日本人の考え方

日本人としてのアイデンティティー

輪廻転生

輪廻転生
 
輪廻(りんね)とは、「人が何度も転生し、生まれ変わること」、そう考える思想のこと。
 
転生とは、主に仏教において用いられる思想で、「死後に別の存在として生まれ変わる」こと。


キリスト教における「復活」とは異なる概念。

転生する前の生のことを「前世」、いまを「今生」、転生後を「来世」という。

輪廻転生の意味

 

輪廻転生とは、死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくること。

人は人にしか輪廻転生しない、人は動物にも輪廻転生する、という2つの考え方がある。

輪廻転生があるとした場合


「輪廻転生の考え方」が、人の考え方に変化を起こさせるポイント

「すべての人生は自分が決めている」

「今世の出来事は過去世の結果」


「来世は今世の思考と行動で決まる」

「すべての出来事は必然、最善」


「人にされることは、自分がしてきたこと」

「他人のせいにしてはいけない」


「自分の思考と行動がカルマをつくる」

「試練は過去の業をはらすためのもの」


「自分の人生は変えることができる」


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因果応報

因果応報

 因果応報の法則があるというのなら、ひどい仕打ちをした人が、自分だけ幸せになり、なんの咎めも受けずに暮らしているのは、おかしいです。

非の打ち所のない人が、障害者であったり、事故等に巻き込まれた時、
「それも因果応報、前世の行いが悪いからです」となるのでしょうか。


障害者は、前世では極悪人なのでしょうか。

現世でいくら反省しても、過ちを一度行ったが最後、来世の報いがあるのなら、来世があるのはあまりにも恐ろしいです。

 

これは、「前世」や「輪廻転生」を知り、
因果応報の法則を知った人が持つ最初の疑問です。

本当に因果応報があるのなら、「悪事をして栄えている人は何なのか」という疑問があります。

因果というのは、結果が出たり、報いが来るのに機が熟さないといけません。


その機は、生まれ変わりの節目であり、「この世」と「あの世」の移行期です。


死後にいわゆる「暗闇の世界」であがない、
残り分は「来世」「来々世」でもあがないます。

もうひとつは、一生の中でも「厄年」や「ライフサイクル」というのがあります。


「厄年やライフサイクルの節目」というのは、因果の帳尻があう天機なのです。


厄年で大病を患ったり、試練に会って苦しむのがこれです。


逆に、厄年から大開運する人もいます。


これまで苦労を重ねた人などにみられます(一生に数回あります)。

次に、因果応報で苦しむ人を見たら、「あなたが悪いので当然の報いだ」と冷淡になるのはいけません。

もし、こんなふうに不運不幸で苦しむ人を見下す人物がいたら、
その人は因果の法則が何もわかっていない人です。


自分が他人を見下すなら、差別するなら、今度は自分にそのような立場が必ず巡ってくるのが「因果の法則」なのです。

「いかなる人にも、慈悲の心を忘れてはいけない」ということです。


不運に苦しむ人や、健康問題やその他の不幸で困っている人がいたら、マザー・テレサのように、「人の中に神を見、自分なりにその神に奉仕する心」で、愛を実践するのが正道です。

因果応報にはプラスの側面もあります。


むしろ、こちらの方が重要です。


愛を実践し、他者を幸せにする生き方をしている人には、その積んだ善徳が「幸福」や「幸運」になって返ってきます。

今生の内にも機が熟せば返ってきますし、残りは「来世の幸福」として貯金されます。


万一、今生でその努力が報われなくても、必ず来世で返ってきます。


つまり、「死の直前まで努力する意味がある」ということです。


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カルマ(業)

カルマ()
 
人は、この世に生まれ出たそれぞれの生で、種々様々な行為を為す。


その行為の結果として、現在の自分がある。

 

人の知性の高低は、過去生で、また現世で、学びにおいて各人が努力したことの結果が、カルマとして厳正に顕れ出ただけのことである。

カルマは、「行為」という単純な意味を表すだけなのだが、実際には、過去の生における行為の結果としての顕れ方であっても、因果応報という決まりきった顕れ方ではなく、多様な顕れ方をする。


だから、因果応報という意味においてのカルマの捉え方では、カルマの真の意味を理解することはできないだろう。


しかし、「因果応報」という意味において、そこにカルマの微妙な顕れ方があるということだけは知っておいたほうがよい。


カルマは、人が過去生において、現世の在りようとなる因を積んだがゆえに、現世の生がこうあるのだと言い得ることもできるし、そうとも言い得ないことでもあるのだ。

カルマは、基本的には、物理法則の「作用と反作用」と全く同等の意味を持ち、為した行為の結果として、必ず「同等」「等量」のものが、行為を為した人に跳ね返ってくるというものである。


