中村歌右衛門家など
歌舞伎俳優の墓が密集する街
3〜4月東京歌舞伎座、7月大阪松竹座というスケジュールで、七代目中村歌右衛門の襲名披露を行うはずだった、女形の中村福助が、脳内出血による筋力低下で休演、襲名も延期となって前途が危ぶまれています。
歌右衛門という女形の大名跡が東京の歌舞伎界に君臨するようになったのは、いかにも立女形らしい風格をそなえ、淀君をよく演じたことから「淀君役者」とも呼ばれた五代目(1866〜1940)からのことです。
名優で鳴らした三代目(1778〜1838)は、芝居や映画にもなった『男の花道』の主人公ですが、その没後100年に当たる昭和13(1938)年、三代目が活躍した道頓堀の中座(江戸時代は「中之芝居」)で盛大な追善興行が行われています。五代目歌右衛門や、その孫にあたる後年の中村芝翫(一昨年死去、福助や橋之助の父)が東京から参加しています。
初代・三代目・四代目の歌右衛門の墓所は、大阪の中寺町にあります。
由緒ある名跡を残した歴代の歌舞伎俳優の墓所は大阪の上町台地に多いのですが、とりわけ中寺町に密集しているのです。
以下、ご紹介します。
① 妙徳寺 日蓮宗 (中村梅玉家の墓)
梅玉は三代目中村歌右衛門の俳名です。彼が初代。二代目は天保12年(1841)生まれ。明治40年(1907)に襲名。女形と立役を兼ね、晩年は初代中村鴈治郎一座の重鎮となり、大正10年(1921)没。三代目は明治8年(1875)生まれ。二代目の養子となり、昭和10年(1935)道頓堀・中座で襲名。鴈治郎の相手役となり、美しく気品があり芯のつよさを秘めた古風な芸風でした。鴈治郎没後は六代目尾上菊五郎ら東京の名優たちをも相手に演じ、東西の歌舞伎界を代表する女形となって、芸術院会員に推されます。昭和23年(1948)芦屋の自宅で死去。
② 薬王寺( やこうじ) 日蓮宗 (片岡仁左衛門家、初代中村富十郎、初代・四世岩井半四郎・四世片岡愛之助の墓)
大阪は実質本位で家柄名跡より芸を優先させる風潮が強く、元禄期から後世まで代数を重ねた名跡は少ないのですが、例外は片岡仁左衛門家で、当代まで十五代続いています。敵役の名優だった初代の死後、長男が二代目を襲名しましたが、ほどなく亡くなり、以後、名義預かり人を代数に数えて六代目まで片岡仁左衛門を名乗る役者はいませんでした。再び仁左衛門の名跡を興した七代目は、あらゆる役柄に通じましたが、肥満体質のため和事を中心とした色立役はしませんでした。八代目は、体格はやや小さいものの、男ぶりがよく、和事を本領とする芸風に育ちました。九・十代目は追贈、十一代目は八代目の次男で、若い頃は初代鴈治郎と大阪で人気を二分しました。反骨精神旺盛、義侠心あふれる名人気質で知られ、「片岡十二集」を制定、新作にも力を注ぎました。十二代目は十代目の遺児が継ぎ、女方が本領、美声で音楽にも堪能でしたが、昭和21年使用人に殺されるという不幸な最期を遂げます。十三代目は十一代目の愛児。昭和26年大阪歌舞伎座で襲名。昭和中期、上方歌舞伎の衰退に立ち向かい「仁左衛門歌舞伎」を旗揚げしました。80歳を越えて視力が衰えましたが、自在の芸境を見せました。
初代中村富十郎(享保4年・1719〜天明・1786)
女形舞踊の大曲『京鹿子娘道成寺』を初演。繰り返し演じ、富十郎の「道成寺」は、江戸の5代目團十郎の『暫』、大坂の初代菊五郎の『仮名手本忠臣蔵』の由良之助とともに名物に数えられました。芳澤あやめの三男として大坂に生まれ、幼くして立役の中村新五郎の養子となり、大坂の振付師中村京十郎の薫陶を受け、舞踊の技術を仕込まれます。享保16年(1731)江戸市村座で中村富十郎を名乗って初舞台を踏み、14歳のとき大坂で「石橋」の所作事と「八百屋お七」の娘役で大当たりをとり、役者評判紀の最高位に立ちました。所作事だけでなく地狂言にも実力を発揮しました。
初代岩井半四郎
承応元年(1652)温泉町の有馬に生まれました。生家は扇商。立役をつとめて大坂で名をあげ、元禄元年「けいせい玉手箱」で坂田藤十郎とともに好評を得ます。翌年、座本をかね、元禄期大阪の名優・嵐三右衛門と並ぶ地歩を築きました。元禄12年(1699)没。
四世岩井半四郎
延享4年(1747)生まれ。江戸の人形遣い辰松重三郎の子。二代目松本幸四郎(四代目市川團十郎)の門下となり、松本長松を名乗って初舞台。師匠の前名二代目松本七蔵に改名。後に岩井家の養子となって四世半四郎を襲名。江戸女形の家の基礎を築きました。風貌は丸顔で愛嬌があり「お多福半四郎」と呼ばれました。江戸を代表する女形として人気を誇り、三代目瀬川菊之丞と女形の両横綱と併称されました。寛政12年(1800)没。
