あまりに不公平な文化行政
 
歌舞伎座ギャラリーには、明治以降に活躍した歌舞伎俳優たちの写真と初舞台や襲名の経歴が列挙されている。ざっと見ていくと、大阪で活躍した名優が少なくないことに気づく。
歌舞伎座の建設を手がけた清水建設が発行する『匠の技 歌舞伎座をつくる』(平成25年5月23日発行、第9号)という雑誌で坂田藤十郎が発言している。
「江戸時代から昭和の戦前まで、歌舞伎は大阪、江戸でそれぞれ賑わっていました。そして、面白かった」「地域にこだわりすぎるのはよくないと思いますが、大阪の歌舞伎にもっと光を当ててもいいのではと感じます」
昭和16年に大阪・角座で初舞台を踏み、『曽根崎心中』で花形スターとなり、今は梨園の頂点に立つ長老俳優の提言は、関東VS関西という次元の話を超え、歌舞伎劇の本質に関わる論点をはらんでいる。
伝統芸能ながら歌舞伎はしたたかな世俗的人気を保ち、首都東京では連日盛んに上演されて、若い観客の姿も目につく。豪華な衣装や舞台、スター俳優の魅力等に惹かれて劇場へ通う若い歌舞伎ファンが、それでも次第にドラマの中身に精通していき、その骨格をなす浄瑠璃、なかでも義太夫節の存在を知るに及んで、「江戸の華」と思っていた歌舞伎のコアが意外にも近世大坂の町人言葉と知ることになる。演劇芸術において「言葉」は決定的に重要な要素であるが、近松門左衛門の心中物や『仮名手本忠臣蔵』のアレンジを手がけた演出家の蜷川幸雄氏は、「浄瑠璃はヘンなところにアクセントがあるな」と当初は不思議に思ったと、関東人らしい感想を漏らしていたものである。
歌舞伎劇の中核を占める義太夫物(丸本物)と呼ばれるジャンルは、竹本義太夫(1651〜1714)が大坂で創始した義太夫節が人形浄瑠璃の流行により隆盛を極め、それが演目もろとも歌舞伎の中へ移入されて古典歌舞伎の主要なレパートリーとなったものだ。近世日本の国民劇ともいうべき『仮名手本忠臣蔵』が、人形浄瑠璃として大坂竹本座で一七四八年に、歌舞伎ではその半年後に大坂中之芝居(のちの中座)で初演されたように、わが国の近世演劇においては大阪でうまれた名作が今なお主流を占める。そのため、19世紀以降は江戸・東京でうまれた演目が増えていくにもかかわらず、歌舞伎劇においては大阪言葉のイントネーション・アクセントが正統のような形で扱われて今に到っているのだ。
このほど人間国宝に認定された片岡仁左衛門(昭和24年に大阪・中座で初舞台)の父、故・十三代目仁左衛門の芸談『とうざいとうざい』(昭和58年)には、明治・大正・昭和にまたがり東西の舞台で活躍した十一代目仁左衛門の言葉が記されている。〈父から聞いた話ですが、当時は東京の役者がよく大阪へ修業に来たものだそうです。「今度、東京から誰々が来まっせ」という話が出る。と、大阪の偉い役者は、「あ、そうか、芸まで教えることは無理やろうが、せめて訛だけはとって帰してやろうか」といっていたそうです〉。
戦後の歌舞伎界で主力俳優の一人として活躍した二代目尾上松緑も、関東大震災の難を逃れ大阪へ居を移した少年期に義太夫を習ったことが俳優修行の基礎になったと証言する。「若い頃に、義太夫を勉強することは、大切なことで、これが楷書の修業です。楷書の義太夫物から入って、楷書に戻る。これが歌舞伎役者の辿っていく道なのではないかと考えております」(季刊雑誌『歌舞伎』「新・役者論語」昭和44年4月1日発行) 
江戸の世話物の名手として二代目松緑のライバルだった十七代目中村勘三郎も大阪で修業したことがのちのち役立ったと生前に語ったし、近年没した中村雀右衛門も戦地から帰還して役者人生を再出発するに当たり義太夫を学び直している。誇り高い「江戸っ子」の名優だった9代目市川團十郎や6代目尾上菊五郎も、骨太なドラマ性をそなえた丸本物の伝統に晩年は還っていった。
東京の国立劇場が歌舞伎俳優の養成事業を始めたのは昭和45年のことだから、まもなく半世紀となる。国が支援してくれない大阪で民間企業の松竹が平成9年に「上方歌舞伎塾」を始めた理由の一つは、関西の言葉が使えてこそ上方歌舞伎の俳優という当たり前の要請に因るものであったが、当時の文化庁の役人は担当者を呼び、東京で歌舞伎俳優を養成しているのに何故そんなことをしたがるのか問い質したという。沖縄ならぬ東京で琉球舞踊を教えなさいと言うのと同類の言い草ではないか。「地方創生」とは真逆の文化政策を取ってきたのだ。
今年、大阪松竹座で二ヶ月に及ぶ襲名披露興行をおこなった中村鴈治郎は、上方歌舞伎の本流を伝える家系に生まれながらも東京育ちのため上方の言葉を使えなかった若い頃を自省し、大阪に住居を構え住民票も移したということだ。歴史のプロセスを逆になぞる苦しみを味わっているのだ。
歌舞伎俳優の養成事業は、大阪で1年、東京で1〜2年という具合に。写実性とドラマ性を重視する大阪式をなぞったうえで、様式美を磨きあげる江戸流の洗練へと進むのが王道だと私は考える。現今の歌舞伎がコクのない薄手なものになりがちなのは、古典劇の基本となる楷書の芸すなわち「音曲の司」と呼ばれる義太夫の修行が疎かにされて行書や草書の歌舞伎から入ってしまっているからではないか。

