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ゲバラ(左)とカストロ(1926〜2016)
コロンブスが発見したカリブ海のキューバは米西戦争までの400年間はスペインの植民地であった。20世紀始めからは事実上アメリカの保護国となり、砂糖やバナナなどの産物は全てアメリカ資本家の支配下にあった。南東部にあるグアンタナモはアメリカの軍事基地としても重要であり、経済的にも従属関係であり、お互いに切っても切れない関係であった。
1952年に軍事クーデターにより政権を奪取したバティスタ政権はアメリカ大企業とマフィアとも結び付く独裁政権だった。キューバ国民は植民地以上の弾圧政治により苛斂誅求の貧困生活に苦しんでいた。27歳の弁護士フィデロ・カストロはやむなく130人の仲間と武装蜂起、モンカダ兵営を攻撃した。しかし蜂起は失敗し80人の仲間は死刑に、カストロは逮捕され、懲役15年の刑に服す。獄中で「歴史は私に無罪を宣告するだろう」という冊子を発刊した。幸い、2年後に恩赦により釈放、メキシコに亡命した。
チェ・ゲバラ(1928〜1967)
フィデロ・カストロがメキシコで意気投合したのが、アルゼンチン生まれのチェ・ゲバラである。ゲバラは喘息の持病を持ちながらもスポーツマンであり、医師の免許を持つ革命家だった。学生時代にオートバイで南米各地を旅行した体験から、各地で独裁政権に虐げられたインディオたちに衝撃を受けた。卒業後に訪れた革命の進むボリビアで解放されたインディオの自由な姿に感銘を受け、革命家として生涯を捧げることを決意した。
革命を手助けしながらグアテマラで医師を続ける最中に、ペルーを追われた女性革命家イルダ・ガデアと知り合い共鳴し、社会主義に目覚めるとともに彼女と結婚する。グアテマラはアメリカ企業の搾取からマヤ系インディオの復権を求めるグアテマラ革命が進み革命政府が成立した。ところがアメリカの巻き返しと、CIAに後押しされた軍部により革命政府は崩壊する。新政権によりゲバラ夫妻には暗殺指令が出され、夫妻は失意と怒りを抱いてメキシコに亡命した。
革命後アメリカ訪問したカストロ
カストロはゲバラの助言により、仲間たちと元中佐アルベルト・バーヨについて本格的な軍事訓練を受ける。1956年11月、カストロをリーダーとする革命軍82名はヨット「グランマ号」に乗り込んでキューバを目指した。しかしヨットは7人乗りで思うように操縦も出来ず、嵐にも遭い上陸まで7日もかかったので全員体力を消耗した。さらに計画は政府軍に漏れており、上陸後に襲撃を受け壊滅状態になる。生き残って山中に潜伏したのはカストロ兄弟、ゲバラら12人になった。革命軍は山中の村を転々としながら軍の立て直しを図り、国内の反政府勢力とも合流し、やがて800人の勢力になる。
ゲバラは革命軍の政治放送をするためラジオ局を設立するなど、戦闘の中でも軍医としても司令官としても冷静な判断力で革命軍のナンバー2として活躍した。キューバ上陸から2年後の1958年12月、ゲバラは第2軍300人を率いて政府軍6000人が迎え撃つキューバ第2の都市サンタ・クララに突入、武器と兵士を乗せた装甲列車を転覆させ政府軍を混乱させる。革命軍を支援する市民の加勢もあり、激戦の末制圧、首都ハバナへの道を開いた。1959年1月1日、バティスタがドミニカ共和国に亡命、「キューバ革命」が達成した。
フルシチョフとカストロ
首相に就任したカストロはキューバ共産党員を中心に組織体制を築き、最高指導者として600万人の国を率いる。肖像写真や銅像など一切造らせず、キューバの貧困撲滅、治安維持、経済安定に取り組んだ。アメリカ企業の資産没収、国有化を進めると反感を買ったがアメリカ政府とは友好関係を築きたかった。しかし大統領のアイゼンハワーも副大統領のニクソンからも冷たくあしらわれた。CIAは前バティスタ政権から逃れきた亡命軍人を集め、カストロの暗殺計画を進めたが失敗する。
さらにアメリカは1961年4月、キューバ軍機に偽装した爆撃機でキューバ空軍飛行場を爆撃、続いてビッグス湾に亡命軍人の上陸侵攻を開始した。戦死者114名を出したがキューバ軍は守り抜いた。この「ビッグス湾事件」は就任したばかりのケネディ大統領のもとで行われ世界から非難を受ける。その後、カストロはキューバ革命が社会主義革命だったと宣言し、アメリカと断絶しソ連と手を結ぶ。やがて米ソの対立が激化し「キューバ危機」を迎えるのはここが出発点である。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は天
