど偉大であるかが解る。
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デジレ・クラリー(1777〜1860)
ナポレオンという時代を動かした星が強烈な光を放ち、そして消えていった。そのナポレオンはいったいどんな女性たちを愛したのだろうか。そしてその遺児たちのその後の人生はどうなったのだろうか。
ナポレオンの無名時代、コルシカ島では親英派と親仏派の対立があり、親英派より親仏派のナポレオン一家は弾劾裁判にかけられ、追放されマルセイユへ移住した。そこで親交を結んだのが裕福な商家クラリー家だった。ナポレオンの兄ジョセフはクラリー家のジュリーと結婚。ナポレオンも妹のデジレと婚約した。デジレが15歳と若いこともあり、ナポレオン一家が追放の身の上だったこともあり、クラリー家では結婚には猛反対だった。
その後、ナポレオンは武名を上げ、さらに「ヴァンデミエール将軍」として一躍脚光を浴びる。ナポレオンはデジレとの婚約を反古にしてジョゼフィーヌと1796年に結婚する。その後、デジレはナポレオンのライバルだった軍人ベルナドットと結婚。ベルナドットは皇帝ナポレオンの抜擢もあり、持ち前の人間性を買われて、スウェーデン王室を継承することになる。その王室は現在にも続いている。ナポレオンにも負けない幸運に恵まれたデジレは「フランス皇后になり損ねたが、スウェーデン王妃になった女性」「ナポレオンの永遠の恋人」とも言われている。
ジョゼフィーヌ(1763〜1814)
ジョゼフィーヌはフランス領・西インド諸島・マルティニーク島の小貴族の家に生まれる。陽気で社交的、浪費癖もあったが物怖じしない性格だった。エキゾチックな美貌を活かして男を手玉に取る悪女的なところもあった。16歳でボアルネ子爵と結婚、1男、1女を儲けるが、20歳で離婚した。元夫は王党派貴族として革命政府に処刑となり、ジョゼフィーヌも投獄される。投獄中にある将軍と恋仲になったという。
恐怖政治を指揮したロベスピエールが処刑されると、総裁政府の5人の総裁の1人ポール・バラスの愛人となり、社交界の花形だった。その頃、熱心にプロポーズしてきたのがナポレオンで1796年に結婚した。ナポレオン27歳、ジョゼフィーヌ33歳。ナポレオンの家族は反対した。ジョゼフィーヌの連れ子・息子ウジェーヌは反対したが娘オルタンスは賛成したという。(オルタンスは後にナポレオンの弟ルイと結婚し、其の息子ルイが後のナポレオン3世となる)
オルタンス(1783〜1837)
ナポレオンの愛は本気だったが、ジョゼフィーヌはその後も浮気を繰り返す。ナポレオンがエジプト遠征中に妻が美男の軍人と浮気していることを知り、それを悲しむ手紙を書いたところ、何とその船がイギリス艦に拿捕され、手紙を新聞に掲載されてしまう。大恥をかいたナポレオンは離婚を決意し、パリに帰ると妻の荷物を家から叩き出した。連れ子たちの涙の嘆願によりようやく離婚を思いとどまったという。
その頃から、ナポレオンの愛は冷めていったが、ジョゼフィーヌの愛は深まったという。残念なことに二人の間には子が出来なかったので、世継ぎが欲しくなったナポレオンはジョゼフィーヌと離婚し、マリー・ルイーズと再婚した。しかし終世「皇后」の称号と充分な年金は保障され、信頼関係は続き、何かと相談相手になっていた。ナポレオンが失脚しエルバ島に流されている間に肺炎により51歳で急死した。ナポレオンのショックはいかばかりだったろう。
息子のウジェーヌはナポレオンの養子となり、イタリア副王となる。バイエルンのマクシミリアン1世の王女・アウグステと結婚、その長女ジョゼフィーヌはスウェーデン王・オスカル1世の王妃となった。奇しくもナポレオンの婚約者デジルの子と妻ジョゼフィーヌの孫がスウェーデンの国王と王妃になった。
エレオノール(1787〜1868)