この記事に

開く コメント(0)

雀右衛門の思い出

雀右衛門の思い出
 
七代目歌右衛門を襲名目前にして病に倒れた中村福助のことが気がかりでなりませんが、松竹としては、弟の橋之助に八代目中村芝翫を、また中村芝雀に五代目中村雀右衛門を襲名させることが決まったようです。
 3年前に亡くなった四代目雀右衛門は、まさに波乱の人生を送った人でした。17年前に私が聞き手になり収録したインタビュー記事を公開します。
 
 
       大阪との御縁
                      
                               (四代目)中村雀右衛門
           
                                聞き手  河内 厚郎
 
 昭和十五年から兵隊にとられてベトナムへまいりました。南洋の地ではマラリアにもデング熱にかかりました。二十一年に復員してまいりましたが、役者として一番大切な修行をするときに戦地へ行っていたわけです。コッポラ監督の「地獄の黙示録」という映画を見たときは夜も眠れませんでしたね。戦争をロマンとして描いているものですから。
 日本へ帰ってきますと、父の六代目大谷友右衛門は昭和十八年の鳥取の震災ですでに亡くなっており、東京の劇場を歌舞伎座が空襲で焼けて、東劇と三越の二つしかございません。俳優の方はというと、菊吉(六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門)や幸四郎(七代目)といった名優が健在ですし、のちの十一代目団十郎以下、花形がぞろぞろ。大阪にも河内屋(二代目実川延若)、高砂屋(三代目中村梅玉)、豊田屋(阪東寿三郎)といった方々や綺羅星のようにいらっしゃいましたから、あたくしなんか機会がありません。
 すると高麗屋、のちに岳父となる幸四郎が、それまで立役しかやったことのない私にいきなり「女形になれ」と言うんです。まあ六十年やればものになるだろう、と。その時はもう二十六になっているというのに。途方にくれましたが、結局、女形として役者人生を再出発いたしました。
 そんな女形が映画の「佐々木小次郎」(原作:村上元三、監督:稲垣浩)に主演で出ることになったんです。最初はお断わりしたんですけど、君は素材だと思ってくれていい、こちらの言うとおりにしてくれればいい、と言われまして。ところがその映画が大評判になっちゃいましてね。お給料も歌舞伎(一万八千円)の百倍ですよ。
 ただ、芝居というのは予定通り進行しますけれども、映画はそうじゃありません。どんどん都合でスケジュールが変わるから、舞台の出番が近づくと気が気でなく、偉い先輩方を待たすというような失礼なことにもなって歌舞伎の世界に居辛くなりました。
 でも、どうしても好きな歌舞伎に戻りたい。映画の方は好調だし、溝口健二、市川崑、成瀬巳喜男といった名監督たちにずいぶんひきとめられたんですが。それで、松竹の故・大谷(竹次郎)会長が肩がわりしてあげるからとおっしゃってくださり、再建された歌舞伎座へ一回だけ出て、来月からは大阪へ行けと言われました。そしたら、亡父とも仲のよかった市川壽海(三代目)という一代の名優の相手役を思いがけず、つとめることになったんです。幸運なことでした。
 壽海のおじさんはもともと東京の方ですから当然に江戸歌舞伎をおやりになる。その相手役として「籠釣瓶」の八ッ橋とか大役をやらせてもらい、おじさんの得意な(岡本)綺堂物や真山(青果)物でもずいぶん勉強になりました。ちょうど千日前の歌舞伎座から難波の新歌舞伎座に変わる頃でしたか。中座にもよく出ましたよ。
 大谷会長の存命中、「四谷怪談」が大評判になったことがありました。百万遍でお化けの出るところがございますね。舞台と客席の二ヶ所でお化けを出したら、お客様がキャーと騒いで。それはよく入りました。義太夫物でも「先代萩」の政岡や「合邦」の玉手といった大役をやらせてもらい、松嶋屋(十三代目片岡仁左衛門)さんや、当時は簑助といってらした坂東三津五郎(八代目)さんとよく御一緒しました。
 そしてそのまま雀右衛門を襲名するまで大阪におりました。あたくしは世代的には亡くなった(実川)延若(三代目)さんと同じくらいで、たびたびコンビをくみました。大阪物は延若さんに教えてもらい、東京物はこちらが教えるという具合にね。
 文楽の(豊竹)山城少掾にもお世話になりましたねえ。「葛の葉」の狐言葉を教えてもらったり。(竹本)綱太夫・(鶴沢)弥七の御二人とも父が親しかったものですから仲良くさせていただきました。(吉田)文五郎さんや(桐竹)紋十郎さんといった人形遣いの名人たちとも親戚づきあいのようにしていただき、幕間に「毛谷村」のお園を教えていただいたこともあります。独演の教授というわけですから、ぜいたくなことでした。
 大阪出身の劇評家で演出もされた故・武智鉄二先生とのおつきあいは、実は、あたくしがいちばん古いんですよ。もう戦前のことです。若い方なのに遠慮ない劇評を書かれるので、父が怒っちゃいましてね。ところが実際にお会いしてみたら、温厚な方で、芸のことを本当によく分かってらっしゃるというので、すっかり父が感心しまして、一緒に勉強会をやることになりました。のちに文学座のアトリエになった飛行館で「大功記」の光秀をやりました。その頃は立役でしたから。父と武智先生との共同演出でした。
 武智先生との御縁がもととなり鴻池幸武さんがバックアップしてくれることにもなりました。大阪の女形の名跡である京屋(雀右衛門)を継ぐことになったのも、そんな御縁があったからです。先代の雀右衛門さんが亡くなった昭和二年といえば、ちょうどこちらは初舞台の歳ですから、先代の舞台は拝見しておりません。
 昭和三十年代の後半から大阪の歌舞伎がいっぺんに寂しくなりました。延若さん初め役者さんたちも次々と東京へ移られ、関西のファンの方には寂しいことでございましたね。今度の松竹座は、昔のように大阪のお客様が盛り立ててくださるような劇場になってほしいものです。昨年は杮落としにでましたが、この四月は「口上」と「寺子屋」に出させていただきます。
 
    季刊「SOFT」(1988年SPRING・27号、大阪都市協会発行)

この記事に

開く コメント(4)

