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ダルビッシュ・パパは歌舞伎ファン
 
12月12日、神戸。
ハンター坂から北野坂に引っ越した「ブライン・カフェ」のお披露目パーティがありました。会場にはダルビッシュ投手の父上の姿もありましたが、北野町を愛するというダルビッシュセファット・ファルサさんは開口一番、「私は歌舞伎が好きで、年に4回は観ています」と挨拶されたのです。
同カフェは、ハンター坂ではゴールデンウィークやクリスマスの期間限定イベントとして上演していた「カフェ・レビュー」を、北野坂での常時開催に向けて準備中でしたが、そのスタートとなる第一弾は、近鉄ツーリストの「クラブツーリズム」のイベントとして神戸スィーツとのコラボ企画となりました。乾杯のお酒は「福寿」の発泡酒。神戸市議会は「神戸灘の酒による乾杯を推進する条例」を10月27日に可決、11月1日から施行しています。
お目当てのレビューは、元OSK(大阪松竹歌劇団)日本歌劇団のメンバーが中心となり、客席には大阪松竹座の牧原広幸支配人の姿も見えました。「歌のタカラヅカに踊りのOSK」と謳われて、81年の歴史を誇るOSK日本歌劇団が、近鉄から支援を打ち切られて解散に追い込まれたのは、2003年のことでした。残った団員たちにより大阪の市民歌劇団として再出発することになりましたが、それとは別に、解散時のトップスターだった那月峻さんを中心にして「歌劇☆ビジュー」があらたに結成され、私も立ち上がりから深く関わってきました。 
歌劇☆ビジューは、神戸・ハンター坂を拠点に活動を続け、文化庁の芸術祭最優秀賞や兵庫県芸術奨励賞にも輝きましたが、このほど北野坂にカフェ・レビューの本拠地を構え、神戸のナイトライフを演出して観光立都に参画する運びとなりました。この10年余、地元の神戸・大阪・阪神間各市はもとより横浜でも公演してきましたが、1月3・4日、京都南座のOSK OG SPECIAL「ニューイヤードリームステージ京都」に出演することになりました。
 

九團次復活

  九團次復活
 
なんと、芸養父の坂東竹三郎に破門されて、いつの間にか大阪から東京へ本拠を移し、市川海老蔵の一門に加わっていた、市川道行(前名は坂東薪車)が、来年1月に市川九團次を四代目として襲名することになりました。
 先代の九團次は関西歌舞伎の脇役だった人で、私の記憶に間違いがなければ、切手にもなっている二代目実川延若の「楼門」(1950年大阪歌舞伎座所演)が松竹の歌舞伎映画になっていますが(楽屋での延若や、松竹会長だった白井松次郎も登場する、貴重な映画です)、そこに石川五右衛門に絡む捕り手の役で出ていた俳優です。昭和30年頃に他界しています。
 その九團次の養子となったのが、映画界の大スターとなって早逝した、市川雷蔵です。雷蔵は、その後、さらに市川寿海という大物俳優の養子となったので、元の養父であった九團次の名は長く忘れられていました。どういった経緯で襲名することになったのかは知りませんが、関西ゆかりの名跡がまたしても関東へ移ることになります。
 

