さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名画に学ぶ世界史

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独立宣言への署名

フレンチ・インディアン戦争で、13植民地の入植者たちはイギリス側についてフランスと戦った結果、イギリスが勝利し、フランスは広大な土地ルイジアナを手放した。入植者たちは内陸部を開拓し農地を広げるチャンス到来を大いに喜んだ。ところが、戦争で財源が枯渇したイギリス政府はそこを国王直轄地とし、入植を禁じた。その上、13植民地に対して印紙法など様々な税金を課すと言ってきた。


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ボストン茶会事件

そもそも13植民地からは国会議員も出ておらず、参政権すらなかった。そこで住民たちは「代表無くして課税無し。」と言って猛反発した。そこに今度は茶法といってイギリス東インド会社の茶しか販売を認めないと言ってきた。これに反発した一部の過激派はボストン港に停泊していた東インド会社の貿易船に乗り込んで大量の茶箱を海に投げ捨てた。1773年の「ボストン茶会事件」である。

事件そのものは些細なことだったが、翌年本国との対応策を話し合うために始めて13植民地の代表たちがフィラデルフィアで会議の場を持った。それぞれ立場は違ったが、この時点で独立を考えた代表者は殆どいないと考えられる。ところが本国イギリス政府はこの事態を重要視して軍隊を派遣してきた。そして実際に植民地の民兵との間で戦闘が始まってしまった。1775年のことだ。


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ジョージ・ワシントン(1732〜1799)

始まってしまったものは仕方ない。植民地側は司令官としてフレンチ・インディアン戦争で活躍した後、農場経営をしていたワシントンに白羽の矢を立てた。ワシントンを司令官とする1万2千人の素人軍隊はイギリスのプロ軍隊3万人と対決することになった。ワシントンは兵力も装備も訓練も劣る素人集団を率いて散兵戦で戦う。地の利を活かし勝ちはしないが負けない戦いをすることにした。相手が休息している時や、狭い道を通過する時だけ攻撃し、相手が向かってきた時は一目散に逃げる戦法である。時間を稼げば不利になるのは相手の方だった。


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トマス・ペイン(1737〜1809)

戦争が始まってから1年ほど経ったとき、植民地の住民が一気に盛り上がる冊子が発行された。トマス・ペインが発行した「コモン・センス」である。コモン・センスは常識ということだが、何が常識かというと、「植民地がイギリス本国から独立するのは常識だ。」「イギリスの立憲君主制はもはや時代遅れである。」「大きな国が恒星となり、小さな国が惑星となるのが常識である。」 何んと世界の強国イギリスより、自分たちの方が中心となるのだという常識外れな常識を説いたのである。

当時250万人の植民地人口の中で12万冊が発行され大ベストセラーとなった。。植民地の殆どの人たちが読んで感激したであろう。ワシントンさえ、これを読んで独立を確信したという。「コモン・センス」で独立論が最高潮に達した頃、1776年7月、独立宣言起草委員会により「独立宣言」が発表された。起草者の中心は若干33歳のトーマス・ジェファーソンだった。

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ジェファーソン(1743〜1826)

ジェファーソンの「独立宣言」は現在でも名文として歴史に残る。
「我々は、次のことが自明の真理であると信じる。全ての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることの出来ない権利を与えられていること。その中には生命、自由、そして幸福の追求が含まれていること。これらの権利を確保するために、人類の間に政府がつくられ、その正当な権力は被支配者の同意に基づかねばならないこと。

もしどんなかたちの政府であっても、これらの目的を破壊するものになった場合には、その政府を改革し、あるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらすに最も適当と思われる原理に基づき、そのようなかたちで権力をかたちづくる新しい政府を設けることが人民の権利であること。」


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フランクリン(1706〜1790)

フランクリンは独立戦争のときはフランスで外交活動をしていた。話上手でサービス精神満点のフランクリンは貴族たちが集まるサロンではわざと熊の毛皮を着て田舎臭い野暮な格好をして出かけた。面白可笑しく植民地生活を語り、社交界女性の人気者になっていた。そのかいもあり、1778年、フランスは軍隊を派遣、フレンチ・インディアン戦争のリベンジをしてきた。また、スペイン、オランダ、ロシア、プロイセン、ポルトガルもイギリスの独走を阻止するため独立軍を支援する。1783年、パリ条約においてイギリスはアメリカ合衆国の独立を承認した。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は天
******** 陽、剛、強、大
********
******** 下卦は火
***  *** 文化、文明、理知
********

