|
〈盛綱陣屋〉雑感
会場には大阪の陣を素材にした「盛綱陣屋」や「鎌倉三代記」を解説する展示スペースも取ってありました。昨年の東京歌舞伎座柿落とし公演で「盛綱陣屋」を出した片岡仁左衛門は、17年前の大阪松竹座再開場の折にも盛綱を演じていますから(前名の片岡孝夫の頃)、きっと愛着ある役なのでしょう。私の好きだった三代目の実川延若も自身が座頭となった興行では盛綱をよく演じましたし(昭和50年6月大阪中座、51年3月東京歌舞伎座…)、現・仁左衛門の父である十三代目仁左衛門も「盛綱をやりたいなあ」と晩年近くなっても洩らしていたものです。「大阪の顔」と謳われた初代中村鴈治郎の盛綱は図抜けた役者振りで観客をうならせたそうですが、華やかな二枚目で鳴らした十五代目市村羽左衛門や肺腑をしぼるがごとき初代中村吉右衛門の入魂の盛綱が東京では定評あるものでした。初代吉右衛門の盛綱は映画になっていますが、癇のきいた声が印象的です。
私が懐かしく思いだすのは、昭和42年の初代鴈治郎33回忌追善興行(大阪新歌舞伎座)で市川寿海が演じた盛綱です。母の微妙は二代目鴈治郎、篝火は六代目中村歌右衛門だったかと記憶しますが、80歳を超えて背中は曲がっていたものの、すこぶる声の良い優でしたから、首実検のあとの名調子が活きました。そして、そのとき思ったのは、寿海の養子で映画スターとなった市川雷蔵(1931〜1969)の盛綱をいっぺん見てみたかったなあということでした。それからほどなく雷蔵は帰らぬ人となってしまうのですけど―
もう一人、今の中村歌六が前名の米吉の時代、国立小劇場の若手勉強会で盛綱を爽やかに演じたのは40年以上も前のことですが、これがなかなか良かったことを書き添えておきましょう。
あどけない子役を使って泣かせる件りが如何にもあざとく、こんなに技巧的な計略が現実にありうるものかしらんと疑問に思うものの、それでも「盛綱陣屋」が私の大好きな芝居であることには変わりありません。この一幕は、明和六年(一七六九)十二月に大坂竹本座で人形浄瑠璃として初演された『近江源氏先陣館』の八段目に当たり、歌舞伎では翌七年五月に大坂中の芝居(のちの中座)で初演されました。ちょうど今から400年前の大坂の陣における徳川(江戸)と豊臣(大坂)の対立を、頼朝没後の実朝と頼家の世継争いに仮託し、徳川は鎌倉方、豊臣は京方としています。兄弟でありながら敵味方に分かれて戦った真田兄弟の相克を鎌倉時代に移し替えているわけで、登場人物のモデルはざっと次のようになります。
佐々木盛綱―真田信幸 佐々木高綱―真田幸村
北条時政―徳川家康 和田兵衛―後藤又兵衛
時姫―千姫 宇治の方―淀君
源頼家―豊臣秀頼 源実朝―徳川秀忠
片岡造酒頭―片岡且元 三浦之助―木村長門守
大坂落城から1世紀半の間に累積された、副都大坂のルサンチマンが結晶化された芝居といってもよいでしょうか。10月9日は真田幸村が大阪城へ入城した日に当たるというので、400年後のこの時期にご当地ヒーローの催しが開かれた阪神百貨店の会場には、猿飛佐助や霧隠才蔵が活躍する上方講談速記本「難波戦記」の書籍が展示されていました。講談速記本とは、明治期の講談を速記者が筆記したもので(講談社という出版社の名はこれに由来します)、「難波戦記」では家康が幸村の地雷にまんまとしてやられ、逃げる途中に後藤又兵衛に槍で突かれ絶命してしまうのです。なんと大坂の講談では徳川家康は討死したことになっているのです。
真田十勇士の名を世に広めた「立川文庫」も展示されていました。大正期に大阪の出版元・立川文明堂から出版された大ヒット文庫本シリーズで、「猿飛佐助」や「霧隠才蔵」が大活躍し、今に至る真田十勇士が誕生したのでした。この血湧き肉躍る物語を書いた池田蘭子(1893−1976)という女性は、『女紋』というドラマの主人公にもなった有名な女性で、西宮市の拙宅のすぐ近所に住んでいました。
毎年5月5日、夏の陣で真田幸村が戦死した地、安居天神(大阪市天王寺区逢坂2丁目3安井神社)では「幸村まつり」が行われています。社務所の脇の崖下にある1㎡ほどの空井戸とそれを取り巻く玉垣は、幸村の時代からさかのぼること700年、菅原道真が滞在した折に患った病気を癒したと伝わる「安井の清水」。飲ませると子供の癇の虫が治まるとの意味から、俗称「かんしづめ(癇静め、神鎮め)の井」と呼ばれています。『菅原伝授手習鑑』の二段目は「安井の浜」となっていますが、平安時代ここは浜辺でした。神社の創建は四天王寺建立の頃とされますから、道真の時代よりさらに300年さかのぼることになります。この安居の天神は『小さん金五郎』にもちらりと名が出てきます。
池田 蘭子
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- ブログバトン





