松下村塾で久坂玄瑞と並び双璧と言われた高杉晋作こそ松陰が求めた「狂夫」であった。
晋作は勤勉な藩士であった父には似ず、生まれつき気性の激しい子であった。
藩校、明倫館では飽き足らず久坂玄瑞に誘われ吉田松陰の松下村塾に入門。
師の松陰が安政の大獄で刑死したのは晋作21歳。それから8年間、180度回転する程の
時代を晋作は激動の真っ只中に身を置いて獅子奮迅、29歳の生涯を終えることになる。
安政の大獄に反発した水戸浪士により井伊大老は暗殺。公武合体のため和宮降嫁。
寺田屋騒動、生麦事件、薩英戦争、三条実美らの七卿落ち、池田屋の変、禁門の変と続く。
こんな時代の中で晋作は佐久間象山、横井小楠、会沢正志斎らの当代一流の学者たちに
直接会って学識を深めた。また、幕府の使節団に随行して上海を見聞する機会も得た。
清国が英仏人の植民地である実情には大きなショックを得、欧米の軍事力を知らされた。
禁門の変では久坂玄瑞ら松陰門下の同志らも次々命を落した。
尊王攘夷の長州は幕府軍と連合艦隊の襲撃を受け、保守派と倒幕派に別れ大混乱、
晋作も野山獄に投獄されたり、逃亡し福岡の野村望東尼の所へ身を隠したりの綱渡りである。
しかし、長州が幕府に降伏したことを知り、26歳の晋作は乾坤一滴、捨て身の勝負に出る。
「狂夫」となった晋作は豪商・白石正一郎をスポンサーに下関の功山寺にかねて晋作が結集した
武士も農民もないまったく新しい武力集団「寄兵隊」を中心にクーデターを起した。
集結した3千の兵で保守派を圧倒し、長州を倒幕派に統一した。
長州軍はさらに10万の幕府軍をも打ち破った。慶応元年(1865)4月である。
翌年、薩長同盟、将軍家茂死去、孝明天皇死去、時代の流れは大きく変わり、
松陰の唱えた新時代が目の前に見えてきた時、晋作は結核により亡き師のもとに逝くことになる。
松蔭が革命を唱え、晋作が革命を断行した。「沢火革」の卦には「命を革め天に順ひて人に応ず。革の時は大なるかな」とある。上は天の理法に順応し、下は人民の心に適応する。大いなる改革を行うには時の宜しきに叶わなければならぬ。
死の床で晋作は辞世として「おもしろき こともなき世を おもしろく」と書いて力が尽きた。
「住みなすものは 心なりけり」と書き加えたのは晋作を終生ささえた歌人・野村望東尼である。
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