さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

その他の幕末編

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封建制の日本から近代日本として世界への飛躍を遂げたのが幕末から明治です。

現代の日本の始まりはここにあり、この激動期こそあらゆる人間ドラマが渦巻く桧舞台です。

この人間ドラマを易学的にはどう見るかを試みました。(猶興)
 
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アメリカ密航に失敗して、萩の野山獄に収監された松蔭の復活劇はここから。

松蔭と言えば「松下村塾」であり、この塾から新時代の英傑が育って行ったのであるが、実はその前に、ここ野山獄に於いて、松蔭の復活劇はあった。

野山獄は獄と言っても士分の隔離所であり、殆どが犯罪者ではなく思想犯や性格破綻者的な反社会人のレッテルを貼られた者であった。囚人は12人、各房は3畳の独房になっていた。

出牢しても引き取り人がいないので事実上終身刑。最も長いのが49年、次が19年、16年と続く。皆、暗く拗ねきって口も聞かない。「人間から希望を奪うとこうなるのか」松蔭は思った。

松蔭は入獄以来、兄から差し入れて貰った本で読書と執筆に没頭するので一日があっという間に過ぎる。3月程経った時、ふと他の囚人たちが気になってきた。

松蔭は元々、藩の教育係りでもあり、教育によって日本を変えることこそ自分の使命と信じていた。そこで、囚人たちを観察し声をかけて見た。ところが、囚人たちは口を閉ざしたままである。

しかし松陰はあきらめない。始めは、口を閉ざしていた囚人たちが次第に松蔭に興味を示すようになって来る。囚人たちのそれぞれ得意な物を引き出すことに成功すると雰囲気が変わって来た。拗ねきった囚人達の間に学習の気運を引き出したのである。松蔭の誠心誠意が囚人の心を動かした。

いかに拗ね者でも人一倍の烈しい感情があればこそ反って世に入れられなかった者達である。講義の合間に聞く松蔭の憂国の熱情が届かない筈はない。(後に松下村塾の助教授となる富永有隣はこの時の囚人であった。有隣は俳句を得意としていた。)

やがて、獄卒も巻き込んでの野山学校となって行った。松下村塾で引き継がれた孟子の講義「講孟剳記」は野山獄で始まったのである。

復活は易学では「地雷復」の卦。陰ばかりであった所に始めて陽が芽を出すのです。一陽来復の言葉もここから来ました。

吉田松蔭の真骨頂はこの野山獄にこそある。徒手空拳、何も無い松陰ではあったが、志だけは揺るぎ無い確固としたものであった。挫折からの復活には、場所や環境は関係ないことを証明する。

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迫り来る西洋列強から日本を守る為、「相手を知る」ために密航を決意した松陰。

松陰は師の佐久間象山より西洋列強の桁違いの機械文明の発展ぶりを聞かされた。そして松陰は是非とも自分の目で西洋を見たいと思いつめる。

江戸での遊学中、嘉永6年(1853)6月、ついにペリー提督率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が浦賀に来航する。象山とともに浦賀に出かけ黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受ける。

象山は言った。「今から外国の艦船を買っていても追いつかない。優秀な若者を西洋に出し造船を学ばせ,艦船を国産しなければいけない。」松陰は思った。「幕府の国防に対する考えは甘い。このままでは、日本は危ない。一刻も早く西洋先進国を知るため海外渡航しなければ。」

「先生、私は密航しようと決めました。」松陰は象山に打ち明けた。「何、貴様、国法を犯す気か。」松陰の決意は固い。象山は何も言わない。

ペリーが去ってから一ヶ月後、今度はプチャーチン率いるロシア艦隊四隻が長崎に入港した。松陰はロシア船に乗り込むつもりで長崎に向かったが、着いたときには艦隊は出航した後だった。松陰はそれでもあきらめない。

嘉永7年(1854)1月、ペリーが旗艦ポーハタン号で再来航、松陰は再び密航を企てる。(この時、長州藩足軽の金子重之助が従った。)横浜沖に停泊した旗艦ポーハタン号に乗ろうとしたが、出航して下田へ去った。松陰と重之助は急ぎ下田に走った。

