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日米戦争が終結して今年で72年の月日が流れた。しかし今でも日本には多くの米軍基地があり、沖縄が最も多いが合わせて約4万人の米兵が駐留している。因みにドイツには約5万人の米兵が駐留しているという。これは今でもアメリカはドイツと日本には厳重な警戒を怠っていないということだろう。日米同盟と言ってアメリカは日本を最も信頼しているとされるが、本当のところは最も恐れ、脅威を感じている証拠である。
米軍基地は目に見えて解り易いが、実は目には見えないところで日本人弱体化政策に縛られていたことを知ってるだろうか。それがGHQが日本占領政策の一環として行ったWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)政策である。これは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画」なのであった。この政策は時代が進んでもなかなか抜けない毒性であり、今なお多くの日本人が洗脳されたままになっている。
新幹線
確かに戦後の日本は高度経済成長を成し遂げ、一時はアメリカに次ぐ経済大国にのし上がった。東京オリンピックも大阪万博も大成功し、新幹線、自動車、電化製品をはじめメイド・イン・ジャパンは技術大国の名を世界にとどろかせている。スポーツや芸術の分野でも大活躍しているし、ノーベル賞をとる学者も多く、日本人が弱体化したと言ったら怒られるかも知れない。それでもよく考えてもらいたいことがある。
横田めぐみさんが北朝鮮により拉致されたのは今から40年前にが、今だに解決されていない。その後も弾道ミサイルを頻繁に打ち上げられ、核実験まで強行されていながら日本は何も出来ないでいる。中国軍は尖閣諸島ばかりか沖縄にも手を伸ばそうとしている。中国による土地の買い占めは北海道ばかりではない。戦後70年余を平和に過ごした日本人にはその危機感すら無くしてしまった。これこそがGHQが行ったW・G・I・P政策の結果なのだ。日本は戦争に負けたばかりではなく、すっかりアメリカの属国になってしまったのである。
極東国際軍事裁判
それにしても日本という大国をここまで従順な国に仕上げるには想像を絶する用意周到と徹底した取り組みがあったのである。先ずは国民が「二度と戦争は御免だ」と痛感する程のダメージを与えることだった。それには殆んど勝負がついているにも関わらず、いやという程空爆を繰り返したこと、原子爆弾を2発も投下したことだろう。そして、あくまでも無条件降伏に拘ったことにある。
次に終戦後は日本人に「何もかも日本が悪かった」という自虐思想を植え付けることだった。そのためには指導者を戦争犯罪者として衆人環視の下に裁くことである。それが極東国際軍事裁判いわゆる「東京裁判」だった。東条英機や廣田弘毅ら元首相や軍のトップたちを「平和に対する罪」という国際法にはない罪を作り上げてA級戦犯として裁判にかけたのだった。裁判官は戦勝国側から派遣された11名のうちインドのパール判事だけが、この裁判の無効を主張し全員の無罪を判決をしたが、残りの10名は有罪判決を下しA級戦犯7名の死刑が執行されました。
国旗掲揚
その後は「東京裁判史観」が日本の主流な歴史観になるようあらゆる分野での支配が働きます。官界、法曹界、学界、放送界、教育界、経済界、労働界の各分野です。いわゆる左翼主義が日本を席巻するようになり、左翼主義者でなければ出世も出来なくなりました。例えば学校教育の現場でも日教組という組織が幅をきかせ子供たちの反日教育に当たります。卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱にも反対しました。
この効果はものの見事というもので、祭日に日の丸を掲げる家を見ると「あの家は変わっている」と指をさされるまでになりました。戦前の日本が軍国主義で中国を侵略し、南京大虐殺を行って30万人を殺したとか、日本軍が朝鮮の女性を強制的に連行し慰安婦にしたという捏造が日本の左翼によって喧伝されました。両方とも全くの捏造であることは証拠で明らかですが、アメリカの行ったWGIP政策は大成功だったのです。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は雷