皇帝になってもナポレオンに世継ぎが出来ないので妹のカロリーヌが愛人として連れてきたのがエレオノールである。エレオノールは早速妊娠したのであるが、この妊娠にはカロリーヌの夫である美男のジョアシャン・ミュラではないかとの疑惑もあった。ナポレオンも疑惑を持ったが認知をしたので、その子は庶子となりレオン伯シャルルとして爵位を与えられた。26歳の時、イギリス人大尉を決闘で射殺し、1840年にはルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)と決闘未遂を起こすなどしている。
本当の父親と思われる美男ジョアシャン・ミュラは騎兵隊帳としては勇猛果敢だったが、司令官としては優柔不断だった。ナポレオンの兄ジョセフに代わってナポリ王位をあたえられたが、その器ではなく、時勢が急転すると権力にしがみつき支離滅裂状態となる。エルバ島から復帰したナポレオンに激怒され士官も認めて貰えなかった。その後、わずかな兵でナポリ奪還を目指すが失敗、逮捕、処刑された。
エレオノールは1808年に軍人と再婚するが、夫は4年後に戦死した。その後、1814年にある伯爵と再婚している。その美貌は衰えていなかったと見える。
マリア・ヴァレフスカ(1786〜1817)
ナポレオン軍がプロイセンを制し、「ティルジットの和約」を結んだ1807年頃、38歳のナポレオンが知り合い愛したのが21歳のマリア・ヴァレフスカだった。40歳も年上の夫伯爵との間に子供もいたのだが、ポーランド再興を願う要人たちに説得され、ナポレオンの愛人になった。マリアはジョゼフィーヌやエレオノールとは違いおだやかで純真で慎ましい性格だったのでナポレオンは「ポーランドの妻」と呼び深く愛した。やがてマリアもナポレオンを心底愛するようになり、妊娠する。
アレクサンドル・ヴァレフスキ(1810〜1868)
ナポレオンは自分に子が出来ることに自信を得て、皇帝としてさらに野心を膨らます。ジョゼフィーヌと離婚し、ヨーロッパの名門貴族の皇女を后にすることだった。1810年、マリアはナポレオンの子・アレクサンドルを出産。ヴァレフスキ伯爵の子として認知された。その後もナポレオンへの愛は変わらず、追放されたエルバ島にも幼子を連れて面会に行っている。息子アレクサンドルは7歳でその母を亡くし、10歳のとき数回会っただけの実父ナポレオンとも死別した。
ナポレオン時代が過ぎるとポーランドは再びプロイセンの支配となる。アレクサンドルは独立運動に加わり、革命軍にも参加したが失敗する。1848年にルイ・ナポレオン(従弟)がフランスの大統領になると外交官としてフランスに移住する。各国大使を歴任したあと、1855年外務大臣に就任した、その後、国務大臣、立法院議長などの要職をつとめる。容姿はナポレオンと生き写しだったので、外国の来客からは彼がナポレオン3世だと間違われたという。子供や孫にも恵まれ、現在までナポレオンのDNAを繋いだ。
マリー・ルイーズ(1791〜1847)
フランス革命で処刑されたマリー・アントワネットはオーストリアの皇女である。オーストリアがフランスに敵対するのは当然で何度も対仏大同盟の中心になった。皇女マリーはナポレオンの侵略により2度もシェーンブルン宮殿を追い出された。マリーはナポレオンがジョゼフィーヌと離婚したと聞いた時には、「次に妃となる人に心から同情するわ、そしてそれが自分でないことを願っている。」と友人に手紙に書いている。まさかその本人になろうとは。
1810年4月、ルーブル宮殿礼拝堂にて41歳のナポレオンと19歳のマリー・ルイーズは結婚式を挙げた。ナポレオンはマリーには徹底的に優しく接した。次第にマリーはナポレオンを愛すようになり、1811年3月、男子を出産した。ナポレオンは大喜びで我が子を可愛がった。しかしマリーはあまり子供には関心を示さず養育係りに任せっ放しだったという。
