さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

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封建制の日本から近代日本として世界への飛躍を遂げたのが幕末から明治です。

現代の日本の始まりはここにあり、この激動期こそあらゆる人間ドラマが渦巻く桧舞台です。

この人間ドラマを易学的にはどう見るかを試みました。(猶興)
 
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颯爽と尊皇攘夷に一命を奉げ散った快男子・平野国臣(くにおみ)。1828〜1864

福岡藩の足軽の子として生まれる。父は千人もの門人を抱える杖術の遣い手で士分にまで取り立てられたというから足軽と言ってもただ者ではない。

国臣という名は国の臣。一大名の臣ではなく、国の臣下であるという意味で自分で改名した。
この時代足軽の子では出世することは到底有り得ないが、国臣は夢を持った。「必ず国を動かす男になってやる。」

18歳のとき、江戸勤番を命じられ、江戸に上っている。江戸で国臣の目を開かせたのは外国が日本に迫って来ていることだった。福岡へ帰国後、漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学んだ。

この富永が尚古主義(日本本来の古制を尊ぶ思想)であり、国臣はすっかりこれに傾倒し、尊皇攘夷の志士として烏帽子、直垂の異風な姿で出歩くことを好んだ。

安政5年、安政の大獄が始まると幕府に異議ありとする薩摩藩主・島津斉彬の率兵上洛の情報が入り、国臣は勇んで上京した。ところが斉彬は急死し、率兵上洛は立ち消えとなった。しかし斉彬の側近だった西郷と知り合い意気投合した。

西郷と善後策を協議、幕府から逮捕命令が出された勤王の僧・月照を薩摩へ逃すことを請け負った。国臣は月照とともに山伏に変装して、関所を突破し、ようやく鹿児島に入った。

しかし、藩庁は西郷に月照を幕吏への連行を命じる。暗に斬れという命令であった。追い詰められた西郷は月照、国臣らとともに船を出し日向へ向かう。途中、国臣には告げずに月照とともに入水してしまう。

気が付いた国臣らは必死で救助にあたり、ようやく西郷の一命を取り留める。しかし救助の甲斐も無く月照は死んだ。西郷は奄美大島へ島流し。国臣は追放され筑前へ帰ることになる。

「我が胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙は薄し桜島山」
のちに国臣が薩摩に対して歌った一句である。大藩・薩摩を見損なったという意味だろうか。

尊皇攘夷の志士として活躍し、8・18政変の後、長州に落ちた七卿の一人である沢宣嘉(のぶよし)を主将として但馬・生野に乱を起した。

しかし、計画は挫折し捕縛され京都・六角獄舎に収容される。運悪くその後の禁門の変による火災が広がり、暴動を恐れた牢役人が他の罪人とともに全員斬殺してしまう。国臣享年37歳。

国臣の行動力には驚く。行動力を示す卦は「震為雷」。行動には内に沈着冷静があることが肝心である。

死の直前、国臣は自作の詩を吟じた。「憂国十年 東走西馳 成敗在天 魂魄帰地」である。

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安政の大獄に散った尊皇攘夷の志士・梅田雲浜(うんびん)1815〜1859

アメリカ大統領選に勝利したオバマさんに地名が似ていることで知られる小浜市。幕末の小浜藩に尊皇攘夷のリーダーと呼ばれた梅田雲浜は藩士の子として生まれた。

雲浜は藩校・順造館で藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学んだ。大津に湖南塾を開いたり、京都の藩の塾である望楠軒の講師となっているから相当の俊秀だったであろう。

梁川星巌や頼三樹三郎らの尊皇攘夷の志士と交際を深め、迫り来る西洋列強に対しては断固排斥の気概を持たねばならないと常に訴えた。

小浜藩は幕府の譜代藩であり、幕府の方針には絶対服従の立場であったが、已むに已まぬ信念から1852年(嘉永5)藩主・酒井忠義に尊王攘夷論を建言した。しかし、藩主の怒りに触れることになり、藩籍を剥奪され経済的には窮地に陥った。

それでも翌年のペリー来航には、江戸で吉田松陰とも対策を論じ、水戸へも遊説した。条約反対と外人排斥による攘夷運動を訴えて志士たちの精神的なリーダーとなり、幕政を激しく批判した。

しかし、それが時の大老・井伊直弼による安政の大獄により摘発され、頼三樹三郎に続き二人目の逮捕者となった。京都から江戸に送られ、取調べでは箒尻(ほうきじり)という全身を打たれる拷問にあう。

箒尻とは割った竹を束ねたもので、これで背中を叩かれると蚯蚓腫れが三月は消えなかったと言う。しかし、雲浜は何一つ弁明せず、獄中で病死した。(拷問による傷の悪化による死因説もある。)享年45歳。

安政の大獄は「天地否」の卦。上の者が下のものを有無を言わせずに押さえつける象である。意思の疎通は全くない。政治の行き詰まりを表す。

京都霊山護国神社には坂本龍馬、中岡慎太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉村寅太郎、平野国臣らとともに雲浜が祭神として祀られている。