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******** 下卦は山
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「雷山小過」の卦。小過とは小(陰)が多すぎること。人間生活に当てはめれば低姿勢に過ぎるということだろうか。小さくしていなければいけない空気に居るようなものである。このような時、君子は人一倍言動を慎み服装も地味なものにし恭敬な態度を表すものである。無理な難題には取り組まず、消極的すぎると言われるほど低姿勢でことに当たるのである。
現在の日本国憲法はGHQの占領下にあったとき、GHQ監視の下で出来た憲法である。言わば手足を縛られた状態で有無を言わさずに押し付けられたものである。日本が二度と大国にならないように作ってある。軍隊を持たないと憲法9条には記してある。政治家が憲法改正を口にすると大騒ぎになる。先頭に立つのがマスメディアでいづれも左翼に洗脳されている。そのお陰で北朝鮮にも物を言えない状態はいかがなものだろうか。
日本は戦後72年間を低姿勢で貫いてきた。世界情勢は大きく変わっている。いつまでもこのままで良い訳はない。自分の国は自分で守るという基本姿勢に立ち返らねばならない。その上で国際平和にも貢献していかねばならない。そのためにも、一刻も早く新しい憲法を整えなくてはならない。既に有事となっている今、日本人の底力に期待したいものである。
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20世紀からの世界史
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日本の風景(棚田)
久しぶりのブログ作成になりました。この夏の間、私はもっぱら戦後の日本史について調べたり考えたりしていました。その中で、元ウクライナ大使の馬淵睦夫氏が著した「国難の正体」に出会ったことは目から鱗のような発見であり驚きでした。世界史に対する見方考え方が少し変わってしまったような気がします。これからの私の記事はこの夏の勉強が表現されることになります。
今回の話はいったい何故、日本はアメリカと戦争をすることになったのかを考えてみたいと思います。よく言われることは戦前の日本は軍国主義国家であった。軍部の帝国主義的野心は満州を手に入れ、その勢いで中国内部を侵略していった。アメリカは中国を救うため、日本を経済封鎖することになった。満州までの返還を要求するハル・ノートを突き付けられ日本は已むを得ず戦争に突入した。というシナリオが広く行き渡っていたと思います。
ドイツ空軍
よく考えると数々の疑問がわいてきます。あの広大な中国を日本が侵略するというのは、どう考えても無理があり、その必要性はないと思われます。またアメリカが中国を救済するために国民の反対を押し切って戦争をしたとも考えられません。しかも日本を潰すために無差別な空爆を繰り返し、挙句の果てに原爆まで投下するという徹底ぶりと無条件降伏まで戦うというのは何故でしょうか。
そもそも日本が戦争に突入する前にヨーロッパではナチスドイツにより戦争が始まっていました。ヴェルサイユ条約の圧政からヒトラーは立ち上がり、ナチスドイツを率いてユダヤ人を迫害し、生活圏を獲得する目的でソ連に攻め入りました。だからといって、アメリカが日本と戦争をする理由はないと思います。日米戦争はヨーロッパの戦争とは無関係なのです。だとすると何か外に原因があり目的があったのではないでしょうか。
日本海海戦
それは日本人が気づいていないことですが、日本という国の存在が原因だったのです。実は日本人は当たり前だと思っていますが、日本人の実力は世界では脅威だったのです。欧米文化を吸収し、日本流に作り替える力、特に工業の分野では抜群の力を発揮したからです。明治維新以来、東洋の島国だった日本があっという間に先進国の仲間入りを果たしてしまいました。日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った海軍力には世界中が度肝を抜きました。
