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アフガニスタンの聖戦士
中東から西アジアにかけてはイスラム教徒が多い。アラーの神を信じるイスラム教徒たちは東西冷戦時代でも共産主義にも資本主義にも馴染めない民族である。アラビア半島の産油国は、経済を優先して西側陣営に与したが、他のイスラム国では宗教を否定する共産主義のソ連も、経済中心のアメリカもアラーの教えに反する。
東西の狭間に位置するアフガニスタンは山岳が多く、多民族であり、近代化にも遅れ、暮らしは豊かではないがアラーへの信仰は厚い。しかし、1973年、旧王族のダーウードはクーデターを起こし、ソ連の協力で「アフガニスタン共和国」をつくる。ダーウードはイスラム主義者たちを弾圧し、ソ連型の軍事近代化を目指した。
ブレジネフ(1907〜1982)
ダーウードは軍事、経済、社会、教育の改革に着手したが、イスラム教徒たちは不満でいっぱいである。反政府キャンペーンを組織したイスラム法学者たちは弾圧され、後にイスラム聖戦士(ムジャーヒディーン)の指導者になる学生たちはパキスタンに逃れる。政局は混乱し、1978年にはクーデターによりダーウードは処刑され、次の首相も処刑されたりと収拾がつかない。そこに訓練され精鋭となったイスラム聖戦士たちが戻ってきた。
1979年2月にイラン革命が起きると、イスラム主義者たちは勇気を得てソ連の排除を叫んだ。11月にアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフ書記長はイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、軍事侵攻を開始した。ソ連軍はデモ隊を排除できないアミーン首相を暗殺し、共産党員のカーマルを首相とするが、イスラム聖戦士たちは真っ向から戦闘を開始した。こうして10年に及ぶアフガニスタン紛争が始まる。
ソ連軍のヘリコプター部隊
ソ連のアフガン侵攻はベトナム戦争後に沈静化していた東西対立を再び激化させた。1980年にはモスクワでオリンピックが開催される予定であったが、アメリカのカーター大統領はボイコットを表明する。日本、韓国、西ドイツが続く。ソ連との対立関係にあった中国やイスラム教国のイラン、サウジアラビア、パキスタンなど50か国がボイコットした。
ソ連にとってはアフガンの独立を許せば、近くのタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンなどのイスラム圏への拡散が心配だ。相手陣営の軍事基地が作られたら大変である。アメリカにとってもアフガンは東西の要であり、断じてソ連の侵攻は阻止しなければならない。アメリカやサウジアラビアはイスラム聖戦士に武器の援助をする。ソ連軍は対人地雷、化学兵器、空爆、兵力10万人規模で掃討作戦を決行するが戦果は上がらない。イスラム聖戦士は山岳戦を得意としたからである。
ビン・ラーディン(1957~2011)
ソ連兵の死者は1万5千人、負傷者数7万5千人だがソ連兵の間で麻薬患者が広がる。アフガンでは人口の10%、150万人が死亡した。600万人が難民となり国外に逃れた。農地、井戸、道路が破壊され、子供たちの教育は置き去りにされた。ソ連軍は大量の兵器を遺棄したまま引き上げたので、その後の内戦で使われ更に被害を大きくした。
イスラム聖戦士(ムジャーヒディーン)はもともと一枚岩ではない。各民族、宗派により大小10以上の組織があり、今度は組織同士の争いが始まる。その組織の中にパレスチナ人神学者アブドゥッラー・ユースフ・アッザームがいた。後にウサマー・ビン・ラーディンやターリバーンの創始者ムハンマド・オマルが強い影響を受けた。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は地
*** *** 陰、暗、
*** ***
******** 下卦は火
*** *** 文明、文化、明知
********
「地火明夷」の卦。明夷(めいい)とは明が夷(やぶ)れる。明るいものが害され、破れることである。太陽が地下に沈む象である。最悪の時代であり、艱難の時代でもある。志を抱く者も明知をつつみ隠し、身を潜めて行かねばならない。朝の来ない夜はない。苦難の中で磨かれた明知は時を得て輝だろう。
日本人にはイスラム教徒は少ないが、イスラム教の教えは最も道理的であり、平和的なものである。他の宗教に対しても寛容である。争いの絶えなかった7世紀のアラブ社会がムハンマドの出現によって一つにまとまったのである。 「アラーの下に人は平等である。」 「豊かな者は貧しき者に分け与えよ。」という教えに育ったイスラム教徒は金と力で弱いものを支配しようとするアメリカ主義や神を否定する共産主義に従うことは出来ないのだ。
