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私たちのこころのふるさとは
どこにあるのか
それを探しに今日も旅に出ます
百寺巡礼
日本列島の北から南まで
2年間に百の寺を訪ねる旅です
その旅の終わりに
何が見えてくるのか
風に吹かれて
今日も寺への道を歩きます。
敦賀から福井駅・・てくてく歩いて
城のお堀端 フクイキャッスルホテルに着いた
お堀端で眺めが良さそう、料金が安い
大手チエーンと異なる地元の良さとかも期待した
福井駅からゆっくり歩いて15分程度
すぐ近くに勝家さんが居た、すこし立ち話をした。
「江さん」の話でもりあがった
いい人だった、
奥さんの「お市」さんにはお会い出来なかった。
柴田神社宅らしい・・
翌日「永平寺」へ・・お参りをした。
私の家の宗派は何百年も曹洞宗
親族一同、母の実家、家内の実家もそうなのだ。
私が死んだら遺骨の一部をここに納骨
あとは、故郷の野山に散骨
あとは野となれ山となれと家族に「遺言」宣言している。
別に遺族の都合の良いとき、旅行がてらでいいのだ。
永平寺参詣はこれで三度目
蕎麦も美味しい
今日の新聞
戒名必要ない56%、葬式簡素派9割…読売調査
読売新聞 4月8日(日)18時31分配信
読売新聞社は2月から3月中旬にかけて冠婚葬祭に関する全国世論調査(郵送方式)を実施した。
冠婚葬祭を簡素に行う方がよいか、盛大に行う方がよいかを個別に聞くと、「簡素に」との答えは「法要」96%、「葬式」92%、「七五三」86%、「結婚式・披露宴」84%で、いずれも90%前後に達した。
これらについて、慣習やしきたりにこだわらなくてよいと思う人の割合は、「結婚式・披露宴」78%、「法要」59%、「葬式」58%、「七五三」54%とすべて半数を超えた。冠婚葬祭をめぐる国民の意識は多様化している。
自分の葬式を仏教式で行う場合、戒名(法名)が「必要ない」と答えた人は56%で、「必要だ」43%を上回った。年代別でみると、「必要ない」は40歳代で最多の63%となるなど、20〜60歳代の各年代で多数だったが、70歳以上だけは「必要だ」54%が「必要ない」44%より多い。 そうだ・・・
私も戒名は自作、葬儀もいらず、献体もすると家族に言っている。
えちぜん鉄道の女車掌さんが可愛くて親切、日本一だ。
アテンダント
勝山永平寺線・三国芦原線の昼間の列車には2003年の各線の運行再開時より、
乗車券の販売・回収や観光・接続案内の車内アナウンス、
高齢者などの乗降時のサポートを行う女性客室乗務員(アテンダント)が乗務している。
一般的な車掌とは異なり、扉扱いや出発合図などの列車を操作する業務は行わない(えちぜん鉄道ではこれらは運転士が行っている)ので、他の鉄道事業者でいう「乗客(旅客)専務車掌」に該当するものといえる。
アテンダント乗務列車には、MC6001形を除き側面に赤地に白抜きで「アテンダント」と書かれたサボが掲出されるただし昼間でも一部の列車にはアテンダントが乗務しない場合がある。
具体的な乗務列車や乗務区間は一般向けには公表されていない。
2008年1月18日、えちぜん鉄道開業時からアテンダントとして勤務しているチーフの嶋田郁美ちゃんがその仕事の様子や営業再開までの道のりを綴ったノンフィクション本『ローカル線ガールズ』が
全国発売(メディアファクトリー刊・ISBN 978-4840121255)され、
以降そのファンは全国に広がっている。以後、朝日新聞の「ひと」欄、関西版夕刊「ぷらっと沿線紀行」、
「関西ウォーカー」(角川マーケティング)、テレビでは、
テレビ東京系「ガイアの夜明け」などで取り上げられて人気となっている。
最近はやはり自家用車や団体バスで永平寺参詣も多いのだろうが
アテンダントちゃんに会えないのはつまらない
えちぜん鉄道「永平寺口」の停車場
東尋坊の絶景
「寅さん」シリーズで吉永小百合さん三人組と寅さん
愉快に遊んでいたのを思い出す。
福井の駅ビルの中おみやげ売り場やレストランがあり
越前蕎麦を堪能した。
構内の立ち食い蕎麦も早朝から営業していて
朝の散歩がてら「朝食」をすませた
「安くて美味しい」
福井市を訪れたのは三度目
ほとんど記憶に無い二十歳の頃、柔道の試合で
次は懇親、研修旅行とかで東尋坊、永平寺の団体バス旅行
これは車中で酔っぱらって・・これも記憶なし
しみじみ散策するのは始めて
一人旅ならではですね。
養浩館庭園
養浩館は、福井城祉から北に約400mという、当時の外堀に面した要地にある旧福井藩主・松平家の別邸。養浩館の西隣には福井市郷土歴史博物館、ホテルから徒歩5分
【郷土歴史博物館】
昔の福井城内の一角にあたる養浩館庭園の西隣に移転オープン。
外堀や門などを再現した館外展示「福井城舎人門遺構」の中を歩くことができる
また福井城本丸の模型や九十九橋の実大模型を常設展示しており、
江戸時代の衣服や道具を体験できる「へんしん越前屋」などで、楽しみながら歴史を学ぶことができる
【北の庄城址 柴田公園】