「天火同人」の卦。同人(どうじん)は志を同じくするもの。同人雑誌の語源である。大きな天の下に、ある文化を共有する人たちが集まり、次第にその勢力を増していく。正しい英知と実行力があれば、大河を渡るような大事業も成し遂げることが可能である。同志とは親類縁者だけではいけない。広く内外に仲間を求める必要がある。

独立宣言は感激させる。正に政治は民衆のためにあるというところが画期的な文章だ。これは17世紀に始まった啓蒙思想の実践そのものである。イギリスの哲学者ジョン・ロックやフランスのモンテスキュー、ルソー、ヴォルテールたちの思想が形となって現れたのだ。ヨーロッパで起った運動が海を隔てたアメリカで一足早く実現したことが興味深い。動かし難いしがらみのない更地だからこそ建てられた建築物だったのかも知れない。

独立宣言の「全ての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることの出来ない権利を与えられている」にはインディアンや黒人は含まれていない。この問題は独立と同時に問題になっている。そしてその人種問題や宗教問題は現在も尚解決されたとは言えない。独立宣言は人類の悲願でもある。一歩一歩その悲願に向って改革を続けて欲しい。「これらの目的を破壊するものになった場合には、その政府を改革し、あるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらす〜」この最後の文章はその改革の権利を謳っている。








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ベンジャミン・フランクリン(1706〜1790)

北米東海岸にイギリス人が入植し始めて25年。1632年にジョージア植民地が出来、全部で13の植民地が設立された。ボストンでは1635年、早くも最初の公立学校であるボストン・ラテン・スクールが建てられた。さらに1636年には最初の大学であるハーバード大学が設立されている。

植民地生活はどんなものだったのだろうか。開拓者たちは朝から晩まで働いたことだろう。森から樹を切り倒し、家を建て、井戸を掘り、土地を開墾し、畑をつくり、家畜を養いと、男も女も汗をかいて働いたことだろう。貧しいながらも家族は団結し、生まれた子供たちも5,6歳にもなれば水汲みや薪割りなど家の手伝いをしたのだろう。一家に子供が10人位は普通だったようだ。

1700年代の始め頃には13の植民地人口は25万人になった。それが独立宣言の1776年頃には人口が250万人というから次第に加速するように発展したようだ。1700年代がアメリカの草創期、最も活気にあふれたアメリカンドリームの時代だったのだろう。


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植民地時代のボストン

アメリカ建国の主役は王でもなければ貴族でもない。正に民衆である。当時のアメリカ人の代表選手というべき一人の人物を紹介したい。ベンジャミン・フランクリン。彼こそ陽気で快活、勤勉で探求心にとんだ典型的なアメリカ人だ。彼はボストンの貧しい家庭の17人兄弟の15番目に生まれた。小学校も満足に行っていなかったが、殆んど独学で学識を身につけ、事業に大成功を収め、アメリカの独立宣言の起草委員の一人になっている。


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独立記念館(フィラデルフィア)

ベンジャミンは出版社を営む兄の徒弟になったことから出版を学んだ。18歳でロンドンで学ぶ機会を得る。20歳、帰国してフィラデルフィアにて出版業を始める。28歳のとき「貧しいリチャードの暦」という暦が大ヒットする。何故大ヒットしたかというと、その暦には一日ごとにことわざが載っていた。例えば、「天は自ら助くるものを助く。」「早起きは人を健康にし、金持ちに、賢くする。」「寝ている狐は一話の鳥も捕まえない。」などであり。勤勉、節約、蓄財を勧めるピューリタンの教えに叶い忙しく働く庶民に歓迎された。この大ヒットのお蔭でベンジャミンは富と名声を手に入れる。

彼は42歳で出版業から手を引き、植民地議員や郵便総局長などの公職に専念する。また彼は科学者でもあった。嵐の日に凧を上げての実験により雷の電気がプラス、マイナスの極性があることを証明した。これによりロンドン王立協会にも名が知られた。また避雷針、燃焼効率に優れたストーブ、遠近両用眼鏡、グラスハーモニカなども発明している。知名度を買われ51歳の時に植民地の待遇改善のためにイギリス政府に派遣されている。このとき、彼の科学的業績を称えオックスフォード大学から名誉学位を授与されている。


