さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

名画に学ぶ世界史

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マリア・テレジア(1717〜1780)

舞台はオーストリア。神聖ローマ帝国の称号を世襲するヨーロッパ貴族の名門中の名門貴族ハプスブルグ家が所領する大公国です。「30年戦争」により領地を減らされ、帝国としての権威は落ちたとはいえドイツ領邦国家の中でその地位は不動だった。その後オスマン帝国の支配下だったハンガリーを獲得し、領土も以前より拡大していた。そんな時代にハプスブルグ家の長女としてマリアは生まれた。

政略結婚が当たり前の王家の中で、マリアは例外的に恋愛結婚をしている。お相手はマリアが幼い時に、ウィーンに留学に来ていたロレーヌ公国の公子・フランツだった。父カール6世にも聡明で礼儀正しい好青年として気に入られていた。成長したマリアは夜は彼の夢を見、昼は彼のことを女官たちに話す程熱愛した。マリアの熱意にも負けて父カール6世は二人を結婚させることに同意した。1736年、18歳のマリアは既にロレーヌ公となっていたフランツと晴れて婚礼を挙げる。

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フランツ1世(1708〜1765)

一方小国ロレーヌから一躍ハプスブルグ家に婿入りすることになったフランツにとっては想像を絶する苦難が待っていた。先ず、フランス・ルイ15世からイチャモンが入り、結果として空位となっていた元メディチ家のトスカーナと交換を条件にロレーヌ公国はフランスの領土にさせられる。実家の母も猛反対する中で合意書への署名は怒りと絶望で3度もペンを投げ捨て、震える手で行ったという。

結婚後もフランツは小国出身の悲哀を何度も味わうことになる。ウィーンの宮廷人たちはフランツをマリアの添え物としてしか扱わず、「殿下」という敬称すら付けない。市民からもフランツは外国人呼ばわりされ、第1子に続いて第2子も女子が生まれると、皆がフランツのせいにした。マリアの大公即位に抗議をつけプロイセンが侵略してきた時、フランツは外交交渉で解決しようとした。しかし主導権を握るマリアと貴族たちは断固戦う意思だったので、フランツの意見は無視された。以後政治的権力は全てマリアの手に握られた。


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フリードリヒ2世(1712〜1786)

マリア・テレジアにとって生涯最大の宿敵となったのがプロイセン王フリードリヒ2世である。もともと父カール6世が存命中にフリードリヒ2世を始め有力諸侯には自分の後継に娘のマリアを即位させるのでよろしくと了解を取り付けていた。それなのに父が亡くなると、イチャモンを付けてきた。目的はシュレジエンという広大な領地が欲しいからである。戦力にものを言わせ、戦争をしかけまんまと盗ってしまった。「女を甘く見てるわ!」なんとしても許しがたいマリアはその復讐心に燃えた。

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ポンパドゥール夫人(1721〜1764)

急速に軍事強国に駆け上がったプロイセンに対してはオーストリア一国では勝てる見込みはない。考えた挙句、ルイ15世よりもフランスの政治的実権を握る公妾のポンパドゥール夫人に目をつける。「私たちには過去の因縁は関係ないわよね。」「あのフリードリヒは啓蒙君主なんて言ってるけど、裏切り者の2重人格者じゃない。」「それにあの女性蔑視は許せないでしょ。」秘密裏に使者を送り交渉させ300年に渡るライバル関係だったフランスと手を結ぶことに成功する。同盟の証として末娘のマリー・アントワネットをルイ16世と婚約させた。

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ロシア女帝エリザヴェータ(1709〜1762)

もう一枚同盟相手が必要だ。そこでロシアのピョートル1世の娘・女帝エリザヴェータと話をつける。マリア・テレジアのウルトラCとも言える画期的外交は「革命外交」とも評価される。ついにオーストリア、フランス、ロシアの三国同盟が出来あがり、シュレジエン奪還の戦いが始まった。これが「七年戦争」である。軍事的天才と言われたフリードリヒ2世であるが想定外の三国同盟には肝を冷やした。戦争は99%ロシア・オーストリア連合軍が勝利を収めたが、あと一歩のところで、エリザヴェータが死去。後を継いだピョートル三世がまさかの停戦、結果としてシュレジンは取り返せなかった。

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マリア・テレジアの家族たち

政治、外交と八面六臂の大活躍の中で、マリアは何と16人の子供を生んでいる。妊娠、出産、子育てをずっと連続して行い、しかも女帝として政をし外交に奔走しているのだ。女帝に産休など一日足りとてない。その一日は分刻みの忙しさだった。朝食は先ず閣僚たちと、次に家族たちと、次に夫フランツと3回に分けて取り、その後執務室に向かったという。