軍事力だけではなく外交力でも世界を驚かせました。第一次世界大戦後のパリ講和会議では日本の代表は人種差別撤廃の条約成立を提案しました。これには議長を務めたウィルソン米大統領が吃驚し、苦し紛れの反対演説でどうにか先送りしました。世界の中心だった英米は日本を抑え込まないと大変なことになると実感したのです。その後日英同盟は解消され、日本を封じ込める作戦が秘かに練られていったのだと推測されるのです。
F・ルーズベルト
第一次世界大戦後は混乱の残るヨーロッパと繁栄を謳歌するアメリカでしたが、1929年にアメリカ発の大恐慌時代を迎えます。日本は関東大震災や昭和の金融強硬にも遭いながらも、大恐慌からは真っ先に立ち直りました。そして満州に進出することになり日本だけが活躍し始めました。恐らくこの段階で日本潰しが本格的に始まったのだと思います。ソ連のスターリンの謀略が始まり、アメリカのF・ルーズベルトは中国を助けるという名目で戦争準備を整えます。
1936年に起きた「西安事件」から日中戦争が仕組まれ、翌年から泥沼に引きづり込まれます。その頃からヨーロッパではヒトラーによる戦争が始まりましたので、日本潰しには又とないタイミングと口実が用意されたと言えます。後はアメリカが参戦するための大義名分、日本からの先制攻撃を待つだけです。経済封鎖も石油の禁輸は事実上の宣戦布告です。日本軍による真珠湾攻撃もアメリカ軍はレーダーによる観測で事前にキャッチしましたが、衝撃を甚大にするためにハワイには知らせませんでした。日本は完全に仕組まれた戦争に突入してしまったのです。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
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*** *** 下卦は水
******** 問題、悩み
*** ***
「天水訟」の卦。訟は訴訟、裁判、争いである。天にあった水が天と対立して雨が降る象である。複数の人がいれば必ず対立があり、個人も国家も争い事はつきものである。意見と方向が異なるとき争いとなるが、あくまでも自説を通そうとすればますます対立の溝は深く激しくなる。つまらぬ意地を捨てて親愛と協調を心掛けて見ることも大切である。
日本の実力に脅威を感じて日本封じを計画したのは英米であるが、あくまでも英国、米国の国民ではない。英国、米国を支配する強大な勢力である。この強大な勢力こそ世界の金融と情報、軍事を支配する帝国主義を支配した巨大財閥グループである。現在もこの巨大財閥グループによる世界支配は着々と進んでいる。それが世界を一つにしようとするグローバリズムの正体である。
「国難の正体」を著し、日本はグローバリズムを乗り越えねばならないと説いたのは馬淵睦夫氏である。馬淵氏はイギリス、インド、ソ連、タイに勤務し、キューバ、ウクライナ、モルドバでは大使を歴任した。在職中に歴史の謎を体験し、退官後に世界の要人たちの回想録を丹念に調べることにより国難の正体に気付いたという。「国難の正体」は是非手にとって読んで欲しい一冊である。
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双十協定(1945年10月)
アメリカ大統領・トルーマンはルーズベルトの方針を受け継ぎ、中国をアジアの中心と考えアメリカの友好国にするつもりだった。弱体化した国民党軍を立て直し、国民党主導のもとに共産党が協力する統一政府を目指した。1945年10月10日、国民党代表の蒋介石と共産党代表の毛沢東は互いに協力を誓い合った。(10が二つ重なる日を記念して双十協定と呼ばれる。) しかしそれは形だけの協定であり、双方の対立はますます激化していく。