〈盛綱陣屋〉雑感

 〈盛綱陣屋〉雑感
 
大坂冬の陣から400年になる来年ではなく再来年の大河ドラマの主人公に〈真田幸村〉が選ばれましたが、10月8日から14日まで阪神百貨店で開催された『大坂ヒーロー幸村と真田十勇士』展は大入りだったようです。私は台風19号が迫る13日の昼過ぎに覗いてみましたが、まもなく電車が止まるかもしれないというのに(午後4時からJR西日本は全線運休)若い女性客が少なからず来場しているのにはちょっと驚きました。
会場には大阪の陣を素材にした「盛綱陣屋」や「鎌倉三代記」を解説する展示スペースも取ってありました。昨年の東京歌舞伎座柿落とし公演で「盛綱陣屋」を出した片岡仁左衛門は、17年前の大阪松竹座再開場の折にも盛綱を演じていますから(前名の片岡孝夫の頃)、きっと愛着ある役なのでしょう。私の好きだった三代目の実川延若も自身が座頭となった興行では盛綱をよく演じましたし(昭和50年6月大阪中座、51年3月東京歌舞伎座)、現・仁左衛門の父である十三代目仁左衛門も「盛綱をやりたいなあ」と晩年近くなっても洩らしていたものです。「大阪の顔」と謳われた初代中村鴈治郎の盛綱は図抜けた役者振りで観客をうならせたそうですが、華やかな二枚目で鳴らした十五代目市村羽左衛門や肺腑をしぼるがごとき初代中村吉右衛門の入魂の盛綱が東京では定評あるものでした。初代吉右衛門の盛綱は映画になっていますが、癇のきいた声が印象的です。
私が懐かしく思いだすのは、昭和42年の初代鴈治郎33回忌追善興行(大阪新歌舞伎座)で市川寿海が演じた盛綱です。母の微妙は二代目鴈治郎、篝火は六代目中村歌右衛門だったかと記憶しますが、80歳を超えて背中は曲がっていたものの、すこぶる声の良い優でしたから、首実検のあとの名調子が活きました。そして、そのとき思ったのは、寿海の養子で映画スターとなった市川雷蔵(1931〜1969)の盛綱をいっぺん見てみたかったなあということでした。それからほどなく雷蔵は帰らぬ人となってしまうのですけど
もう一人、今の中村歌六が前名の米吉の時代、国立小劇場の若手勉強会で盛綱を爽やかに演じたのは40年以上も前のことですが、これがなかなか良かったことを書き添えておきましょう。
 
 
あどけない子役を使って泣かせる件りが如何にもあざとく、こんなに技巧的な計略が現実にありうるものかしらんと疑問に思うものの、それでも「盛綱陣屋」が私の大好きな芝居であることには変わりありません。この一幕は、明和六年(一七六九)十二月に大坂竹本座で人形浄瑠璃として初演された『近江源氏先陣館』の八段目に当たり、歌舞伎では翌七年五月に大坂中の芝居(のちの中座)で初演されました。ちょうど今から400年前の大坂の陣における徳川(江戸)と豊臣(大坂)の対立を、頼朝没後の実朝と頼家の世継争いに仮託し、徳川は鎌倉方、豊臣は京方としています。兄弟でありながら敵味方に分かれて戦った真田兄弟の相克を鎌倉時代に移し替えているわけで、登場人物のモデルはざっと次のようになります。
 
佐々木盛綱―真田信幸 佐々木高綱―真田幸村
北条時政―徳川家康  和田兵衛―後藤又兵衛
時姫―千姫      宇治の方―淀君
源頼家―豊臣秀頼   源実朝―徳川秀忠
片岡造酒頭―片岡且元 三浦之助―木村長門守
 