四世片岡愛之助
明治4年(1871)小まれ。明治初期に活躍した中村宗十郎の門に入り、その養子・中村霞仙の弟子となって中村霞香と名乗ります。明治36年(1903)霞線が没したあと、明治40年(1907)1月、十一代目片岡仁左衛門襲名興行に加わり、四代目愛之助を襲名。大阪を本拠としながら仁左衛門に従って東西の舞台を踏みました。姫・娘・遊女から女房役、立役もつとめました。趣味の川柳を通して川柳家・岸本水府や劇作家・食満南北など大阪の文化人との親交が広く、後援雑誌『あいのすけ』も出されています。
天川屋利兵衛・大高源吾の墓
赤穂浪士の討ち入りが成功した裏には多くの協力者がいたとされます。討ち入りに必要な武器一式を取り揃えたとされる天野屋利兵衛もその1人です。芝居や映画などでは、武器を鍛冶屋に発注した折、 不審に思った鍛冶屋が奉行所に密告したため捕えられて吟味され、厳しい拷問に遭いながらも『天野屋利兵衛は男でござる』と啖呵を切り白状しない名場面となっていますが(「仮名手本忠臣蔵」では天河屋義平の名)、これは作り話で、天野屋利兵衛は芝居が作り出した非実在の人物というのが定説です。だが、利兵衛のモデルになったといわれる人の墓が、浪士・大高源吾の墓のある薬王寺に存在するのです。この人は大坂・内淡路町の商人で、生前「天川屋利兵衛」 と名乗りました(天川屋は代々町年寄を勤める名士)。享保3年(1718)亡くなっており、彼の生きた時代が赤穂事件の時代と重なることからモデルとされたのかも知れず、竹本座のスポンサーだったことから自分の登場を売り込んだとの話もありますが、真偽は定かではありません。
③ 圓妙寺 日蓮宗 (実川延若家の墓)
実川延若家
近代の上方歌舞伎で片岡仁左衛門・中村鴈治郎と並ぶ大名跡である実川延若は、実川額十郎の俳名です。幕末随一の和事師だった二代目額十郎の門弟が延若を名乗りました。初代延若も和事を得意としましたが、道化とエロチズムを特徴としました。初代の長男が二代目を襲名。上方和事の本道を守り、技芸抜群で、晩年に演じた石川五右衛門は映画や切手にもなり、芸術院全員に推されました。二代目の長男、三代目延若は、舞踊やケレンに長じ、古風な顔立ちと老若男女いずれも自在の多彩な芸で活躍しましたが、後継者を残せませんでした。
④ 正法寺 日蓮宗
(初代・三世中村歌右衛門、三世中村芝翫、初代芳澤あやめ、
二世中村富十郎、雁金文七・極印千右衛門の墓)
初代中村歌右衛門(正徳4年・1714〜寛政3年・1791)
金沢に生まれます。屋号は加賀屋。17歳のとき敵役の中村源左衛門に入門、中村歌之助と名乗りました。地方回りで修行し、敵役として名をあげ、寛保2年(1742)中村歌右衛門と改め、大芝居で活躍。宝暦7年(1757)江戸へ下り、四代目市川團十郎と人気を争い、上方へ帰ります。謀反人や国崩しなどの実悪・敵役に本領を発揮し、男性的でスケールの大きい人物像を創造。眼が大きく鼻の高い立派な容貌で、芸容が大きく男の色気があり、悪を演じても品がありました。寛政3年(1791)没。
三世中村歌右衛門(安永7年・1778〜天保9年・1838)
初代の子で、7歳で大坂の子供芝居に出て好評を得ます。寛政元年(1789)加賀屋福之助の名で初舞台。寛政3年(1791)三世歌右衛門を襲名。江戸へ三度下り、三代目坂東三津五郎・五代目松本幸四郎と芸を競いました。技芸抜群で、実悪・敵役をはじめ幅広い役柄をこなし、番付に「兼ねる」の称号を与えられました。映画や芝居にもなった『男の花道』の主人公です。俳名は芝翫、梅玉。文化10年(1813)大坂・心斎橋で小間物店「加賀屋」を始め、後に店名を「芝翫香」と改め、宝飾品店として今日に至っています。昭和49年(1974)同社が事務局となって「中村芝翫友の会」発足。平成5年(93)「中村芝翫後援会」となります。芝翫香は昨年創業200年を迎えました。店は心斎橋筋から御堂筋へと移っています。
初代芳澤あやめ(延宝元年・1673〜享保14・1729)
