さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名画に学ぶ世界史

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フランス共和国皇帝・ナポレオン

20歳の兵士ナポレオンはコルシカ島の民族主義者でフランス革命にも関心すらなかった。抜群の才能と強運で時代の潮流を自分のものとして、30歳にして革命政権の第一統領となり、35歳にしてフランス共和国皇帝になった。しかし、ナポレオンの目指すものはもっと壮大だった。ローマ帝国以来誰も成し得なかったヨーロッパの統一である。


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ネルソン提督(1758〜1805)

その為には、ナポレオン打倒に執念を燃やすピット首相のいるイギリスを征服せねばならない。イギリス上陸にはエジプト遠征のとき地中海でやられたネルソン提督率いるイギリス海軍がいる。フランス海軍はそれほど強くはない。案の定、1805年10月、「トラファルガーの海戦」で又してもネルソンに敗れた。(ネルソン提督はこの海戦で戦死した) そこで、ナポレオンはイギリス上陸作戦を断念し、経済封鎖することにする。ヨーロッパ本土の征服を優先させ、早速オーストリアに出兵した。


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アウステルリッツの戦い

イギリス、オーストリア、スウェーデン、ロシアは第3次対仏大同盟で団結し徹底抗戦する。1805年12月2日、ナポレオン皇帝戴冠式から1周年の日に、オーストリア領で「アウステルリッツの戦い」が始まる。この戦いはフランス皇帝、神聖ローマ皇帝、ロシア皇帝が戦場で相まみえるという「三帝会戦」とも呼ばれる。

兵数はフランス軍6万6千に対しロシア、オーストリア連合軍8万8千だった。しかしナポレオンの巧妙な戦略により一方的にフランス軍が勝利。連合軍は3万の損害を出し壊滅した。ナポレオンの天才的戦略の最高傑作といわれる。イギリスのピット首相はショックで倒れ、その後死亡した。


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エトワール凱旋門

アウステルリッツの戦いに勝利したナポレオンは記念に凱旋門の建築を命じた。1806年にはプロイセンを除くドイツ全域は「ライン同盟」としてフランスの衛星国となる。また約1000年続いた神聖ローマ帝国は消滅し、フランツ2世はオーストリアのみの皇帝フランツ1世に転落した。

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ナポレオンのベルリン入城

対仏大同盟に加わらず中立を保っていたのがフリードリヒ大王以来の強国プロイセンだった。しかし、この事態にプロイセンは自ら決死の覚悟で第4次対仏大同盟を結成しナポレオン軍と対決する。「イエナ、アウエルシュタットの戦い」を起こすが天才ナポレオンには歯が立たず完敗だった。1807年、「ティルジットの和約」によりプロイセンは実に国土の半分を奪われてしまう。

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マリア・ヴァレフスカ(1786〜1817)

ロシアもフランスの同盟国とし、中央ヨーロッパをほぼ制圧。兄ジョセフをナポリ王、弟ルイをオランダ王にした。プロイセンの支配下だったポーランドをワルシャワ公国としてフランスの衛星国にする。その際、若く美しいポーランド貴族夫人のマリア・ヴァレフスカを愛人にした。彼女はやがてナポレオンを愛し、庶子・アレクサンドルを出産する。

ナポレオンと妻ジョゼフィーヌの間には子が生まれなかった。妻には先夫との間には2子を産んでいるので、子が出来ないのは自分の責任だと信じていた。しかし子供が出来たことで、ローマ帝国を目指すナポレオンは新たな野心に目覚める。ジョゼフィーヌと離婚し、ヨーロッパ随一の名門貴族の皇女を妻として2世をつくることだった。

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マリー・ルイーズとナポレオン2世

ナポレオンが「スペイン独立戦争」に手を焼いてる間に、1808年、またしてもオーストリアは第5次対仏大同盟を結成し兵を挙げた。両軍あわせて5万人にものぼる死傷者を出したが辛くもナポレオンが勝利した。「シェーブルンの和約」により、領土の一部とともに国王フランツ1世の皇女マリー・ルイーズ(1791〜1847)を後妻とすることを同意させる。ヨーロッパ貴族の名門中の名門・ハプスブルグ家の皇女である。

1810年、41歳のナポレオンは19歳の皇女マリー・ルイーズと再婚し、1811年には王子ナポレオン2世が誕生する。為すこと為すこと全てが成功していたナポレオンだったが、この頃がナポレオンの絶頂期と言える。