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フレンチ・インディアン戦争

1754年にはフレンチ・インディアン戦争が起きた。ヨーロッパで7年戦争が始まるころだが、その代理戦争でもある。インディアンの領地をイギリスとフランスで争ったのだが、ベンジャミンはイギリス側として植民地連合や軍需品調達に奔走した。戦争はイギリスの勝利となり、フランスはアメリカから撤退した。この戦争で活躍したのが、ジョージ・ワシントンである。


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アメリカ・インディアン

ベンジャミンの考え方は合理的で、陽気で気さく、誰にでも愛される性格だったが、先住民に関してはこんな言葉が残っている。「ラム酒はインディアンを消してしまうために、神が我々に与えたもうた。」というものだ。インディアンから土地を奪うときはラム酒を持参して挨拶に行く。一緒に酒を飲み、「飲め、飲め、」とラム酒を飲ませる。強い酒に弱いインディアンはベロベロに酔ってしまう。そこで、土地の譲渡契約書に無理やりサインさせる。

あくる日、インディアンの土地に行き、杭を打ち込んでしまう。インディアンが抗議に来ると昨夜の契約書を見せ、「お前が土地を譲ると署名したではないか。」と突っぱねる。啓蒙思想家のベンジャミンにして先住民に対しては人間扱いをしていない。1700年代の入植者たちにはそれが公然として罷り通っていたのだろう。

1776年、70歳のベンジャミンはアメリカ独立宣言の起草委員となり、ジェファーソンらと共に署名した5人の政治家の1人となった。独立戦争中はパリの社交界を中心に游説するとセレブ女性たちの人気を得、フランスの参戦に成功。欧州諸国の中立にも成功させた。1790年に84歳で死去。葬儀は国葬で執り行われた。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は天
******** 陽、大、剛健
********
***  *** 下卦は雷
***  *** 活動、始まり、
********

「天雷无妄」の卦。无妄(むぼう)とは妄はみだり、いつわり、でたらめであり、无は無いの意味。つまり至誠真実のことである。また晴天の霹靂というように思わぬことが起きるという意味もある。何の野心も計画もないのに、天から与えられたように道が開けてくる。そんな時は流れのままに従い、身をゆだねることだ。そんな幸運が訪れた者は幸いである。

アメリカ大陸に渡った入植者たちは艱難辛苦の末に得たものは大きな恵みだった。世界史の中でも奇跡に近い出来事と言って良いだろう。あらゆる資源も豊富にあり、あらゆる動物、植物が繁栄できる広大な面積の大地が手つかずで残っていたとは奇跡以外の何物でもない。この大地に理想の国を創ろうとした建国の志士たちは、夢の実現のため、どんなにか胸を熱くしたことだろう。その話は次回に譲ろう。

そうは言っても、気の毒で同情に耐えないのは先住民のインディアンたちだ。独立後も悲劇的な敗北のドラマは激しさを増していく。その後は南部を中心に増え続けた黒人奴隷問題。解放後も現在にも続く人種問題はアメリカ社会が建国と同時に背負った課題でもある。本当の民主主義を実現できるかどうか、世界中が見守っている。
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スー族の戦士

16世紀から18世紀に至るヨーロッパの歴史を旅してきたのだが、その間に海の向こうにとんでもないことが起ろうとしていた。その後のヨーロッパばかりでなく世界をリードするほどの偉大な国家が誕生しようとしていた。すなわちアメリカ合衆国である。

以前に「スペインのコンキスタドール」に詳しく述べたが、15世紀に始まった大航海時代のポルトガルとスペインの目的は中南米の金銀だった。16世紀になると豊富に産出される銀を運ぶスペイン船をイギリスの海賊が襲いアルマダの海戦にまで発展した。当時は北米には金銀の山は発見されていなかったため入植者は少なかったが、17世紀になると広大な土地を求めてスペイン人、オランダ人、イギリス人、フランス人たちがやって来た。


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エリザベス1世(1533〜1603)

各国の勢力はヨーロッパに於ける力関係がそのまま反映されている。16世紀の前半は世界の覇権を握るスペインだったが、後半になるとオランダが進出してきた。その後に勢力をのばしたのがイギリスであり、オランダのニューアムステルダムをニューヨークにしている。東海岸近くのヴァージニアは当時のエリザベス1世が処女王と言われたところから命名されたものである。


