松竹の元常務で、歌舞伎演出家としても知られた中川芳三(奈河彰輔)氏が亡くなられました。7月には上方歌舞伎絵師の穂束とよ國氏も他界され、関西の芝居を知る人が次々と亡くなっていくのは寂しい限りですが、中村鴈治郎という名跡が大阪へ帰ってくるのを素直に喜びたいと思います。
四代目鴈治郎を襲名することになった中村翫雀と13年前に雑誌『関西文学』誌上に掲載した対談を再録してみました。
成駒屋が帰ってきた
河内厚郎 4月からABCテレビ「おはよう朝日・土曜日です」にコメンテーターとしてレギュラー出演なさってますね。
中村翫雀 わりと簡単に引き受けちゃったんですが、大変だったと思い知りました。名古屋の御園座に出演しているときなど、大阪に朝戻ってくるのでは間に合わないということが初めは分からなかったので、慌てました。
河内 このたび大阪にお住まいを持たれたわけですが、どちらのほうですか。
翫雀 谷九(谷町九丁目)です。松竹座をはじめミナミに行くのには便利なところですし、以前から大阪公演のときは、その近所のホテルに長期滞在していました。近くにはうちの家(中村鴈治郎家)がお世話になっている(上方舞の)山村流のお師匠さんも住んでらっしゃる。曽祖父、初代鴈治郎の墓もある。近松門左衛門の『曽根崎心中』の舞台になった生国魂神社もすぐそばで、緑の深い土地なのかなと思います。以前から「関西に留学してほしい」という声はあったんです。もともと先祖が大阪の役者でしたから。
河内 御家族は東京にいらっしゃるので、単身赴任ということになりますか。
翫雀 ええ。といっても、ふだんから年の半分くらいは東京以外の仕事ですから。週末には家族も来たりします。
河内 初代鴈治郎のお墓(常国寺)がある、天王寺区の中寺町あたりは名優の墓所が密集しているところですが、今の鴈治郎家は鎌倉にお墓があるとか。
翫雀 祖父は初代鴈治郎の三男ですが二代目鴈治郎の名跡を継いだわけです。鴈治郎を継いだからといって、本家の寺に分家が墓をつくるわけにはいかないので、鎌倉に墓をつくったんです。大阪の墓は、祖父の兄、林又一郎家で守って頂いております。
河内 又一郎さんのお孫さんが林与一さんですね。
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河内 さて、中村智太郎の名で三越劇場(東京)の若手歌舞伎に出られたのが、もう二十四、五年前になりますか。「弁天」の勢揃いだったと覚えていますが、なかなか愛嬌がありましたよ。
翫雀 愛嬌だけですよ(笑)。あのときから役者として出発したんです。僕も弟(中村扇雀)も、歌舞伎役者としては他の人より十年遅れました。母(扇千景)が、子供にはまずきちっと学業を修めさせる、という考え方でしたから。ですから、役者になってからは、みんなに追いつこうと必死でしたね。
河内 それからほどなく、お祖父さまが倒れられた『曽根崎心中』の平野屋徳兵衛に代役で出られましたね。初役でしたけど、どんなお気持ちでした。
翫雀 それが何も覚えていないんですよ。芝居がはねてから祖父に報告にいったんですが、喜んでくれるどころか、「ふん」と目をそむけられてしまいました(笑)。やっぱり役者は、子でも孫でもみんなライバルなんですね。自分の持ち役を取られたわけですから。
河内 お父さまも、天満屋お初の役を手放されません(笑)。
翫雀 『曽根崎心中』は古典というよりも新歌舞伎の作品で、宇野信夫先生が脚色されたものですが、お初は父がつくりあげた役といってもいいですからね。
河内 お父様のライフワークとなった「近松座」も20年に。
翫雀 いまちょうど父は(坂東)玉三郎さんや(片岡)秀太郎さんと国立文楽劇場で『心中天綱島』をやっているんですが、それはまだ見ていません。今月末から来月にかけて父とイギリス公演にいくんですよ。ロンドンとマンチェスターで『曽根崎心中』と『釣女』をやります。
河内 お父様が十年前に二代目扇雀から三代目鴈治郎を襲名されたとき、そして智太郎から翫雀、浩太郎から扇雀の襲名の折も、中座で真っ先にお披露目があり、関西の歌舞伎ファンは嬉しく思ったことでしょう。故(三代目)実川延若さんの襲名などは、大阪役者ながら、東京での襲名が先になってしまいまいたから。
