友人達が評するに私の映画好きは殆ど”キチガイ”だと云う。
たしかに、その通りだと我ながらそう思う。
その発端を話そう。
今はこのような時代だから新作、封切りでもなければDVD有り、TV、ビデオレンタル
映画専門チャンネル等々映画館に足を運ばずとも映画は観られる。
昔はそうでは無かった。
映画館に行かなければ映画は観られなかった。
ほかにさしたる娯楽も無い時代、映画鑑賞は国民最大、最高の楽しみだった。
今はどこでも映画は観られる、自宅でも、車の中でも。
でも映画観るなら、やはり映画館だろう。
しかし映画館も寂れた。
封切り映画でも東京など大都市は知らないが地方だと曜日、時間帯によっては数人しか観客が居らず
貸し切り状態だ。昔の立錐の余地もない「立ち見」状況など夢のまた夢となった。
私の映画との出会いは映画館などない「大田舎」で年に数回しかない「巡回野外映画」で
神社の境内や取り入れの終わった畑や倉庫などだった。
多くは青空天井で雨天の際は中止となった。
生家からは会場まで徒歩でひと山越えねばならない事もたびたびあった。
でも映画の魅力は強烈な印象を子供の私に与えすぎた。
私の母親は大の映画好きだった。
恵まれた素封家の長女に生まれた母は女学校を終わると”県都”に住み花嫁学校に通った。
そして暇があると映画三昧、当時大ヒットした「愛染かつら」に心酔してたようだ。
父はといえば大の映画嫌い、映画観てるような奴は軟弱極まりないと高言。
まあ、つい数年前までは帝国海軍・軍人だったのだ。
歌謡曲もしかり、はなから軽蔑していた。
そのくせ、どうしょうも無い悪声はりあげて下手で聞くに堪えない浪曲をうなっていた。
その母のおかげで手をひかれて数少ない映画鑑賞の機会を得ていた。
まあ、これも刷り込み現象・映画の魅力を脳みそに刻み込まれたに違いない。
母は何かの口実をつけて町にでて映画を観たようだ。
単独ではなく必ず長男の私の手をひいて出かけた、そして映画館へ。
子供に大人の映画など理解できるはずもなく、一人で映画館を出てしまって迷子になったことも有ったらしい。
題名で記憶にある最初の映画は「君の名は」である。
その時、母と一緒に映画館に行った記憶は今でも鮮明に覚えている。
勿論、映画は子供向けではなくロビーのポスターを眺めたり、”もぎり”のおばさんと話したり・・。
上映が終わるまで暇をつぶした。
知らなかったが私たち母子は映画館のチケット売り場やもぎりのおばさんに顔を覚えられていたようだ。
映画館の有る町には、母方の近い親類筋が多く有り母も出やすかったのだと後で気づいた。
私は成長して「中学生」になった、思春期でもあったり種々の事情で精神的に「登校拒否」状態に陥った。
そうとは知らず両親は「集中力不足」の原因は「鼻が悪い」きっと蓄膿症だろうと勝手に決め込み
私を耳鼻科に・・。
そして憧れの・・母と通い慣れた映画館がある町の耳鼻科に通うことになる。
天下を取った気分だった。
天下晴れて学校を早退して映画を観られるのだ。
映画の”出し物”の替わり日にあわせて通院日を決めた。映画代は治療費に上乗せした。
鼻の具合はさっぱり良くならなかった。あたりまえだ。
そして高校、さっぱり具合の良くならない「鼻」に業をにやした父は”県都”の名門耳鼻科に通院させた。
これは願ったり叶ったりだった。
当時は映画全盛期、映画館は10数館もあった、よりどり見取りだった。
極力治療に邁進した。学校も早退できて幸せだった。
だが、さっぱり治療効果は上がらなかった。医者の腕のせいだと思うが。
いや、もともと軽い鼻づまり・・程度で病気では無かったのだ。
高3・・・3学期のある日、医者に父が電話した。「何故治らない?」と。
中学生時代と違い電話もある程度普及しつつ有った。
突然、通院すると医者に鼻の穴の中を何故か切られてしまった。
その日は片方だけで、次は反対側を切ると医者は私に告げた。
猛烈に痛かった。
片方切らずともいっぺんで完全治癒した。名医だった。
それきり耳鼻科には通院せず映画館通いも一時遠のいた。
日曜日などに観たい映画は友人と連れ立って観に行った。
そして勉強はせずとも優秀な成績で高校卒業。
続く