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ヨーゼフ2世(1741〜1790)

子供たちが成人してマリアを一番悩ませたのは、跡継ぎの長男ヨーゼフである。親子関係としては仲は良かったものの、ヨーゼフが啓蒙思想を学んだことからマリアの政敵であるプロイセンのフリードリヒ2世のファンになり崇拝していたことだった。マリアの死後、余りに理想的過ぎる政策に貴族たちも協力出来ず失敗を繰り返した。


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喪服のマリア・テレジア

マリアを支えたのは夫であるフランツ1世だった。フランツは皇帝に即位した後も政治的実権は持てないままだったが、腐ることなく内政、財政、産業振興に手腕を振るった。「七年戦争」で財政が苦しくなった時も国債発行に必要な莫大な財産を残していた。マリアとフランツは役割を分担し協力し合った。フランツは常に子供思いの良き父親でもあった。中でも身体が弱かった次女アンナのことを気にかけていた。

マリア48歳の時、フランツは57歳で亡くなった。ハプスブルグ家の婿に入って30年、寛大で温和な人柄は貴族や市民にも慕われていた。その葬儀には彼の偉大な功績を偲んで、家族、友人、家臣、市民、等しく涙の別れとなった。マリアはそれまで持っていた豪華な衣装や装飾品を全て女官たちに与え、死ぬまで喪服だけの生活を送ったと言われる。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は風
******** 従順、へりくだる、長女
***  ***
******** 下卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********

「風火家人」の卦。家人とは家庭人のこと。家族の中心は夫婦。とくに主婦の役割は重要である。夫と妻がそれぞれ役割を自覚し、持ち場を守り、家族が水入らずで親しむ時を大事にすることである。天下が治まるには家が治まることが先決である。

女帝でありながら16人の子供を生み育てるマリア・テレジアの大活躍は誰もが認めるところである。ハプスブルグ家の大ピンチを見事に救って後に繋いだ。正にスーパーレディである。しかし兎角陰に隠れて印象に残らない夫・フランツ1世の偉大さは妻の功績に勝るとも劣らない。世のマス夫さんたちは鏡にしても良いのではないか。

ウィーンと言えば音楽の都として有名だ。音楽に限らずハプスブルグ家は代々芸術家のパトロンでもあった。1762年頃、シェーンブルン宮殿に当時6歳の天才ピアニストとして売り出し中のモーツァルト親子を呼んだことがある。演奏したモーツァルトが拍手喝采してくれたマリア・テレジアの膝に飛び乗ってキスをすると、さらに座が盛り上がり父親は破格の報奨金を受け取ったという。後にヨーゼフがモーツァルトを雇用している。その頃から音楽の都と言われるようになったらしい。

プロイセン王国の台頭

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フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
(1688〜1740)

当時のドイツは領邦国家で大小合わせて何百という公国が独立しつつ連携していた。その中で最も領土も広く勢力があったのがヴァチカンより「神聖ローマ帝国」という権威を与えられていたハプスブルグ家のオーストリアである。ドイツ各地は17世紀の宗教戦争「30年戦争」の戦場にされ、加えてペストの大流行もあり、実に人口が半分に成るほど荒廃してしまった。そこからいち早く立ち直り、ドイツ一の強国になっていくのがプロイセン公国である。

「兵隊王」と呼ばれたヴィルヘルム1世率いるプロイセンはスペイン継承戦争でオーストリアを支援した見返りに王国に昇格した。傭兵を雇う金はない兵隊王はどうして軍隊を強くしたかというと、、徴兵制で農民を集め兵隊にした。徴兵係りが農村を回り、体格の良い農夫を見つけては無理やり拉致して兵隊にした。あとはスパルタ式に鍛え上げ、命令違反をする者は銃殺にする。脱走をした兵士には「列間鞭打ちの刑」といって、鞭を持った2列の兵隊の間を裸にして走らせる。仲間を打つのも辛いが打たれた方は半殺しの目にあった。

兵隊王は極端ともいえるケチであり、家族、家臣にも徹底的な倹約を強いた。王が近くに来ると皆隠れたが、ある日隠れた家来に「何故隠れた!」と問い詰めると「王様が怖いからです。」と答えた。王は「恐いとは何事だ!王を好きにならんか!」と言って杖で打ち据えたという。王の趣味といえば、特別大きな兵士を選んで「巨人軍」という親衛隊を連れて歩くことだった。