2月14日()、「歌舞伎の舞台」散策講座を再開します。
 
 13時阪急京都線「崇禅寺」駅改札口前に集合。崇禅寺で細川ガラシャや将軍・足利義教の墓に詣でた後、崇禅寺駅に戻り、「上新庄」駅で降りて、江口の君堂や瑞光寺を見学します。江口の君堂は、長唄『時雨西行』や謡曲『江口』の舞台です。『時雨西行』は、河竹黙阿弥作詞、2世杵屋勝三郎作曲。元治元年(1864)初演。雨宿りした西行が遊女と和歌のやりとりをするうち、遊女は普賢菩薩となります。
 『崇禅寺馬場の仇討』という歌舞伎もあるのですが、こちらは今では上演されなくなっています。
 問い合わせは、日本伝統芸能振興会 06−6926−4558

この記事に

開く コメント(2)

心を継ぐ歌舞伎

 前回に予告した通り、季刊「SOFT」(1988年SPRING・27号、大阪都市協会発行)に掲載された、片岡仁左衛門丈へのインタビュー記事を紹介します。

 
心を継ぐ歌舞伎
 
孝夫から仁左衛門へ
 
河内厚郎 この四月、五月には大阪の松竹座で十五代目仁左衛門襲名披露公演を控えておられますが、大阪のお客様にメッセージを一言。
片岡仁左衛門 東京での襲名披露公演はおかげさまでずいぶん盛り上がり、二カ月間で二十万人以上の方にご覧いただけました。それだけに、大阪の名にかけても、また大阪ゆかりの仁左衛門の名にかけても松竹座での襲名披露を成功させたいと思いますので、ぜひ応援してください。東京以上に盛り上がってもらいたいですね。
河内 歌舞伎の名門のお名前を受け継ぐことについてはいかがですか。
仁左衛門 役者というのは本来、舞台に全力投球していれば、ある意味で名前なんてどうでもいいんですよ。人間がそこでどういう活躍をしているかが問題であってね。たとえば仁左衛門であろうと孝夫であろうと、ああこの役者の芝居は素晴らしいねと言ってもらえればいい。そういう考え方がひとつありますね。
 その一方で、名前とは歴史の中で何かが付加されていくものでもあるんですね。暖簾というのか。ある意味では襲名をは暖簾を預かったような感じですね。ただ、御菓子屋はいくら老舗だといっても、おいしいお菓子をつくらなければ意味がない。ですから暖簾を預かった以上、それを傷つけないように、一生懸命おいしいお菓子を作ることに、専念しなければと思っています。
 