イスラム教徒には聖戦(ジハート)という教えがある。命を捨ててもアラーの神に尽くすことであろう。しかし、アラーのためとはいえテロ行為や人質への身代金要求は犯罪行為であり、聖戦とは言えないだろう。帝国主義時代よりイスラム圏の中東、西アジアでは列強に侵略され、植民地支配され、散々な目にあわされた。再び栄光の時代を築きたい気持ちは解るが、日が昇るまで忍耐も必要だろう。
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20世紀からの世界史
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パーレビ国王(1919〜1980)
世界有数の産油国であるイランのパーレビ国王(モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー)は石油資源をもとに中東一の富国強兵国家を目指した。日本の飛躍的成長に追いつけ追い越せとばかりに、アメリカと手を結び親欧米路線のもと近代化を進めた。土地の改革、国営企業の民営化、教育の振興、農村の開発、婦人参政権の確立を目指し「白色革命」と言われた。イスラム教徒の習慣で女性の顔を覆うヒジャブの着用も禁止する。イランの近代化、工業化は急速に進みつつあった。
イスラム圏ではトルコに次いでイスラエルと国交を樹立、他のアラブ諸国に比べ特出した存在だった。ニクソン大統領もイランを事実上の最恵国として扱い、最新鋭機のグラマンF-14戦闘機やボーイング747−SP旅客機を同盟国に先駆けて納入させた。王は多趣味で知られ、ヨットや飛行機の操縦を行い、最新の戦闘機も自ら操縦桿を握って購入を決めた。イタリア製ランボルギーニなど自動車のコレクションは世界的にも有名だった。
一方で、イラン国民はイスラム教の信仰心が厚いシーア派が占めている。パーレビ国王が推し進める反イスラム的な西欧化政権をアメリカの傀儡政権として批判した。1963年に国王が宣言した独裁的な「白色革命」には抵抗運動が起こり、国王は抵抗するイスラム勢力を逮捕、国外追放にした。1978年、イスラム教法学者のホメイニを中傷する記事を巡り、国内各地で反政府デモが発生、暴動が多発する事態になった。政府は軍隊を出して沈静化を図ったが、事態の悪化を止めることが出来ず、1979年1月、国王は国外に退去した。
亡命先のフランスからホメイニが15年ぶりに帰国すると、イスラム革命評議会を組織した。1979年4月、ホメイニは「イスラム共和国」への是非を問う国民投票を行い、98%の賛同を得た。ホメイニは「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言しイスラム教法学者の統治論に基づいた終身の最高指導者となる。任期4年の大統領をも指導する文字通りの最高指導者である。こうしてかつてないイスラム教国が成立する。「イラン革命」と呼ばれる。
このイラン革命はその後特異な事件を引き起こすことになる。1979年11月に「アメリカ大使館人質事件」が起きる。当初、パーレビ国王と家族はエジプトに亡命したが、その後モロッコ、バハマ、メキシコと転々とした後、アメリカに亡命した。すると、敵視するアメリカが元国王を受け入れたことに反発し、イスラム法学校の学生らがアメリカ大使館を囲み抗議デモを行い大使館の敷地内に侵入した。シーア派原理主義者が実権を握る革命政府の指導下にいる警察も制止できない。
学生らはアメリカ人外交官や家族たち52人を人質に、元国王の身柄引き渡しを要求する。大使館は「外交に関するウィーン条約」で安全が守られているのだが、その規定にも違反する行為にイラン政府は国際的な非難を浴びた。カーター政権は懐柔策、アラブ諸国からの説得などあらゆる手段をとるも解決手段が見つからない。ついに軍事力により人質救出作戦「イーグルクロー作戦」を発令したが、輸送機とヘリコプターが接触し、砂漠上で炎上するという事故が起き失敗した。
ジミー・カーター(1924〜)
1980年7月、パーレビ国王が最終的亡命先エジプトで死去したことにより学生らの占拠理由も薄れ、アメリカ政府とイラン政府は水面下で交渉を続けた。その年に行われた大統領選挙では再選を期したカーター大統領はこの事件が未解決だったことから人気を失い共和党のロナルド・レーガンに敗北した。ようやく人質が解放され、帰国できたのは事件発生から444日振りの1981年1月20日、カーター大統領がホワイトハウスから去った日であった。
