さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

その他の幕末編

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封建制の日本から近代日本として世界への飛躍を遂げたのが幕末から明治です。

現代の日本の始まりはここにあり、この激動期こそあらゆる人間ドラマが渦巻く桧舞台です。

この人間ドラマを易学的にはどう見るかを試みました。(猶興)
 
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(長州藩)革命児。

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松下村塾で久坂玄瑞と並び双璧と言われた高杉晋作こそ松陰が求めた「狂夫」であった。

晋作は勤勉な藩士であった父には似ず、生まれつき気性の激しい子であった。
藩校、明倫館では飽き足らず久坂玄瑞に誘われ吉田松陰の松下村塾に入門。

師の松陰が安政の大獄で刑死したのは晋作21歳。それから8年間、180度回転する程の
時代を晋作は激動の真っ只中に身を置いて獅子奮迅、29歳の生涯を終えることになる。

安政の大獄に反発した水戸浪士により井伊大老は暗殺。公武合体のため和宮降嫁。
寺田屋騒動、生麦事件、薩英戦争、三条実美らの七卿落ち、池田屋の変、禁門の変と続く。

こんな時代の中で晋作は佐久間象山、横井小楠、会沢正志斎らの当代一流の学者たちに
直接会って学識を深めた。また、幕府の使節団に随行して上海を見聞する機会も得た。
清国が英仏人の植民地である実情には大きなショックを得、欧米の軍事力を知らされた。

禁門の変では久坂玄瑞ら松陰門下の同志らも次々命を落した。
尊王攘夷の長州は幕府軍と連合艦隊の襲撃を受け、保守派と倒幕派に別れ大混乱、
晋作も野山獄に投獄されたり、逃亡し福岡の野村望東尼の所へ身を隠したりの綱渡りである。

しかし、長州が幕府に降伏したことを知り、26歳の晋作は乾坤一滴、捨て身の勝負に出る。
「狂夫」となった晋作は豪商・白石正一郎をスポンサーに下関の功山寺にかねて晋作が結集した
武士も農民もないまったく新しい武力集団「寄兵隊」を中心にクーデターを起した。

集結した3千の兵で保守派を圧倒し、長州を倒幕派に統一した。
長州軍はさらに10万の幕府軍をも打ち破った。慶応元年(1865)4月である。

翌年、薩長同盟、将軍家茂死去、孝明天皇死去、時代の流れは大きく変わり、
松陰の唱えた新時代が目の前に見えてきた時、晋作は結核により亡き師のもとに逝くことになる。
松蔭が革命を唱え、晋作が革命を断行した。「沢火革」の卦には「命を革め天に順ひて人に応ず。革の時は大なるかな」とある。上は天の理法に順応し、下は人民の心に適応する。大いなる改革を行うには時の宜しきに叶わなければならぬ。
死の床で晋作は辞世として「おもしろき こともなき世を おもしろく」と書いて力が尽きた。

「住みなすものは 心なりけり」と書き加えたのは晋作を終生ささえた歌人・野村望東尼である。

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公武一和を重んじた帝は新時代の波を受け入れることが出来なかった。

孝明天皇が即位したのは、ペリー艦隊来航の7年前、弘化3年(1846)である。
死去の慶応2年(1866)までの21年間は内憂外患、幕末の激動期であった。

ペリー後の日本は外圧にどう対処するか、開国か攘夷かが一大問題であったが、
根っからの外国人嫌いである孝明天皇は一貫して頑なな攘夷論者で通した。

しかし、軍艦を東京湾へ横付けされ、開港を迫られた幕府は防衛力から言っても、
開港しない訳にはいかない。朝廷との板ばさみに悩んだ末、井伊大老は朝廷には
事後承諾という形で、通商条約の調印に踏み切った。

それでも天皇は「速やかに良策を講じて鎖国の制に復すべし」あくまでも攘夷に拘る。
御所の外にはめったに出たこともない天皇には国際情勢など知る事は不可能だった。
それでも天皇は政治はあくまで幕府に委任する姿勢は変えるつもりはない。

