日記

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ | 次のページ ]

歌舞伎の義太夫物

歌舞伎の義太夫物
 
歌舞伎や文楽など、わが国の近世演劇は、16世紀に大阪湾岸へ渡来した三味線音楽の浸透により成立したから、歌舞伎劇には、伴奏として当然に三味線が入ることになりました。とりわけ「義太夫物」と呼ばれるジャンルでは、ほとんど劇の進行を決定するほどの役割をになうことになります。
この「義太夫物」とは、竹本義太夫(1651〜1714)の創始した「義太夫節」が人形浄瑠璃(のちの文楽)の流行により大坂で隆盛を極め、それが歌舞伎の中へ移入されて主要なレパートリーとなったものです。義太夫節の画期的成功は、いうまでもなく竹本義太夫という音楽家の才能と精進によるものですが、近松門左衛門が作者として協力したこともあずかっていました。
そんな義太夫節が伴奏音楽として定着した18世紀初頭からの作品が歌舞伎の主演目となっているため、歌舞伎の義太夫物(丸本歌舞伎)と文楽(人形浄瑠璃)の演目とは、ほぼ重なり合っているのです。
古典歌舞伎の三大傑作である『仮名手本忠臣蔵』(1748人形浄瑠璃、1749歌舞伎)『義経千本桜』(1747人形浄瑠璃、1748歌舞伎)『菅原伝授手習鑑』(1746年9月人形浄瑠璃、十月歌舞伎)は、いずれも大阪の浄瑠璃作者たちによって原作が書かれました。
赤穂浪士の討ち入りという巷のニュースを「忠臣蔵」という国民劇に仕立てたのは芝居町の道頓堀であり、大坂天満の町に三ツ子が産まれ話題となったことをうけて、菅丞相(菅原道真)の失脚をめぐり梅王丸・松王丸・桜丸という三ツ子が登場する筋に仕立てたのが『菅原伝授手習鑑』というわけで、近世大坂町人の天神信仰がしのばれます。
 
  
イメージ 1
大阪天満宮正門
 
 
歌舞伎発祥は、いつ?
歌舞伎を初心者に講義する際、出雲の阿国や(かぶ)き者といった、近世初頭(17世紀)の芸能から説き起こすのが通例となっているようですが、私は腑に落ちないのです。
「かぶき(者)」といった言葉が一般的に使われていた時代のせいか、歌舞伎草創期(とされる17世紀初頭)から元禄期くらいまで(18世紀初頭)の舞台芸術を、歌舞伎の歴史として、学校でもカルチャーセンターでも教えているというのが実状ですが、今われわれが歌舞伎と呼んでいるのは、どうみても18世紀以降の産物です。17世紀の作品で上演されているのは『暫(しばらく)』(1697)くらいのものではないでしょうか。
回り舞台やセリ、スッポン(花道のセリ)など歌舞伎劇場の独特な舞台機構も、18世紀に道頓堀の劇場で発明されています(回り舞台は幕末期に西欧へ紹介され自動車のターンテーブルに応用されました)。
まだ野天の小屋だった17世紀の芝居は現在に伝わっておらず、上演もされていないのが実情です。
第一、阿国というのは女優であって、歌舞伎を色濃く特色づけている「女形」ではありません。もし阿国の念仏踊りが歌舞伎のルーツというのなら、一遍上人の踊り念仏(13世紀)こそ歌舞伎の祖ではないかと、歌舞伎俳優の片岡我當氏などは反論しているほどです。
 
 
イメージ 1
 

船乗り込み今昔

船乗り込み今昔
 
6月29日、毎年恒例の「船乗り込み」が行われて、終着点の道頓堀戎橋周辺は歌舞伎ファンで埋まりました。坂田藤十郎・片岡仁左衛門・片岡秀太郎らが乗る船に私も同乗しましたが、秀太郎がまめに立ち上がって写メを撮るのは、自身のブログに使うためではないかしらんと想像していたら、はたして、その通りでした。
歌舞伎役者を乗せた船団が、(かね)と太鼓のお囃子を響かせながら大川(旧淀川)をさかのぼり東横堀川を南下して芝居町道頓堀まで巡行する大阪にお目見得する江戸(東京)役者の人気をあおる際、また地元の人気役者が襲名をする際にも行われていました、水都の風物詩「船乗り込み」が昭和五十四年に復活します。大正期までは豪気な贔屓筋の多かった堂島の浜から出発していましたが、ほぼ半世紀ぶりの復活後は、中之島の大阪市庁舎南側から乗船、土佐堀川を西へ向かうコースとなりました。ゴールとなる劇場は道頓堀の朝日座で、翌年から中座、平成9年からは大阪松竹座へと変わります。巡行も、三十石船の発着点だった天満橋・八軒家浜から東横堀川へと向かうコースに変わって定着した観ありますが、三十石船と船乗り込みは特に関係もありませんので、私は堂島か中之島から出発するのが本来だと思うのです。
 