翫雀 初代鴈治郎は初め実川姓を名乗っていたんです。初代延若の下で修行しましたから。初代鴈治郎の父三代目中村翫雀は新町の扇屋の娘妙と恋に落ち、扇屋に婿入りしましたが、役者が忘れられず母子を捨てて江戸に上ってしまいました。その後扇屋は没落し曾祖父は非常に苦労をした様です。そんな親の名を、役者になった曾祖父は継ぎたくなかったんですね。
河内 扇屋といえば、『廓文章』のヒロイン扇屋夕霧の抱え主だった、あの扇屋のことですね。その初代の父である翫雀の名を、お祖父さまも一時名乗っておられました。
翫雀 初代が一代で築いた鴈治郎という名が大きすぎて、祖父はすぐ二代目を継ぎたくなかったんですね。プレッシャーだったんでしょう。でも鴈治郎を継いでから映画へ行っちゃったりしましたけど(笑)。そういえば父だって扇雀時代はそんなに歌舞伎をやってなかったですよね。よく色物をやってました。
河内 梅田コマ劇場で有馬稲子さんと共演なさった『浪花の恋の物語』とは拝見しました。「梅川忠兵衛」をアレンジしたものですけど、新町に蕎麦ぼうろ「忠兵衛」も看板が架かっていまして、その下に初代鴈治郎生誕の碑があります。そこが扇屋の跡ですね。坂田藤十郎が演じた「夕霧伊左衛門」物の舞台でもあるわけですが、いよいよお父さまが上方和事の元祖ともいうべき坂田藤十郎の名跡を四年後に襲名なさいます。
翫雀 2百年以上も途絶えていた藤十郎の名を父は登録してあったんですね。何としても継ぎたかったんでしょう。もう年齢的にもラストチャンスでしょうし。年老いて花がなくては困るでしょうから(笑)。でも僕にとっての父は、鴈治郎よりやっぱり扇雀という名のほうが印象深いですね。
河内 何しろ扇雀飴があったくらいですから(笑)。
翫雀 鴈治郎飴というのもあったんですってね(笑)。
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河内 そして、翫雀さんは四代目鴈治郎を襲名ということに。
翫雀 今になると、翫雀を襲名しておいてよかったと思いますね。いきなり鴈治郎じゃ自分というものをつくることができなかったでしょうから。もっとも、私の襲名はタイミングとしては少し早すぎる気もしています。継ぐなら少しでも早いほうがという考えもありますが、祖父が二代目鴈治郎を継ぐ前に翫雀を名乗ってワンクッション置いたように、大きな名前なので一時空席になってかまわないとも思うのですが。
河内 で、今後はどんな役をやりたいですか。
翫雀 『椀久』なんかやりたいですね。父も玩辞楼十二曲のなかでまだやっていない芝居があるんですよ。十二曲も和事ばかりじゃないんですけど、そのひとつ『封印切』の忠兵衛を七月の松竹座でつとめます。
河内 五年前の『女殺油地獄』(国立文楽劇場)の河内屋与兵衛は、片岡仁左衛門さんのやや和事風の与兵衛とは違って、骨っぽいというか、男くさい不良青年が迫力ありました。
翫雀 本来そういう役だと思うんですよ。
大阪に住まいを構えたことを期に義太夫も改めて勉強させて頂きたいと思っています。義太夫は上方のお芝居の基でもありますし、色というか匂いを大切にしたいですね。匂いと言えば由緒ある道頓堀の中座が閉じてしまったのは本当に痛いですねえ。芝居にぴったりの大きさだったんですけど。まだ建物そのものは壊していないんだから、いっぺん使わせてくれと言ってるんですけどね。
河内 こうしてお話していると、関西風のイントネーションになってこられましたね。
翫雀 それは嬉しいですね。言葉だけでなく、こちらに生活の拠点をもつことで「関西色」「大阪色」のようなものがおのずと身に付けば、と思うんです。大阪に家をもったことを、皆さん本当に喜んでくださってます。僕も本当に良かったなと思います。
河内 お父様は北新地の「ろまん亭」でときどきお見かけしますが、翫雀さんはどのへんに飲みにいかれるんですか。
翫雀 キタよりミナミへ遊びにいくほうが多いですね。
2001年5月12日、旭区民センターで行われた「お芝居探検隊」特別企画“上方歌舞伎役者・中村翫雀丈をお迎えして”(主催:関西・歌舞伎を愛する会 協力:大阪市文化振興課)より載録。