下田の海岸から夜間、小舟をこぎ寄せた。旗艦ポーハタン号上で、主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談し、必死にアメリカ渡航の希望を訴える。戻されたら死ぬしかないのだ。

しかし、アメリカと日本は条約を結んだばかりで、お互いの法律を守る義務があり、ペリー側は、松陰たちの必死の頼みにも渡航を拒絶せざるをえない。松陰の密航計画はまたしても失敗した。松陰と重之助は自首し、江戸伝馬町の牢屋に入れられる。松陰の手荷物から象山からの手紙(計画を励ます内容)が見つかったので象山も逮捕された。

前代未聞の国法を犯し死罪の筈であったが、老中・阿部正弘が象山とその弟子の才を惜しんでそれぞれの藩へ預けて謹慎処分とする。松陰と重之助は萩に送還され、松陰は士分が入れられる野山獄、重之助は岩倉獄へと投獄される(その後、重之助は劣悪な環境の獄中で25歳という若さで病死)松陰は重之助の死を深く嘆き悲しんだ。

野山獄の松陰は、兄から届けられた膨大な量の本に埋まる様に読書に専念する毎日を送る。

「沢水困」の卦。何をやってもうまくいかない。誰からも理解を得られない。臥薪嘗胆の時である。君子はそんな時も志操を貫くのである。

日本の危機を感じても何一つ出来ることがない。脱藩し士籍も失った。密航に失敗し自由をも失った。幽閉の身と成った松陰に残されたものが果たして何かあるのだろうか。

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多数の門下生を輩出し明治維新の実現に大きく貢献した「松下村塾」の指導者・吉田松陰(1830〜1859)

松陰は長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として萩の松本村に生まれた。父・百合之助は武士とはいえ、農業中心の貧しい暮らしであった。松陰には兄と弟、四人の妹がいたが、父は農作業に幼い兄と松陰を連れて行き、農作業をしながら武士としての心得や、尊王の精神を教えた。

松陰には、他家に養子に行き家督を継いでいた吉田大助と玉木文之進という二人の叔父がいた。吉田家は、長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)の家柄であったが、大助に跡継ぎがなく、松陰は幼くして吉田家へ養子に入ることとなる。

ところが、まもなく吉田大助が急死してしまった為、松陰は6歳にして吉田家の家督を継ぎ、藩校・明倫館の兵学師範になる宿命を背負う。そこで、松陰の教育にあたったのが、山鹿流免許皆伝であった玉木文之進であった。

文之進が自宅で開いた塾が「松下村塾」である。松陰の教育は、主にこの文之進という叔父によってなされたが、甘えや妥協を許さない、極めて厳格なものだったという。書物を粗末にしたと縁側から突き落とされたり、よそ見をしたと鉄拳が飛んだりした。

玉木文之進の厳しい薫陶を受け、松陰は成長した。松陰が11歳になったとき、文之進を後見人として藩主・毛利敬親の前で御前講義をすることになった。松陰は山鹿流『武教全書』戦法篇を朗々と講じた。その講義は藩主をはじめ居並ぶ重臣たちも目を見張るほどのものであったという。その日から「松本村に天才あり」と松陰(当時:大次郎)の名は萩城下に知れ渡った。

その後、松陰は19歳で、文之進の後見人を離れ、藩校・明倫館の独立師範(兵学教授)に就任する。21歳の時、見聞を広めるために、藩に九州遊学の希望を申し出、10ヶ月の遊学許可が下りることになった。平戸、長崎、熊本と旅を続け、山鹿万助、葉山佐内、宮部鼎蔵(ていぞう)など様々な人物に会い見識を深めていった。(宮部は、松陰より10歳以上年上であったが、生涯の親友となった。後に勤皇の大物志士として京都で活躍したが、池田屋事件で新撰組に急襲され自刃した。)