人が為した行為は、そのままその人に「同等」「等量」のものが戻ってくるということだ。


その意味で、そこには「因果応報」の意味があるのだが、俯瞰的に見ればそれよりも単純明快に、「為した行為と同等・等量のものがいずれ自分に戻ってくる。」という意味なのだ。


物理法則の「作用」「反作用」は、絶対的なものであるように、カルマの法則も絶対的だ。


カルマの法則は、宇宙の根本法則なのである。


カルマの法則は変えようがない。


為した行為(作用)の結果(反作用)は、いつか必ず行為を為したその人に戻る。


これは全く以って当然のこと。

 
人が行為という作用を為せば、その反作用は確実にいつかその人に戻る。


カルマの法則とは、実はこのように非常に単純明快な法則なのだ。

カルマの法則を知れば、人はどのように身を処すべきかを知るだろう。


我が身を愛しく思うなら、人は我欲を離れる。


我欲を離れて常に正しく身を処すことに専心することだろう。


カルマの法則を恐れることはない。


人はカルマの法則を正しく理解して、正しく意識成長の道を歩んでいくだけだ。


そうして、人は大いなるものに近づくことができる。


大いなるもの、究極なるものへと、人は近づいていくのだ。


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カルマの法則

カルマの法則
 
カルマの法則は、大きく2つに分けて考える事ができると思います。


一つは「個人」として、もう一つは「他者との関わり」として、です。

個人的なほうは、個性に関することで、魂はバランスを取りたがるもののようです。


例えば、「積極性と消極性」、「やさしさと荒々しさ」、「知性か行動力か」、そういった対極的なものなど、転生や魂の兄弟をまたいで、違うものを演じたりするようです。


一つの円を基準として、「まるくおさめつつ、円の大きさ自体を拡大させたい」と言うのが、魂の基本的な欲求のように思われます。

もうひとつは、他者との関係(貸借対照表のような)です。

カルマの法則というものは、0を基点とした、時間的に現れる「−(マイナス)」と「+(プラス)」の収支を合わせようとする、波のグラフのようなものです。

基本的には、「した事がそのまま返ってくる」ように、この世界は作られているのだと思います。

要するに、人を苦しめた人は苦しめられ、人を幸せにした人は幸せにされます。

転生における「不遇」や「優遇」も同じです。


いくら生まれが悪いと言っても、それは過去世で人を同じように苦しめたからだ、と推測されます。


また、もし仮に現在いわれの無い苦しみを受けていたとしても、時間的に後でつじつまが合うようになっていると思います。


ただこの辺は、時間的に転生をまたいで現れたりするものなので、解りにくいのだと思います。

神様は「全ての人に平等」であり、かつまた、「結局は努力した人がその分だけ報われる」と言うように、「全ての人に対して公平」でもあります。

よく嘆きの言葉として、「この世界の主人公ではない」と言う人もいます。

 

実際は全ての人が主人公であり、権利的におそらく完全に平等なので、自分のわがまま勝手にならないだけの事だと思います。

要するに、「善く働けば報われる」ようにはなっているのです。


逆に、他人の権利を害すれば、後で同じだけ何かで害されるようになっているのです。


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幸せは いつも自分の 心が決める
 
この言葉には、2つの意味があります。
 
1つ目は、自分の周りに「当たり前にある幸せに気づいているか」、ということ。
 
2つ目は、「幸せ」「不幸せ」という価値観は、「自分の思い込みで生まれる」ということです。
 
1つ目の「当たり前にある幸せへの気づき」とは、
「今日も一日をつつがなく迎えられる幸せ」、
「朝ご飯がおいしいと感じる幸せ」、
「おはようと挨拶を交わしてくださる人がいる幸せ」、
というように、幸せを数えていけばきりがありません。
 
そして、幸せを数えれば数えるほど、実は「自分を取り囲む幸せがたくさんある」ということを、実感できるのです。
 
2つ目の「幸せという価値観は自分の思い込みで生まれる」とは、
どんなに恵まれて幸せそうに見える人でも、
「自分が幸せだと思っていなければ、その人は幸せではない」ということです。
 
幸せとは、「お金に不自由しないことだ」「容姿に恵まれていることだ」などという定義は、自らが作りあげた価値観です。
 
その価値観に振り回され、「今が幸せだと感じられない」ということも、あるかもしれません。
 
しかし本当は、自分に「都合の良い出来事」も、「都合の悪い出来事」も、すべての出来事が、自分を本当の幸せへと教え導きたいという、神さまのプレゼントなのではないでしょうか。
 
「私たちを一人も漏らさず幸せにしたい、せずにはいられない」という神さまの心を知り、そのことを信じ、喜び、受け取った自分の心が、「幸せは いつも自分の 心がきめる」という言葉となったのです。


同じ出来事を経験しても、感じ方は人それぞれです。

 
神さまに与えられている「多くの幸せ」に気づけるよう、幸せセンサーの感度を上げて、「楽しいことをたくさんキャッチできるようになりたい」ものです。

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