アメリカはルーズベルトが犯した最大の間違えに気付いていなかった。アメリカ型の資本主義国家とソ連型の共産主義国家は水と油で融合することは不可能だったのである。そもそも日中戦争はスターリンの謀略により、国民党と日本軍が戦うように仕向けられ、双方が消耗したところで双方とも共産化する計画だった。中国共産党は漁夫の利を得た上で中国を共産化し、統一する役目だったのである。
G・マーシャル(1880〜1959)
大統領特使G・マーシャル元帥は国共内戦の調停に乗り出すため、莫大な支援を投下し国共両党を交渉テーブルにつかせようとした。共産党軍を圧倒するためアメリカ軍兵力11万人を揃えた。マーシャルの仲介で内戦の一時的停戦は実現したが、双方の対立はどうしても治まらない。蒋介石も毛沢東も考えが違い相手を受け入れないからである。治まらない重要な理由は他にもあった。アメリカ政府内にいる共産主義者たちの陰謀が働いていたからだった。
1946年12月、トルーマン大統領はついに蒋介石に「これ以上内戦を続けるなら援助を打ち切る。」と非難し、「速やかに内戦を解決するなら、工業、農業改革の復興を実行に移す。」と警告したが、内戦は続けられた。アメリカにとっても中国を戦後のアジアの中心と期待していたのだが、余りにも酷い蒋介石の無能と国民党の腐敗には見切りをつけざるを得なかった。かくして、全力を投じて仲介に当たっていたマーシャル将軍を召喚させ、内戦からのアメリカ撤退を表明する。
建国宣言をする毛沢東
国共内戦はどのようなものだったのか。蒋介石の国民党はアメリカの武器弾薬を手に共産党への全面侵攻、一掃する計画だった。一方の毛沢東はゲリラ戦を展開し、国民党軍を山岳地帯に誘い込み戦力の消耗を謀った。国民党へのアメリカからの支援が途絶える頃を見計らって、ソ連は日本軍から奪った大量の武器を提供した。1948年の9月から国民党軍は大打撃を受け後退、1949年4月、国民政府の首都・南京は共産党軍に制圧された。
毛沢東は全国の著名な有識者や諸党派の代表を北京に集め、「中国人民政治協商会議」を開催する。新国家の国号を「中華人民共和国」とし、毛沢東は「中央人民政府主席」に就任することが決議された。首都は南京から北京に遷都することが決定した。1949年10月1日、毛沢東は天安門の壇上に立ち、建国を宣言した。毛沢東にとっては、1921年の第1回中国共産党全国代表大会に28歳で参加して以来、国共内戦と合作を繰り返した臥薪嘗胆の28年間であった。
台湾を訪問した蒋介石夫妻
一方、敗北した蒋介石の国民党政府は南京を脱出し、台湾島の台北に遷都することになる。1950年1月にはトルーマン大統領は台湾への不介入方針を発表した。台湾も共産党軍の手に落ちるところだったが、1950年6月突然始まった朝鮮戦争により、台湾の共産党軍は朝鮮に移動した。その頃、アメリカの野党・共和党から中国を共産化させてしまったことへの批判が盛り上がり、アメリカは第7艦隊を派遣する。台湾はアメリカ陣営として共産党への砦となる。
蒋介石は一度は引退したものの、1950年3月再び中華民国・総統に就任し、アメリカからの全面的協力を受けて大陸反攻を目指すこととなる。しかし同年に香港を抱えるイギリスが中国共産党が建国した中華人民共和国を承認した。また朝鮮戦争への国連軍側としての参戦はアメリカから拒否される。蒋介石は中国本土への捲土重来を願いつつも、1975年4月、生涯を閉じた。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は火
*** *** 文化、文明、明知
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******** 下卦は山
*** *** 動かざるもの
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「火山旅」の卦。旅行の旅であるが、楽しい旅ではなく居場所を追われるような旅を意味する。孤独の旅、失恋の旅とも言える。豊かな生活にあったものが、全てを失い無一文からやり直す。こんな時には無理をしないことである。「旅は少しく亨る。旅には貞なれば吉なり。」とある。人生は長い旅でもある。失ったものをいつまでも嘆いていることは賢明ではない。全てを受け入れて、やれることから始めれば良いのだ。
