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山村流と上方歌舞伎

  山村流と上方歌舞伎
 
9月9日、ピッコロシアターで、山村流六世宗家、山村若さんの話を聞く会がありました。チラシには「山村若」とありましたが、実はすでに、この夏、流祖の名である山村友五郎を三代目として襲名しており、長男の方が山村若を襲名しています。チラシが撒かれてから、四柱推命により、種名を急ぐことになったのだそうです。
 山村流は大阪の花街で舞われてきた座敷舞ですが、商家の子女の教養としても親しまれて、谷崎潤一郎の『細雪』では、四姉妹の末娘(こいさん)が山村流の舞を披露しています。座敷での「舞」として発展したわけですが、初代友五郎は、三代目中村歌右衛門の振付師としても名を成したので、山村流の中には、しっとりとしてスタティックな座敷舞の系譜と、上方歌舞伎舞踊としての系譜の両方があり、歌舞伎や宝塚歌劇の振付なども幅広く手掛けてきました。(三代目友五郎の父は、『ベルサイユのばら』の演出家として名高い植田紳爾さんです)
 来る正月、四代目中村鴈治郎が誕生します。 文楽でも、吉田玉女が、戦後の名人だった吉田玉男の名を継ぐことになりました。
 大阪の新しい時代が始まっています。
 
        
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               長唄「浦島」
 
 
 

鴈治郎四代

 鴈治郎四代
 
芦屋のジャズ・ライブ・レストラン『レフトアローン』で中村翫雀にばったり会ったことは前にも書きましたが、髭が濃い素顔にはちょっとビックリしたものです。
来年1〜2月、大阪松竹座で、翫雀改メ4代目中村鴈治郎の襲名披露が行われます。歌舞伎界で2ヶ月続きの襲名披露は、片岡仁左衛門の襲名(平成10年)以来です。
 鴈治郎といえば何といっても、「大阪の顔」と呼ばれた初代が有名です。容姿に優れ、明治・大正・昭和の三代にまたがり大阪の歌舞伎界に君臨しました。当たり役のひとつ、『心中天の網島』の紙屋治兵衛は「頬かむりの中に日本一の顔」と川柳にも詠まれたスーパースターでした。来年はラジオ放送が始まって90年になりますが、大阪放送局(JOBK)が大正14(1925)年6月、当時は北浜・三越の屋上にあったスタジオから初代鴈治郎の『熊谷陣屋』を放送しました。和服でマイクに向かった鴈治郎が生放送をした後、「よう聞いておくれやした。ありがとさんです」と言って大評判となったそうです。
この初代鴈治郎の長男である林又一郎(二代目)は夙川に居を構えたので、梨園では「夙川のおじさん」と呼ばれました。その孫が林与一です。二代目を継いだのは初代の三男。映画界でも活躍したので、覚えている人も少なくないことでしょう。その息子が、翫雀の父である坂田藤十郎(前名・三代目中村鴈治郎)で、長く中村扇雀という名で活躍しました。小林一三(阪急電鉄・宝塚歌劇・東宝の創始者)に請われて「宝塚映画」の専属俳優となっていた時期もあります。今年の宝塚映画祭では彼の主演した『白井権八』(1956)が上映されますが、のちに妻となる、宝塚歌劇団娘役だった扇千景も出演しています。宝塚の撮影所が火事で焼けたため、西宮北口にスタジオを移して撮られていた時期の作品です。幼稚園に入るちょっと前、母親に連れられて撮影風景を見物に出かけたことを懐かしく思い出します。
 その後まもなく扇雀は東京へ本拠を移したので(その頃から大坂の歌舞伎役者が東京へ移り始めるのですが)、息子の翫雀も東京育ちとなりましたが、今回の襲名を機に、翫雀とその長男・中村壱太郎は大阪へ住民票を移すとのこと。父祖の地を大切にしたいとの思いからでしょう。
 
歌舞伎学会が出している『歌舞伎 研究と批評』(9月10日発行)に「演劇季評〈平成25年上半期〉」を寄稿しました。タイトルは「丸本離れを危惧する」としました。
 
 
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 道頓堀「今井」の前に立つ岸本水府の川柳碑
「頬かむりの中に日本一の顔」

時代物と義太夫狂言

時代物と義太夫狂言
 
昨日、NHKで「蘭平物狂」を放送していました。尾上松緑が祖父(二代目松緑)と父(初代尾上辰之助)から継承した、時代物の義太夫狂言ですが、このところ松緑は役者っぷりが上げてきたと思います。
もう45年も前の記事になりますが、季刊雑誌『歌舞伎』昭和4441日発行の号に、先代の尾上松緑が寄せた一文があります。
 