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******** 下卦は火
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「天火同人」の卦。同人とは志を同じくする友人のことである。天は剛健な活動力を火は輝く知性を表す。ひ弱なインテリ、野蛮な活動家ではなく、豊かな知性と実行力を身につけた勇者が未来を拓く。易には「同人、野においてす。亨る。大川を渉るに利ろし。君子の貞に利ろし。」 堅く結ばれた同志は不可能を可能にする。大きな困難をも克服することができる。初志を貫徹すれば、大きな喜びが待っている。
1960年9月、カストロはニューヨークでの国連総会で約4時間半に及ぶ初演説を行った。この時アメリカはホテルの用意もしなかったので、キューバ代表団は国連本部の芝生にテントを張り、ハーレムのホテルに泊まったりした。ソ連のフルシチョフはケネディとの会談で、「大統領が決断したキューバ上陸作戦はキューバの革命勢力とカストロの地位を強めただけです。もともとカストロは共産主義者ではない。私も共産主義者に生まれた訳ではない。資本主義者が私たちを共産主義者にしたのです。」
チェ・ゲバラはその後日本、アジア、アフリカ、ヨーロッパ各地を訪問し、世界中に強国の圧政に苦しむ民衆を見る。1965年4月、ゲバラはカストロに別れの手紙を残してキューバを去った。手紙の一部を紹介する。「世界の中には、僕のささやかなこの力を必要としているところがまだ他にある。キューバに対する責任がある君にはできないことが、この僕にはできる。僕たちに、別れの時が来た。 別れていく僕の心の中は喜びと辛さが入り混じっているということを、どうか分かってほしい。僕はここに、建設者としてのもっとも純粋な希望と、僕の愛するもののうち、もっとも愛しいものを残していく。そして、僕のことを息子のように受け入れてくれた人民に別れを告げる。それを思うと、心の一部が切り裂かれるようだ。僕は、新たな戦いの場に、君が僕にたたき込んでくれた信念、我が人民が持つ革命の精神、すべての義務の中でもっとも神聖なるもの、すなわち、帝国主義があるところならばどこででも戦うという義務を果たすものだという昂ぶる思いを携えていくだろう。その思いは、引き裂かれたこの胸の痛みがどれほど深くても、僕に勇気を与え、心をとっぷりと癒してくれる。・・・」 ゲバラは1967年10月、アンデス山脈にて活動中、ボリビア政府軍に逮捕、処刑された。
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20世紀からの世界史
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トルーマン(1884〜1972) アメリカという国は20世紀に君臨する超大国であることは間違いはない。しかし、アメリカ国民にとって20世紀は繁栄と破たん、右と左に大きく揺れた一世紀だった。資本主義の中心にありながら、一時期は共産主義者が政権の中心にいた時代もあった。1929年に大恐慌が起り悲惨な失業時代を体験したアメリカは民主党のF・ルーズベルトの「ニューディール政策」という共産主義に習った政策より立ち直ることが出来た。共産主義のソ連と協調して第二次世界大戦を戦った。
F・ルーズベルトはソ連のスターリンには一目置いて接し、戦後体制を決定する「ヤルタ会談」ではソ連の拡大を容認した。F・ルーズベルトの死後はトルーマン大統領も基本的にはF・ルーズベルトの路線を継続したのでソ連や中国には寛容だった。国民党と共産党が争った国共内戦にも共産党を許容する「マーシャルプラン」で解決を図った。しかし大戦後にソ連が世界を二分するライバル国に拡大したことや、中国が毛沢東のもとで第二の共産主義大国に成長し始めると共和党を中心に激しい政府批判が起る。
マッカーシー(1908〜1957)