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フリードリヒ2世(1712〜1786)

そんな父親の元に育ったのがフリードリヒ2世である。父は強い王にするために息子には特に厳しく、気に食わなければ杖を振るった。母・ゾフィーは後のイギリス国王になるジョージ1世の娘で、文化、芸術を身に着けた宮廷人だったので、教育方針は正反対で対立していた。息子フリードリヒは母親似で音楽や読書が好きだった。父はそんな姿が目に入ると怒り狂って本や楽器を取り上げ、「王になる者がこんな軟弱でどうする!」と杖で打ち据えた。そんな虐待に等しい環境に成長したのだった。

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親友・カッテ

フリードリヒは父親が大嫌いだった。18歳の時だった。ついに我慢しきれなくなったフリードヒは家出を決意した。それを知ったのが親友であるカッテ君だ。「見つかったら君の命はないから」と止めるフリードリヒに「殿下一人では危険だ。」と二人で決行することにした。ところが、逃亡劇はたちまち発覚し、宮廷に引き出される。兵隊王には家出は脱走と同じだ。フリードリヒは要塞に幽閉、カッテはフリードリヒの目の前で処刑されることになる。「カッテ〜、私を許してくれ〜。」フリードリヒは窓から叫んだ。カッテは「私は殿下のために喜んで死にます。」と答え従容として斬首されたという。

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ヴォルテール(1694〜1778)

フリードリヒは理性、合理性を重視し迷信や偏見を嫌った。当時フランスでは絶対王制の絶頂期だったが、その体制を批判する啓蒙思想には惹かれた。投獄された経験もあるヴォルテールを宮廷に呼んで直接語り合ったこともある。「反マキャヴェリ論」という著作も残っている。

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エマヌエル・バッハとフルートの演奏するフリードリヒ

父王が亡くなるとその反動もあったのだろう宮廷に楽団を置いた。大バッハも招き、次男のエマヌエル・バッハなどの一流の音楽家を集めた。フリードリヒはフルートを演奏し作曲もした。作曲数はフルート・ソナタだけでも121曲もある。

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マリア・テレジア(1713〜1780)

啓蒙思想を学んだフリードリヒ2世の言葉として「朕は国家第1の下僕なり」がある。「朕は国家なり」のルイ14世の言葉に比べると民主的なようだが、実際にやったことは2度の戦争である。父親が作った強大な軍隊を使って領土を拡大した。相手はオーストリアだった。神聖ローマ帝国を名乗るオーストリアに男子の跡継ぎがなく、娘のマリア・テレジアが継いだことに抗議し戦争に突入する。8年に及ぶ「オーストリア継承戦争」の結果、広大なシュレジエンの地を獲得した。

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クネルスドルフの戦い

元々父カール6世が了解を取り付けた上で女大公になっていたマリア・テレジアは悔しかった。そこで外交革命と言われるほど慎重に根回しをしフランスとロシアを味方につけ復讐戦を挑んだ。これが「七年戦争」でプロイセンを攻める。1759年8月、クネルスドルフの戦いでロシアとオーストリア連合軍の前にプロイセン軍は敗北を喫した。戦場に残されたフリードリヒはもはやこれまでと死を覚悟した。

ところがここで奇跡が起こる。ロシア皇帝のエリザヴェータが突然死亡。後を継いだピョートル3世が軍を撤退させたのだ。理由はピョートル3世が啓蒙君主としてのフリードリヒ2世の信奉者だったからだ。土壇場で形勢は逆転しプロイセンの勝利となった。2度の戦争を通してプロイセンはドイツの領邦国家の中でオーストリアに並ぶ大国の地位を確立した。

〜〜さわやか易の見方〜〜

***  *** 上卦は地
***  *** 陰、影、弱
***  ***
******** 下卦は風
******** 従順、へりくだる、入る
***  ***

「地風升」の卦。升は伸びる。地の下から木の芽がすくすくと伸びてゆく象である。順調に堅実に向上していく。伸びていくための3原則は、1、時を得ること。1、実力を養うこと。1、後援者を得ること。若芽には春の季節と旺盛な生命力と豊かな養分とが必要である。個人においても国家においても同様である。