井伊大老が尊皇攘夷のテロに暗殺されると、幕府は朝廷を味方につける為
将軍の御台所に天皇の妹・和宮を迎えたいと申し出る。

天皇も和宮も大反対であったが、侍従の岩倉具視が攘夷を条件にするというので承諾した。
和宮を降嫁させた天皇は義弟・将軍家茂を上洛させ、賀茂神社に参拝させ攘夷を誓わせる。

攘夷は次第に朝廷をかついで倒幕を果たそうとする尊攘派の大義名分となってきた。
いよいよ幕府の支配力にかげりが出、王政復古が現実味を帯びてくると、倒幕の勢力に
とって幕府寄りの天皇は障害である。

薩長が同盟、幕府が大政奉還をし、倒幕の勢力が台頭結集した時、あたかも彼らの念願が
通じたかのように天皇は36歳の若さで崩御した。死因は病死説と毒殺説がある。
どこまでも自分の信念を変えない姿勢。艮為山(ごんいさん)の卦。動くことの無い山を表す。沈思黙考して軽挙妄動を慎む象であるが、頑固、頑迷であってはならない。
激動の時代に気の休まる時は無かったであろう。

最愛の妹・和宮とともに時代の犠牲となった生涯である。

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幕府の権威回復ならず、長州征討の途上陣没した若き名将軍・徳川家茂。

ペリー来航以来の幕府は、条約締結問題と病弱な13代将軍・徳川家定の後継を
誰にするかで家茂(いえもち)を推す紀伊派と慶喜を推す一橋派に分かれて対立していた。

一橋派の陣容は老中・安部正弘、島津斉彬、松平慶永、伊達宗城、山内容堂らの
有力外様大名が主力である。

一方、紀伊派は幕府内部、家定の母・本寿院や大奥、朝廷の伝統を重んじる保守派が中心である。

一旦は、慶喜優位に立ったが大老に就任した井伊直弼が急死した家定の遺言ということにして
強引に12歳の家茂に決定し、反対派を弾圧した。安政の大獄である。

さらに大老は勅許を受けずに日米修好条約を締結し、朝廷と尊皇攘夷派の反発を買った。
あまりの強権ぶりに家茂就任後1年5ヶ月で大老は桜田門外で暗殺されることになる。

幕府は挙国一致で難局を乗り切るため、公武合体政権を作ろうと孝明天皇の妹・和宮を
家茂の御台所に迎えることにし、紆余曲折の末実現した。共に17歳だった。

激動の波の中で、歴代将軍中、最も仲睦まじき夫婦だったと言われる。
しかし、将軍に席の暖まる暇はなかった。上洛は3度、長州征討も2度あった。

その間、勝海舟に海軍の重要性を聞くや、即座に理解して神戸海軍操練所を
設置するよう命じるなど、温和でいながら、責任感も実行力もあったという。
歴代の将軍の中で戦場で死去した将軍は家茂だけである。わずか21歳の若さだった。
易学では「乾為天」の卦に初九「潜龍、用うるなかれ」とある。名君の器であれども、未だ成長段階にあるものは登用してはいけない。しっかりと徳を養い、人脈をつくり、体験を積んで勉強し、将来の飛躍に備えるべきである。
大阪で死んだ家茂の遺品の中に和宮への土産、西陣織一巻があった。

「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」

21歳で未亡人になった和宮の哀悼の和歌である。

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王政復古に賭けた公家、岩倉具視は貧困と挫折から這い上がった権謀術数の策士。

具視は秀才ではあったが下級公家出身の悲しさ、頭角を現すのは容易ではなかった。
時の太閤・鷹司政通の歌道の弟子になり、ようやく侍従になれたのは30歳。

幕府が勅許を得ぬまま日米修好通商条約を結び、対立した朝廷と幕府を修復するため、
公武合体論が興り皇女和宮を将軍家茂に降嫁させる話が持ち上がった。
具視は皇権回復のため、幕府に攘夷することを条件に孝明天皇を説得して実現させた。