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「マドリード、1808年5月3日」ゴヤ作

ナポレオンは1806年に英国との通商を禁じた「大陸封鎖令」を宣言した。どうしても従わないのが小国ポルトガルだった。そのポルトガルを攻略するために、フランス軍はスペインに集結する。勝ち目のないポルトガルの王族たちは植民地ブラジルに逃げた。するとナポレオン支配に抵抗するスペイン民衆が立ち上がり内乱となる。ナポレオンは1808年、鎮圧するため、兄ジョセフをスペイン王位にしたが一層混乱する。「スペイン独立戦争」となって泥沼化し、ナポレオン自ら出兵するも治まらない。これがナポレオンの計画を狂わす原因になる。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、太陽
********
******** 下卦は天
******** 陽、大、剛、世界 
********

「火天大有」の卦。大有とは大いなるもの、陽なるものをふんだんに所有すること。真夏の太陽が中天高く昇り、光輝いている様である。行くところ可ならざるなし。なにをやっても順風満帆、これ以上の盛運はない。しかし盛運の中にも必ず潜んでいるのが、つまずきの種である。

世界の歴史の中でこれほど大成功した人がいるだろうか。ナポレオンは自らの才能を活かすべく天の時、地の利を得たのである。プロイセン軍を破り、ベルリンに入城した時には、ベルリン市民が熱狂的に歓迎したという。ナポレオンがヨーロッパを制したのは、時代がそれを求めていたからとも言える。時代の寵児というのだろうか。それにしてもスケールが大きい。

ナポレオンの行く手に待ったをかけたのが、ポルトガルとスペインの民衆というのに興味が沸く。フランス革命の300年前、大航海時代の先駆けとなったのがポルトガルとスペインだった。一時代を築いた両国だったが、天下はイギリス、フランスに譲り、影がうすくなりつつあった。しかし、そのコンキスタドール(征服者)魂は忘れていなかったということか。気に要らなければ命を賭けても阻止するというスペイン人。闘牛を愛し、フラメンコを踊るスペイン人は今でも熱いのだろう。

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ナポレオン・ボナパルト(1769〜1821)

共和制のジロンド派を中心とする総裁政府が発足したが、王党派とジャコバン派残党の巻き返しも警戒せねばならず、政局は不安定だった。とくに
知識階級の間で警戒したのが、私有財産の廃止をめざすハブーフの運動だった。頼りない総裁政府には失望感が強まる。政局を安定させるリーダーがどうしても必要だった。そこに起こった王党派の反乱で占拠された国民公会をあっという間に取り戻したのが若き司令官・ナポレオンだった。ナポレオンが「ヴァンデミエール将軍」として颯爽と登場したのは正にその時だった。

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ジョゼフィーヌ(1763〜1814)

ナポレオンはあるパーティで出会ったジョゼフィーヌに一目ぼれした。恋多き女で既に結婚歴があり、1男1女の母だった。社交界の花形で「陽気な未亡人」と言われていた。(元夫は王党派貴族で離婚後に処刑されている。)生活のため時の総裁・ポール・バラスの愛人でもあった。「ヴァンデミエール将軍」として一躍脚光を浴びたナポレオンのプロポーズで結婚。1796年、ナポレオン27歳、ジョゼフィーヌ33歳。しかしナポレオンを武骨でつまらない男と見ており、その後も浮気を繰り返していたという。


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ウィリアム・ピット(1759〜1806)

その頃、自由と平等を叫ぶ民衆のエネルギーは最高潮であり、周辺の各国には脅威だった。国王と王妃を処刑したことのショックは大きく、王制を敷く国々にとっては革命の伝播が怖かった。反革命、反フランスの軍事同盟がつくられる。先頭に立ったのはイギリス首相のピット。ロシア、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダのヨーロッパ主要国が結束した。一刻も早く革命政府をつぶし、王政を復活させる為だ。この「対仏大同盟」によりフランスは四面楚歌の状態に追い込まれる。