崖の淵に立って
 
河内 初舞台は大阪で五歳の時に演じた「夏祭浪花鑑」(道頓堀・中座)の市松だったとお聞きしています。その頃を振り返られると何が思い浮かびますでしょうか。
仁左衛門 舞台に出ても照れ臭くて指をくわえっぱなしでした。その時は「夏祭」の殺しの場面が非常にこわくてね、印象に残っています。その頃はお風呂も薪で焚いていたから、楽屋でも舞台でも薪の臭いがすることがあったりしてね。なんだか懐かしいですね。お客様もたくさん入ってくださってましたね。
河内 当時の劇場にはその時代なりの賑わいがあったと思いますが。
仁左衛門 劇場の外はまだ戦後間がない頃ですから、今のまちの賑わいとは雲泥の差でした。ところが劇場の中では、まだ着飾ったりはできないけれど、芝居を観るその活気は大変なものでした。劇場の内と外では別世界でしたね。お客様は本当に娯楽を求めてらした。今とはまた違った熱気がありましたね。
河内 昭和三十九年にはお父様の十三代目が私財を投じて始められた自主公演「仁左衛門歌舞伎」が道頓堀・朝日座(当時は文楽座)で行われました。これは上方歌舞伎の滅亡をくいとめる意味で大きな出来事になりました。その三作目が仁左衛門さん(当時孝夫)の出世作になった「女殺油地獄」だったわけですね。
仁左衛門 あの頃はお客様が入らない時代でした。そこで父が一生懸命に努力して「仁左衛門歌舞伎」を上演したんです。たくさんのお客様が来てくださいましてね。本当に嬉しかった。夢のようでしたよ。劇場の窓口に列ができましてね。その頃の列といったって何十人ですよ。今なら何百人でも、少ないねと言っているけれど、その時は劇場二巻きしたくらいの気分ですよ。その第三回公演で初めて主役をやらせていただいて、もう無我夢中でしたね。与兵衛という役と当時の僕の実年齢が同じくらいで、入っていきやすい狂言だったのが幸運でしたね。
 しかし、あの頃の歌舞伎を支えた方たちの苦労は、今の人にお話してもわからないですよ。赤字覚悟でといえば、今ならどこかが貸してくれるだろうし、会社もなんとかしてくれるかもしれないけれど、あの当時はだめな時は家を売るしかないという気持ちですよね。父はよくやったと思いますよ。
河内 その時の成功の要因は何だったんでしょうか。
仁左衛門 「仁左衛門歌舞伎」という名前をつけたのは関西の新聞社、演劇評論家の方たちなんですよ。新聞紙上にも取り上げていただき、父もいろいろなところで講演をした。一役者が必死になってやったことで、みなさんも応援してやろうという気持ちを起こしてくださったわけですね。そうして話題になれば、もともと歌舞伎に興味のないお客様もちょっと覗いてみようかとなります。これが大事なことなんですね。
 昨年は松竹座が完成、今また仁左衛門の襲名ということになれば、歌舞伎を観たことのなかったお客様が一度観てみようという気分になるでしょう。去年は興行的にもいい成績をおさめました。話題で来てくださっている方も多いからですね。このお客様を大切にして、逃がさないようにしないと。気をつけないといけないのは、お客様が来てくださるようになると、安心して緊張感が薄れてくることです。常に崖っ淵に立ったつもりで芝居を続けていかないと、お客様はすぐに逃げてしまいます。初めて観たけれど、ああ面白いじゃないか、と思ってもらえるように頑張らないとね。
 
型ではなく心を受け継ぐ
 
河内 仁左衛門さんは昭和四十年に中座「源平布引滝」の義賢の役で大評判の舞台を演じられていますね。その時、今までとは違った立ち回りの工夫をされたとお聞きしていますが、新しい舞台を創造していく姿勢が新しいお客様をつかんでいくことに通じるわけですね。