華やかな芸能者の一団が船に乗ってやってくる光景は、大阪出身の歌人・民俗学者、折口(おりぐち)信夫(しのぶ)二代目実川延若の贔屓知られたう「まれびとの来臨」を想起させ
 
「まれびと」とは、海の彼方から訪れて幸をもたらす神のこと。内陸部では川を遡ってくる神の姿として現われるとされました。
 
このとき半世紀ぶりに登場し、まれびとの面々は、先代中村吉右衛門一座の船乗り込み(大正13)に参加した思い出を懐かしむ先代中村勘三郎、その子の中村勘九郎(現勘三郎)、道頓堀で初舞台を踏んだ中村富十郎、大阪人気質や阪神間の街々が大好きと語る坂東八十助(現三津五郎)・・・・そして、「船乗り込み」復活の発案者・仕掛け人、澤村藤十郎(現在闘病中)でした。兄の九世澤村宗十郎(故人)とのダブル襲名となる興行(昭和52年5月新歌舞伎座)の不振が直接の原因で大阪顔見世が絶えてしまったことへの無念の思いが、関西での歌舞伎復興にかける情熱へと転じ、それに松竹が応えて、時の大島靖大阪市長や岸昌府知事も早々と賛同の意を表明したのですが、中心となって動いてくれたのは、松下電器(現パナソニック)の労組でした。
 
平成15年、淀川流城の府県にまたがり開催された「水フォーラム」で、船上から大阪の都心を見物した海外のジャーナリストたちは「水際にビルが立つ風景が印象的」と感想を語っていたものです。松竹映画『残菊物語』(昭和38、主演・市川猿之助・岡田茉莉子、のちに八代目嵐吉三郎となる北上弥太郎の最後の出演映画)に登場する五代目尾上菊五郎一座の船乗り込みのシーンが海外で評判を呼んだというのも、水際の建物から身を乗り出し花形役者に声援を送る浪花っ子の熱狂が鮮烈な印象を与えたからです(この明治25年に行なわれた五代目菊五郎と初代市川左団次による道頓堀競演の熱気は『名優船乗り込み』〈村松梢風・著〉を、また大正四年に行なわれた二代目延若襲名披露の船乗り込みの賑々しさは『遥かなり道頓堀』〈三田純市・著〉を参照してください)。
 
こうして船乗り込みを復活させることで大阪人の郷愁とロマンを呼び覚ました七月大歌舞伎には、歌右衛門・松緑(先代)・芝翫らを除くほとんどの幹部俳優が出演することとなりました(歌右衛門と芝翫の両優は平成5年5月の現中村梅玉・福助の襲名時、半世紀ぶりに中座の舞台を踏んでいます)。とりわけ中座の芝居小屋らしい雰囲気を活かした『東海道四谷怪談』(昭和63)は大阪での勘九郎(当時)人気を高め、祖父の三代目中村歌六が大阪役者だったことから「大阪人のクォーター」と自称することが好感度を押し上げました。
船乗り込みに見るような、街の歳時記に歌舞伎を組み込ませて興行の活性化を図る試みは、平成三年1月〜2月の三代目中村鴈治郎襲名に先立ち、前年夏の天神祭に「鴈治郎船」を出し、十日戎の()()(かご)は鴈治郎本人が乗りこむといった手法にもひきつがれます。(明治三十九年に始まる南座の顔見世も、本来の顔見世の趣旨とは直接には関係なく、観光古都の冬の風物詩として定着したものです)
 
 
中之芝居と呼ばれた江戸時代から昭和初期まで、西日本で最高位に位置した道頓堀の中座は、私にとっても懐かしい劇場です。平成七年一月十七日、阪神大震災で倒壊した自宅から自転車で大阪へ出て、中座初春歌舞伎(現中村翫雀・扇雀の襲名披露)の劇評を日経新聞大阪本社へ届けた長い一日を、昨日のことのように思い出します。
その中座で昭和十八年に初舞台を踏んだ五代目中村富十郎も亡くなりました。片岡仁左衛門・坂東竹三郎・中村壱太郎らの初舞台も中座で、ちなみに坂田藤十郎は道頓堀の角座が初舞台(昭和十六年)。片岡我當・市川右之助らは千日前にあった大阪歌舞伎座。片岡秀太郎・片岡愛之助・中村亀鶴は京都南座。上村吉弥・片岡進之介・嵐橘三郎が大阪新歌舞伎座。片岡松之助が道頓堀の朝日座、片岡當十郎が神戸八千代座・・・平成以降は坂東薪車ら大阪松竹座が初舞台という若手がふえてくる(薪車は竹三郎から破門され、現在、歌舞伎の舞台に立っていません)。近年の物故俳優では、坂東吉弥が千日前の大阪歌舞伎座、市村吉五郎(十二世仁左衛門の実子、現家橘の父。筆者の母校・西宮市立大社小学校のOB)が天満の八千代座、嵐徳三郎が道頓堀・中座が初舞台の場でした。
 