マリー・アントワネットを処刑されたオーストリアはドイツと北イタリア両方向から攻めてきた。ナポレオンはイタリア側を任される。出陣に先立ちナポレオンは兵士たちに訴えた。「兵士諸君!武器も食料も、行く先にある。我々は敵の民衆を封建制度から解放してやるのだ!我々には名誉と栄光と富が待っているぞ!」事実オーストリアに支配されている北イタリアでは民衆から歓迎された。ナポレオン軍は連戦連勝、たちまちウィーンまで進軍した。越権行為ではあるが、オーストリア代表と講和条約を結び、イタリア北部の広大な領土を獲得し、膨大な戦利品とともにパリに帰還する。新時代のヒーローとして熱狂的な歓迎をもって迎えられた。

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ピラミットの戦い

ナポレオンは対仏大同盟の雄・イギリスに打撃を与えねばならないと主張し、総裁政府を説得しエジプトに遠征する。(エジプトはイギリスのインド貿易の中継地点だった。) 1798年7月、エジプトに上陸し、ピラミットの戦いに勝利してカイロに入城した。ところが、ネルソン率いるイギリス艦隊はフランス艦隊を地中海に破り、ナポレオン軍をエジプトに孤立させた。すると、1799年、復讐に燃えるオーストリア軍がイタリア北部を奪回、フランス本国に迫ってきた。

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ブリュメールのクーデター

総裁政府にとっては窮地に追い込まれ、ブルジョアジーたちは秘密裏に革命家・シエイエスらと図り、遠征中のナポレオンに期待した。それを知ったナポレオンは一か八かの賭けに出た。軍をエジプトに残したまま単身パリに戻る。1799年11月、計画に参加しクーデターを起こし、総裁政府を倒す。新たに統領政府を樹立し、自ら第一統領となった。ナポレオン30歳。失敗すれば、敵前逃亡罪及び国家反逆罪となる可能性もあった。


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ベルナール峠を越えるナポレオン

政権の座についたナポレオンには内憂外患、問題は山積していた。先ずオーストリア軍に包囲された窮状打破が急務だ。ナポレオンは敵の意表を突くためにアルプスを越えて北イタリアに侵入する奇襲戦に出る。優位に
進めた戦争だったが、オーストリアの大軍に一時は苦戦を強いられる。しかしエジプト遠征以来の司令官・ドゼーのお蔭で大逆転の末、劇的に勝利する。しかし親友だったドゼーは戦死した。リュネヴィルの和約により北イタリアは再びフランスの保護国となる。

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「アミアンの和約」風刺画

なおも交戦するのはイギリスだけだったが、双方内政を重視して1802年にはアミアンの和約で講和が成立した。イギリスはエジプトなどの占領地から軍の撤収を約し、フランスはナポリ王国、ローマ教皇領から軍を撤収した。ひとまず外敵を退けたナポレオンは内政面での改革に乗り出す。1800年にフランス銀行を設立、通貨と経済の安定を計る。革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派にこだわらず優秀な人材は登用した。しかし体制を覆そうとする者には容赦せず処刑も行う。1804年、「フランス民法典」(ナポレオン法典)を公布。「万人の法の前の平等」「信教の自由」「経済活動の自由」を謳った画期的なものだった。


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ナポレオンの戴冠式

革命が始まって以来、混乱につぐ混乱を解決し、奇跡ともいえる実績で新体制を築いてきたナポレオンだった。ブルジョアジー、知識階級たちには願ってもない大成功である。ナポレオン本人も自信と野心を持つのは当然だろう。ついに自ら皇帝になる野望を実行に移す。国民投票を実施、圧倒的支持を受けた結果、1804年12月、ローマ教皇ピウス7世を招いて盛大な戴冠式を行う。ナポレオンは従来の形式を無視して、教皇の目の前で自ら王冠をかぶった。教会も自分の支配下であるという意志を表す。35歳の若者が歴史上、奇跡ともいえる大国の頂点に立った。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、影、大地
***  ***

「火地晋」の卦。晋は進む、上昇する。旭日昇天。太陽が地上に現れ、ぐんぐん上昇し、光輝くのである。何もやっても順調、働けば働くほど認められ、昇進をかさねていく。易の64卦には進むことを表す卦が三つある。すなわち「晋」「升」「漸」であるが、最も急速に伸びることを表すのが「晋」である。しかし、最も危険を秘めているのも「晋」である。

貴族だけがこの世を謳歌し、一般民衆には自由も楽しみもない、長く続いたアンシャン・レジームの体制。フランス革命は民衆に夢を持たせた。新時代への期待と興奮はフランス国内は勿論、全ヨーロッパに充満していたのだろう。ナポレオンと同世代に生きたベートーヴェンは難聴のスランプから立ち直り、「英雄」と名づけられた「交響曲第3番」を世に出した。貴族制度を打ち破るナポレオンに共感して作られたと伝えられている。これからは民衆の時代だというメッセージが込められている気がする。