この事件からまもなく40年が経つが、アメリカとイランは敵対関係のままである。事件に対するイラン政府からアメリカ政府への謝罪は全くない。アメリカは「ならず者国家」と呼び、経済制裁を続けている。この事件から東西の冷戦とは別の冷戦がアメリカ対イスラム原理主義との間に始まったとも言える。しかもこの複雑な対立は次々と広がり深刻化していくことになる。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は火
*** *** 文化、明知、中女
********
*** *** 下卦は沢
******** 喜ぶ、親睦、少女
********
「火沢暌」の卦。暌(けい)は背く、反目する、矛盾相剋である。意見の食い違いは家庭の不和から国と国の対立まで、社会生活にはつきものである。中でも深刻なのは宗教対立だろう。個人的な対立はもともと誤解に基ずく理由が多いのではないか。反目を続けて孤独になってはいけない。我慢して付き合うことも必要な術である。
イランの歴史は古い。紀元前2000年のアーリア人から始まっている。ペルシャ帝国はローマ帝国にも引けを取らない。それに比べればアメリカの歴史はわずか200年と少ししかない。経済と軍事力にものを言わせようとするアメリカに反発したくなる気持ちは解る。それにしても、大使館員を人質にしてはいけないだろう。国際ルールは守ってもらわなくては困るじゃないか。
パーレビ国王は「アーリア人の栄光」を示すため、1971年にアケメネス朝ペルシャ帝国の遺跡ペルセポリスで「イラン建国2500年祭典」を盛大に開催した。各国の国賓が出席、日本からは三笠宮が出席した。一連の事業に2億ドル以上を投じたと言われ、国民からは国費の浪費であると非難された。外に向けてやることは派手だったが、もっと国民の行く末を考えて欲しかった。
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大阪万博(1970年)
米ソの超大国が果てしない軍拡競争で経済が疲弊してしまった頃、西独と日本は奇跡の高度経済成長を遂げていた。日本は戦前の過重軍事負担から解放され、軍事負担はGNPの1%以下と低く、経済成長率は年10%以上というのびのび成長だった。1970年に開かれた大阪万博は入場者が6421万人を超える万博史上空前の大記録となり、日本の奇跡的成長を世界中に証明することになった。
一方のアメリカは長引くベトナム戦争への軍事負担が重くのしかかり貿易収支は大幅な赤字を出すに至った。パックスアメリカーナの時代は完全に過去のものになっていた。日本はついに資本主義世界でアメリカに次ぐ第2の経済大国になり、鉄鋼、自動車、電気製品を大量に輸出、アメリカやヨーロッパ各国との間に深刻な経済摩擦を引き起こすまでになった。アメリカの金準備はかつての3分の2にも減ってしまい、ドル危機が深刻化した。
ニクソン大統領
1971年8月、ついにニクソン大統領は全米に向けた声明を発表することになった。「第二次世界大戦が終わって以来、アメリカは欧州とアジアの主要国に対し、対外援助をしてきました。彼らは活気を取り戻し、今では競争相手になって来ました。彼らは世界の自由を守るために公平に自己負担すべき時期が来たのです。為替レートを是正して主要国は対等に競争する時です。」「金とドルの交換を一時停止します。」「我が国への輸入品には10%の輸入課徴金を課します。」
世界中に衝撃が走った。戦後、アメリカという超大国の保護下にあり、安心して経済成長を遂げてきた日本にとっても大ショックであった。声明が発表された日が8月15日だったので、「第2の敗戦」とも言われた。ニクソンの中国訪問発表で驚いた世界は続いてのドルショックに「ニクソンショック」と呼び、アメリカも不況に陥ることがあるという現実を知ることになった。各国ともドルの切り下げを容認せざるを得ず、その後固定相場制から変動相場制へと移行していった。
![]() 中東油田
ドルショックに続いて世界経済にショックをもたらす出来事が起った。オイルショックである。世界の石油の大半は中東で産出されているが、中東では1948年にイスラエル国が独立を果たして以来周辺のアラブ諸国との間で戦争が繰り返されていた。1973年10月に起った第4次中東戦争ではそれまでと違い、アラブ側は「石油輸出国機構」(OPEC)に終結していた。
イスラエル及びアメリカを支持する国には石油の輸出規制の対象にした。日本は中立の立場ではあったが、アメリカの同盟国とみなされ輸出規制をもろに受けることになる。日本での石油危機は深刻でネオンサイン、エレベーター、深夜放送の自粛、ガソリンスタンドの日曜休日、プロ野球ナイターの時間を早めるなど対策が取られた。トイレットペーパー、洗剤の買い付け騒ぎまで起った。