孫文の後継者であった蒋介石。妻は孫文の義妹であり、大財閥の一族でもある。アメリカ大統領のルーズベルトとは親交を結んでいた。アメリカ政府も全面的に支援してくれた。何もかも整っているように見える。なのに折角手にした天下を盗られてしまった。逆に毛沢東はエリートでもなければ、財閥がいた訳でもない。その毛沢東が天下を取った。現代版、項羽と劉邦の物語である。物語として見れば、これ程面白いものはない。
アメリカの大失敗はここに始まる。ルーズベルトは日本を憎んで中国を贔屓していた。アジアの中心を中国にし、末永く同盟を結ぶ心算でいた。親米であり、反共であった日本を力づくで潰してしまった。しかし戦争が終わって気付いて見れば、あれほど大事にしていた中国は敵に回ってしまい、あれほど憎んでいた日本を頼りにすることになった。未だに中国には手を焼いている。ルーズベルトの間違いにアメリカは苦労している。
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カイロ会談
アメリカの中国進出は列強より遅れているが、中国との関係は重要視していた。日中戦争が始まって以来、アメリカは国民党の蒋介石を支持し武器や、物資の援助を続けてきた。蒋介石の妻・宋美齢はアメリカを訪問して、中国の現状を連邦議会で講演をしている。ルーズベルト大統領は1943年の「カイロ会談」ではチャーチルと蒋介石夫妻との間で、戦後の国際体制を英、米、ソ、中の「4人の警察官」構想を語るほど中国には期待を寄せていた。
中国を戦後のアジアの中心にすえ、国連の常任理事国にし、アメリカにとっても安定的な経済交流を盛んにしたい考えであった。それ程、中国に期待をかけ、末永く手を結ぶつもりでいたのである。ところが、そうはならなかった。あろうことか中国は共産化し反米を唱えることになった。何故、そうなってしまったのだろうか。
蒋介石(1887〜1975)
アメリカの援助より20年も前、孫文の時代に、ソ連のスターリンは中国共産党をつくらせ、中国、朝鮮、日本を共産化する計画を進めていた。国民党を率いる孫文は何としても中国を統一するため共産党を受け入れた。しかし孫文の後継者・蒋介石はソ連に留学したものの、どうしても共産主義は肌に合わなかった。「国共合作」が成立していたが、孫文の死後1927年、上海クーデターにより蒋介石は国民党から共産党員を一掃し、「国共内戦」となった。
蒋介石は日本に学び日本陸軍の体験もあり日本びいきだった。1928年、北京に残っていた最後の軍閥・張作霖を追放し、南京を首都として国内を統一した。その後、日本軍が満州国を建国するという大問題が起ったが、蒋介石は共産党の掃討を優先した。ところが、1936年、共産党軍壊滅寸前に「西安事件」が起こる。共産党に寝返った張学良らにより蒋介石は監禁され屈辱の方向転換を迫られ、共産党と共に日本軍と戦うことになる。そして翌年1937年より日中戦争が始まった。
宋美齢(1897〜2003)
蒋介石の妻・宋美齢(宋財閥の次女)は人脈を生かし、アメリカ大統領・ルーズベルト夫妻と親交を築いた。ルーズベルトも日本の全滅を望んでおり、全面的援助を約束する。しかし蒋介石も日本軍も早く和睦したかった。ドイツの大使・トラウトマンが仲介するものの中々まとまらない。原因は共産党の謀略である。スターリンは「戦争が泥沼化すれば必ずアメリカが出てくる。」と読んでいた。
蒋介石は西安事件以来かつての精彩を欠いていた。信念を曲げた「国共合作」を悔いていた。「日本軍は軽い皮膚病、共産党は重い内臓疾患」と例えている。日中戦争は一方的に日本軍に負け続けていた。アメリカからの援助は届いたものの、宋美齢の財閥一族が私物化し、国民党軍に行き渡らない。蒋介石の優柔不断は国民党の内部混乱となり、日本寄りの政権を目指す汪兆銘らは離脱して行く。
スティルウェル(1883〜1946)
スターリンのもくろみは的中し、1941年には日米戦争が始まる。アメリカからの物資援助「援蒋ルート」は日本軍により遮断され、国民党は戦うことも出来ない。しかし1943年の「カイロ会談」で蒋介石はルーズベルトに戦局や現状を語ることさえ出来なかった。ルーズベルトも国共合作の内情も理解せず、蒋介石に期待するのみだったが、参謀長のスティルウェルは国民党政府の不敗堕落を知り見切りをつけていた。