1953年から大統領についたアイゼンハワー(1890〜1969)は国民からアイクの愛称で親しまれ、「物事は優雅に、行動は力強く」をモットーにする大統領だったが、共和党議員のマッカーシーは徹底的な反共主義者だった。20年間、民主党主導の共産主義路線により我が国は汚染されたとの「赤狩り」キャンペーンを行った。とくに対日戦において中国共産党軍を支援し、中国国民党を敗北させたとして、国務省・東アジア局の対中国専門家を一掃した。
その後、対中国外交の穴を埋めたのは欧州専門の外交官達で、彼らは日本や東南アジア諸国、中国大陸の事情を知らなかった。このアジア専門家の空白が、後にアメリカをしてアジア外交を誤らせ、泥沼のベトナム戦争に引きずり込む遠因になったとも言われる。「ソ連のスパイ」「共産主義者」の追放という大義名分を笠に着たマッカーシーたちは政府や陸軍だけでなく、ハリウッドの芸能関係者や映画監督、作家。さらにはカナダ人、イギリス人、日本人にまで及び、「赤狩り」の影響は西側諸国全体に行き渡ることになる。
エデンの東
「欲望という名の電車」、「エデンの東」などの監督で知られるエリア・カザン(1909〜2003)は若い時に共産主義を勉強し一時共産党員だったという理由で「赤」のレッテルを張られた。赤狩りの先鋒・下院非米活動委員会はカザンへの執拗な取り調べから共産主義を学んだ映画人11人の名を聞き出し、監督、俳優たちを次々と糾弾した。多くの芸術家が非難の対象となり、創作活動の中断を余儀なくされたりとハリウッド中がその嵐に巻き込まれた。現在に至るもハリウッドでは共和党への人気がない理由となっているという。
共産主義者ではないチャップリンの作品「モダン・タイムス」なども容共的と非難された。1947年公開の「殺人狂時代」は反政府的であると「赤狩り」の対象になり、チャップリンは国外追放命令を受ける。アメリカ国民はチャップリン追放劇に激しく抗議、決定した国務長官のもとに数万通に及ぶ抗議の手紙が届いたという。「赤狩り」は容疑者への自白強要、告発、密告などの強引な手法が問題になり、マスコミや民主党から大きな反感を買うことになった。
ベルリンの壁
こうしてアメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする共産主義陣営は完全に対立する関係になっていく。対立の境界線は二つに割れたドイツで、それより東ヨーロッパを東側、西ヨーロッパを西側と呼んで対峙した。ヨーロッパのみならず、アジア、中東、南アメリカなどでもそれぞれの機構や同盟関係が生まれ世界を二分していった。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発、文化、スポーツ、全てにわたり対立することになった。
1945年の「ヤルタ会談」から始まり、1989年の「マルタ会談」まで44年間続いた。「ヤルタからマルタまで」とも言われる。軍事力で直接戦う「熱い戦争」に対して「冷たい戦争」という。この対立は東西冷戦とも言われ、冷戦勃発当時のイギリス首相・チャーチルは「鉄のカーテン」と表現した。東西両陣営にも属さない非同盟主義を主張したインドなどの「第三世界」もあり、両陣営の対立を逆手にとって援助を引き出す「援助外交」も行われた。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は天
******** 陽、剛、大
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*** *** 下卦は地
*** *** 陰、柔、小
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「天地否」の卦。上に天、下に地は自然に思えるが、易では天は上を目指し、地は下を目指すもので、上下が交わらないものと見る。上下が和合せず、意思の疎通がない、閉塞状態である。国家にしろ、会社、学校、家庭でも上にあるものと下にあるものが交わらず、しっくりしないことは良くない。小人の道が横行し、君子の道は閉ざされる。