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ルイ14世(1638〜1715)

17世紀の中ごろから太陽王・ルイ14世の強力な後押しもあり、フランスがカナダとミシシッピ川流域に広大な地域を領土として宣言した。王の名に因んでルイジアナと名付けられた。しかしイギリスはフランスのスペイン継承戦争とその後の七年戦争でフランスからカナダ及びルイジアナをも獲得。北米の東海岸は大半がイギリス領となる。

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ジョン・スミス(1580〜1631)

実際に新大陸に住み着くということはスペインのコンキスタドールたちと同様に命がけのことであった。1606年、イギリスは植民地計画を実行するべく遠征隊を出港させた。遠征隊の目的は黄金だったが発見に至らなかった。そのリーダーだったのがジョン・スミスでありインディアンのポウハタン族から、タバコ栽培を学び植民地経営の手掛かりを獲得した。今でも「ヴァージニア・スリム」というタバコがある。当時の王・ジェームズ1世に因んで「ジェームズ・タウン」という最初の町ができたのである。

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メイフラワー号

1620年、イギリスから信仰の自由を求めてピューリタンの一団がメイフラワー号に乗ってやって来た。女性も子供も連れて家族としての初めての入植だったが、当時の入植は命がけで約100人のうち半数は病気や寒さで死んだ。生き残った入植者が建設したのが「プリマス植民地」でニュー・イングランドでの最初の永久移民と伝えられている。メイフラワー号はその後第2、第3の入植者を運んできた。

アメリカでは11月の第4木曜日を「収穫感謝祭」という祝日がある。始まりは「プリマス植民地」で先住民ワンパニアグ族に感謝したことに由来する。入植した最初の冬は特に寒さが厳しく、食料も充分でない入植者たちは次々と死者を出した。先住民インディアンのワンパノアグ族は見知らぬよそ者にトウモロコシを与え、この地での栽培方法を教えた。おかげで翌年秋には多くの収穫に恵まれた。入植者たちはワンパノアグ族の人たちを招待して神に感謝し、収穫に感謝し、共に御馳走を頂いたのだった。


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アメリカの先住民

しかし西洋人の人口が増えるにつけ、領土を巡る争いは避けようもない問題だった。当時北米には先住民としてアメリカ・インディアンが約100万人はいたと言われる。彼らは500位の部族に別れ、農耕や狩猟採集生活をしていた。起源を遡れば、彼らは祖先はアジア系である。氷河時代に陸続きとなったシベリアから北米に渡ってきた部族がその後氷河が解けて南米にまで進出して行ったらしい。インディアンたちにとっては西洋人は歓迎せざる客どころか、悪魔のような存在だったに違いない。銃か弓矢のどちらが野蛮なのか解らないが、弱肉強食の存亡劇が繰り返されることになる。

〜〜さわやか易の見方〜〜

***  *** 上卦は水
******** 困難、混沌、悩み
***  ***
***  *** 下卦は雷
***  *** 活動、出発、芽生え
********

「水雷屯」の卦。屯(ちゅん)は生みの苦しみ、生まれいずる悩み。草木の芽が地面からなかなか出て来れない。人生では悩み多き青年期、事業を起こす時の創業期。困難の中を突き進んで行くとき、新しい世界が開けるものである。焦ってはいけない。我慢のしどころである。君子はこんな時に国家経綸の大志を起こすものである。

偉大なる国家、アメリカの建国にはそのために犠牲になった民族があったことを忘れてはいけない。確かに世界史は民族の存亡の歴史には違いはない。だからと言って、力のない民族や国家を犠牲にして大国だけが栄えれば良いというのだろうか。大国の横暴を阻止するには自爆テロしか方法がないと言わせて良いのだろうか。大国には自国だけの平和だけではなく、弱小な民族、国家の平和にも貢献する責任があるのではないか。

インディアンたちにとって災難だったのは、西洋人がインフルエンザ菌などの病原体を持ち込んできたことだった。ニューイングランド周辺のインディアンたちの90%が抵抗力がないため死亡したと伝えられている。「感謝祭」はインディアンたちには土地を奪われた、「大量虐殺の始まりの日」として先祖たちに祈りを捧げる日になっているという。またインディアンたちの伝統文化や遺産を再認識するための記念日でもあるという。