しかし、その降嫁は具視には裏目に出た。攘夷には進まず、公武合体派は後退する。
尊攘の急進派が進出し、具視は和宮を幕府に売り渡した奸物とされ宮廷を追放された。

京都の尊王攘夷の志士たちからは命を狙われ、転々と逃げ延びねばならなくなった。
潜伏のくらしは5年間も続く。しかし、具視はあきらめなかった。

気脈を通じた公家仲間や薩摩藩士と情報交換しチャンスを待つ。
そこに歌人・松尾多勢子がやってきた。尊攘の志士達に勤皇の母と慕われた多勢子は
具視の正体を見た。そして志士達に暗殺リストから外し味方に加えるよう助言した。

慶応2年、薩長連合、将軍家茂が死去し慶喜に。さらに公武合体論者の孝明天皇が急死した。
薩長や反幕公家勢力がにわかに活気づいた。14歳の明治天皇を擁して、倒幕の計画を練ったが
朝廷内にずば抜けた実力者が欲しかった。そんな舞台には稀代の策士、具視が相応しかった。

慶応3年、3月具視は5年ぶりに洛中の土を踏む。
復帰後の具視の活躍は目を見張るものであり、12月の王政復古の大号令となった。
明治新政府でもクーデター立役者として最高の地位を得て、元勲と仰がれるに至る。

暗殺リストに名を載せられるほど敵視されるのは「火沢睽(かたくけい)」の卦。火沢睽は家庭の不和、意見の対立、矛盾相克を表す。しかし、多くの場合相手を理解していないことが原因となる。理解し合うと実は最大の味方であることがある。

松尾多勢子は信州の田舎にいたが、和宮が降嫁するのを近くで見て尊王の志を堅めた。

その首謀者である具視を助けるとは不思議な運命の悪戯である。

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京都御所のなかにある小御所に於いて、慶応3年(1867)12月9日、厳重な警備の中、歴史を動かす会議が行われた。世にいう「小御所会議」である。

前年、坂本龍馬の仲介で薩長同盟が成立し、反幕府の勢力が力を増してきた。
将軍・家茂が死去し、慶喜が就任、慶喜は倒幕の動きを牽制するため「大政奉還」を
朝廷に提出した。これは政務の経験も自信もない朝廷は改めて政務を徳川に委任する
と見込んだからだ。

しかし、千載一遇のチャンスとみた薩摩の西郷隆盛、大久保利通らは岩倉具視らの
王政復古論の公卿達と綿密なクーデター計画を練り上げた。

有力大名である土佐・山内容堂、福井・松平春嶽、宇和島・伊達宗城等を招き、
3000人の兵で御所を完全封鎖した。小御所にて前年死去した孝明天皇に替わり
即位したばかりの15歳の明治天皇が見守る御前会議である。

「この会議に徳川慶喜公が列席しないのはどういう訳か。」容堂らの迫力ある発言で
会議は長引いた。休憩時間に岩倉は西郷から短刀を見せられ「いざとなれば、これ一本
で片付きもす」と言われた。

勢いを得た岩倉は「このような暴挙を企てたのは幼沖の天子を擁して権柄を盗もう
とする者の仕業ではないか」と容堂が発言した言葉に「幼沖の天子とは何事か。」
と一喝した。

「聖上は不世出の栄主なるぞ。今日のことはすべて聖上の聖断であらせられるぞ。
幼沖の天子を擁してとはなんたる妄言か。」岩倉の命がけの気迫は容堂を上回った。
徳川家の将軍職剥奪、領地返上。と一気に会議をリードして王政復古の大号令を決した。

富士山のように大きい山、260年続いた徳川政権という山が動いた瞬間である。
その後の鳥羽伏見の戦いとなり歴史の流れは一気に倒幕へと傾いていく。

山が動く。時代が動く。「震為雷」の卦。雷鳴轟き渡るの象である。百里を震撼させる雷であっても、狼狽することなく祭礼をとり行うことが出来る人物こそ天子の位を継ぐに相応しいとする。

大は歴史の流れ、小は個人の人生。

ここぞという時のたった一言でその後の流れが大きく変わるものだ。

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