ナイペルク伯(1775〜1829)
ナポレオンの絶頂はそこまでだった。息子1歳の時、ロシア遠征に失敗、翌年にはライプツィヒの戦に大敗する。翌1814年、エルバ島へ追放となる。マリーは父フランツ1世の勧めに従い保養地エクス・レ・バンに向かう。その時同行したのがナイペルク伯である。彼は外相メッテルニヒに、どんな手を使ってもマリーのエルバ島行きを断念させることを命令されていた。彼は「10か月も経たないうちに恋人になり、それから夫になってみせるさ。」と豪語した。
ナイペルク伯はナポレオン戦争で片目を失っていたが、洗練された貴族であり会話も機知に富みマリーの心を捕えた。ナポレオンがエルバ島を脱出する頃には完全に彼のものになっていた。皇帝に復帰したナポレオンにも会おうとしなかった。マリーと息子に会うことだけを望みにエルバ島を耐え忍んだナポレオンだったが、その悔しさはいかがだったろうか。ナポレオンはセント・ヘレナ島に流され、マリーはパルマ統治にナイペルク伯とともに旅立つ。ナポレオンが亡くなった後にマリーははナイペルク伯と結婚した。既に二人には4人の子ができていた。39歳の時、ナイペルク伯と死別。43歳の時、パルマ統治の補佐役シャルル・ルネ・ボンベルと再再婚し、56歳で波乱の生涯を閉じた。
ナポレオン2世(1811〜1832)
一方、ナポレオンとマリーの息子フランソワ(ナポレオン2世)は寂しい人生を送った。生まれて直ぐは父ナポレオンに可愛がられたが、まもなく父とは会えなくなった。母マリーは殆ど子供に関心を示さず、乳母にまかせっきりだった。ナポレオンの残党による誘拐を警戒してウィーンではほとんど軟禁生活の身となり、長じてもフランス語の本を読むことを禁じられた。パルマへ行った母はフランソワには会おうともしなかった。
15歳頃から歴史に熱中するようになり、フランス語も学んだ。父の部下ラス・カスが発表した「セント・ヘレナ島の記録」やモントロン伯爵の「回想録」も読む。「ヨーロッパの平和を乱した罪人」と常々周囲から聞かされていた父が偉大な英雄であることを知った。プロケッシュという友人が「ナポレオンこそ千年に一人の英雄だ。」と言ってくれたので感激する。少しでも父に近づきたいと耐寒訓練など猛烈な軍事訓練に励んだりした。しかし訓練の無理が祟ったのか、フランソワは結核にかかり、21歳の若さで他界した。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は風
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*** *** 下卦は水
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「風水渙」の卦。渙(かん)は散る。水上を風が吹き渡っている象である。散るということは一家離散、民心離反、国内分裂という暗い意味もあるが、散ることによって新しいことが始まる場合もある。停滞した空気を一気に吹き飛ばすという意味もある。子や孫が別世界に生きていくのも散るではないか。
スウェーデンの王室がナポレオンと関係が深いことを始めて知った。ナポレオンが大陸封鎖をしたとき、最後まで反対したのがポルトガルとスウェーデンだった。スウェーデンのベルナドットはナポレオンの後のフランス王にロシア皇帝から推挙されている。フランス国民から人気が無かったので実現はしなかったが、それ程の人望があったということだろう。ナポレオンとは別の信念があり、人物でもあったのだろう。ナポレオンという時代の風が吹き抜けた後に、全く新しい時代が始まったのだ。
オーストリア皇女マリー・ルイーズには考えさせられる。女としての弱さと同時に女のしたたかさを持ち合わせている。あれだけ敵対されたオーストリアの皇女を后にしようとしたナポレオンもスゴイ男だが、そのナポレオンをいったんは愛し、子を儲けながらも変心すると見向きもしないところがスゴイとしか言えない。男と女のどちらが強いのか解らない。それにしてもナポレオン2世が早世したのは残念だった。