終戦時、東京歌舞伎座が再興されるまで東西俳優の檜舞台であった千日前の大阪歌舞伎座(昭和7〜33)は、二代目延若の伝説の舞台「楼門」(石川五右衛門の舞台姿は切手に登場)を撮った記録映画(真柴久吉は阪東寿三郎)で、巨大な丸窓が異彩を放った、在りし日の姿をしのぶことができます。松竹創業者・白井松次郎も登場し、肉声で語るという貴重なフィルムです。映画スターとなった八代目市川雷蔵、現・林与一(初代鴈治郎の曽孫)らも初舞台を踏んだ大劇場は、千日デパートに改造され、昭和五十八年に解体。その後はプランタン・デパート、今はビックカメラと移り変わり、隔世の感があります。
 
7月大歌舞伎の船乗り込み
 
6月29日、恒例の「船乗り込み」を行いました。出発前の挨拶では、大阪府知事の代理として参加された府庁幹部の方が、昼の部の『菅原伝授手習鑑』も夜の部の『伊賀越道中双六』も大阪で生まれた芝居です、と発言されたのが印象に残りました。また、片岡仁左衛門丈が橋下大阪市長の文化行政を批判したのも話題となりました。
 私は、坂田藤十郎・片岡仁左衛門・片岡秀太郎・・・幹部俳優が乗りこむ2号船に同乗して、土佐堀川から東横堀川を経て道頓堀川まで行き、戎橋の下で上陸して松竹座へ入りました。松竹座前でも挨拶があり、船乗り込みのような由緒ある伝統行事を守っていくためにも、道頓堀をプールなんかにしないでほしいと訴えたところ、観衆から拍手が起こったのに意を強くしました。
 
 来週の11日(金)、「上方歌舞伎みてある記」では、『曽根崎心中』の舞台となった、お初天神や、大石内蔵助の父の墓がある円通院、『心中天網島』の主人公、紙屋治兵衛の店が門前にあったという大阪天満宮(天満天神)などを歩きます。集合は午後1時、JR東西線「北新地」駅東口です。問い合わせは、090-1967-8806杉谷浩。 
 
   
イメージ 1
 

船乗り込みの季節

 船乗り込みの季節
 
今年の船乗り込みは6月29日(日)に決定しました。坂田藤十郎・片岡仁左衛門をはじめ片岡秀太郎や坂東竹三郎、中村時蔵や中村翫雀、中村扇雀や中村橋之助、尾上菊之助や片岡孝太郎、片岡進之助や中村梅枝らが乗船する予定で、私も浴衣姿で乗りこみます。
歌舞伎役者の一行が、鉦と太鼓のお囃子を響かせながら、大川から東横堀川をまわり、道頓堀の芝居町まで市中を巡行する「船乗り込み」は、江戸時代の上方浮世絵にも描かれた水都の風物詩です。昭和に入って途絶えていましたが、昭和54年に復活しました。これを見るために来阪する歌舞伎ファンも少なくありません。
村松梢風『名優船乗込』には明治25年の五代目尾上菊五郎や初代市川左団次の船乗り込みが、三田純市『遥かなり道頓堀』には大正4年の二代目実川延若の船乗り込みが活写されています。水際の建物から身を乗り出し花形役者に熱狂す、松竹映画『残菊物語』(昭和38年、市川猿翁・岡田茉莉子主演)のラストシーンに感動したという外国人に私は何人も出会ったものです。(だから何かというと遊歩道をつくり川幅を狭くするのに私は反対なのです。先年、滋賀・京都・大阪の三府県で開催された「水フォーラム」で海外のジャーナリストたちに船上から大阪都心部を見物してもらうという試みがあり、「美しい町」という反応が多かったのは嬉しいことでしたが、なかでも「水際にビルが立つのが印象的」という感想が印象に残ったものでした)
船に乗って華やかな芸能者の一団がやってくる光景は、大阪市中の水辺で育った折口信夫の言う「まれびとの来臨」を想起させます。「まれびと」とは、海の彼方から訪れて幸をもたらす神であり、内陸部では川を遡行してくる神の姿となって現われました。
「水際」と「船」と「まれびと」が喚起する懐かしさそれは、遠く10世紀に淵源をもつ天神祭の船渡御はもとより、さらに古層の記憶をも浮かびあがらせてくれるのです。
大阪湾岸における最古の祭として文献に登場する「八十島( やそしま)祭」は、天皇即位の翌年、宮中の神殿に仕える女官が海から生命力を得ようとして、天皇の衣を難波の海岸で振るという儀式でした。海の大嘗祭とも呼ばれた八十島祭は、平安初期から鎌倉時代まで行われていたことが文献から判明しており、平清盛の正室・時子も二条天皇即位の折この大役を務めていますが、海に臨む難波の地(上町台地)に都が置かれた時代から存在した可能性も示唆されているのです。
 
ところで、船乗り込みは数年前から、大阪と京都を往来した三十石船の発着場である天満橋・八軒家浜から東横堀川へ入るというコースになっていますが、贔屓の旦那衆の多かった堂島浜から乗り込み、中之島を経て、東横堀へ入っていくというのが本来のルートです。
 
      
イメージ 1
 
 

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ | 次のページ ]



プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事