仁左衛門 そうですね。「布引滝」は初演時は特に新しいことはやってなかったんですが、その後で変えたんですよ。もっと盛り上がりがほしくてね。今、歌舞伎は古典といわれていますが、少し時代をさかのぼれば、みんな自由にいろいろなことをやっていたんですよ。たとえば「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋」というお芝居では、衣装が昔は着付けは黒のビロードで赤に金地の織物の裃だったんですが、それを九代目團十郎さんが変えられたんですね。やってみるとその方がいいというので、今はほとんどそのとおりになっていますよね。今でもよいことならば変えればいいんだけれども、保存が大事だという風潮があって以前のように変えにくくなっている。でも、その中で僕らはかなり変えてますけどね。よほど芝居に入りこまないとわからないけれど、他の方とはずいぶん違うやり方でやっていますよ。
 お芝居のことばかり考えていると何かアイデアが出てくるんです。昔からこうしているからこうするんだという考え方を捨てることですね。なぜそうしたかということを突き詰めていけば、じゃあこういう考えもあるんじゃないかと見えてくる。そういうものです。
河内 大阪の歌舞伎には型を単に受け継ぐのでなくて、常に新しいことをやっていく、という伝統があると思いますが、仁左衛門さんご自身もそれを大事になさっているわけですね。
仁左衛門 型を受け継ぐことよりも心を受け継ぐことが大事です。心の表現、現われ方にはいろいろあっていいわけですよ。これは六代目さんの型だとか、九代目さんの型だとかといってもね、歌舞伎の歴史からみるとつい最近できたものなんですよ。それまではもっと自由だったわけです。それに六代目(尾上菊五郎)の型といっても、六代目さんがその時に以前の型を新しく直されたわけでしょう。そう考えれば今また現代の型をつくってもいいわけですよ。やはり攻めていかないとね。
河内 たとえば最初に評判になった与兵衛の役ですが、あれは松嶋屋のお家芸ではなかったんですね。実川延若さんから習われ、役づくりをご自分で考えられたとか。
仁左衛門 そうです。もちろん一通り教わりましたけれど、その中で実際できあがったのは河内屋の兄さんと僕のとはまた違う与兵衛ですね。いろいろ工夫していますから、飽きずにやってられるんですよ。
河内 仁左衛門さんはこれまで歌舞伎に西も東もないという意味の発言をしてこられたと思いますが、あえてその上で、仁左衛門さんにとっての和事、大阪の歌舞伎とはどういう意味をもっているのかお聞かせください。
仁左衛門 僕が東西関係ないって言っているのは地理的な問題でね、やはりそれぞれの芸風というものは残していかないといけないと思います。ただ、果たしてどこまで残せるかというと、難しい問題ですね。大阪の芸風も大阪という土地の人たちの好みに合わせて育ったものだけれども、時代が変わってしまっている。結局、大事なのは、その時に好まれるものを残すということだと僕は思います。さっきの型の話ではないけれど、なんでもかんでも大阪だから良いということではないんです。たとえば、「忠臣蔵」の七段目でも、大阪は(*1)をひきますが、東京(*2)をひきます。僕も所作をひくんですよ。芝居の雰囲気からみて地絣が合わないと思いますから。(「義経千本桜」の)「すしや」は、東京では途中で畳を片づけ、大阪は片づけないけれど、これについては僕は大阪の方が理にかなっていると思います。だから大阪のやり方を残す。常に自分の感性に合う方をとっていきたいんです。
 僕たちは歌舞伎を観たいと思ってくださる方がいらっしゃるから、舞台に立てるわけですよ。ですから、大阪のものでも江戸のものでもつまらないものは切り捨て、面白いもの、残すべきものを残していく。型ではなく歌舞伎の心を受け継ぐことが、やはり一場大切なんですよ。
 