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ワットの蒸気機関
ナポレオンが宿敵イギリスに海軍では勝てないと戦略変更し、経済的に孤立させようとしたのが1806年から始めた大陸封鎖である。しかしフランス革命頃からイギリスの産業革命は飛躍的進化を遂げており、フランスを含め全ヨーロッパはイギリスの工業製品は欠くべからざるものになっていた。分けても紡績産業の大量生産による綿製品は必需品であり、輸入を禁止され、民衆にとってはナポレオン人気に蔭りを差すものでもあった。
また、自由と平等の旗印も革命から10年も経つ頃には少しも良くならない暮らしに不満が募る。「ナポレオンによって旧来の支配体制は覆ったが、今度はナポレオンによる支配になっただけじゃないのか。」 スペインの過激派たちが蜂起したのもこの動機である。フランス軍はスペインのゲリラ軍をどうすることも出来ず30万のフランス軍は釘づけになり泥沼化した。
機織り機に対する破壊運動
一方、大陸封鎖されたイギリスも混乱を極めた。イギリスの産業革命は農業から工業への転換であり、食料の自給が出来なくなっていた。そこへ穀物が輸入出来なくなれば死活問題である。産業革命により職を失った者たちによる機械の破壊が始まる。政治も混乱し、国王ジョージ3世は精神障害となり、バーシヴァル首相は暗殺された。その上、アメリカからフランスへの海上封鎖したことにより、アメリカとの対立まで激化することになる。
ナポレオンの「兵糧攻め」作戦にイギリスのダメージは大きかった。政府は差し迫った食糧問題を解決するため、高くはつくがロシアからの密貿易でその場塞ぎをする。ロシアにとっても経済的に密貿易は止められない事態であり、ナポレオンの怒りは覚悟の上だった。ナポレオンからは封鎖令を守るよう度々勧告されたが密貿易は続いた。「もう一歩でイギリスは音を上げる」「革命運動の総決算」「ロシアへの制裁」満を持したナポレオンはついに立ち上がり最大規模の賭けに出る。
ボロジノの戦い
1812年6月、ナポレオンは全ヨーロッパから集めた60万人という空前の大軍を率いてロシアに進軍した。迎え撃つロシアは各地から義勇兵が集まり40万人の大軍である。トルストイの「戦争と平和」で名高いボロジフの戦いなどの激戦を制して、9月にはナポレオン軍はモスクワを占拠した。ところがナポレオンにとって想定外のことが起る。27万人のモスクワ市民は全員疎開し町はもぬけのカラ。しかも大火が起り焼野原となる。
これはロシア将軍ミハイル・クトゥーゾフの「モスクワを失っても国は無くならない。」という「焦土作戦」だった。それまでナポレオン軍は敵地の民衆を圧制から解放することで、民衆から歓迎され食料も現地で調達出来ていた。首都を占拠し、和平交渉をしようとするが、相手はいない。35日間も滞在したのが大失敗だった。兵士たちは食料もなく兵馬を殺して食べ始める。そこに急激な寒波に襲われ、飢えと寒さに次々と死者が出る。
ナポレオンのモスクワからの退却
ナポレオンの最大の敵はイギリスなのでロシアとは寛大な処理をしようとしていた。しかしロシア皇帝アレクサンドル1世は「私は祖国の恥に調印するよりは、ヒゲを伸ばして農民たちとジャガイモを食べる方がましだ。」と語り再三の和平交渉にも応じない。ナポレオンは退却する。出発したときには60万人いた兵士は退却したときは5千人だったという。戦争には勝ったが広大な国土に負けた。ナポレオンの総決算は完全なる敗北だった。