国家が飛躍するのも、天の時、地の利、人の和である。荒廃したドイツの中からプロイセンは選ばれて勃興したのだろう。そんな時は運も味方するものだ。前回登場のロシアもそうであった。そして約100年の後、プロイセンを中心に全ドイツは統一に向かうのである。イギリス、フランスに後れをとったドイツの快進撃はここから始まった。ただ、国が盛大になることは、いつの時代も戦争が伴う。しかもその戦争には仁義はない。

フリードリヒ2世は一流の哲学者とも語り、一流の音楽家とも演奏し、戦場では天才的な戦術家でもあった。正に文武両道のスーパーマンである。ところが容姿も美しく、善良で信仰心篤い妃クリスティーネとは生涯夫婦生活はなく、手紙のやりとりだけだったという。性的には不能者だったらしい。父の兵隊王が異常な性格だったせいか、姉と妹には極端な愛情を示したが他の女性には一切興味がなかった。男には狂信的信奉者がいた反面、女性蔑視の傾向があったらしく女には嫌われた。人間には完全な人はいないということを教えられる。





ロシアの台頭

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イヴァン3世(1440〜1505)

この辺で後に世界史に大きな影響力を発揮するロシアについて語る必要がある。これまではヨーロッパから見ると、東の辺境の地・スラブ(田舎)に存在する部族の集まりとして相手にされなかった。いくつもの公国があったが、何れも長い間モンゴルの支配下にあった。そのモンゴルが分裂し、ビザンツ帝国がオスマントルコに征服された15世紀半ばに、颯爽と登場したのがロシア大公国を率いるイヴァン3世である。

イヴァン3世はビザンツ最後の皇帝のコンスタンティノス11世の姪・ソフィアと結婚することにより、ビザンツ帝国の鷲の紋章とツァーリ(皇帝)の称号を受け継いだと宣言した。1480年、モンゴル軍との戦いに勝利し、「タタール(モンゴル人)のくびき」から独立を果たす。独特のロシア正教を堅く信仰する多数の農奴の上に専制君主として君臨した。

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イヴァン4世(1530〜1584)

その後、「雷帝」と呼ばれ怖れられたイヴァン4世が登場する。強力なリーダーシップで東方への領土拡大を果たす。モンゴル系の遊牧国家を次々と征服、領土はシベリアまで拡大した。国内では大貴族たちを完全に抑圧し農奴制を強化、自分を正式なツァーリとして国民を支配した。

激情的性格はこんな逸話まで残されている。ある日長男の嫁が身重でありながら薄着姿でいると、「何だ、そのだらしない恰好は!」と怒鳴って殴りつけた。嫁は流産してしまう。怒った息子が父に抗議すると、カッとなった雷帝は持っていた杖で息子の頭を思いきり打ち据える。倒れた息子はそのまま死んでしまった。我に返って雷帝は泣き叫ぶが手遅れだった。

雷帝は5回結婚しているが、病死したり暗殺されたりしていた。6人目の結婚相手に何と独身を貫いていたイングランドの女王・エリザベス1世に求婚する。当然、イングランド王室は相手にもせずに黙殺した。激怒した雷帝は「今後は貿易を禁止する。」と言ってよこした。(かなりの量の武器を買っていた。) イングランド王室は使者を派遣し鄭重にお断りすることにした。雷帝の怒りは静まらず使者を軟禁した挙句、雪降る街に放り出し、その上に貿易を禁止した。ところがその後に起きたトルコとの戦争で武器が足りずに困ったのはロシアだった。


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ピョートル1世(1672〜1725)

その後、18世紀の前半にロシアを大躍進させ、一躍ヨーロッパの先進国の一員として登場させる英雄が出現する。ロシア史上の巨人・ピョートル1世(大帝)である。大国ロシアはピョートル1世から始まったと言っても過言ではない。

ピョートル1世はそれまでのロシア皇帝が考えもしなかった海洋に進出する。行政改革を断行し、貴族階級に国家奉仕の義務を課した。正教会を国家の管理下におき、国家の全勢力を皇帝を中心に一元化した。優れた技術をもつ外国人を多く徴用して近代化を図ったのである。ロシアを東方の辺境国家から脱皮させ、ヨーロッパの大国へと成長させた。日本で起った明治維新を一人で実現したようなものだ。

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オランダで船大工として働くピョートル1

ピョートルは190センチを超える大男で、ハートも大きい、若い時から仲間とのドンチャン騒ぎが大好きだった。西欧の技術や芸術、文化に触れたピョートル1世はロシアの後進性を痛感していた。25歳のとき300人の使節団を結成し、造船、医学、天文学、産業技術を習得するため西欧諸国へ視察に出発した。なにより造船に興味のあるピョートルはオランダの造船所に潜り込み工員として朝から晩まで働き技術を身につけたという。また、歯科医の技術にも興味を持って、治療器具一式を買って帰る。(こちらは趣味となり、抜いた家来の歯が何百本にもなったという。)


