さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

その他の幕末編

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封建制の日本から近代日本として世界への飛躍を遂げたのが幕末から明治です。

現代の日本の始まりはここにあり、この激動期こそあらゆる人間ドラマが渦巻く桧舞台です。

この人間ドラマを易学的にはどう見るかを試みました。(猶興)
 
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西郷や大久保が明治政府を起こした時、藩主の父・島津久光は?

明治2年、朝廷は王政復古に功績のあった者に論功行賞を与えることにした。
功績のあった西郷には正三位、賞典録二千石だった。この時、島津久光には従二位、
藩主・忠義には従三位、賞典録は二人で十万石であった。

この時、久光は激怒した。「忠義は薩摩藩主、西郷はその家来だ。いかに西郷の功が
高かろうとも、家来をして主人を超えさせるとはどういうことか。朝廷のこの論功行賞は
人倫を乱すものだ。」

西郷に対する憎悪と嫉妬はますます強くなった。西郷は結局、この論功行賞を辞退した。

明治政府が廃藩置県を計画した時、岩倉、大久保、山県有朋らが西郷を上京させるため、
久光にお願いに上がった話は前項に記したが、久光は西郷と大久保を呼んで言い渡した。

「今、政府では封建制度と郡県制度の長短を論じておるそうだが、わしは日本は
封建でなければならぬと信じている。その方ども決して迷わされてはならんぞ。」

二人とも、「かしこまりました。」と答えた。そう言うしか言葉は無い。

それから、数月後に発せられた明治天皇による詔勅「廃藩置県」の大号令。

久光の激怒は想像出来よう。「あれほど俺が申し含めて置いたのに、西郷め!
大久保は俺が下級武士から取り立ててやったのだから俺の恩は忘れはしまい。
これは西郷が計画し大久保を引きずり込んだに相違ない。」

その晩、金港湾に舟を出し、一晩中花火を打ち上げて憂さを晴らしたと言う。

久光は幼少から読書家であったが、中心は中国の歴史であり西洋は知らなかった。
版籍奉還にも反対し続け「倒幕は西郷が勝手にやった」と公言して憚らなかった。
殿様が家来の心が解からない情景は「天地否」の卦。上に有る者が下を顧みない象で交わりが無い。上下断絶、意思が通じない姿でもある。
西郷や大久保が死んだあとに、「俺はいつ将軍になれるのだ。」と言ったとか。

そんな俗説が伝わるほど、久光は生前も人気は無かったが、死後も人気は無い。

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忘れられた奇兵隊の生みの親。下関の豪商・白石正一郎。

安政4年、正一郎を薩摩藩主・島津斉彬の使いで訪ねて来たのは西郷吉之助であった。余程、
気が合ったのか一昼夜に渡り話し合った。正一郎は西郷との出会いで人生が変わったという。

西郷も正一郎を「温和にして和学を好み、清直、風儀雅品にて丁寧の者と相見え申し候」
とあり、後の薩長同盟の種子はこのとき胚胎されたということができる。

正一郎は新しい時代に夢を馳せたのである。以後、中山忠光、平野國臣、真木和泉、
坂本龍馬、三条実実始めとした七卿、等、四百人以上の志士たちが正一郎を頼って来た。

さらに正一郎は52歳のとき、25歳の高杉晋作に会ってひと目でほれ込んだという。
胸の中にくすぶっていた封建社会への憤りを解消してくれる救世主に映ったのである。

「奇兵隊」の創立には全面的に参画、協力した。自らも弟・廉作も入隊、資金も調達し、
自邸を本陣として提供した。

参集した60名の隊員に「家族婦女子に至るまで、朝夕酒飯等給事し甚だ丁重」
正一郎の意気込みと負担の大きさは半端なものではない。

しかし、当の晋作が早い時期に死んでしまったので、正一郎の活動はそれで終わった。
弟・廉作も生野の義挙に加わって敗れ36歳で腹を切って死んだ。

大勢の志士で祭りのように興奮した白石邸はいつの間にか静かになった。
志士たちは利用するだけ利用し利用価値が無くなるとその存在を忘れていく。
大勢の決行というべき象としては「沢天夬(たくてんかい)」の卦。エネルギーが集まり、そして爆発した姿である。河が氾濫するようでもあり、いつまでも続くものではない。
正一郎の夢は叶ったのか。明治13年、70歳で亡くなった。