西側も東側も自分を天、相手を地とした。共産革命を行ったソ連では、少しでも豊かなものはブルジョアジー、人民の敵として糾弾し財産を取り上げた。赤狩りはそれと逆な状態で、少しでも反政府的なことを言えば、共産主義者だと非難する。右も左もどちらも極端に偏り過ぎる所からきている。相手の立場も尊重する考えを持たなければならない。「和を以て貴しとなす」 日本人の知恵に学んで欲しいものである。
チャップリンは大の日本びいきだった。きっかけは運転手として雇った日本人が大変優秀で、運転から経理までこなし、マネージャーとして大活躍してくれたことによる。10人の使用人を全て日本人にしたという。日本にも度々訪れ、相撲、歌舞伎、茶道などの日本文化に魅せられ、寿司や天ぷらの日本料理が大好きだった。「殺人狂時代」は大好きだった日本に原爆を落とした政府に抗議する目的で制作されたものである。
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以前に「禍根を残した秘密外交」を掲載したが、第一次世界大戦の最中にイギリスが行った中東政策は第二次世界大戦後は果てしない混乱を引き起こすことになった。アラブ人とユダヤ人を裏切り、対立、混乱を引き起こすことになった「三枚舌外交」を振り返ってみると、こういうものである。
1915年から17年にかけて、先ず高等弁務官マクマホンはアラブの太守フサインにアラブの独立を約束し戦争に協力させた。(フセイン・マクマホン協定) 一方で外務大臣バルフォアはユダヤ人大財閥のロスチャイルドに対して戦費を調達するためにパレスチナにユダヤ人居住地建設を約束した。(バルフォア宣言) ところがその間に、中東専門家サイクスはフランスの外交官ピコとの間で大戦後の領土分割をする秘密協定を結んでいた。(サイクス・ピコ協定)
イギリスにとっても想定外だったことはナチスドイツによるユダヤ人の迫害だった。パレスチナにはもともとアラブ人が多く暮らしていた。そこへユダヤ人移民が急増したので混乱が起きても仕方ない。国連はイェルサレムの国際管理を決定したが、アラブ諸国は強く反発した。1948年にイスラエル国の独立が宣言されると、エジプト、シリア、ヨルダン、イラク、レバノンが出兵、「第1次中東戦争」が始まった。
1949年、国連の調停により停戦したが、イスラエルの領土はパレスチナの4分の3を占め、多くのパレスチナ難民が発生した。しかしアラブ諸国の独立運動は反欧米色を強くしていく。エジプトでは1952年、国王を追放し共和制に移行した。1955年のアジア・アフリカ会議(パンドン会議)ではパレスチナ問題でアラブの支持を得たエジプト代表のナセルはアラブ諸国の団結を唱えて主導権を握った。
アスワン・ハイ・ダム
1952年のエジプト革命前にイギリス主導によるアスワン・ハイ・ダムの建設計画は革命後に中止されていた。ナセル大統領は計画を再開、資金援助をアメリカから受けようとするが、パレスチナ問題がからみ援助を打ち切られた。そこでナセルは財源確保のため1956年にスエズ運河国有化を宣言する。すると運河の権益を所有しているイギリス、フランスは激怒し、イスラエルを支援して「第2次中東戦争」(スエズ戦争)を起こした。
戦争はイギリス側の勝利だったが、国際世論の非難を浴びナセルの主張が通りスエズ運河はエジプトのものとなる。イギリスに替わりアメリカの影響力が強まったが、アラブ諸国の反発を招きソ連の援助が強まる。1960年、ダムの起工式が行われ建設が始まる。古代エジプトの遺跡保護には国際社会の声が強くユネスコが援助、巨額の費用をかけて数々の神殿が湖畔に移築された。
中東シナイ半島
アラブではイギリス、フランスは完全に力を失い、反共主義陣営としてアメリカの影響力が増す。しかしイスラエルを支援するアメリカに対抗するためにソ連から兵器の援助を受け中東情勢は複雑化する。その後も中東戦争は第3次、第4次と繰り返されるが、アメリカ支援の圧倒的軍事力を持つイスラエルと歴史的な領土を主張するアラブ諸国との対立構図が続く。軍事力を背景にイスラエル国内では、ユダヤ教保守派を中心に、パレスチナ全土の領有する意見もあるが、国連決議に反する行為は、国際的な批判を受ける。
中東戦争に一貫して参加するのはエジプトだけで、他のアラブ諸国は軍事大国になったイスラエルと衝突することには後ろ向きである。さらに、サウジアラビアなど大産油国にとって、アメリカは最大の顧客でもあり、ほとんどのアラブ諸国はイスラエルへの外交的非難をするだけとなる。中東は米ソの「緩衝地帯」でもあり、宗教対立の最前線でもあり、複雑な情勢は現在に至るまで解決の糸口さえ見つからないでいる。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は水