 大坂落城から1世紀半の間に累積された、副都大坂のルサンチマンが結晶化された芝居といってもよいでしょうか。10月9日は真田幸村が大阪城へ入城した日に当たるというので、400年後のこの時期にご当地ヒーローの催しが開かれた阪神百貨店の会場には、猿飛佐助や霧隠才蔵が活躍する上方講談速記本「難波戦記」の書籍が展示されていました。講談速記本とは、明治期の講談を速記者が筆記したもので(講談社という出版社の名はこれに由来します)、「難波戦記」では家康が幸村の地雷にまんまとしてやられ、逃げる途中に後藤又兵衛に槍で突かれ絶命してしまうのです。なんと大坂の講談では徳川家康は討死したことになっているのです。
真田十勇士の名を世に広めた「立川文庫」も展示されていました。大正期に大阪の出版元・立川文明堂から出版された大ヒット文庫本シリーズで、「猿飛佐助」や「霧隠才蔵」が大活躍し、今に至る真田十勇士が誕生したのでした。この血湧き肉躍る物語を書いた池田蘭子(1893−1976)という女性は、『女紋』というドラマの主人公にもなった有名な女性で、西宮市の拙宅のすぐ近所に住んでいました。
毎年5月5日夏の陣で真田幸村が戦死した地、安居天神(大阪市天王寺区逢坂2丁目3安井神社)では「幸村まつり」が行われています。社務所の脇の崖下にある1㎡ほどの空井戸とそれを取り巻く玉垣は、幸村の時代からさかのぼること700年、菅原道真が滞在した折に患った病気を癒したと伝わる「安井の清水」。飲ませると子供の癇の虫が治まるとの意味から、俗称「かんしづめ(癇静め、神鎮め)の井」と呼ばれています。『菅原伝授手習鑑』の二段目は「安井の浜」となっていますが、平安時代ここは浜辺でした。神社の創建は四天王寺建立の頃とされますから、道真の時代よりさらに300年さかのぼることになります。この安居の天神は『小さん金五郎』にもちらりと名が出てきます。
 
 
                       
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池田 蘭子
 
 
 
 

成駒屋が帰ってきた

 松竹の元常務で、歌舞伎演出家としても知られた中川芳三(奈河彰輔)氏が亡くなられました。7月には上方歌舞伎絵師の穂束とよ國氏も他界され、関西の芝居を知る人が次々と亡くなっていくのは寂しい限りですが、中村鴈治郎という名跡が大阪へ帰ってくるのを素直に喜びたいと思います。
 四代目鴈治郎を襲名することになった中村翫雀と13年前に雑誌『関西文学』誌上に掲載した対談を再録してみました。
 
成駒屋が帰ってきた
 
河内厚郎 4月からABCテレビ「おはよう朝日・土曜日です」にコメンテーターとしてレギュラー出演なさってますね。
中村翫雀 わりと簡単に引き受けちゃったんですが、大変だったと思い知りました。名古屋の御園座に出演しているときなど、大阪に朝戻ってくるのでは間に合わないということが初めは分からなかったので、慌てました。
河内 このたび大阪にお住まいを持たれたわけですが、どちらのほうですか。
翫雀 谷九(谷町九丁目)です。松竹座をはじめミナミに行くのには便利なところですし、以前から大阪公演のときは、その近所のホテルに長期滞在していました。近くにはうちの家(中村鴈治郎家)がお世話になっている(上方舞の)山村流のお師匠さんも住んでらっしゃる。曽祖父、初代鴈治郎の墓もある。近松門左衛門の『曽根崎心中』の舞台になった生国魂神社もすぐそばで、緑の深い土地なのかなと思います。以前から「関西に留学してほしい」という声はあったんです。もともと先祖が大阪の役者でしたから。
河内 御家族は東京にいらっしゃるので、単身赴任ということになりますか。
翫雀 ええ。といっても、ふだんから年の半分くらいは東京以外の仕事ですから。週末には家族も来たりします。
河内 初代鴈治郎のお墓(常国寺)がある、天王寺区の中寺町あたりは名優の墓所が密集しているところですが、今の鴈治郎家は鎌倉にお墓があるとか。
翫雀 祖父は初代鴈治郎の三男ですが二代目鴈治郎の名跡を継いだわけです。鴈治郎を継いだからといって、本家の寺に分家が墓をつくるわけにはいかないので、鎌倉に墓をつくったんです。大阪の墓は、祖父の兄、林又一郎家で守って頂いております。
河内 又一郎さんのお孫さんが林与一さんですね。
 
 
 
