|
船乗り込み今昔
6月29日、毎年恒例の「船乗り込み」が行われて、終着点の道頓堀戎橋周辺は歌舞伎ファンで埋まりました。坂田藤十郎・片岡仁左衛門・片岡秀太郎らが乗る船に私も同乗しましたが、秀太郎がまめに立ち上がって写メを撮るのは、自身のブログに使うためではないかしらんと想像していたら、はたして、その通りでした。
歌舞伎役者を乗せた船団が、鉦(かね)と太鼓のお囃子を響かせながら、大川(旧淀川)をさかのぼり、東横堀川を南下して、芝居町の道頓堀まで巡行する―大阪にお目見得する江戸(東京)役者の人気をあおる際、また地元の人気役者が襲名をする際にも行われていました、水都の風物詩「船乗り込み」が昭和五十四年に復活します。大正期までは豪気な贔屓筋の多かった堂島の浜から出発していましたが、ほぼ半世紀ぶりの復活後は、中之島の大阪市庁舎南側から乗船、土佐堀川を西へ向かうコースとなりました。ゴールとなる劇場は道頓堀の朝日座で、翌年から中座、平成9年からは大阪松竹座へと変わります。巡行も、三十石船の発着点だった天満橋・八軒家浜から東横堀川へと向かうコースに変わって定着した観ありますが、三十石船と船乗り込みは特に関係もありませんので、私は堂島か中之島から出発するのが本来だと思うのです。
華やかな芸能者の一団が船に乗ってやってくる光景は、大阪出身の歌人・民俗学者、折口(おりぐち)信夫(しのぶ)(二代目実川延若の贔屓で知られた)の言う「まれびとの来臨」を想起させます。
「まれびと」とは、海の彼方から訪れて幸をもたらす神のこと。内陸部では川を遡ってくる神の姿として現われるとされました。
このとき半世紀ぶりに登場し、まれびとの面々は、先代中村吉右衛門一座の船乗り込み(大正13)に参加した思い出を懐かしむ先代中村勘三郎、その子の中村勘九郎(現勘三郎)、道頓堀で初舞台を踏んだ中村富十郎、大阪人気質や阪神間の街々が大好きと語る坂東八十助(現三津五郎)・・・・そして、「船乗り込み」復活の発案者・仕掛け人、澤村藤十郎(現在闘病中)でした。兄の九世澤村宗十郎(故人)とのダブル襲名となる興行(昭和52年5月新歌舞伎座)の不振が直接の原因で大阪顔見世が絶えてしまったことへの無念の思いが、関西での歌舞伎復興にかける情熱へと転じ、それに松竹が応えて、時の大島靖大阪市長や岸昌府知事も早々と賛同の意を表明したのですが、中心となって動いてくれたのは、松下電器(現パナソニック)の労組でした。
平成15年、淀川流城の府県にまたがり開催された「水フォーラム」で、船上から大阪の都心を見物した海外のジャーナリストたちは「水際にビルが立つ風景が印象的」と感想を語っていたものです。松竹映画『残菊物語』(昭和38、主演・市川猿之助・岡田茉莉子、のちに八代目嵐吉三郎となる北上弥太郎の最後の出演映画)に登場する五代目尾上菊五郎一座の船乗り込みのシーンが海外で評判を呼んだというのも、水際の建物から身を乗り出し花形役者に声援を送る浪花っ子の熱狂が鮮烈な印象を与えたからです(この明治25年に行なわれた五代目菊五郎と初代市川左団次による道頓堀競演の熱気は『名優船乗り込み』〈村松梢風・著〉を、また大正四年に行なわれた二代目延若襲名披露の船乗り込みの賑々しさは『遥かなり道頓堀』〈三田純市・著〉を参照してください)。
こうして船乗り込みを復活させることで大阪人の郷愁とロマンを呼び覚ました七月大歌舞伎には、歌右衛門・松緑(先代)・芝翫らを除くほとんどの幹部俳優が出演することとなりました(歌右衛門と芝翫の両優は平成5年5月の現中村梅玉・福助の襲名時、半世紀ぶりに中座の舞台を踏んでいます)。とりわけ中座の芝居小屋らしい雰囲気を活かした『東海道四谷怪談』(昭和63)は大阪での勘九郎(当時)人気を高め、祖父の三代目中村歌六が大阪役者だったことから「大阪人のクォーター」と自称することが好感度を押し上げました。
船乗り込みに見るような、街の歳時記に歌舞伎を組み込ませて興行の活性化を図る試みは、平成三年1月〜2月の三代目中村鴈治郎襲名に先立ち、前年夏の天神祭に「鴈治郎船」を出し、十日戎の宝(ほ)恵(え)籠(かご)には鴈治郎本人が乗りこむといった手法にもひきつがれます。(明治三十九年に始まる南座の顔見世も、本来の顔見世の趣旨とは直接には関係なく、観光古都の冬の風物詩として定着したものです)
中之芝居と呼ばれた江戸時代から昭和初期まで、西日本で最高位に位置した道頓堀の中座は、私にとっても懐かしい劇場です。平成七年一月十七日、阪神大震災で倒壊した自宅から自転車で大阪へ出て、中座初春歌舞伎(現中村翫雀・扇雀の襲名披露)の劇評を日経新聞大阪本社へ届けた長い一日を、昨日のことのように思い出します。
その中座で昭和十八年に初舞台を踏んだ五代目中村富十郎も亡くなりました。片岡仁左衛門・坂東竹三郎・中村壱太郎らの初舞台も中座で、ちなみに坂田藤十郎は道頓堀の角座が初舞台(昭和十六年)。片岡我當・市川右之助らは千日前にあった大阪歌舞伎座。片岡秀太郎・片岡愛之助・中村亀鶴は京都南座。上村吉弥・片岡進之介・嵐橘三郎が大阪新歌舞伎座。片岡松之助が道頓堀の朝日座、片岡當十郎が神戸八千代座・・・平成以降は坂東薪車ら大阪松竹座が初舞台という若手がふえてくる(薪車は竹三郎から破門され、現在、歌舞伎の舞台に立っていません)。近年の物故俳優では、坂東吉弥が千日前の大阪歌舞伎座、市村吉五郎(十二世仁左衛門の実子、現家橘の父。筆者の母校・西宮市立大社小学校のOB)が天満の八千代座、嵐徳三郎が道頓堀・中座が初舞台の場でした。
終戦時、東京歌舞伎座が再興されるまで東西俳優の檜舞台であった千日前の大阪歌舞伎座(昭和7〜33)は、二代目延若の伝説の舞台「楼門」(石川五右衛門の舞台姿は切手に登場)を撮った記録映画(真柴久吉は阪東寿三郎)で、巨大な丸窓が異彩を放った、在りし日の姿をしのぶことができます。松竹創業者・白井松次郎も登場し、肉声で語るという貴重なフィルムです。映画スターとなった八代目市川雷蔵、現・林与一(初代鴈治郎の曽孫)らも初舞台を踏んだ大劇場は、千日デパートに改造され、昭和五十八年に解体。その後はプランタン・デパート、今はビックカメラと移り変わり、隔世の感があります。
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- ブログバトン