常勝ナポレオン神話が脆くも壊れた。翌年には18万人のナポレオン軍に、35万人のロシア、オーストリア、プロイセン、スウェーデンの連合軍が襲いかかり死闘の末ナポレオン軍は戦争にも敗れた。(ライプチヒの決戦) 1814年、反ナポレオンの勢力は内外に増え続け、パリは陥落し、ナポレオンは退位させられた。地中海のエルバ島の小領主として追放される。
ウィーン会議
ナポレオン追放後のヨーロッパの秩序再建と領土問題を解決するため各国の首脳たちがオーストリアのウィーンに集まる。「会議は踊る、されど進まず」と揶揄された会議は1814年9月に始まったが、半年経っても一向に結論が出なかった。
フランスでは処刑されたルイ16世の弟であるルイ18世が王位に就いていたが、貴族にも民衆にも評判が悪く顰蹙を買っていた。共和制で力を得たブルジョアジーたちは困り果て又もやナポレオンの再登場を期待した。1815年3月、手引きする者がいて、ナポレオンはエルバ島を脱出し、南フランスに上陸する。軍隊が逮捕に向かったが、ナポレオンを見ると兵士たちは「皇帝万歳!」と叫んで歓迎した。かくしてナポレオンは復位を成し遂げ王座に返り咲いた。
ウェリントン(1769〜1852)
ナポレオン再登場の情報を聞き、ウィーン会議の首脳たちは仰天し、即刻帰国、第7次対仏大同盟を結成、戦闘準備にかかる。ナポレオンは連合国に講和を提案したが拒否された。結局、再度戦争で決着をつけることになった。1815年6月、「ワーテルローの戦い」が始まった。イギリス軍の司令官は名将ウェリントン、ナポレオンと同年生まれの46歳。戦略の天才、常勝将軍ナポレオンも健在だった。フランス軍はヨーロッパ制覇の最後の夢に賭けた。
イギリス、プロイセン連合軍に対してフランス軍は猛攻を繰り返し。勝機ありと見たナポレオンだったが、前日破ったはずのプロイセン軍が伏兵として襲いかかってきた。ナポレオンの夢、フランスの夢はついに運命が味方しなかった。ナポレオンはイギリス軍に投降。ウェリントンの提案で、南大西洋の孤島・セントヘレナに流される。フランスの栄光、一代の英雄、ナポレオンの時代は終わった。失意の中に52歳で死去。世紀のドラマは幕を閉じた。
〜〜さわやか易〜〜
******** 上卦は火
*** *** 文化、文明、才能
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*** *** 下卦は水
******** 艱難、悩み
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「火水未斉」の卦。未斉(びせい)は未だ成らず。各爻陰陽の位置が反対になっている。因みに陰陽の位置が全て正しいのが「水火既斉」で完成を意味する。「火水未斉」はもう一歩で完成に近付くところで、それが成らず元の木阿弥に帰するという意味がある。易の世界も現実の世界も「完成」には終わらない。だからこそ永遠に努力が必要であり面白いのである。
フランス革命の150年前にイギリスではピューリタン革命が興り、立憲君主制が出来ていた。フランスの革命はイギリスには通用しない話であり、イギリスはもっと先を行っていたのだ。ナポレオンはロシアの冬将軍よりもイギリスの産業革命に負けたともいえる。しかしイギリスは経済封鎖によるダメージを知り尽くし、ここで学んだ体験をチャーチルが第2次世界大戦で日本を経済封鎖し、参戦させるよう仕組んだのではないだろうか。
ローマ帝国崩壊以後、ヨーロッパ統一に近付いた例は、16世紀にハプスブルグ家のカール5世がいる。その時、何としても統一を阻んだライバルがフランスのフランソワ1世だった。彼はハプスブルグ家の統一を阻むためには敵国のオスマントルコとも手を結んだ。ヨーロッパでは何処かの国が突出しようとすると、回りの国が一致団結して阻止する傾向があり、それは現在に至るまで続いている。
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