白石邸跡は現在は電力会社のオフィスになっているという。

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尊王主義と士道を貫き、腐敗を許せなかった前原一誠。

松下村塾の中で師・松陰から「才は久坂玄瑞に及ばず、識は高杉晋作に及ばざるも、
その人物の完全なるは二子も及ばず、誠実人に過ぐ。」と言われた逸材であった。

北越征討軍・総督府参謀として板垣退助とともに最も抵抗激しかった会津若松城を落し、
戊辰戦後は越後府の判事に就任した。

信濃川の氾濫に苦しむ農民のため治水工事が必要と、独断で減租し、明治政府首脳の
木戸孝允と対立した。政府の財政は切迫していたからである。

その後、暗殺された大村益次郎に替わり兵部大輔にも就任したが高官よりも民衆に
善政を布くことを望んだ。近代化よりも士道を重んじたかった。

政府の中枢は悪の論理も必要だが、一誠は利権に貪欲な他の高官たちが許せなかったし
欧米に追従したがる政府とも対立し、辞職した。

明治3年(1870)萩へ帰った4ヵ月後に暗殺未遂事件に遭う。犯人は解からなかったが、
一誠は黒幕は木戸と思い込み怨念を抱いた。6年後の乱はこの事件が引き金と考えられる。

一誠のまわりには県下の困窮した士族、国粋主義者、征韓論者などが続々と集まってきた。
一誠は秩禄処分によって常職を奪い困窮して反抗すれば武力で弾圧する政府の仕打ちに
憤りを感じていた。「そもそも100万の士族になんの罪やあらん。政府この心をもって
士族を制御せば必ず天下の大乱を醸さん」

明治9年の廃刀令に反発し熊本の「神風連の乱」、福岡の「秋月の乱」に続いて、
ついに一誠は500人の旧藩士により担がれ決起した。「萩の乱」である。

3日後には制圧され、即日斬首。老父・彦七も自裁。さらに幼い吉田松陰を厳しく教育した
叔父・玉木文之進も「萩の正気すでに尽きたり」といって先祖の墓前にて割腹自殺した。
前項の旭日昇天、朝日が昇る象である「火地晋」と反対に日が沈んでいく象を表す卦は「地火明夷」の卦。この卦は暗黒なる世の中に処する道を説くのである。「明夷は艱貞に利し」とあり、信念を守って耐え忍ぶのが宜しい。
一誠の体質が古く近代化路線についていけなかったのも事実である。

大西郷にして同じ轍を踏むのであるから、悔いが無かったことを祈りたい。

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貧農から総理大臣まで出世した男、豊臣秀吉を連想させる伊藤博文。