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スウェーデン王・カール12世(1682〜1718)

帰国したピョートルは海軍の近代化を進め、良港を得る為、バルト海を制するスウェーデンに挑む。ハプスブルグ家との宗教戦争「30年戦争」に勝利し北国の雄として君臨するスウェーデンは若き勇将・カール12世のもと意気盛んであった。1700年、ピョートル率いるロシア軍は最初の「ナルヴァの戦い」ではコテンパンに打ちのめされた。ピョートルの偉大さはこれからで軍備増強に努め、1709年の「ポルタヴァの戦い」ではスウェーデン軍に大勝し、好敵手・カール12世はトルコに逃れる。


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ポルタヴァの戦い

戦争はトルコ、ポーランド、ドイツ、イギリスを巻き込むほど拡大し、複雑化したが、1718年、カール12世が急死するとロシア軍は1720年の「グレンガム島沖の海戦」でスウェーデン軍を破った。1700年から1721年まで続いた北方戦争に勝利し、バルト海沿岸にサンクト・ペテルブルグの港と都市を建設する。ロシアが北方の雄となり、野蛮国から大国としての地位を確立し、東にも領土を広げ中国北方まで到達した。


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ピョートルと長男アレクセイ

大帝と言われたピョートル1世だが家庭的には恵まれなかった。最初の妻エヴドキアとは不仲で夫への暗殺を企てられ修道院に幽閉する。その息子アレクセイも父に反抗し反政府組を立ち上げ、死刑宣告を受ける。愛人だった農民出身のエカチェリーナを後に皇妃とし、12人の子供が出来るが成人したのは娘2人だった。53歳でピョートル1世が亡くなった後は妻がエカチェリーナ1世として後を継ぐ。ピョートル1世は側近や軍人には人気があったが、大多数の貴族、聖職者、民衆には理解されず、急速な西欧化にも反感を持たれたという。

〜〜さわやか易の見方〜〜

***  *** 上卦は水
******** 困難、問題、悩み
***  ***
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、影、弱
***  ***

「水地比」の卦。比は親しむ。和合するの意。上卦の水は困難などを意味するのだが、ここでは真ん中の陽爻が全体の中で唯一の陽爻であるところに意味がある。下から5番目は天子の位でもあり、この天子に全ての臣下が親しく従っている象なのである。運と徳を兼ね備えた天子に和気あいあいと親しむ臣下はその恩恵にあずかる。「遅れる者は凶」素直に従うことが出来ず、疑い反抗するものは、容赦のない制裁が待っている。天子には見えるものも、臣下には見えないこともある。天子は「去る者は追わぬ」という寛大な心で接することが肝要であり、そうすれば臣下は安心してついてくるものである。

ロシアという国は傑出したリーダーを得るときは世界を席巻するほど興隆するが、傑出したリーダーがいなくなると混乱する。20世紀にはソ連という組織で世界の半分を支配下に置いた。その時のリーダーはスターリンである。人類史上まれに見る大胆な粛清で世界中を恐怖に陥れた。恐怖の支配ではあったが、時代の先を見通す眼力は群を抜いていた。世界中が彼の予見通りに動いたことは確かなのだ。現在のプーチン大統領も傑出したリーダーであることは間違いない。どこまで世界を驚かすことになるのか。

日本人の平均寿命は男子でも80歳を超えているが、ロシア人の男性は平均寿命が64歳である。その内25%は55歳までに死亡する。寒いからウォッカの飲み過ぎだというが、スウェーデンやデンマークだって寒いが平均寿命は高い。本当の理由は希望がないからである。一部の文学者や芸術家には優れた人も多いのだが、一般の国民にとって良い国と言えるのだろうか。国民全体のレベルが向上してこそ大国ではないだろうか。






太陽王・ルイ14世

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ヴェルサイユ宮殿旧城

30年戦争に介入して200年越しのライバル・ハプスブルグ家を押さえつけたフランスはスペインから奪い取ったヨーロッパ覇権の座に君臨する。その象徴が広大な敷地に噴水を備えた豪華な庭園、豪華な居室、当代一流の芸術家を集めて築き上げたヴェルサイユ宮殿である。

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ルイ14世(1638〜1715)