アラブ首長国連邦・ドバイ
石油問題は「東西対立」とともに北の工業国と南の原料供給国との間の「南北対立」も表面化することになった。石油の採掘、精製はそれまで米英仏の石油会社(メジャー)の独占状態であったが、「地下資源は有限だ。」とばかりに石油価格の決定権はOPECの手に移っていった。この結果、産油国には莫大なオイルマネーが流れ込むことになり、砂漠にラクダが歩く風景も見られなくなり高層ビルが立ち並んだ。
一方で、非産油国では持てる国と持たざる国との格差が広がり、工業化にも乗り遅れたアフリカでは飢えの問題に直面した。とくにサハラ以南のアフリカでは2人に1人が飢えにさらされ、エチオピアでは1984年までに20万人が餓死した。後進国での大規模な森林伐採は、自然環境を破滅させ、生態系の変化を引き起こした。先進国の繁栄は後進国の貧しさと犠牲の上に成り立っているのである。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は水
******** 困難、悩み
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*** *** 下卦も水
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「坎為水」の卦。坎(かん)は困難に陥ることだが、上下に重なることから、一難去ってまた一難という状況である。人生においても次から次へと問題が起こり、参ってしまうことがある。そんな時にどうするかによって人間の真価が決まる。困難にうちひしがれるのではなく、困難に立ち向かうことである。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれである。
日本はドルショックというハードルもオイルショックというハードルも見事に超えてみせた。「省エネ」の技術は世界を驚かした。その結果は「メイドインジャパン」は世界のブランドとなり、技術大国が世界に定着する。冷戦時代の勝者は日本だとも言われる。焼け野原からの再出発でここまできたのだ。
それから40年の月日が過ぎた。今の日本はどうだろうか。「デフレ時代」「少子高齢化時代」「失われた30年」と日本を表す時代には元気がない。時代の流れでは仕方がないのだろうか。そんなことはない。日本人の意識の問題だ。先ずは戦後の日本の立ち位置をしっかり見直そうじゃないか。いつまでもアメリカの庇護の下に甘んじていないで、もっと胸を張って立とうじゃないか。そこから全ては始まるのだ。
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ニクソン大統領(1913〜1994)
東西冷戦時代は超大国の軍事的優位が相手に対する抑止効果と同盟国を繋ぎとめる上でも必須であり宇宙開発、核兵器開発はエスカレートする一方だった。しかし果てしない軍拡競争は人類滅亡の危険をも予想させるものであり、経済的負担は限界に達していた。軍縮の必要性は誰の目にも明らかな課題だった。
超大国の代理戦争であるベトナム戦争は泥沼化し、流石の超大国も疲弊し経済的に行き詰ってきた。アメリカは大恐慌以来の財政赤字に陥り、失業者が溢れた。1968年の大統領選挙は冷戦の勝利と経済の復活という二つの難問解決が焦点になる。1960年の大統領選挙でJ・F・ケネディに破れ、負け犬と呼ばれ弁護士生活をしていたリチャード・ニクソンがホワイトハウスの頂点に立った。
キッシンジャー(1923〜)
ニクソンが外交の切り札として大統領補佐官に抜擢したのがヘンリー・キッシンジャーだった。ドイツ系ユダヤ人であるキッシンジャーは少年時代にナチスドイツから家族とともにアメリカに逃れ、苦学して陸軍に入隊、スパイとしてドイツで活動する。終戦後はハーバード大学で政治学を学ぶ。ユダヤ財閥のオッペンハイマー家に見出され、29歳のときロンドンの世論操作研究機関のタヴィストック研究所で訓練を受けている。一流の学者であり、優秀な外交官であり、筋金入りの工作員でもある。
ニクソンとキッシンジャーは行き詰った冷戦体制からの脱出を計る。ベトナム戦争は早期に終わらせること。国境の領土問題でソ連と中国が対立していることを重視、互いの分裂を促し中国を味方に付ける作戦を立てた。しかし米中の敵対関係は朝鮮戦争以来20年に及び、今や中国はアメリカ帝国主義と名指しで敵視していた。キッシンジャーはソ連のグロムイコ外相と頻繫に交渉を重ねる一方で文化大革命で混乱する中国に接近するチャンスを探る。
キッシンジャー、周恩来、毛沢東