******** 困難、悩み
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******** 下卦は山
*** *** 動かないもの
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「水山蹇」の卦。蹇(けん)とは行き悩み。蹇は足なえのことで歩行困難を表している。困難を前にして動きがとれないでいる象。世の中には八方塞がりで身動きがとれない状態に陥ることがある。こういう時は、じっとしていることである。徒に進もうとするとますます深みに陥る。静かにわが身を振り返り、仁徳を磨くことである。苦難の時はいつかは解消する。
中東戦争の起源はイギリスの「三枚舌外交」からである。大国が自分たちの都合の良いように進めた外交政策にある。以来、100年、中東は世界で最も問題を抱える紛争地帯になっている。この地域はもともとオスマン帝国が収めていた。その頃は繁栄を築いていたのだ。欧米文化は異国を植民地にすることしか考えない。植民地を失った現在、ヨーロッパ各国は移民政策に行き詰っている。
オスマン帝国時代と一変した中東の姿は産油国になってからだろう。お陰で中東諸国は石油の産出しだいで経済的に大きく格差が生じた。しかしオイルマネーで経済は潤っても、国力とは言えない。メイド・イン・アラブの製品が何かあるだろうか。アラブ諸国が世界の表舞台に登場するのはまだまだ先のことだろうか。それにしてもシリアに早く春が来るよう祈りたい。
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スカルノ(1901〜1970)
戦後世界がアメリカを中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営になりつつある頃、もう一つの勢力が誕生しようとしていた。帝国主義時代に植民地であったアジア諸国である。きっかけは大戦時に日本が石油や鉱物資源確保の必要から各国を「大東亜共栄圏」に組み入れ東南アジアから英、仏、蘭を一掃したことにある。
日本の降伏後、権力の空白状態となったが、各国は元の植民地になるのは御免とばかりに一斉に立ち上がった。インドネシアでは、スカルノが日本降伏の2日後にオランダからの独立を宣言した。ついでラオス、ベトナムがフランスから、ビルマ(現ミャンマー)ではアウンサン(スーチーの父)がイギリスからの独立を宣言。その後相次いでフィリッピン、マラヤ、インドでも植民地支配からの独立運動が起り宗主国を追い詰めた。
オランダ植民地だったインドネシア・ジャワ島
古来より東南アジアからの香辛料はヨーロッパ人にとっては欠かせないもので各国は競って香辛料貿易が盛んだった。インドネシア諸島では16世紀はポルトガルが、17世紀になるとオランダ、次いでイギリスが乗り出して来た。1623年、オランダはイギリスをインドネシア諸島から排除し、19世紀からはコーヒー、サトウキビ、藍などを強制栽培させ巨額の利益を得た。フランスはナポレオン後に本格的に植民地政策に力を注いでいた。
20世紀には植民地のゴム、石油、錫(すず)などの資源は本国経済には不可欠なものとなり、その権益を失うことは死活問題だった。各国は植民地返上には激しく抵抗し奪回戦争が始まったが、各国とも独力で体制回復する力はもはやなかった。イギリスはインドの独立に対してヒンドゥー教徒対イスラム教徒の対立を巧みに利用して独立を阻んだが、1947年インドはパキスタンと分裂して独立を果たした。
ネルー(1889〜1964)
約200年に及ぶ植民地時代を脱し、インド連邦の初代首相になったのはネルーである。ネルーはガンディーの後継者としてイギリスの弾圧により通算10年に及ぶ投獄を体験したが、首相になったネルーは社会主義者として計画経済を推進した。国際的には「非同盟・中立」の外交で、領土主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存の「平和五原則」を掲げた。賛同する中共の周恩来、インドネシアのスカルノ、エジプトのナセルらとともに1955年、インドネシアのバンドンで第1回アジア・アフリカ会議を開催した。