作男から足軽の養子、藩の人材登用により士分、維新政府では外国事務掛りから、
最高の参与、45歳で日本初の初代総理大臣、公爵となり位人臣をきわめた。

松下村塾の松陰が16歳の博文を見て「なかなかの周旋家になりそう」
と言った通り、政治的才能に恵まれ、時代の先を読む能力にも優れていた。

博文22歳の時、井上馨がイギリス留学目的で藩から金を引き出すことに成功すると、
頼み込んで5人の中に入れて貰う。貧乏故、持ち物は英和辞書一冊と寝巻きだけだった。

130日かかってロンドンに着いた。汽車や黒鉛を吐く工場、高層ビルを見て
たちまち攘夷論を捨てた。英語を学び、海軍の施設、博物館なども見学した。

その頃、長州では朝廷から命を受け攘夷のため外国艦船無差別攻撃を実行して
米仏から反撃を受ける下関事変が起こっていた。

さらに英国では英、米、仏、蘭の四国連合艦隊による長州攻撃が議会にて
論議されていたので、5人は驚き、馨、博文の二人は戦争回避のため急遽帰国する。

横浜にて英公使オールコックにあったが既に出動は決まっていた。八方手を尽くしたが
ついに四国連合艦隊は砲撃、3日間で長州は完全に敗北した。馬関戦争である。

艦隊側は賠償金として薩英戦争のときの30倍である300万ドルを要求して来た。
完全に毛利藩が破産する額である。藩は窮地に立ったがこのとき博文は巧みな妥協案を
通訳官アーネスト・サトウに示した。

朝廷と将軍が毛利藩あてに発行した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに見せて
責任の所在は幕府にあるから賠償金は幕府から取り立ててくれと言ったのである。

長州よりも幕府と交渉したかった英国は渡りに舟の話であり長州からは手を引いた。
博文の持ち味は頭の回転の速さと底抜けの明るさであり、説得力は抜群であった。
出世街道をまっしぐらに進むというのは、易学でいうと「火地晋」の卦が相応しい。太陽が地上に輝き始めたさま、旭日昇天である。働けば働くほど周囲に認められ、大いに報われるのである。君子は自己の明徳を大いに発揮するときである。
太閤秀吉は「人たらし」と言われる程よく人を操縦し、同時に女もよくたらした。

博文も秀吉に負けず、好色でも有名である。そのことは続編をお楽しみに。

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高杉晋作死後の長州を率いたリーダーは桂小五郎(木戸孝允)である。

小五郎は松下村塾の高弟と見られているが小五郎が松陰の教えを受けたのは、
明倫館時代であり松陰20歳、小五郎17歳の時でだった。

その後小五郎は江戸の斉藤弥九郎の「錬兵館」に入門する。
小五郎を見込んだ斉藤弥九郎は武芸だけでなく江川太郎左衛門らを紹介し
測量、砲術、西洋軍艦の建造などを学ばせた。

アメリカ密航前の松陰にも再会して海防の急務と軍艦の必要を説かれ共鳴した。
しかし、松下村塾で「狂夫」を叫ぶ松陰からは「臆病者」と叱責されている。

小五郎の特徴は冷静、慎重、合理主義である。池田屋騒動でも禁門の変でも
死地を避けた。後に結婚する京の芸子である幾松にも救われ、但馬出石に
一時、身を隠し、「逃げの小五郎」と言われている。

しかし、小五郎の真価は狂夫・高杉晋作が長州を倒幕勢力に纏めて志半ばに、
病死してからである。

坂本龍馬の仲介でそれまで犬猿の仲であった薩摩藩の西郷隆盛と互角の交渉をし
薩長同盟を結び、倒幕、新政府建設に重要な役割を荷い西郷、大久保利通と並んで
維新の三傑と言われる。

新政府では岩倉使節団の副使として米欧を回覧し見聞を広めた。何よりも
急務と感じたのは教育制度であり、帰国後は学校の建設、産業の振興、
兵制制度の改革に力を注ぎ、中央集権国家建設に多大な貢献を残した。

明治10年、病床にて同盟以来の盟友、西郷が西南戦争を起こすと胸を痛め、
「西郷、もうたいていにせんか」が最後の言葉となった。行年45歳。
革命は建設が伴って初めて成就する。革命の後、建設に向かうことは「火風鼎」の卦。鼎は古来、国家権威の象徴であった。心霊に捧げる供物を煮る祭器であり、新たな人材を集め、新国家建設を意味している。
小五郎は錬兵館では塾頭であり腕には自信があったが一度も刀を抜いたことが無い。

「刀は抜かない」は新時代を築こうとした小五郎の信念であった。

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