一方の中国では文化大革命という大混乱を復活の手段にした毛沢東は荒れ果てた国力を回復させるため秘策を練っていた。ソ連との武力衝突を回避するためにもアメリカとの関係改善はメリットがあった。8億5000万人に膨れ上がった巨大な人口を養うためにも経済の再建は待ったなしだった。首相の周恩来に図り、こちらもアメリカとの接近作戦を秘かに立てていた。
ニクソン大統領は1969年7月、アジア、ヨーロッパ各国を訪問した際、パキスタンとルーマニアの首脳に中国指導者への伝言を依頼していた。すると1970年12月になって特使を招待する旨の周恩来からのメッセージが両政府からもたらされた。大統領側は政府内の親ソ派、親台湾派、反共派には知られてはならず、毛沢東と周恩来は親ソ派、反米派には知られてはならず、秘密裏の交渉が重ねられた。
ニクソン大統領と周恩来首相
パキスタンを訪問していたキッシンジャーは突然腹痛を起こし2日間治療に専念するため休養することになる。誰も知らない間にパキスタン大統領専用機でキッシンジャーは北京を訪問、周恩来と6時間の会談を行った。会談は台湾、インドシナ、日本、北朝鮮、ソ連、南アジアの核問題、大統領訪問、米中の今後の連絡方法など突っ込んだ話し合いだった。中でも重要な問題は台湾とインドネシアだった。日本の軍事力抑制についても話し合った。後にキッシンジャーは回顧録の中で周恩来について「私は周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない。」と語っている。
1972年2月、ニクソン大統領夫妻は北京を訪問し、出迎えの周恩来首相と堅い握手を交わした。1949年に中華人民共和国が成立した後、アメリカ大統領が訪問したのは始めてであり、その直後にニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は毛沢東主席と会談した。台湾やベトナムなどの複雑な問題は残されたが、米中の和解は米ソ関係をも進展させることになった。1972年、米ソ間で「戦略兵器制限協定」が調印された。ニクソンとキッシンジャーの外交に花が開いた。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は雷
*** *** 動く、始まり、志
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*** *** 下卦も雷
*** ***
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「震為雷」の卦。雷も震も突然動くことの象徴である。突然、天地の間に雷鳴がとどろいている。人々は驚き怖れるが、案外過ぎ去って見れば平常と変わらない。真の人物は人々が周章狼狽するような時も、冷静に事を行う。
トランプ大統領はニクソンとキッシンジャーの外交に感服し尊敬しているという。トランンプ青年が失脚したニクソンに手紙を出してその思いを伝えたところ、ニクソンから「貴方は立派な大統領になれるだろう。」との返事が届いた。現在、トランプ大統領の執務室の壁にはその手紙が掲げてられているという。そして95歳になったキッシンジャーはトランプ大統領の外交顧問になっている。
キッシンジャーと周恩来首相は熱心に今後の両国のあり方について語り合った。その会談の中で日本の扱いは重要だった。周恩来「我々は日本の再軍備を最も警戒しているんだ。貴方の考えを聞かせてくれ。」 キッシンジャー「実は我々も同じなんだ。だから日本には絶対に核兵器は持たせないことを約束する。あくまでアメリカの傘の下に置くつもりだ。」 周恩来「それだけは頼んだぞ。」 キッシンジャー「任せてくれ。」
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戦火を逃れる住民
冷戦時代はアメリカを中心にする西側陣営とソ連を中心にする東側陣営とが対立する時代である。そのどちらでもない地域を第3地域と呼んだが、その第3地域を巡って東西の陣営が激しく取り合った時代でもあった。東南アジアに関しては共産化の勢いが強く、アメリカは次々と東側陣営へ流れることへの脅威を持っていた。「ドミノ理論」と言われる現象に歯止めをかけねばならないとあせっていた。その象徴的な争いがベトナム戦争である。
意地でも後に引けないアメリカは完全に泥沼に入り込んでしまった。1963年から10年間に第二次世界大戦中に使用した爆弾の2、7倍を雨あられと使用した。朝鮮戦争の約2倍の巨費1180億ドルを投じた。それでもアメリカは勝てなかった。結果的にはアメリカはすっかり国力を消耗してしまった。圧倒的な富と力を誇るアメリカが何故、貧乏な東側陣営に翻弄されてしまったのかを考えてみたい。