類い稀な運と才能を持ったナポレオンであるが、妻ジョゼフィーヌはナポレオンの留守中は浮気を繰り返したという。エジプト遠征中、ナポレオンは妻の浮気を知り、それを悲しむ手紙を出した。ところがその船がイギリスに拿捕されて、手紙の内容が新聞に掲載されるという大恥をかかされる。怒り心頭のナポレオンは離婚を決意した。妻の連れ子、ウジェーヌとオルタンスの涙の嘆願でようやく思い止まったという。民衆にとっての英雄も妻には只の男ということか。







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処刑されるルイ16世

王を中心とする立憲君主制の憲法は出来上がっていたのだが、「8月10日事件」で王権は否定される。新憲法が作られ、王や皇帝の存在しない政治制度である「共和制」が樹立された。

問題になったのは、ルイ16世の処遇である。裁判が始まる。死刑に賛成か、反対か、結果は361対360の僅差で死刑が決定した。1793年1月、2万人の市民が見守る中で、パリ革命広場でルイ16世はギロチンにより処刑される。最後の言葉は「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい

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処刑されるマリー・アントワネット

10月には王妃・マリー・アントワネットが死刑になる。処刑前日の遺書には「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない。」処刑される時に、死刑執行人の足を踏んでしまった際に「ごめんなさいね。わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった。」と微笑んだと言われている。処刑された彼女を見て群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという

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デュ・バリー夫人(1743〜1793)

ギロチンによる処刑は宮廷の貴族たちにも及んでいる。その中にルイ15世の公妾だったデュ・バリー夫人がいた。彼女はもとは娼婦だったが、その美貌に集まる貴族たちから高貴な会話術を身に着けた。ポンパドゥール夫人を亡くして気落ちしていたルイ15世の心を掴み、夫人に替り公妾となった。彼女はヴェルサイユ宮殿で権勢を誇り、マリー・アントワネットと対立する。ルイ15世の死後も貴族たちの愛人として贅沢な暮らしを続けていたが、莫大な税金を使ったという罪で革命政府により死刑が決まる。

彼女は泣き叫び、無罪を訴え続けた。断頭台に乗せられてからも、暴れまわり、群衆に叫び続けた。「私が何をしたのよォ。誰を傷つけたっていうのよォ。悪いこと何もしてないじゃない。助けなさいよォ。誰か助けてよォ。王様に愛されただけじゃないのォ。それで何で殺されなきゃいけないのよォ。止めてよォ。止めてよォ。持ってるものみんなあげるわよォ。みんな、みんな、見てないで助けてよォ。お願いだから、助けて、助けて、助けて、殺さないでェ。」叫びながら無理やり処刑された。貴族たちのような誇りは全くない。群衆に慈悲を請い、同情を誘った。処刑者が皆こうしたら、犠牲者はもっと減っていたとも言われている。

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ロベスピエール(1758〜1794)

革命の中心にいて、国王を始め次々と断頭台に送った指導者の一人がロベスピエールだ。困窮に育ち苦学して弁護士となり、異常なほど正義感が強く、潔癖で生真面目、女性に興味はなく生涯独身、金銭にも潔癖で小さな下宿に住み、贅沢は一切しない。王侯貴族と金持ちが大嫌いだった。このロベスピエールが率いたのがジャコバン派で農民など下層階級が支持した。商人や知識階級たちが支持したジロンド派の者たちは殆ど追放された。命をとられたら大変とばかり、貴族たちは次々と亡命していった。

1793年から1794年にかけて、何千人という人たちが反革命罪で処刑される。とくに1794年6月からは裁判も簡略され、1日平均29人が処刑されたという。この間を「恐怖政治」という。仕舞いにはジャコバン派の中でも左派右派と別れ、仲間同士も処刑された。ついに行き過ぎた恐怖政治、ロベスピエールの独裁に反感をもった者たちにより、内部クーデターが起こった。ロベスピエールは銃で撃たれ、負傷したままギロチンで処刑された。「テルミドールの反動」という。


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ポール・バラス(1755〜1829)