そのヴェルサイユ宮殿を50年の歳月を費やして建設させたのがルイ14世である。父ルイ13世の死により即位したのが4歳の時、以後72年にわたり王座に君臨することになる。23歳までは宰相マゼランが国政を担ったが、マゼランの死後、絶対君主制の親政を始める。「朕は国家なり。」という言葉どおり「王権神授説」を根拠に典型的な専制政治を始めた。


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フロンドの乱

ルイ14世が王制により隆盛を築くには困難を解決する必要があった。宰相・マゼランが前宰相のリシュリューの政策を継承し、30年戦争を制する為に重税を課した。その重税に対し貴族勢力と民衆が結合し猛反対したのだ。戦争終結間際の1648年、反乱軍は王宮に侵入、当時10歳のルイ14世とマゼランはパリを退去、避難する事件が起きる。(フロンドとは投石器のことで、民衆がマゼラン邸に投石したことから「フロンドの乱」という。)事件は内乱に発展し、終息するのはルイ14世が15歳の時である。この体験が後に貴族組織への大改革につながった。

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コルベール(1619〜1683)

政権を掌握したルイ14世は財務長官にコルベールを起用し、租税や関税などの歳入は全て国王に集まる仕組みにするにする。コルベールは富国強兵策をとり、自国の生産物は最大限に輸出、外国からの輸入は最小限にする重商主義により強固な財政基盤を作り上げる。対外政策も積極外交に転じ東インド会社を再建しアジアに進出、新大陸へはカナダにも進出、ミシシッピ川流域にも進出し広大な植民地を獲得、国王の名をとり「ルイジアナ」と命名した。

これではライバル・イギリスは黙っていない。とくにハプスブルグ家が衰退し、スペイン王室にルイ14世の孫を後継者としようとするとフランスの一国支配を許すまじとイギリスはオーストリアと手を結び、反フランス陣営で立ち上がる。フランスは30年戦争でのハプスブルグ家と逆の立場になり全ヨーロッパを敵に回し苦境に落ちてしまう。1701年から12年も続いたスペイン継承戦争の結果、スペインの王位は勝ち取ったものの多くの植民地をイギリスに取られることになった。名は取ったが実はイギリスに取られた。

またルイ14世は「官僚王」とも言われ、起床から就寝まで分刻みにスケジュールが決まっており規則正しく行動した。国王に仕える貴族から家臣、掃除婦に至るまで王の決めた規則に従い気を抜くことは許されない。信仰も自由を認めたナントの勅令を廃止し、カトリック中心に逆戻りさせた。産業の中核を担うプロテスタント信徒の大半は国外に逃れた。一方で進んだ文化と芸術を愛し、学者や芸術家を擁護したのでパリは世界一の芸術の都市となり、優れた芸術家、啓蒙思想家たちが集まった。


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王妃マリー・テレーズ(上、左から2番目)と主な愛人たち

太陽王に相応しくそのエネルギーは多くの愛人たちに次々子を産ませたことでも群を抜いている。スペインの王女だった王妃マリー・テレーズは3男3女(嫡男ルイ以外は夭折)を産んだ。中でも王妃の侍女を務めていた妖艶な美女モンテスパン公爵夫人(上右)は王の寵愛を受け8人の子を生み、王妃をしのぐ権勢を誇ったが、10年後、王の寵愛が他に移るとその愛人への毒殺事件まで謀ったという。

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モンテスパン侯爵夫人(右上)のために造営された『磁器のトリアノン』
ヴェルサイユ宮殿付属庭園内の離宮

王妃マリーはモンテスバン夫人を嫌ったが、他の愛人たちには嫉妬することもなく、病気の時には見舞いにも行ったという。その王妃マリーが亡くなった時に王は始めて王妃のために涙を流した。王妃マリーが世を去った46歳頃からは3歳年上のマントノン公爵夫人(下右)と秘密結婚をし、以後女性遍歴を卒業した。マントノン夫人は美人ではなかったが、教養ある控えめな女性で、生涯側で王を見守り、77歳の最後を看取ったのもマントノン夫人だった。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、太陽
********
******** 下卦は天
******** 陽、大、剛
********

「火天大有」の卦。大有とは陽なるものが溢れている象である。豊作、裕福、太陽が隅々まで強い光と熱を供給している。大スターが大舞台で演技し観客の喝采を浴びている。順風満帆、すべてが自分の味方で積極的に行動する時である。ただ、盛運にはどこかにつまずきの要因が生まれている。