 *1 地絣(じがすり):舞台床に敷く布。
 *2 所作(しょさ):歌舞伎舞踊用の
                             
                                                                  
イメージ 1

この記事に

開く コメント(0)

襲名披露の「封印切」

襲名披露の「封印切」
 
1月10日()、毎日放送(MBS)の、四代目中村鴈治郎襲名・特番に出演しました(年末に大阪茶屋町のスタジオで収録したものです)。スタッフの熱意もあって、なかなか良い番組になったと思います。見た人からも概ね好評をいただきました。
 新鴈治郎の叔母にあたる中村玉緒が語り手のような形で進行し、笑福亭鶴瓶など多彩な各界の人々が登場して賑やかな番組になりましたが、ちょっと驚いたのは、綾戸智絵が出てきて、その昔、新鴈治郎の付き人のようなことをしていたと話していたことでした。
 大阪役者の名門に生まれ育ちながら、東京育ちのため関西弁を巧く操れないのが新鴈治郎のネックとなっていて、それを本人も意識して大阪にも居を構えたわけですが、以来、少しずつ関西風のイントネーションやアクセントが身に付きつつはあるものの、語頭に力を入れ過ぎるせいなのか、不自然さが抜けきれません(もしかしたら綾戸智絵が大袈裟にデフォルメした関西弁を教えたから・・・?)。
 それでも、昼の部の『廓文章』「吉田屋」の藤屋伊左衛門、夜の部の『恋飛脚大和往来』「封印切」の亀屋忠兵衛という、どちらも大阪の色男が新町の廓に遊びに来る役を、それらしく、柔らかく演じてくれました。 
ただし、「封印切」で忠兵衛と対決する、丹波屋八右衛門という敵役を、片岡仁左衛門が流暢な大阪弁を駆使して演じるのですが、その台詞の巧さが印象的でした。
仁左衛門といえば、17年前の自身の襲名の折も「封印切」が出て、この時は主役の忠兵衛を演じました。当時、私が雑誌で仁左衛門と対談したものを、次号で公開します。



        
イメージ 1
「封印切」の八右衛門
演じているのは誰でしょう?


この記事に

開く コメント(0)

[ すべて表示 ]


.


みんなの更新記事