「テルミドールの反動」でロベスピエールを処刑した首謀者はポール・バラスである。軍人であり国民公会の派遣議員として地方の鎮圧を監督したが、捕虜にした町民を何百人と処刑した挙句、財産を没収していた。さらに公金も横領しその腐敗ぶりから「悪徳の士」と呼ばれていた。不正を最も嫌うロベスピエールから汚職の罪で召喚されると、処刑を察して、逆に仲間と共謀しロベスピエールと首脳たちを全員逮捕、処刑したのだった。


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ヴァンデミエールの反乱

指導者がいなくなったジャコバン派に代わり、政権は知識階級のジロンド派が国民公会を支配した。独裁を避けるために5人の総裁を置いたが、それでは指導力に欠ける。弱体政治のもと、市中は混乱、風紀は乱れ、犯罪が横行する。1795年、そこへ潜んでいた王党派が武装集団とともにテュイルリー宮殿の国民公会を襲撃、占拠する。「ヴァンデミエールの反乱」である。この時、国民公会軍・司令官だったのがポール・バラスであり、王党派武装集団を鎮圧するために、副官に登用したのがナポレオンである。

ナポレオンは軍隊に復帰後、今度はロベスピエールの弟・オーギュスタンと繋がりがあったことにより、一時は逮捕、収監され、降格処分を受けていた。港湾都市トゥーロンで王党派の反乱を鎮圧した能力をポール・バラスに見込まれていた。首都の鎮圧作戦はナポレオンに一任され、市街地への大胆な砲撃を決行、鎮圧に成功した。

26歳のナポレオンは「ヴァンデミエール将軍」として一躍その名を轟かし、ニューリーダーとして颯爽と登場した。国王を失い空白となっ王座。喪失感に不安を抱くフランス国民にとって、待ちに待った光明だった。

〜〜さわやか易の見方〜〜

***  *** 上卦は地
***  *** 陰、影、暗
***  ***
***  *** 下卦は雷
***  *** 活動、志、始め 
********

「地雷復」の卦。復は復活、復興。一陽来復である。暗闇に覆われた世界に再び明るさが生まれる。季節でいえば長く寒かった冬がようやく春の兆しを感じ始める頃である。しかしまだまだ陽の気は弱い。あせらずじっと将来の大計を立てる時である。あわてて行動しようとすると、失敗する。

英雄が時代を造るのか、時代が英雄を造るのか。ナポレオンの登場は正に時代が生んだ英雄と言えるだろう。ナポレオンがよい例だが、英雄は決してエリートや恵まれた環境からは生まれていない。混乱の中から生まれる。幕末の西郷隆盛や坂本竜馬もそうだ。今日英雄といわれる人は見当たらないが、それは時代が平和で豊かだからだ。むしろ喜ばなければいけない。

それにしても興味深いのはポール・バラスである。「悪徳の士」といわれた男がナポレオンを世に出した人物とは。ナポレオンが結婚するジョセフィーヌは彼の愛人だったのだ。その権謀術数の悪人はロベスピエールを処刑した後、5人の総裁の一人で最後まで総裁職に留まり、その後5年間もフランスの名宮・リュクサンブール宮殿に居を構え豪勢に暮らす。晩年は貯め込んだ巨額の富を手にモンペリエにて隠遁生活を送ったという。流石は「悪徳の士」である。こういう人を乱世の奸雄というのだろう。



























































































































































































































































































































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ヴェルサイユ行進

ラファイエットの「人権宣言」は発表されたものの、主権者である国王が認めなければ国の法律にはならない。市民たちの苛立ちは募る。そこに政治的混乱から物価が高騰し始めた。食糧さえ手に入らない。「ヴェルサイユにはいくらでも食料はあり、宮廷では毎日ご馳走をたらふく食べているそうよ。」そんな噂が流れた。

パリからヴェルサイユまでは約25キロあるが、怒ったパリの女性たち7000人がヴェルサイユ目指して歩き出した。ラファイエット率いる市民軍が後に続いた。途中雨がはげしく降ってきたが、「パンをよこせ!」と叫びながら約6時間の行進を決行した。夕方、宮殿に到着したが国王は狩りに出て不在だった。夜になり、帰ってきた王はびっくりした。