元禄期に女形の芸を確立した名優。紀州 中津村 の生まれ。5歳のとき父を亡くし、道頓堀の芝居小屋で色子として抱えられ、吉澤綾之助を名乗りました。当初三味線を仕込まれますが、丹波亀山の橘屋五郎左衛門が贔屓となり、女形としての修行を強く勧められました。のち口上の名手・水島四郎兵衛方に身を置き、初代嵐三右衛門の取立てで若衆方として舞台を踏みます。元禄5年、太夫の号を取得して芳澤菊之丞と改名。元禄11年(1698)「傾城浅間嶽」の傾城三浦役を好演して人気を博します。役者評判記「三ケ津惣芸頭」で高い評価を受け、その後立役に転じますが、不評で女形に戻りました。この頃、芳澤あやめを名乗ったと言われます。ライバルの女形・水木辰之助は派手な所作事で人気を博しましたが、あやめは地味なせりふ劇で実力をつけていきます。しっとりとした女形で、女形は美しいだけでなく、男に尽くす貞女の真心が表現されなければならない、しかも若くなければならないと主張。「若女形」はあやめによって確立された役柄です。三男の初代中村富十郎が実父の確立した若女形を継承することになります。
二世中村富十郎(天明6年・1786〜安政2年・1855)
子供芝居修行の後に三代目歌右衛門の門下となり、江戸に下って実力をつけ、大坂に帰って女形の頂点に立ちました。容貌に恵まれ、地芸も所作事もよく、時代も世話も出来ました。天保4年(1833)に代目を襲名。47年間の空白を経た名跡復活でした。
雁金文七・極印千右衛門
元禄15年(1702)千日前の刑場で雁金文七と弟分の極印ら4名が処刑されて首が晒されました。これが歌舞伎や人形浄瑠璃や講釈で「浪花五人男」と呼ばれるようになり、ここからヒントを得て江戸歌舞伎の「白浪五人男」がつくられたということです。
⑤ 常國寺 日蓮宗 (初代中村鴈治郎、四世中村歌右衛門、小説家・梶井基次郎の墓)
初代中村鴈治郎(安政7年・1860〜昭和10年・1935)
上方歌舞伎にゆかり深い大坂 新町 の扇屋に生まれました。父は三代目中村翫雀。明治7年(1874)初代実川延若の門弟となって実川鴈二郎を名乗り、のちに鴈治郎と改めました。明治11年(1878) 翫雀の後嗣となって初代中村鴈治郎と改め、翌年座頭となります。演劇改良運動に加わり大阪演劇改良会を組織。道頓堀の中座を本拠に、上方役者らしい、はなやかでやわらかみのある芸風で名実ともに大阪随一の花形役者となり、和事では色気のある眼遣いを発揮しました。「心中天網島」の紙屋治兵衛は『頬冠りの中に日本一の顔』と謳われました。当り芸「玩辞楼十二曲」も選定。昭和を代表する二枚目俳優・長谷川一夫は娘婿、俳優の林与一は曾孫に当たります。
四世中村歌右衛門
寛政10年(1798)江戸に生まれました。初代藤間勘十郎の養子となって踊りを修行していましたが、三代目中村歌右衛門が江戸に下ったとき門弟となり、中村藤太郎を名乗ります。文化9年(1812)師を追って大坂へ行き、文政8年(1828)二代目中村芝翫を襲名。江戸に帰り四代目坂東三津五郎と人気を競いました。天保7年(1836)道頓堀・角の芝居(のちの角座)で四代目歌右衛門を襲名。2年後江戸に下り、江戸を代表する名優となります。容姿は立派で押し出しがきき、芸域の広さは師をさらに上回り、時代物と舞踊を得意としました。嘉永5年(1852)没。
⑥ 本経寺 法華宗(本門流) (豊竹若太夫の墓)
豊竹若太夫は、竹本義太夫と並び、江戸前中期に活躍した太夫です。竹本座のライバルだった豊竹座の創始者でもあります。天和元年(1681)大坂に生まれ、義太夫の門人となり17歳で初舞台を踏みました。元禄16年(1703)道頓堀「竹本座」の東側に「豊竹座」を創始。この時から豊竹若太夫を名乗ります。興行主・小屋主・太夫を兼ね、美声をいかした華麗な節回しは独特の芸風を確立しました。明和元年(1764)没。
⑦ 久成寺 本門法華宗 (お初の墓)
『大阪伝承地誌集成』によると、近松門左衛門の『曽根崎心中』の主人公、お初・徳兵衛の、お初は天満屋の遊女で、天満屋が久成寺の檀家であった関係から墓が建てられたとしています。お初の300回忌に当たる平成14年(2002年)当寺の住職が再建。戒名「妙法妙力信女」が刻まれ、右面には「元禄十六年(1703)四月七日寂 曽根崎心中お初の墓」と刻まれています。天満屋の遊女某がお初を慕って墓前で自殺を図り住職に助けられたとの伝承もあるということです。
昨年再開場した東京歌舞伎座の歌舞伎ギャラリーに展示されている、明治以降に活躍した歌舞伎俳優たちの写真と経歴の一覧をざっと見ていくと、大阪の名優たちがいかに歌舞伎界に貢献してきたかわかります。