〈年と共に、時代物が好きになってきます。私も、『千本桜』の知盛、熊谷など好きな役々です。六代目が晩年に『忠臣蔵』の師直や由良之助を演じたのは、時代物に戻っていきたいという願望のあらわれということができましょう。若い頃に、義太夫を勉強することは大切なことで、これが楷書の修業です。楷書の義太夫物から入って、楷書に戻る。これが歌舞伎役者のたどっていく道なのではないかと考えております。先代の延若さんが、『楼門』の五右衛門を、坐ったきりで演じられてあれだけ立派だったのは、時代物の素養がきちんと身についていられたからでしょう。
私は12、13歳の頃に大阪にいて喜左衛門お師匠さん(その頃はまだ勝平時代です)に、『時雨の炬燵』を習いました。兄貴たちは『太十』『十種香』という当たり前のものを習いましたが、私だけはどういうわけか『時雨の炬燵』でした。しかし、この稽古は厳しいものでした。お師匠さんが二十歳ぐらいの時の筈なのに、そんな年齢とは、とても思えませんでした〉
 
 123歳の頃に大阪にいたというのは、関東大震災の難を逃れ、東京の主力俳優たち(松竹入りを拒んでいた六代目尾上菊五郎を除き)が、大阪に本拠を移していた頃の話でしょう。
 江戸の世話物をチームワークで演じるのが得意な菊五郎劇団ですが、その主力俳優であった先代の松緑にしても、七代目尾上梅幸にしても、義太夫狂言によって芸格を確立したという事実は否めないのです。楷書あっての行書であり、草書であるということです。
 成功だった上方歌舞伎会
 
8月23、24日に国立文楽劇場で行われた第24回「上方歌舞伎会」(歌舞伎俳優既成者研修発表会)が大きな収穫でした。演目は『信州川中島合戦』「輝虎配膳」と『義経千本桜』「椎の木」「小金吾討死」「鮨屋」でしたが、なかでも片岡松十郎の(大阪式の)いがみの権太が出色の出来で、終演後に師匠の仁左衛門も褒めていました。2年前に松竹座で愛之助が演じた(すっきりとした)権太より、骨太で男性的な人物像になっていたと思います。片岡りき彌のお里も美しく、片岡千壽の弥助実は維盛も落ち着いた出来映えでした。
 片岡千壽といえば、このほど大阪市の「咲くやこの花賞」を受賞し、それを記念する会が25日に大阪倶楽部でありました。この人は、お姫様や傾城より花車方(お茶屋の女房のような役)が好きという女形です。
 「輝虎配膳」で老女の越路を演じた片岡千次郎も着実に力をつけてきていると感じました。
 
 25日の千壽の受賞記念の会で、挨拶に立った片岡秀太郎丈の言葉で印象に残ったのは、歌舞伎のドラマは大阪が産み出してきたという発言でした。これは歌舞伎の演目の中心となる丸本物が大阪製であるのはもちろん、江戸歌舞伎のヒーローである「助六」や「白浪五人男」の原型も大阪の芝居にあるのです。次回はそれを具体的に
 
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歌舞伎とタカラヅカ

 歌舞伎とタカラヅカ
 
8月17日(日)14時〜15時半、「宝塚100年展」を開催中の兵庫県立美術館で記念講演会を行うことになりました。
会場では、その華麗な舞台の歴史を、衣裳・ポスター・写真などでたどり、公演で使用した階段セットの再現や背負い羽根でタカラジェンヌの気分を味わえるようになっています。かつて宝塚のビデオシアターで、公演ごとに上映されていた歴代トップスターのパーソナル映像の上映もあります。
私は、宝塚と歌舞伎の関係についても語るつもりです。というのも、タカラヅカの創始者である小林一三は歌舞伎の愛好家で、歌劇の回り舞台やセリなども歌舞伎から摂り入れた舞台装置だからです。歌劇草創期には七代目松本幸四郎や六代目尾上菊五郎が歌劇団と関わり(菊五郎は宝塚の舞台で「娘道成寺」を踊りました)、戦後も関西歌舞伎の林又一郎の指導による「宝塚義太夫歌舞伎」の公演が行われて、これは本格的な古典劇でした。日本舞踊では先代の尾上松緑が指南役となり、松緑自身も宝塚大劇場の舞台に立っています。
そんな「タカラヅカの中の歌舞伎」について語ります。
 
 
 
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