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テュイルリー宮殿

国王は彼女たちの代表に会い、パンの配給を約束し、王妃とともに宮殿のバルコニーから挨拶したが、カタチばかりだった。満足しない女性たちは国王一家に「一緒にパリに帰ろう。」と言い出す。市民から離れたところに居るから市民の気持ちが解らないのだと主張したのだ。武器を持った集団には抗しきれず、国王一家は翌日パリのテュイルリー宮殿に移り住むことになった。

テュイルリー宮殿は1563年に王母カトリーヌ・ド・メディシスが建造を命じ、庭園、泉水、散歩道も整備された立派な宮殿である。ルイ14世がヴェルサイユ宮殿を建造するまでは宮廷はここにあった。移転後は国民議会により「人権宣言」を盛り込んだ憲法制定作業は進んでいた。ルイ16世一家がこの宮殿に住み、大人しくしていればラファイエットたちが計画したように、イギリス並の立憲君主制が出来あがっただろう。フランス革命は終わっていたかも知れない。ところが国王は自ら墓穴を掘ることをする。


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フェルセン(1755〜1810)

マリー・アントワネットには19歳頃に親密になっていた同年生まれのフェルセンという愛人がいた。容姿端麗で背が高く、洗練されたスウェーデンの貴族である。フェルセンも常にマリー・アントワネットに思いを寄せていて、パリ市民の監視下にある国王一家に同情していた。そのフェルセンを中心に国王一家のオーストリアへの亡命計画が極秘裏に進められ、1791年6月計画は実行に移される。


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ヴァレンヌからパリに連れ戻される国王一家

国王一家は秘かに宮殿を抜け出し、国境近くまで来た。馬車の換え馬が待っているはずのヴァレンヌという町に入った。しかし到着が大幅に遅れ深夜になったため誰も居なかった。一行が町の住民を叩き起こしたところ、大騒ぎになり身分がバレんぬ。ヴァレンヌ逃亡事件という。そこに追ってきた市民軍が翌日パリに連れ戻すという事件となった。この事件により王の権威は完全に下落する。「国王が国を捨てて逃げようというのか。そんな王を俺たちが崇めていく理由がどこにある。」市民感情は一気に革命派に傾く。

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ピルニッツ城での会見

マリー・アントワネットの実家であるオーストリアを中心に王政諸国はフランスの出来事は他山の石ではない。プロイセン王と会見の上、「ピルニッツ宣言」をフランスに発した。「これ以上、王の自由を奪うなら戦争をしかけるぞ。」という威嚇のようなものだ。威嚇されると火がつくのが革命政府だ。革命政府とオーストリアは対立を深める。

一方ルイ16世もマリー・アントワネットも戦争で革命政府を倒して欲しいと外国に期待する。ついに戦闘が始まるが指揮官は王側の者もいて、やる気がない。王と王妃は敵側に情報を流したりする。オーストリア軍、プロイセン軍は国境を越えてフランス領内に攻め込む。フランス軍は連戦連敗である。

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タンプル塔

革命政府は「祖国の危機」を全土に訴えた。「フランス国民よ、祖国を守れ!革命を守れ!」すると全土から義勇兵が集まった。そして、敵は外だけでなく宮廷にもいると気付いた。1792年8月10日、国王一家は全員、タンプル塔に幽閉された。「8月10日事件」である。市民軍の司令官だったラファイエットは王を救おうとしたが、兵士が動かなかった。ラファイエットは断念して亡命する。


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ヴァルミーの戦い

強力なプロイセン軍と義勇兵が戦ったのはヴァルミーだった。激しい砲撃にあった今までのフランス軍は退却したのだが、義勇兵はひるまず「ラ・マルセイエーズ」を大合唱しながら進撃した。マルセイユから参加した義勇兵が歌った歌だが後にフランス国家になる。不気味に感じたプロイセン軍が逆に退却した。それほど義勇軍の士気の高さは圧倒的だった。ドイツの文豪・ゲーテが従軍していたが、戦闘のあとに「この日、この場所から世界史の新しい時代が始まる。」との言葉を残した。

当時、革命派と王党派との対立は激化する一方で、ナポレオン一家は王党派の小貴族であったため、追放され、パリを脱出、マルセーヌに逃れている。ナポレオン本人の政治信条は革命派的であり、「ボーケールの晩餐」という冊子を著し、革命の指導者・ロベスピエールの弟・オーギュスタンの知遇を得るきっかけとなった。