この会議は「バンドン会議」と呼ばれ欧米諸国から独立したアジア、アフリカから29か国が参加し「反帝国主義」、「反植民地」を謳った。日本はオブザーバーとして参加している。議長を務めたスカルノ大統領は「世界人口の約半数の13億を占める有色人種の代表による世界最初の国際会議」と宣言した。各国の足並みが揃わず、第2回目以降は行われなかったが、東側と西側とは別の新たな勢力が産声を挙げた意義は大きい。
周恩来(1898〜1976)
このパンドン会議のもう一人の立役者が中共の周恩来である。日本とフランスに留学し、毛沢東とともにあらゆる苦難を乗り越え、1949年の中華人民共和国を建国した。以来、27年間、首相の座を守り抜き「不倒翁」と言われ、文化大革命でも失脚しなかった。6億の民を持つ大国はかつては大清国であったが、100年以上の間、半植民地として眠れる獅子であった。大戦で日本が沈み、アジアに光が差してくるとようやく長い眠りから覚め大国の片りんを見せ始めたのである。
アジアが目を覚ました影響は大きく、それまで英米に押さえつけられていたアラブ諸国でも民族運動が高揚してきた。パンドン会議でアラブ支持を勝ち取ったエジプトのナセルは反英、反米を掲げる。北アフリカのアルジェリア、チェニジア・モロッコ、スーダンでも独立運動が広がってきた。民族運動の潮流は残存する中心諸国の植民地体制の終わりを告げていく。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は地
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******** 下卦は風
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「地風升」の卦。升とは伸びること。地中にある芽が地上を目指してすくすくと伸びゆく象である。やがて地上に芽を出し、天に向かって伸びてゆくのである。若芽には春の季節と豊かな養分が必要である。若芽にも強い生命力がないと途中で挫折してしまう。大切なことは、時を得ること、実力を養うこと、後援者を得ることである。
インドのネルーは日本が有色人種として列強のロシアを打ち負かしたことを奇跡のようだと称賛した。しかし植民地支配にあえぐアジアに希望を与えてくれた日本が帝国主義列強の一角に加わってしまったことには失望した。長い獄中生活の間に「父が子に語る世界史」を娘のために書上げた。その娘が第5代首相になるインディラ・ガンディーである。
日本の提唱した「大東亜共栄圏」にはインドの独立運動家チャンドラ・ボースが感銘しインド国民軍を率いて協力を申し出た。大戦末期のインパール作戦は失敗したが、チャンドラ・ボースの雄図は日本軍を感激させた。チャンドラ・ボースは終戦後に満州で事故死したが、杉並区の連光寺にて法要が営まれ碑が建立された。蓮光寺には、ネルー首相、インディラ・ガンディー首相などが訪問している。。「大東亜共栄圏」は夢と消えたが、インドは今でも熱心な親日国である。
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朝鮮半島
戦後の朝鮮半島は日本の統治が解消され、米ソ両国によって北緯38度線を境に分割占領された。やがて北側には金日成(キムイルソン)を国家主席とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、南側には李承晩(イスルマン)を大統領とする大韓民国がつくられた。しかし両国は互いに全朝鮮の統一を主張して対立した。1950年6月、北朝鮮軍は韓国を侵攻し、南端の釜山まで追い詰める。
その後、マッカーサー指揮下の国連軍が仁川に上陸し、北朝鮮軍を中国国境まで追い詰める。そこに中国の人民義勇軍が介入し、南北合わせて350万人の死者が出るほどの大戦争になった。一進一退の攻防を繰り返した末に、1953年7月、元の北緯38度線を境に休戦協定が成立した。というのが、朝鮮戦争の流れです。
D・アチソン(1893〜1971)