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信念を貫いて自由奔放に生き、安政の大獄に散った志士・頼三樹三郎1825〜1859

「日本外史」で知られる高名な学者・頼山陽の子として京都・三本木に生まれた。8歳で父とは死別するが、父の人脈は広く弟子たちの世話にて16歳の時江戸の佐藤一斉の学問所へ入門する。

自由を愛し豪放磊落な性格の三樹三郎は同輩の中心となる。後に「坂下門外の変」で安藤信正に斬奸趣旨書を書いた大橋訥庵(とつあん)とはとくに気があった。

ところが、学問は優秀であったがときどき問題を起す。ある日上野・寛永寺に花見に行き、大酒を飲み大暴れを演じた。「幕府が朝廷にまさる寺院を建立するとは何事だァ。僭越奢侈というものだァ。おれは許さんぞォ。」と叫んで灯篭を不忍池に投げ込んだ。筋金入りの勤皇の志士であった。

その後もたびたび酒を飲んでは問題を起しついに学問所を破門された。その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と意気投合した。日本の国防について、大いに酒を飲み語り合った。(松浦武四郎は現在の三重県松阪市出身で平戸で僧となり6年後に還俗し蝦夷地探検に出発した変り種、北海道の名付け親でもある。)

25歳、京都に戻り家塾を開く。そして再び勤王の志士として活動する。それでも、母が存命している間は自重していたが、やがて母も死没すると、家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。

1853年にペリーが来航して尊皇攘夷運動が高まり、将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と一橋慶喜擁立を求めて朝廷に働きかけた。父の友人である梁川星巌の家には毎晩のように集まり酒を飲みつつ国政を談じた。

1859年(安政6年)大老の井伊直弼から梁川星巌、梅田雲浜と並ぶ危険人物の一人と見なされて「安政の大獄」で捕らえられて江戸の福山藩邸において幽閉される。

福山藩主の侍講・石川和助は、父・頼山陽の愛弟子であり、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行った。しかし、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく小塚原刑場で斬首された。享年35歳。

死体を密かに引き取って千住・小塚原の回向院に葬ったのはかつての学友・大橋訥庵である。

三樹三郎は束縛を嫌い感激を求めた。「沢山咸」の卦。感激、感動、感謝である。男子意気に感ず。時に感激は命よりも重要である。

幕府に捕えられた三樹三郎は役人に「自分は朝廷を奉ずるだけである。幕府の行く末には何の関心もない。」と平然と答えたという。

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幕末最大の詩人は憂国の士であった。梁川星巌(せいがん)1789〜1858

幕末に「文は山陽(頼山陽)、詩は星巌」と呼ばれた詩人・梁川星巌は美濃(岐阜県)曽根村の裕福な郷士の家に生まれた。幼少から四書五経の素読と、詩・習字を習い始め、断然頭角を現した。

長男であったが、絶っての望みを聞き入れて父・長高は家督を弟に継がせ遊学を許す。18歳で京都、19歳で江戸に下った。

江戸では、山本北山の北山塾に入り、経典や詩文の研究にうちこんだ。徹底した個性尊重の方針であったので、星巌の詩才は開花した。しかし、その星巌も自分の才能に溺れ、江戸の花街(吉原)に遊び過ぎ、多額の借財を作る。仕方なく乞食坊主同然の姿で故郷の曽根村に戻った。

すっかり反省した星巌は再び江戸へ出ると山本北山のもとで、心を引き締め詩作に励み、「北山(ほくざん)門下十哲」の一人に数えられるまでになった。北山のもとを去り、 江戸を離れた星巌は、関東から静岡の各地を歩き、その土地の詩人たちと交遊を深めながら、名所・旧跡を訪ねて詩作した。これが星巌、最初の吟遊旅行といわれる。

28歳になった星巌は郷里へ帰ってきた。郷里では「梨花村草舎(りかそんそうしゃ)」を開き、村の子供に漢字を教えたり、子弟の教育にうちこんだ。子弟の中に、熱心に先生の顔を見詰めている、可憐で利発な美しい少女がいた。再従妹(またいとこ)になる紅蘭(こうらん)である。星巌は結婚した。星巌32歳。紅蘭17歳であった。

星巌は紅蘭とともに5年間も貧乏旅行を続け、暫く44歳にして再び江戸に入り、神田お玉が池に詩塾「玉池吟社(ぎょくちぎんしゃ)」を開いた。やがて江戸詩壇の中心となっていき、横山湖山・藤井竹外・森春涛など錚々たる詩人がでて活躍した。頼山陽、江馬細香、水戸の藤田東湖や佐久間象山とも交わり、政治に対しても関心を持ち、尊王憂国の士となっていった。

尊皇憂国の気持ちが強くなり、58歳のとき京都へ移った。星巌は、表面上は、あくまでも隠棲の老詩人として、菊を作り牡丹を植え詩を作って、穏やかな余生を送っているように振る舞っていた。