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ポーランド首都・ワルシャワ

ポーランドという国は現在はEUの優等生と言われる程、経済発展を遂げている。航空機の部品製造の分野では世界をリードする実力がある。しかしそれは東西の冷戦が終了しヨーロッパの一員になってからのことだ。それ以前の約200年ほどは暗黒のトンネルの中にいたのだった。そのトンネルはどうして始まったのかを考えてみたい。

ポーランド・リトアニアはヤギェウォ朝を中心に15、16世紀頃はヨーロッパの穀倉地帯としてハプスブルグ家と並ぶほど繁栄していた。ヤギェウォ朝を中心に貴族たちの議会制は他の諸国より一歩先を進んでいた。ところが16世紀後半に200年間続いたヤギェウォ朝の後継ぎがなくなり、貴族たちは「国王自由選挙」という制度を作った。立候補したロシア、フランス、スウェーデン、ハプスブルグ家の王たちから国王を選出することにした。初めて選ばれた王はフランスのアンリ3世だった。(ロシアの雷帝も立候補している。)


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ポニャトフスキ(1732〜1795)

この選挙制度は約200年も続いたが絶対王制に移行した他国に比べ国力は低下した。18世紀には殆んどロシアの保護国となる。最後の国王になっていたのはロシアの女帝エカチェリーナ2世の元愛人だったポニャトフスキである。ポニャトフスキはポーランドの貴族出身で愛国者だったが、他の貴族を束ねる権力がなくロシアに頼ろうとする。ロシアの支配に反対する貴族たちがポーランドの民族運動を起こすが、たちまちロシアにより鎮圧された。

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ポーランド分割の風刺画

ロシアは罰として領土を一部分割することにする。その情報をキャッチしたプロイセンのフリードリヒ2世はオーストリアのヨーゼフ2世に呼びかけた。「君の母さん(マリア・テレジア)は私にシュレジエンを盗られたと怨んでいるようだが、替わりにポーランドを一緒に頂こうじゃないか。」こうして1772年、3国によるポーランド分割が行われた。その後、独立運動が起る度に制裁を受け、1795年、残された領土もロシア、プロイセン、オーストリアによって完全に分割されポーランドは消滅してしまう。


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エカチェリーナ2世(1729〜1796)

ロシアの大帝と言われたピョートル1世の政策を引き継いだと言われるのが女帝・エカチェリーナ2世である。もとはプロイセン出身ながらピョートル3世と結婚、その政治的実力は夫をしのぎ、夫の死後は皇帝になる。専制政治を強化し弱体化した周辺諸国を侵略、領土を広げたスゴイ女帝である。もっとスゴイのはその私生活だ。彼女には生涯に公認された愛人だけでも10人いた。それ以外にも一夜を過ごした男の数は数えきれない。夜ごと男を変えて寝室をともにした。孫の皇帝・ニコライ1世は彼女のことを「玉座の上の娼婦」と酷評している。


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マリア・ヴァレフスカ(1786〜1819)

領土を拡大する強国はさらに繁栄して景気の良い話だが、領土を取られる国民はたまったものではない。ある貴族の一家に起こった実話を紹介したい。ポーランド名門貴族のウォンチスキ家の娘に生まれたマリアが8歳の時、義勇軍に参加した父が戦死し、一家は窮乏してしまう。美しく成長した16歳になったマリアに62歳のヴァレフスキ伯爵から結婚話がくる。伯爵は3度目の結婚で、マリアより6歳年上の孫もいた。マリアはショックで寝込んでしまうが、一家の窮状を救うためと母に説得されて結婚し、男の子を出産する。


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ナポレオン(1769〜1821)

フランス革命が起き、ナポレオンがヨーロッパを征服していた頃である。祖国を失ったポーランドの貴族たちはナポレオンに救いを求めた。外務大臣・タレーランはナポレオン歓迎の舞踏会を開き、美しい貴族の婦人たちがもてなした。そこでナポレオンは20歳のマリアに一目ぼれし求愛する。「私には夫も子もいますので。」断るマリアに祖国復興を願う貴族たちはヴァレフスキ伯爵邸を何度も訪れる。マリアとその夫を説き伏せ、ナポレオンの望みを叶え、1807年、ワルシャワ公国として独立することができた。
 