そもそもベトナム戦争はどうして起ったのだろうか。19世紀の中頃、イギリスがアヘン戦争を仕掛け中国を侵略し始めたことを皮切りにフランスはインドシナ半島を侵略、植民地支配した。第二次世界大戦の日本軍の侵攻によりイギリスもフランスもアジアから一掃される。ところが日本の敗戦によりフランスは再び植民地支配しようとした。しかし植民地に戻るのはこりごりだとベトナムの独立を唱えて立ち上がったのが共産党を率いるホー・チ・ミンだった。
ホー・チ・・ミンはソ連と中国に応援を求め、フランスはアメリカに応援を求めて戦争が始まった。1954年にジュネーブ会談がもたれ、フランス軍の撤退、北緯17度を南北の軍事境界線として北のベトナム民主共和国の独立が承認された。また南北統一のための自由総選挙を1956年に実施するという内容だった。ところが、選挙すればホー・チ・ミンが勝つと予想したアメリカは選挙をボイコットさせ、戦争も辞さず何としても共産化を食い止めねばならないと考えたことが17年も続くベトナム戦争の始まりである。
ジョン・F・ケネディ(1917〜1963)
1960年代のアメリカは最もソ連の脅威を怖れ、対決姿勢を前面にむき出しにした時代でもある。1961年、自由主義を守り抜こうと颯爽と大統領就任演説をしたジョン・F・ケネディだったが、いきなりキューバ危機の洗礼を受け、続いてベルリンの壁ができた。アジアではドミノ理論が現実となり、東西対立はエスカレートした。せめてアジアの共産化は食い止めねばならないと、アメリカ政府は非常手段をとってもベトナムを渡す訳にはいかなくなった。
ケネディ死後のジョンソン大統領はアメリカ世論を納得させるため、アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃されたというでっち上げを演じた。この「トンキン湾事件」により猛攻撃を始めるものの、どうしても北ベトナムは落ちなかった。理由は北の後ろ盾である核兵器を保有するソ連軍には触れないようにしたからである。ソ連の支援は続いたので東西の代理戦争は延々と続くばかりとなった。
米国の反戦運動
東西の代理戦争だったベトナム戦争は互いに消耗するだけで、兵士の間に厭戦気分が蔓延して国内にも反戦運動が広がった。戦争への大義名分はなく、国民は不信感を持つまでにもなる。1973年、パリ協定が成立、ようやく長い冬が終わった。戦後の20〜30年の間に世界の植民地体制は終焉し、旧植民地は全て独立を果たし新興国になった。新興国は貧困の克服、自立した経済、政治的安定と新たな課題が待ち受けていた。
東西の超大国・アメリカもソ連も耐えがたい重荷を強いられ経済的にも余裕はなくなった。アメリカはパクス・アメリカーナの繁栄は過去のものとなり、ドルショックの一因となった。冷戦とは互いにミサイルを飛ばしたりはしないが、国力を賭けての真剣勝負は正に戦争である。その冷戦のクライマックスの中でどちらがどんな次の一手を打つかが、大きく明暗を分けることになる。ベトナム戦争の意味はそれ程重大なものだった。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
********
*** *** 下卦は地
*** *** 陰、小、柔
*** ***
「天地否」の卦。上に天、下に地は一見自然のようだが、易では天は上を目指し、地は下を目指すので上下が交わらず意思疎通がない。時代閉塞の世界と見る。社会では下にあるものが上を目指す元気があり、上にあるものは下を常に思いやる姿勢が大切である。冷戦時代は正に「天地否」で自分が天で相手が地であると決めつけていた時代と言えるだろう。
アメリカは強敵だった日本を降伏させ、民主化、アメリカナイズさせることに成功した。この成功体験が他のアジア諸国でも通用すると考えたのではないか。それは間違えで日本はもともと反共、親米であり民主主義国家だったのである。アメリカは余りにもアジアを理解出来ていなかった。アジアの民は宗教心が強く誇りも高い。金と力で抑え込むだけでは服従はしないのである。アメリカはベトナムの次にイランでも失敗した。
元ウクライナ大使・馬淵睦夫氏の「国難の正体」の中に「ベトナム戦争の謎」という章がある。ベトナム戦争の最中にアメリカはソ連に300億ドルの巨額融資をしているという。北ベトナムの使用した兵器は何とアメリカ製だったという。戦争が長引いたのはそのように仕組まれていたのだという。大国どうしの代理戦争には裏があり、何ものかの陰謀が隠されているということだろう。
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