嘉永4年、22歳の松蔭は参勤交代に同行して江戸にも遊学。同年12月には、宮部鼎蔵らと「水戸学」や「海防」などの勉強を目的とした東北の旅を計画するが、なかなか藩からの「関所通過書」が届かない。「友との約束は破れない」という理由で、松陰は当時重罪であった脱藩を実行する。

脱藩した松陰らは、水戸(茨城)、会津(福島)、弘前(青森)などを訪れ視察。江戸に戻ったが、脱藩の罪で萩に送還され藩士の身分を失い、父・百合之助の保護下におかれることとなった。しかし、松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出る。そして、2度目の江戸遊学、佐久間象山に師事し、象山の唱える「和魂洋才」に共感、西洋列強よりの危機、日本の防備に目を向け始めた。

玉木文之進の厳しい薫陶を受け成長した吉田松陰。「山水蒙」の卦。啓蒙、教育の卦である。少年教育の究極は鍛錬陶冶にある。理想像、模範、型を示して、良くしつけるがよい。

松蔭の脱藩は純真ではあるが、世間知らず、藩主への甘えとも言える。
それを許したところが、藩主・毛利敬親の特徴でもある。そんな藩が維新を興した。

佐久間象山については⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/27337839.html
藩主・毛利敬親については⇒http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/34927848.html

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「長岡の生んだ名将・河井継之助」か、「長岡を焼いた愚将・河井継之助」か。

松山藩の山田方谷に感銘を受けた継之助ははっきりと自分の生きるべき道を確信した。「民とともに栄える藩」をつくること。藩に戻ると見違えたように仕事に邁進した。郡奉行からどんどん出世し、その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施し、藩主の信任を得て重役にあたる家老となる。

なかでも越後長岡藩の慶応改革といわれたのは藩士の知行を平均化したことである。100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知した。不満を唱えるものもあったが、全体の士気は上がった。

長岡藩は譜代大名で藩主・牧野忠訓(ただくに)は老中であった。慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。討幕派は12月に王政復古を発し、幕府を廃止する。翌慶応4年1月、鳥羽・伏見において会津・桑名を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始される。

藩主とともに大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると、藩主らを先に長岡へ帰させ急ぎ江戸へ走る。継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却。その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やすという離れ業。

同時にスネル兄弟からフランス製の最新兵器ガトリング砲や2000挺の銃を購入し、海路長岡へ帰還した。(ガトリング砲とは当時の機関銃であり、日本に3台しかないものを継之助は2台手に入れた。)

薩長の強引な行動を覇道であると非難した。長岡藩はもともと朝敵どころか尊王藩である。会津や他の東北列藩も同じだ。継之助は一藩武装中立を決意した。中立藩として新政府軍との談判へ臨み、東北列藩と新政府軍の調停を申し出ることとした。

小千谷会談の決裂と北越戦争。

「戦争は絶対しない」と決意し5月2日、継之助は小千谷の新政府軍本陣に乗り込んだ。慈眼寺において新政府軍監である土佐の岩村精一郎と会談、継之助は訴えた。「我が藩は尊王愛国。新政府に協力する意思であり、決して新政府に叛くものでは断じてない。」「「奥羽への侵攻は停止して貰いたい。」「さすれば、我等が説得し全ての藩に新政府への協力を誓わせる。」

「話せば解かる。」と信じた継之助であったが、23歳の岩村には通じなかった。長州の山縣狂介(有朋)か薩摩の黒田了介(清隆)を交渉相手に望んでいたが、若輩である岩村が出てきたことが計算外だった。継之助の交渉相手としては岩村の器は小さすぎた。降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけであった。

交渉はわずか30分で決裂。岩村は席を立った。継之助は叫ぶ「お待ち下さい。嘆願書だけでも総督府に取り次いで下さい。」継之助は岩村の宿舎の外で夜通し待った。しかし、無駄だった。最後の手段しか残されなかった。

これにより長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、当初新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし、圧倒的な兵力の前に長岡城は奪われる。継之助の奇襲で城を奪還したが、不運にもその時、継之助は流れ弾により重傷を負う。

戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる長岡戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていく。兵士らは継之助を会津へ移送し再起を図ろうとしたが、会津藩領只見村にて最期が近づきつつあった。