河内 さて、中村智太郎の名で三越劇場(東京)の若手歌舞伎に出られたのが、もう二十四、五年前になりますか。「弁天」の勢揃いだったと覚えていますが、なかなか愛嬌がありましたよ。
翫雀 愛嬌だけですよ(笑)。あのときから役者として出発したんです。僕も弟(中村扇雀)も、歌舞伎役者としては他の人より十年遅れました。母(扇千景)が、子供にはまずきちっと学業を修めさせる、という考え方でしたから。ですから、役者になってからは、みんなに追いつこうと必死でしたね。
河内 それからほどなく、お祖父さまが倒れられた『曽根崎心中』の平野屋徳兵衛に代役で出られましたね。初役でしたけど、どんなお気持ちでした。
翫雀 それが何も覚えていないんですよ。芝居がはねてから祖父に報告にいったんですが、喜んでくれるどころか、「ふん」と目をそむけられてしまいました(笑)。やっぱり役者は、子でも孫でもみんなライバルなんですね。自分の持ち役を取られたわけですから。
河内 お父さまも、天満屋お初の役を手放されません(笑)。
翫雀 『曽根崎心中』は古典というよりも新歌舞伎の作品で、宇野信夫先生が脚色されたものですが、お初は父がつくりあげた役といってもいいですからね。
河内 お父様のライフワークとなった「近松座」も20年に。
翫雀 いまちょうど父は(坂東)玉三郎さんや(片岡)秀太郎さんと国立文楽劇場で『心中天綱島』をやっているんですが、それはまだ見ていません。今月末から来月にかけて父とイギリス公演にいくんですよ。ロンドンとマンチェスターで『曽根崎心中』と『釣女』をやります。
河内 お父様が十年前に二代目扇雀から三代目鴈治郎を襲名されたとき、そして智太郎から翫雀、浩太郎から扇雀の襲名の折も、中座で真っ先にお披露目があり、関西の歌舞伎ファンは嬉しく思ったことでしょう。故(三代目)実川延若さんの襲名などは、大阪役者ながら、東京での襲名が先になってしまいまいたから。
翫雀 初代鴈治郎は初め実川姓を名乗っていたんです。初代延若の下で修行しましたから。初代鴈治郎の父三代目中村翫雀は新町の扇屋の娘妙と恋に落ち、扇屋に婿入りしましたが、役者が忘れられず母子を捨てて江戸に上ってしまいました。その後扇屋は没落し曾祖父は非常に苦労をした様です。そんな親の名を、役者になった曾祖父は継ぎたくなかったんですね。
河内 扇屋といえば、『廓文章』のヒロイン扇屋夕霧の抱え主だった、あの扇屋のことですね。その初代の父である翫雀の名を、お祖父さまも一時名乗っておられました。
翫雀 初代が一代で築いた鴈治郎という名が大きすぎて、祖父はすぐ二代目を継ぎたくなかったんですね。プレッシャーだったんでしょう。でも鴈治郎を継いでから映画へ行っちゃったりしましたけど(笑)。そういえば父だって扇雀時代はそんなに歌舞伎をやってなかったですよね。よく色物をやってました。
河内 梅田コマ劇場で有馬稲子さんと共演なさった『浪花の恋の物語』とは拝見しました。「梅川忠兵衛」をアレンジしたものですけど、新町に蕎麦ぼうろ「忠兵衛」も看板が架かっていまして、その下に初代鴈治郎生誕の碑があります。そこが扇屋の跡ですね。坂田藤十郎が演じた「夕霧伊左衛門」物の舞台でもあるわけですが、いよいよお父さまが上方和事の元祖ともいうべき坂田藤十郎の名跡を四年後に襲名なさいます。
翫雀 2百年以上も途絶えていた藤十郎の名を父は登録してあったんですね。何としても継ぎたかったんでしょう。もう年齢的にもラストチャンスでしょうし。年老いて花がなくては困るでしょうから(笑)。でも僕にとっての父は、鴈治郎よりやっぱり扇雀という名のほうが印象深いですね。
河内 何しろ扇雀飴があったくらいですから(笑)。
翫雀 鴈治郎飴というのもあったんですってね(笑)。
 
 
 