しかし、京都の鴨川の辺にあった彼の住居は吉田松陰、西郷隆盛、横井小楠、橋本佐内、月照らがしばしば訪れると共に、頼三樹三郎、梅田雲浜などのアジトになり、その中心人物であった。公卿の日野南洞公とは殊に親しい交わりで、志士と公家との連絡は星巌を通じて行われた。

安政5年(1858)、井伊直弼が幕府の大老になり「日米修好条約」に調印し、これに反対する志士たちを厳しく弾圧しようとした「安政の大獄」。真っ先に指名手配を受けたが一斉逮捕の3日前、急遽コレラにかかり死んだ。人は星巌を「詩」の達人は「死」の達人でもあったと評した。

星巌は易経を愛した。ある詩のなかに「賁(ひ)」に関する作品がある。これは「山火賁」という卦であり、「かざる」という意味である。文明は進歩しても素朴から叛き離れると退廃堕落する。故に賁は「かざる」と同時に「やぶる」である。

星巌が死ぬときのこと、急を聞いて頼三樹三郎がやってきた。名医を呼ぼうというのを星巌は制して、「70歳まで生きたんだ。もういい。」そして「男子、婦女の手に死なずと言うよ。紅蘭、お前はあちらへ行っててくれ」そう言って紅蘭を別室に下がらせてから、最も心を許した若い友人・三樹三郎に抱かれ、医術の心得のあった江馬天江にも支えられて、正座して死んだという。

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萩の粗末な松下村塾から日本の近代化が始まったが、これは日本史史上奇跡的革命である。

吉田松陰が松下村塾を主宰したのは、野山獄から自宅預かりとされた僅か3年間である。しかし、この間の松陰の燃焼度は目を見張るものがある。

松陰の勉強は質量ともにものすごい。3年間で1500冊の読書。その間、45編の著述を完成させ、野山獄にて囚人を相手に始めた「講孟剳記」を皮切りに、内外の時局問題を講義している。

松陰は全国各地を遍歴し、佐久間象山始め一流の人物との交流もあり、アメリカ密航という大胆な体験もあり長州の若者達にはカリスマ教祖的存在であった。

松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れたので萩城下に知れ渡り、萩だけでなく、長州藩全体から才能ある若者達が集うようになり、やがて革命集団を形成していった。

松陰門下の四天王と言われた高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江杉蔵を始め、新政府で活躍した桂小五郎、品川弥二郎、前原一誠、総理大臣になった伊藤博文、山縣有朋もいた。

迫り来る外国勢の脅威に対する幕府や各藩の無策ぶりを弾劾する松陰の熱情は若い塾生達を奮い立たさない訳はなかった。日本を救うために「狂夫となれ」松陰は解き自ら狂夫となった。

幕府では井伊大老が日米通商条約に調印し、将軍継嗣を強引に家茂に決めた。反対派の大名や尊皇攘夷派達が一斉に動き出す。大老は弾圧にかかる。

松陰の尊王精神は絶対である。幕府の老中・間部詮勝が朝廷を厳しく取り締まろうとしていると聞き、松陰は激怒。間部要撃計画を実行しようと塾生に声をかけ要撃隊をつくり、藩には武器・弾薬の提供を願い出た。藩が驚いたのは言うまでもない。

藩にとって松陰は危険なものとされ、松下村塾も閉鎖に追い込まれる。松陰は再度、野山獄に入れられた。その後、ついに幕府から松陰を江戸に送るようにとの命令が届く。その理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜(小浜藩士・京で活躍した尊皇攘夷の志士)が萩で松陰に会った事を話したためである。

江戸の評定所は松陰の主張を受け入れた。しかし、松陰は幕府に自分の意見を言う絶好の機会だと捉え、「間部老中・要撃計画」をも告白してしまう。人間を絶対的に信用し、国家のための誠心誠意の思いは必ず届くはずだと信じた松陰の告白であった。世間はそんなに甘くは無い。幕府評定所の役人は予想もしなかった老中暗殺計画に驚愕した。

この時、松陰の命運は決まった。衰退した幕府の再建を目論む井伊大老は反対するものことごとく抹殺する考えであった。

「今、我れ岸獄に投じ、諸友は半ば難に及ぶ。松下陋村なりといえども、誓って神国の幹たらん。」
松陰が若者達の行動に火をつけたのは、自ら命を投げ出して範を示したからである。

江戸、伝馬町の獄にて処刑される前日の松陰は門下生のため「留魂録」を書き上げた。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置し(とどめおかまし) 大和魂」

革命を表すのは「沢火革(たくかかく)の卦」革命、革新、変革の革であり、古いものを変えて新しいものを創り出す過程である。

松陰の幕府への告白は考えられないほど甘い。これは、脱藩の時も密航失敗の時も助けられた経験から、至誠を尽くせば必ず天が味方すると信じていたためだ。しかし、松陰の死は何百倍の力となって長州の若者たちを立ち上がらせた。

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