ルーズベルトは直前に急死したが1945年8月、日本は降伏し英米仏ソと並んで中華民国は戦勝国の一員として国連の常任理事国となる。蒋介石は世界の指導者として扱われた。ルーズベルトの後を継いで大統領になったトルーマンは弱体化著しい国民党軍に大量の援助を行い軍制を整えた上で対立する共産党の受け入れ交渉を促す。1945年10月10日「双十協定」を結び、蒋介石と共産党代表の毛沢東は対立を止め協力を約束した。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は火
*** *** 文化、文明、中女
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*** *** 下卦は沢
******** 喜ぶ、親睦、少女
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「火沢暌」の卦。暌(けい)は反目する。いがみあう。意見の食い違いにより家庭の不和、団体内の対立は起きる。相反することから、競争があり、切磋琢磨がある。反することと統一することは裏と表の関係にある。反目する原因は多くの場合、誤解することから生じる。お互いに相手の立場に立って、考えることが重要である。小さな努力を尽くすことが肝要でもある。
蒋介石は孫文の唱えた「三民主義」に感服して志を立てた。「三民主義」とは民族、民権、民生である。孫文の命を受け、1年間モスクワに留学し、政治と軍事を学んだ。研修中、意見を求められ「三民主義」を発表した。ところが、誰も賛同するものはなく座が白けた。蒋介石は阻害され違和感を感じた。以来共産主義にはついていけないと嫌悪感を抱いたという。「西安事件」は生涯で最も後悔した出来事であったことだろう。
帝国主義時代からアメリカもロシアも中国進出には積極的であった。ただロシア革命後のソ連の進出は巧妙な計画に基ずく、謀略が感じられる。これには流石のアメリカも脱帽したことだろう。アメリカのやり方は物と金を投じるだけで、相手の国民性、実情、国内問題などを考慮していない。「敵を知り己を知れば百戦して危うからず。」孫子の兵法は完全にソ連において行われ相手国はその術数に飲み込まれていた。
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大戦の終了前1945年2月、米英ソのヤルタ会談で、チャーチルは戦後のソ連進出を出来るだけ食い止めようとスターリンと秘密協定を結んでいた。ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーのソ連優位を認めるかわり、ギリシャのイギリスの優先権を認めさせた。ユーゴスラビアについては英ソ対等の地位とした。(ユーゴスラビアのチトー大統領は独自の共産政権をつくりスターリンの送った暗殺者もすべて逮捕、逆にスターリンに対し「刺客を送るぞ」と脅しているカリスマ大統領である。)
しかし、戦後体制はチャーチルの予測通りソ連の進出、米ソの対立は避けようもない深刻さを増していった。戦勝国である筈のイギリスは全ての植民地を手放すことになり、発言力も小さくならざるを得ない。資本主義国の代表の座はアメリカに移った。アメリカは孤立主義から世界の資本主義体制を支えるパトロン役となる。最大の変化はソ連を中心とする共産主義の拡大である。2000万人の死者を出し、国土も破壊され、国民の生活も疲弊していたが、「大祖国戦争」を勝ち抜いたことから、愛国心も高まり、指導者・スターリンの威信も増していた。大粛清や強引な農業集団化の傷を負うものの独裁者への新たな絆も生まれつつあった。ソ連は戦勝を最大限生かし、周辺国を「人民民主主義」として反ソではない友好国として囲い込むことを次なる目標とした。
スターリン(1878〜1953)