しかし、この戦争には多くの謎が残ります。先ず、戦争が始まったきっかけです。アメリカ軍は韓国から引き揚げ、国務長官のアチソンが「今後はアメリカは朝鮮半島に介入しない」との演説をしました。この演説から5か月後に北朝鮮軍が韓国を侵攻します。まるでアチソン国務長官が北朝鮮に戦争を促していることです。
次に、アメリカ軍は国連軍の名の下に参戦しています。国連の安全保障理事会には拒否権を持つ常任理事国、ソ連と中国がいたはずですが、何故国連軍が認められたのでしょうか。台湾に追われたばかりの中華民国は別にしてもソ連はその理事会に欠席しています。スターリンの指示によると言われていますが、何か裏があると考えるべきでしょう。
マッカーサー(1880〜1964)
次に、マッカーサーは中共軍が大挙して鴨緑江を渡るのを阻止しようと、橋梁の爆破をしようとしますが、アメリカ政府が許可を出さなかったというのです。クラークという米将軍は自著に「私には勝利するために必要な権限も武器も兵員も与えられなかった」と告白しています。また米軍の作戦が中共軍に筒抜けになっていたとマッカーサーは回顧録に述べています。さらに軍人マッカーサーは「朝鮮戦争が軍司令部ではなく、国際的な高レベルで決断されている。」とも発言しました。
そして、朝鮮戦争に勝利しようとしたマッカーサーは突然解任されます。マッカーサーと言えばGHQ最高司令官として対日政策に成功し、次期大統領の声もあり本人も自負していた人材です。マッカーサーは余程悔しかったのか、解任後の米議会上院軍事外交委員会にて要人として言ってはならないことを発言します。それは「日本が戦争に突入したのは、侵略ではなく大部分が安全保障上の必要によるものだった。」 東京裁判で7人の戦犯を処刑し、日本は軍国主義だったと思いこませたGHQ最高司令官当人が真実を証言してしまったのだ。
吉田茂(1878〜1967)
ところで、マッカーサーは朝鮮戦争が勃発すると、日本政府に7万5千人の警察予備隊(のちの自衛隊)の創設を命じました。沖縄を中心に日本全体を朝鮮戦争の基地として利用する体制を作り上げるため、日本との講和条約締結を進めるよう米政府に進言します。その結果、朝鮮戦争の休戦交渉中、1951年9月にサンフランシスコ講和条約が成立し、日米安全保障条約が締結された。
そもそも朝鮮戦争の最大の謎は大戦後のアメリカは一国で世界の総工業生産の3分の2近くを占めていました。そのアメリカが大戦で疲弊してしまい大した戦力もない中共と何故互角の戦いをしたのか。元の38度線を境に休戦しなければいけないのか不思議である。「国難の正体」を著した馬淵睦夫氏によれば、朝鮮戦争は全くの八百長であると述べております。私もその説に賛同するしかありません。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は地
*** *** 陰の代表
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*** *** 下卦も地
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「坤為地」の卦。全てが陰爻で成り立っている。大地の力は万物を乗せ、万物を制する。天のエネルギーもそれを受け止める地があってこそである。世界には目には見えない力が常に存在する。そのパワーこそ地のパワーなのである。
マッカーサーが発言したとされる「戦争は国際的な高レベルで決断される」とは何だろうか。それこそがアメリカ、イギリスの国家をも動かすビッグパワー、巨大金融グループのことである。戦争によって巨額な利益を挙げるグループである。戦争資金を融資し、武器を売って儲ける軍需産業である。現在もこのグループによって戦争は繰り返されている。
「日本の戦争は侵略目的ではなく、自衛のためだった」とマッカーサーが米議会上院軍事外交委員会で発言したにも関わらず、日本政府はそれを生かせなかった。「戦争は二度と御免だ」という国民感情が「平和であればアメリカの属国でもいい」と望んだからだろうか。既に日本は経済優先の路線を歩み始めていたためだろうか。経済優先の72年が今の日本である。豊かにはなったが、何かを失っている。このままでいいのだろうか。 |