ルイ14世のような極端に生命力にあふれる人物は周囲の生命力を吸収してしまうのだろう。嫡男ルイも孫のルイもルイ14世の生前に亡くなっている。ルイ15世になったのは5歳の曾孫だった。ルイ14世は死の床に幼い太子を呼び、「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない。」と訓戒したという。しかしルイ15世時代も戦争は繰り返され、その60年後にはフランス財政は破綻寸前になっていた。結局、1789年のフランス革命に結びつくことになる。

絶対君主制は16世紀後半のスペイン、イングランド、17世紀のフランス、スウェーデンが典型であるが現在のアラブ諸国でも行われている。また共産主義でもトップを中心とするピラミット構造は絶対君主制と同様、トップの独裁政治になってしまう。戦争などでは強力な力を発揮するが、決して長続きはしない。民衆はいつ迄も我慢はしない。いつか民衆のエネルギーが爆発するときが来る。

三十年戦争の結果

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フェルディナンド2世(1578〜1637)

イングランドのエリザベス1世からピューリタン革命が起る頃、ヨーロッパ本土も新旧の宗教対立がピークに達していた。カトリックの本山は神聖ローマ帝国皇帝を任命されているハプスブルグ家そして親族関係にあるスペインである。しかしハプスブルグ家のあるドイツ一帯は一方でルターの宗教改革の発祥した地であり、プロテスタントを信仰する諸侯も数多くあり両派は均衡し一枚岩ではなかった。またデンマークやスウェーデンの北欧諸国は熱心なプロテスタントの勢力圏だった。


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プラハ窓外投擲事件

1618年に融和策を執っていたボヘミア国王がハプスブルグ家のフェルディナンド2世に代わり新教への弾圧を始めると、プロテスタントによる反乱が起きる。プラハ王宮を襲い国王顧問官たち3人を王宮の窓から20M下へ突き落すという事件を起こした。反乱軍はプロテスタント諸侯に協力を呼び掛け、国王をプロテスタントの中心である選帝侯・フリードヒ5世を新国王に迎えた。これが30年戦争のきっかけとなる。フェルディナンド2世はすぐさまスペイン軍に協力を頼み、フリードヒ5世を追放し、ボヘミヤをハプスブルグ家の属領とした。

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ヴァレンシュタイン(1583〜1634)

カトリックのボヘミア支配はプロテンスタント諸国に火をつけた。1625年、フェルディナンド2世に反感を抱くデンマーク王クルスチャン4世がイングランドの支援を得て参戦してきた。デンマーク軍の猛攻により一時は窮地に陥っていたフェルディナンド2世だがボヘミアの傭兵隊長・ヴァレンシュタインの目覚ましい活躍によりデンマーク軍を追い返した。ところがこの傭兵隊長がしたたか男で戦勝の度に土地と位を要求した。他の諸侯からも「あの下品な成り上がり者を罷免しないなら協力出来ない。」と言われフェルディナンド2世は已む無くヴァレンシュタインを罷免した。

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グスタフ2世アドルフ(1594〜1632)


1630年、今度はフランスの援助を受けたスウェーデン王・グスタフ2世アドルフがプロテスタント教徒解放を旗印に参戦してきた。グスタフ2世は後年ナポレオンも認める英雄であり、戦略家であった。スウェーデン軍はレヒ川の戦いに圧勝する。皇帝軍総司令官で数々の戦功あるティリー伯は戦死した。向かう所敵なしのスウェーデン軍の快進撃にフェルナンド2世は大いに狼狽えた。そこで罷免したヴァレンシュタインを呼び寄せる。したたか男のヴァレンシュタインは皇帝の弱みに付け込み「軍の全権、和平交渉と条約締結権、選帝侯領の割譲」という途方もない条件を突きつけ了承させた。

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             リッツェンの戦い

1632年11月、ヴァレンシュタインの率いる2万6千の皇帝軍とグスタフ2世の率いる1万6千のスウェーデン軍はライプツィヒ郊外のリュッツェンで戦闘を開始した。評判の悪いヴァレンシュタインに部隊が従わなかったのか、手足のような自分の傭兵とは違い大軍の皇帝軍は命令が伝わらなかったのか、戦局は終始スウェーデン軍が有利だった。ところがグスタフ2世が不覚にも戦死してしまう。スウェーデンの宰相オクセンシュルナの指導で戦争を継続しスウェーデン軍が勝利する。