ナポレオンにとってマリアは妻・ジョセフィーヌや他の愛人とも違い、おだやかで慎ましく、欲がなく純真で心を和ます唯一の女性だった。ナポレオンは自分の子は諦めていたが、マリアから妊娠を告げられると新たな野心を膨らます。ヨーロッパ名門貴族と結婚しハプスブルグ家に代わってナポレオン帝国を築こうというものだった。オーストリア皇女・マリー・ルイーズと再婚し、子供も設けるが、既に運は尽き、失脚し幽閉される。運命と時代に翻弄され病気でやせ細ったマリアはわずか31歳の若さでその生涯を終える。


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ショパン(1810〜1849)

ワルシャワ公国はナポレオンが失脚すると消滅し再びロシアの支配となった。わずか8年、つかの間の再興だった。日本人に親しまれているピアノの詩人・ショパンはその間に生まれている。多くのポーランド貴族はパリに移住した。ショパンも20歳で祖国と別れ、39歳で死ぬまでパリで過ごし、祖国に帰ることはなかった。祖国には音楽家が生活出来る環境はなかったからである。ショパンの調べは何処までも切なく悲しい。愛国者だったショパンが祖国を思い涙を流した旋律である。

〜〜さわやか易の見方〜〜

***  *** 上卦は地
***  *** 大地、陰、暗
***  ***
******** 下卦は火
***  *** 太陽、文化、文明
********

「地火明夷」の卦。明夷(めいい)は明が夷(やぶ)れるであり、明知なるものが害されること。太陽が地下へ沈む象である。夜の世界、暗黒の世界となる。暗黒の世界にあっては、じっと耐え忍ぶことが必要である。なまじ才能を発揮して打開を図ろうとすればするほど深みにはまる。試練の時代と思って内面の充実に努めることである。「艱難汝を玉にす。」春は必ず来るものだ。

ポーランド人は親日派が多い。1905年に起こった日露戦争で日本が勝ったとき、ロシアに苦しめられていた周辺国は皆歓喜した。乃木大将と東郷平八郎にあやかって生まれた子供の名前を「ノギ」や「トウゴウ」にした人もいたそうだ。シベリアに残された大勢のポーランド孤児を日本赤十字が救出したこともある。ソ連には日本も酷い目に遭っているが、ポーランド国民はその何倍もの苦しみを味わった。

ようやく朝日が昇ってきたポーランドであるが、まだまだ国民の所得はヨーロッパの平均に及ばないという。しかし希望は若者たちだ。若者の人口比率は日本とは比べもののない程高い。大学への進学率も高いという。長いトンネルを経験したポーランド国民に祝福あれ!そう祈らずにはいられない。
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ジョフラン夫人(1699〜1777)

ルイ14世の治世には王立による研究機関が設立され学術、芸術などの振興を図ったが、王の絶対君主制のもと自由な発想は生まれにくかった。1715年、ルイ15世の代になるとその反動もあり、上流階級の間では貴族の夫人や未亡人などの邸宅で「サロン」という新しい交流の場が流行する。そこでは学問、思想の分野で自由な議論が許されていたため、むしろ絶対王制には批判的な理性や合理主義、権利、義務などが論じられた。これを啓蒙思想という。


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ジョフラン夫人のサロン

貴族のサロンの中でもジョフラン夫人が主宰するサロンはとくに啓蒙思想の最先端をいく学者たちが集まったことで知られる。この絵は当時の英知の集合ともいうべき錚々たる学者たちの顔がある。「法の精神」の著者・モンテスキュー、社会を批判したヴォルテール、自然への回復と人間主義を唱えたルソー、経済思想家のテゥルゴー、「百科全書」を監修したディドロ、ダランベールなどがいる。

ここから発信された啓蒙思想は上流階級から中産階級にまで広がっていく。君主の中にもプロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世、ロシアのエカチェリーナ2世などは自国の近代化に取り入れている。サロンは学者だけではなく作家、詩人、画家、音楽家たちも自らの作品を披露し認められる場所でもあった。天才少年・モーツァルトもここで演奏したという。


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ポンパドゥール夫人(1721〜1764)

ジョフラン夫人のサロンを足がかりに一躍国を動かすチャンスをつかんだ女性がいる。ポンパドゥール夫人である。彼女は銀行家の娘として生まれたが、貴族の子女以上の教育を受け、成績は抜群だった。お役人と結婚するが、サロンにてヴォルテールやフォントネルらの一流の文化人と交流していた。23歳のとき、その才色兼備がルイ15世の目に留まった。翌年にはポンパドゥール公爵夫人として夫と別居、王の正式な公妾として認められた。