ソ連は帝国主義反対、ファシズム反対の立場から大資本を解体し社会主義を目指すことをもって民主主義を実行するとした。一方のアメリカは民主主義を共産主義、全体主義に対立するものととらえ、反共、反ソをもって民主主義としたのである。かくして、戦後の世界はソ連に同調する東側とアメリカに同調する西側に別れ、東西二陣営に引き裂かれていった。
敗戦国となったドイツは無条件降伏の末、英仏米ソの4か国による分割統治からの再出発となる。ドイツでは新旧ポーランド領から850万人、チェコスロバキアから300万人、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビアなどからのドイツ人、合わせて1600万人が着の身着のままで敗戦の故国へ引き上げてきた。
瓦礫の山と化したポーランド首都ワルシャワ
戦争により西側をドイツに、東側をソ連に分割占領されていたポーランドでは、東はソ連に取られたまま、西にドイツ領を獲得、ドイツ人を追放、東からの同胞218万人を受け入れ、旧ドイツ領に410万人を移住させた。
同様に満州、台湾、朝鮮に居住していた日本人300万人が混乱の中を故国に引き上げてきた。中国では日本という共通の敵がいなくなった国民党と共産党の国共内戦が再発し、敗れた国民党は台湾に逃げた。朝鮮半島ではソ連の支持する北朝鮮とアメリカの支持する韓国が主権を争った。
ホー・チ・ミン(1890〜1969)
大戦中、日本は「大東亜共栄圏」構想を唱え、東南アジアを英仏蘭の支配から解放したが敗戦とともにあえなく崩壊した。しかしアジア諸国は以前の植民地を拒否し独立国家を起した。インドネシアではスカルノがオランダからの独立宣言をし、ベトナムではホー・チ・ミンがフランスからの独立を宣言する。その後、共産主義のホー・チ・ミンは長くフランスと戦い、次にアメリカと泥沼のベトナム戦争を戦うことになる。ホー・チ・ミンはスターリンや毛沢東と違い同胞への粛清は一人も行っていない。
かつて大英帝国の大黒柱といわれたインドもついにイギリスからの独立を果たす。その際起ったヒンドゥー教とムスリム連盟の対立が深まりインドとパキスタンに分裂して独立することになった。戦前まで植民地を保有し、繁栄を極めたヨーロッパ各国は総じて衰退を余儀なくされるとともに、植民地という思いくびきから脱したアジア各国は総じて勢いを増していくのである。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は水
******** 艱難、問題、悩み
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*** *** 下卦は雷
*** *** 活動、出発、志
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「水雷屯」の卦。屯(ちゅん)とは行き悩み。産みの苦しみ。草木の芽が地上に出ようとするが、堅い地表を中々突き破れないでいる象である。人間に例えるなら悩み多き青春時代。事業で言えば、創業して間もない頃、中々世間に認めて貰えず苦労に苦労を重ねている頃をさす。どんな道であれ、苦難に耐えてこそ、新しい世界が開けるものである。希望を忘れず、あせることなく、一歩づつ前に進んで行こう。
二つの大戦争で繁栄していたヨーロッパに代わり、アメリカとソ連が表舞台に躍り出た。そして、じっと耐え忍んでいたアジア諸国が新たに力をつけてきた。日本は他のアジア諸国に比べ、半世紀も早く表舞台に立ったことになる。戦後の繁栄はその実力が本物であることを証明している。もっと誇りを持って欲しい日本人が近頃元気がないように感じる。世界史をもっと学んで欲しいものだ。
ベトナムの社会主義は現在も健在である。日本人にとって社会主義、共産主義はイメージが良くないが国にはそれぞれ建国の歴史がある。戦争で何もかも亡くした国家にとって、唯一成立させることが出来るのは社会主義国家であるとも言える。自由主義と言っても国民にそのレベルがなければ、選挙で誰が選ばれるか解ったものじゃない。国家の行く末を本当に憂い、国民を本当に愛している政治家でなければ、どんな体制でも国を良くすることは出来ないだろう。
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