グスタフ2世が戦死したことを知ったフェルディナンド2世は刺客を送りヴァレンシュタインを暗殺する。諸侯を統率する上で邪魔になったからだ。嫡男のフェルディナンドを総司令官に任命するとネルトリンゲンの戦いに勝利しスウェーデン軍を撃破、戦争の主導権を取り戻した。ここでフェルディナンド2世は戦争終結に動いた。

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スウェーデン宰相・オクセンシェルナ

ところが亡きグスタフ2世の遺志を継ぐ宰相オクセンシェルナは諦めなかった。カトリック国ながらハプスブルグ家の最大のライバルであるフランスを参戦させることに成功する。ここから戦争はより複雑にヨーロッパ全体を巻き込む大戦争に発展していく。フランスは国内の宗教戦争である「ラ・ロシェルの包囲戦」でユグノー勢力を封じ込め、国内統一を終えその勢いをかって本格的にハプスブルグ家との対決に乗り出してきた。フランス軍はスペイン軍とスウェーデン軍は皇帝軍と一進一退を繰り返す中、フェルディナンド2世は死去、嫡男がフェルディナンド3世として即位。戦争は泥沼化し1635年から1648年まで続く。

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フランス宰相・リシュリュー

皇帝軍の頼みの綱であるスペイン軍はオランダとポルトガルとの独立戦争もあり次第に翳りが見えてくる。長引く戦争に皇帝軍は厭戦気分が蔓延、スウェーデン軍の攻勢を許す。1642年、ルイ13世の宰相としてフランスを強国に育てたリシュリューが、1643年にはそのルイ13世も死去した。即位したルイ14世は幼児だったが新宰相・マゼランが引き継ぎ1644年のフライブルグの戦いで勝利を確実なものにした。ただフランスの念願だった「国王を神聖ローマ皇帝に」という野心は放棄することになった。

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フェルディナンド3世(1608〜1657)

一方のスウェーデン軍は1645年、プラハ近郊のヤンカウの戦いで勝利を確実なものにした。そのとき27年前に逃げ出した選帝侯フリードヒ5世とまったく同じように皇帝フェルディナンド3世が同じプラハ王宮から逃げ出す姿があった。なおも戦争は続いたが1648年11月、皇帝側が敗北するかたちで終戦を迎えることになる。講和条約である「ウェストフェリア条約」により宗教上の理由で戦争はしないという新たな国際法が成立した。戦争終結を祝し、70門の大砲による一斉射撃が行われた。

断続的に30年間も続いたこの戦争により、神聖ローマ皇帝は実態のない名ばかりのものになった。ハプスブルグ家はドイツ王からオーストリア公国となる。覇権国だったスペインはその地位をフランスに渡すことになる。フランスは新たなライバル、イングランドと覇権を争うこととなる。スウェーデンはライバル・デンマークを抑えて北欧の中心になる。戦地となったドイツ国土は戦禍と飢えに荒廃した上、ペストの流行も重なり人口は1700万人から800万人になってしまった。最大権威だったハプスブルグ家が求心力を失い新たにドイツの中心となるプロイセン公国が誕生することになる。

〜〜さわやか易の見方〜〜

******** 上卦は山
***  *** 動かざるもの
***  ***
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、影、弱
***  ***

「山地剥」の卦。剥は剥ぎ取られる。陽が下から侵され崩壊寸前の象である。高くそびえていた山のように社会の頂点に君臨していた勢力も時が来て衰退していく。衰運の極みではあるが君子は自暴自棄にはならない。じっと冬の時代を耐えることを知って居る。新たな時代は必ず来るものである。

ハプスブルグ家ほどヨーロッパの名門貴族として華やかな活躍をした例は他にないだろう。「ハプスブルグ家の物語(1)」に登場したルドルフ1世をスイスの田舎に迎えに行ったのが選帝侯のフリードリッヒ伯だったが、そのフリードリッヒ伯の子孫がやがてプロイセン公国を建てることになる。400年の月日が経つのだが、歴史とは不思議な縁があるものだと思わざるを得ない。

「ハプスブルグ家の物語(3)」に述べたが、悲願のキリスト教国統一まで後一歩及ばず力尽きたカール5世の最大のライバルだったのがフランス王のフランソワ1世だった。フランソワ1世はライバル対決のためにはキリスト教国ながらイスラム教国のオスマントルコとも手を組んだ。フランスの執念はその後も受け継がれ、100年の後のライバル対決にはカトリック教国ながらプロテスタント勢力とも手を組んだ。昔も今もライバル対決とはかくも仁義なき戦い、凄まじいもの。現代では米ソのライバル対決の後は米中のライバル対決になるのだろうか。




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