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ソファに横たわる裸婦(プーシェ)

ポンパドゥール夫人はルイ15世の心をつかみ、王の許しを得て自分の世界を思う存分羽ばたかせることが出来た。夫人は学問のみならず、音楽、彫刻、絵画、演劇、建築の分野にも造詣が深かった。ヴォルテールなど啓蒙思想家を保護し、「百科全書」の編集にも資金援助する。一方、甘味で官能的な盛期ロココ絵画の代表である画家・プーシェ(1700〜1770)のパトロンとして画を描かせる。またプーシェは王の前で演劇を見せるため衣裳デザイン、舞台装飾にも夫人とともに腕を振るった。


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セーブル陶器

ポンパドゥール夫人の功績の一つにセーブル陶器がある。優雅な磁器が好きだった夫人は中国や日本からの輸入に頼らず、国産化したかった。そこでヴェルサイユ宮殿の近くセーブルの街にセーブル陶器製作所を創設する。芸術家を呼び、自分でもデザインに加わり作品を製作した。ポンパドゥール・ピンクという水差しと水鉢は有名である。やがてセーブル陶器は世界にも誇れる「セーブル磁器」となり外貨を稼ぐ産業振興にも一役買っている。


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マリア・テレジア(1717〜1768)

夫人は余り政治に関心を示さないルイ15世に代わって政治にも外交にも権勢を振るった。事実上宰相の役目も果たし、大臣の任命まで彼女の意見で行われた。「影の実力者」「ベッドの中から国を動かす女」などと揶揄もされたが、その啓蒙思想で培われた頭脳と実力は本物だった。35歳の頃、オーストリアのマリア・テレジアから反プロイセン包囲網の要請がある。夫人には女性蔑視のフリードリヒ2世は許せない存在だったので、ロシアの女帝・エリザヴェータとも手を結び、「七年戦争」に参戦した。

フランスとハプスブルグ家の同盟は300年間のライバル関係を解消する画期的外交でもあり、「外交革命」と言われた。同盟の証しとしてマリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐことになる。


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ルイ15世(1710〜1774)

ポンパドゥール夫人は29歳からは公妾を退き、王とは性的関係ではなく信頼される助言者となっていた。自分の代わりに王の好みを知り尽くしている夫人は「鹿の園」という女の館に王好みの美女たちを集めて夜のお相手をさせた。王のポンパドゥール夫人への寵愛は変わることはなかったが、夫人は42歳の若さで世を去った。王は深い悲しみに沈みこみ長く立ち直れなかったという。亡くなる前に夫人は「これから我が国は大洪水に襲われる。」と語ったと伝えられる。やがて来るフランス革命を予知していたのだろう。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は天
******** 陽、大、強
********
******** 下卦は風
******** 従順、入る、長女
***  ***

「天風姤」の卦。姤は邂逅という意味がある。卦の形は陽(男)ばかりの集団に一人の陰(女)が加わるのである。相当にしたたかな女であり、男たちの結束はたちまち乱れてしまうというものだ。こんな女と結婚してはいけないともある。しかし悪い意味にだけにとらわれてはいけない。思いもよらない発想の転換もあり、不思議な世界が生ずることもある。人生ドラマ、人間模様は偶然な出会いから始まる。

いかにもフランスという気がする。愛人というと日本では不倫という言葉が出てくるほど、世間では認めてもらえない存在だが、フランスでは全く違う。形より中身が問われるのがフランスである。それにしてもポンパドゥール夫人の魅力はスゴイものだ。王室に生まれていても、これほどの活躍をすることは出来ない。しかも、銀行員の子といえば、全くの平民である。貴族の全盛時代に最も美味しいところを堪能して、危なくなる前にさっさと消えていった。まさに達人である。

ポンパドゥール夫人は夜のお勤めを退くときに、ガラス職人を呼んで、自分の乳房と同じ形をしたワイングラスを作らせ、王にプレゼントした。王は喜んで愛用し、毎晩そのグラスにワインを注ぎ、そっと手で包み、ゆっくり回しながら、グラスに口をつけた。いったい王の頭の中は何を考えていたのだろう。





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