河内 そして、翫雀さんは四代目鴈治郎を襲名ということに。
翫雀 今になると、翫雀を襲名しておいてよかったと思いますね。いきなり鴈治郎じゃ自分というものをつくることができなかったでしょうから。もっとも、私の襲名はタイミングとしては少し早すぎる気もしています。継ぐなら少しでも早いほうがという考えもありますが、祖父が二代目鴈治郎を継ぐ前に翫雀を名乗ってワンクッション置いたように、大きな名前なので一時空席になってかまわないとも思うのですが。
河内 で、今後はどんな役をやりたいですか。
翫雀 『椀久』なんかやりたいですね。父も玩辞楼十二曲のなかでまだやっていない芝居があるんですよ。十二曲も和事ばかりじゃないんですけど、そのひとつ『封印切』の忠兵衛を七月の松竹座でつとめます。
河内 五年前の『女殺油地獄』(国立文楽劇場)の河内屋与兵衛は、片岡仁左衛門さんのやや和事風の与兵衛とは違って、骨っぽいというか、男くさい不良青年が迫力ありました。
翫雀 本来そういう役だと思うんですよ。
 大阪に住まいを構えたことを期に義太夫も改めて勉強させて頂きたいと思っています。義太夫は上方のお芝居の基でもありますし、色というか匂いを大切にしたいですね。匂いと言えば由緒ある道頓堀の中座が閉じてしまったのは本当に痛いですねえ。芝居にぴったりの大きさだったんですけど。まだ建物そのものは壊していないんだから、いっぺん使わせてくれと言ってるんですけどね。
河内 こうしてお話していると、関西風のイントネーションになってこられましたね。
翫雀 それは嬉しいですね。言葉だけでなく、こちらに生活の拠点をもつことで「関西色」「大阪色」のようなものがおのずと身に付けば、と思うんです。大阪に家をもったことを、皆さん本当に喜んでくださってます。僕も本当に良かったなと思います。
河内 お父様は北新地の「ろまん亭」でときどきお見かけしますが、翫雀さんはどのへんに飲みにいかれるんですか。
翫雀 キタよりミナミへ遊びにいくほうが多いですね。
 
2001年5月12日、旭区民センターで行われた「お芝居探検隊」特別企画“上方歌舞伎役者・中村翫雀丈をお迎えして”(主催:関西・歌舞伎を愛する会 協力:大阪市文化振興課)より載録。

信太の森と小栗街道

信太の森と小栗街道
 
昨日は『芦屋道満大内鑑』の舞台である信太森葛稲荷神社と、「小栗街道」へ行ってきました。
歌舞伎の『芦屋道満大内鑑』では、有名な「葛の葉子別れ」の舞台である、安倍保名の家の場面(現・安倍晴明神社)がよく上演されますが、その前に、信太の森で保名に助けられた白狐が許嫁の葛の葉姫の姿に化けて契りを交わして一子を儲けるという件りがあり(その子が成人して陰陽師の安倍晴明となるという筋書です)、正体を知られた狐は故郷の森へと帰って行くのです。文楽ではしばしば、こちらも上演されています。
その森が、大阪府和泉市に今も姿をとどめていると聞いて出かけたのですが、はたして原作をしのばせる景色が広がっていました。白狐と保名が出会ったとされる場所は鏡池史跡公園になっていて、芝居絵などの資料も展示されています。
 
そのすぐ近くを、小栗判官と照手姫が通ったという、小栗街道が南北に通っていたのです。小栗判官物は近頃は上演されませんが、昭和49年に道頓堀の朝日座で武智鉄二が演出した『小栗判官車街道』は、ほとんど1日がかりの通し狂言で、とても面白いものでした。その後は、市川猿翁が大幅に改訂した『当世流小栗判官』や、スーパー歌舞伎の『オグリ』が知られています。
醜い顔となって足も立たなくなってしまった小栗判官を、照手姫が車に乗せて熊野へ向かう、その道が信太の森の傍を通っているのです。
 
   
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             小栗地蔵
 
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             信太の森 

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