〜〜さわやか易の見方〜〜

***  *** 上卦は沢
********
********
***  *** 下卦は水
******** 困難、悩み
***  ***

「沢水困」の卦。困は木が囲いの中に閉じ込められている状態を表し、苦しみ悩むことである。何を言っても信じて貰えない。すっかり資金難に陥り、解決方法が見当たらない。人生にはこうしたにっちもさっちも動きが取れないことがある。試練の時である。こうした試練の時こそ、人間の真価が問われる。大人物になった人はこうした体験が必ずある。「臥薪嘗胆」逃げていけない。困窮に堪えることである。いつか希望の火が灯ることがある。

ルイ16世一家がテュイルリー宮殿に住んだ時、ヴェルサイユ宮殿に比べれば自由はなく窮屈な思いもしたであろう。しかしパリ市民は国王一家を亡き者にしようとは誰も考えなかった。国王たるものここは時局を考え、市民とともに困難に立ち向かわなければならない。じっと我慢をすべきだった。歴史の流れは個人の力では変えることは出来ないが、要にある人の言動は歴史の流れを加速させることもある。

国王も王妃も人生の危機に望んでも危機感というものが全く無い。亡命する時、何故遅れたかというと、対面のために沢山の衣裳を詰め込み、ワインの樽をいくつも詰め込んだ。ずっしりと重くなった馬車は速度が上がらない。その上、途中で知り合いの貴族のところに寄ったりしていたという。救出しようと、計画を実行したフェルゼンはさぞヤキモキしたことだろう。いざと言う時、機敏に動けない者は命を落とすというものだ。













































































































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アンシャン・レジームの風刺画

アメリカの独立は正に本格的な民主主義の到来だった。市民が政治の権力をにぎるという民主化はいち早くイギリスで名誉革命後に始まっていた。一方でイギリスのライバルであるフランスでは、ルイ14世が完成させた絶対王政が続いていた。

しかしその体制はもはや限界に来ていた。上の風刺画が示すとおり、第1身分の聖職者と第2身分の貴族を第3身分の平民が背負っている様子を描いている。人口の割合は聖職者が14万人、貴族が40万人、平民が2600万人で、人口の3%しかない聖職者と貴族が国土の40%を所有していた。しかも彼らには免税特権があり、税金を納めなくても良かった。税金の負担は全て第3身分の平民が背負っていたのだ。この旧社会体制を「アンシャン・レジーム」という。


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ルイ16世(1754〜1793)

当時のフランスは財政赤字が膨らむ一方だった。最大の原因は戦争である。ルイ14世以来の見返りの無い戦争出費は、ルイ15世、ルイ16世時代も続けられた。加えてアメリカの独立戦争を援助したことにより、もうお手上げ状態に追い込まれた。アメリカは独立出来たが、フランスには何の見返りはない。イギリスの独走に待ったをかけただけだ。

さらに宮廷の維持経費も税金で賄われる。たとえばルイ16世の所有する馬車は217台、馬1500頭だったという。趣味は狩猟だったが、猟犬が10000頭もいたという。何でそんなに必要なのか理解できない。人件費だけでも大変な額だろう。ルイ16世は大人しい性格で政治的センスやリーダーシップはなかった。ルイ15世のような女好きでもなく、愛人も作らない。狩猟の他に錠前作りの趣味があり、宮殿の中に工作室をもうけて暇があれば部屋に籠もっていた。


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マリー・アントワネット(1755〜1793)

その王妃マリー・アントワネットは浪費家でも有名だ。ルイ16世とは相性が悪く、「私は退屈が嫌い。」と言って毎晩仮装舞踏会を開き、賭け事に熱中するなど遊興費を使いまくった。お抱えデザイナーに作らせる衣裳は年に170着、ファッションリーダーとして豪華なヘアスタイルも流行させる。ポンパドゥール夫人が完成直後に亡くなり、未使用だった「小トレアノン宮殿」を改修させる。最も浪費したものは取り巻き貴族たちに官位や年金を惜しげもなく与えたことだった。


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ジャック・ネッケル(1732〜1804)

解決策は特権階級から税金を取ることだがどうやって取るのか。いよいよ火の車になった政府は財政改革に乗り出し経済学者のテゥルゴーを財政総監に任命したが、特権階級の猛反対に遭い挫折した。そこで、スイス出身ながら銀行家として成功していたネッケルを財務長官としてその手腕に期待する。ネッケルは王妃と寵臣に質素倹約を進言し、三部会(第1、第2、第3身分による会議)を要請するが、やはり猛反対に遭い失脚する。しかしその後起用された学者たちも相次いで罷免され、再びネッケルが登場する。