継之助は生涯の同志・花輪馨之進に対し今後は庄内藩と行動を共にすべきこと、藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命を託す。また勇敢に戦った若い外山修造には「藩士に取り上げる心算でいたが、これからは武士という身分はなくなる。お前は商人になれ。」そう言い残して息をひきとった。(修造は後に関西財界の指導者として活躍した。)

「天水訟」の卦。誠実な心を抱きながらも、妨害されてやむをえず争う状態。大河を渡るような危険を犯そうとすれば、深みにはまってしまう。

「薩長は道義を失っている。」継之助は言った。「道義を忘れた政治ば王道ではない。」
継之助は同じ歳である西郷には遭うことが無かった。「敬天愛人」の西郷に遭っておれば日本は別の歴史を創ったことだろう。

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非業に倒れた上杉謙信以来の越後の英傑・河井継之助(1827〜1868)

継之助の父・秋紀は新潟奉行も務めたが家老になる身分ではない。僧・良寛とも親交があったという。
継之助の幼少時代は気性が激しく腕白者で、剣術や馬術を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わず、ついには師匠から始末に終えないと厄介払いされる。

しかし、藩校の崇徳館で儒学を学び始めたところ、師の高野松陰の影響で陽明学に傾倒した。中国(宋・明時代)の儒学者の語録や奏議書の本をよく写本した。

継之助には天性のカリスマ性がありリーダーシップがあった。その後の北越戦争にも一致協力した小山良運(藩医)、花輪馨之進(のち奉行本役)、三間市之進(奉行役加判)、三島億二郎(長岡藩知事)、小林虎三郎(米百表で有名な教育家)といった同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせ、意気を通わせた。この継之助を中心とするグループは「桶党」(水を漏らさぬほど結束力が固いという意)と呼ばれた。

嘉永5年(1852)、継之助は江戸に遊学する。江戸にはすでに三島や小林らが佐久間象山の許に遊学していた。継之助はまず、三島を仲介に古賀謹一郎(茶渓)の久敬舎の門をくぐった。茶渓は時務に通じ見識に富み大儒ではあるが新兵器、船舶、貿易を緊急国策と提唱していた。

継之助はこの塾で「李忠定公集」に感動し、寝食を忘れて耽読筆写した。佐久間象山の許にも通い砲術を学んだが象山の偉さは認めたが人物としては尊敬出来ないと云った。遊学中、三島や小林らと江戸の町を見物したり酒を飲んだりと青春を謳歌することも忘れなかった。

安政6年(1859)正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。方谷が進めた藩政改革の成果を見て、深く心酔する。

方谷は藩政激務のため教授の暇なしと謝絶したが、継之助は「先生の講説を聞くのではなく、先生の事業作用を見て学びますから」と懇請し、ついに許しを得た。継之助は人豪である方谷が人に対しては居常静安で、応待処事綿密なことに感服した。

方谷の許で修養に励む間、佐賀や長崎も訪れ、知見を広める。翌年3月、恩師の門を辞するとき、方谷は多年愛読の「王文成公全集」を譲り別れを惜しんだ。継之助は対岸に直立して見送る師に対し、沙石に正座礼拝し、藩に戻っての善政による改革を心に誓った。

継之助は師・方谷に感動して教えを学んだ。「沢山咸」の卦。感動、感激、感謝を表す。弟子は師に参り、師は弟子を許すことである。

小林虎三郎は佐久間象山の門下の長州藩士の吉田寅次郎(吉田松陰)と「象門の二虎」と称せられた。
小泉純一郎元首相が施政演説で「米百俵」を引用したことで全国的に知られた。戊辰戦争の戦災によって壊滅的な打撃を受けた長岡藩の支藩であった三根山藩が窮状を察し、米百俵を寄贈した。藩士らに向けて虎三郎は、「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と教育第一主義を唱え、その米百俵を売り、その元手を学校に必要な書籍の購入にあて新校舎を坂之上町に開校した。

山田方谷についてはhttp://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/35974416.html

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