西郷や大久保が明治政府を起こした時、藩主の父・島津久光は?
明治2年、朝廷は王政復古に功績のあった者に論功行賞を与えることにした。
功績のあった西郷には正三位、賞典録二千石だった。この時、島津久光には従二位、
藩主・忠義には従三位、賞典録は二人で十万石であった。
この時、久光は激怒した。「忠義は薩摩藩主、西郷はその家来だ。いかに西郷の功が
高かろうとも、家来をして主人を超えさせるとはどういうことか。朝廷のこの論功行賞は
人倫を乱すものだ。」
西郷に対する憎悪と嫉妬はますます強くなった。西郷は結局、この論功行賞を辞退した。
明治政府が廃藩置県を計画した時、岩倉、大久保、山県有朋らが西郷を上京させるため、
久光にお願いに上がった話は前項に記したが、久光は西郷と大久保を呼んで言い渡した。
「今、政府では封建制度と郡県制度の長短を論じておるそうだが、わしは日本は
封建でなければならぬと信じている。その方ども決して迷わされてはならんぞ。」
二人とも、「かしこまりました。」と答えた。そう言うしか言葉は無い。
それから、数月後に発せられた明治天皇による詔勅「廃藩置県」の大号令。
久光の激怒は想像出来よう。「あれほど俺が申し含めて置いたのに、西郷め!
大久保は俺が下級武士から取り立ててやったのだから俺の恩は忘れはしまい。
これは西郷が計画し大久保を引きずり込んだに相違ない。」
その晩、金港湾に舟を出し、一晩中花火を打ち上げて憂さを晴らしたと言う。
久光は幼少から読書家であったが、中心は中国の歴史であり西洋は知らなかった。
版籍奉還にも反対し続け「倒幕は西郷が勝手にやった」と公言して憚らなかった。
殿様が家来の心が解からない情景は「天地否」の卦。上に有る者が下を顧みない象で交わりが無い。上下断絶、意思が通じない姿でもある。
西郷や大久保が死んだあとに、「俺はいつ将軍になれるのだ。」と言ったとか。
そんな俗説が伝わるほど、久光は生前も人気は無かったが、死後も人気は無い。
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