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1789年の三部会

ついに国王は特権階級に課税するための三部会を召集する。実に1614年以来175年振りの三部会だった。議員の数は第1身分308人、第2身分285人、第3身分621人。会議はすぐにもめる。課税問題を論議する前に議決方法でもめた。当然、第3身分は一人1票を主張したのに対し、第1と第2身分は一身分1票を主張した。会議は空転したまま収集がつかない。そこで国王の出番となる。

ところが優柔不断の国王には決断力がない。ぐずぐずしているだけの国王に第3身分の議員たちは愛想をつかした。三部会を飛び出して、ヴェルサイユ宮殿の室内球戯場に集まる。新たに「国民議会」という議会をつくり、「憲法を制定すること」「国王が国民議会を正当な議会と認めるまでは解散しない」ことを誓いあった。


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球戯場の誓い

ヴォルテールルソーの啓蒙思想が流行したフランスである。第1身分にも第2身分にもアンシャン・レジームに反対し、国民会議を理解する議員もいた。次第に国民議会への賛同者は増え始め、三部会には人が少なくなる。そうなると国王もしぶしぶ国民議会を承認するしかない。国民議会は新しい国造りのため、憲法制定に着手する。


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バスティーユ牢獄襲撃

しかし、国王は本音では国民議会には反対で、解散に追い込みたいと軍隊を動員した。市民たちは国王の意図を見抜くと、対抗上自分たちも国民議会を守るために軍事力を持とうとする。そんな時、国民の期待を担った財務長官のネッケルが罷免された。それを知った市民たちは市民軍を編成する。廃兵院を襲い武器を手に入れ、火薬を手に入れるため「バスティーユ牢獄」を襲撃した。ここからフランス革命が勃発する。1789年7月14日である。

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ラファイエット(1757〜1834)

パリ市民たちが市民軍の総司令官に任命したのはアメリカ独立戦争に参加して「新大陸の英雄」として国民の人気を得ていたラファイエットだった。ラファイエットは貴族でもあるので、国王を中心とする立憲君主制を目指し、アメリカ独立宣言に習い「人権宣言」を起草する。第1条では「人間は生まれながらにして、自由であり、権利において平等である。」と謳った。近代民主主義発展史上、記念碑的な「人権宣言」である。

ナポレオンは15歳でパリの陸軍士官学校に入学、人気の騎兵科ではなく、砲兵科を選んでいる。4年の在籍期間を最短記録の11カ月で終了し、16歳で砲兵士官として任官している。フランス革命が始まった1789年頃のナポレオンはちょうど20歳頃だった。革命には無関心で、コルシカ民族主義者のナポレオンは度々コルシカ島へ長期滞在していたという。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は山
***  *** 動かざるもの、守る
***  ***
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、影、弱
***  ***

「山地剝」の卦。剝は剥製の剝。剥製は見かけは立派だが、中身は無い。文化の爛熟が最高潮に達したあとにやってくる、腐敗と衰退の社会現象である。人間でいえば若さにまかせて暴飲暴食を繰り返した挙句、取り返すことが出来ないほど糖尿病が進んでしまったようなものか。こうなれば、思い切った改革が必須ということになる。

アンシャン・レジームの実態は正に剥製のようなものだ。ル14世が築いた絶対王政という体制も相次ぐ戦争により財政難に陥り、内部では秩序も乱れ、腐敗も進み、中心である王も求心力を失い、政治に関心を持たなくなる。こうなれば、他国に倒されるか、自ら崩壊するしかない。これはフランスに限らず、いつの時代、どこの国でも起ることである。どんな体制も永久に保つ体制はない。わが国もアンシャン・レジームの危険はあるということを忘れてはいけない。

「パンが無ければケーキを食べれば良いでしょ。」とマリー・アントワネットが言ったというが、それは民衆の怒りを焚きつけるために革命の指導者が宣伝したことだ。マリー・アントワネットはそれほど馬鹿ではない。時代の大波に襲われたのであり、個人の力ではどうにもならない。以前に掲載したポンパドゥール夫人は貴族社会が爛熟を迎えた時にたまたま生まれ合わせ、思う存分その栄華を享楽出来たのだった。我々も現在の平和で豊かな時代に感謝しなければいけない。

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