今から約420年前、当時天下の名城といわれた安土城の天守閣でさえ七層であった時代に、九層にものぼる文字どおり日本最大級の城・北の庄城が築かれたところ城主は、戦国織田家一の猛将と謳われた柴田勝家。現在は公園として整備され、隣接する柴田神社には勝家、お市の方が合祀されてる。 散策から帰るとビールを呑んでオダあげた。
ここに二泊、いい宿だった。
次の日は吉崎御坊に向かった
越前海岸に泊まる。
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巡礼
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どこにあるのか
それを探しに今日も旅に出ます
百寺巡礼
日本列島の北から南まで
2年間に百の寺を訪ねる旅です
その旅の終わりに
何が見えてくるのか
風に吹かれて
今日も寺への道を歩きます。
五木寛之
京都からは福井は近い、早く着きすぎてしまう
途中敦賀に途中下車した。
敦賀市内散策は始めてだった。
てくてく歩いて氣比神宮に向かった
旅の無事、留守宅の安寧を祈り参拝
神社はいつでも清閑 荘厳な雰囲気は厳粛な気分にさせてくれる
昼時だったので老舗らしきお蕎麦屋さんで食事
氣比松原に向かった。
どうしても寄りたいところがあったからだ
水戸天狗党武田耕雲斎の墓所と金ヶ崎城址だった。
天狗党
天狗党は、斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主に据えることを目的としていた。
そして、800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、敦賀(越前国新保)で幕府軍の追討を受けて降伏した。
降伏すると、簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬首された。
享年63。その後、妻・2人の子・3人の孫も斬り殺された。
狭く汚いニシン部屋に手枷、足枷で閉じ込められ、郎党400名近い人間が斬首された。
天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、
水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した。
一方、天狗党に加わって遠島処分となった武田金次郎(耕雲斎の孫)以下110名は、
小浜藩に預けられて謹慎処分となった。同藩は彼らを准藩士格として扱い、
佐柿(福井県美浜町佐柿)に収容のための屋敷を建てて厚遇した。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、武田ら天狗党の残党は、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた本圀寺党と合流し、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚を取り付けた。
天狗党と本圀寺党(両者を併せて「さいみ党」と称した)は水戸藩庁を掌握して報復を開始し、
今度は諸生党の家族らがことごとく処刑された。
水戸を脱出した諸生党は北越戦争・会津戦争等に参加したが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、9月29日には水戸城下に攻め寄せたが失敗に終わった(弘道館戦争)。
彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けたが、10月6日の松山戦争で壊滅した。
こうして市川ら諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、武田らはなおも諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復・私刑はしばらく止むことが無かった。
水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、
藩内抗争により人材をことごとく失ったため、
藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無かった。 尚天狗党の処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め、
桜田門外の変で殺された主君の無念を晴らした。
またこの時、福井藩士にも首斬り役が割り当てられたが、
後々の報復を恐れた春嶽が命令して役目を辞退させたという
天狗党の処刑地である敦賀市は、昭和40年(1965年)に水戸市と姉妹都市となっている。 明治7年(1874年)、武田耕雲斎以下の天狗党員を祀った松原神社が敦賀市松島町に建立され、
毎年10月10日には例祭が行われている。
訪ねたのは2008年10月14日だった。
昭和29年(1954年)には、天狗党員が監禁された鰊蔵が境内に移築され
「回天館」という水戸烈士記念館となっている。
松島町には「水戸烈士追悼碑」や武田耕雲斎の像が建てられている。
昭和44年(1969年)、水戸市松本町に天狗党員を祀った回天神社が建立された。
昭和32年(1957年)に敦賀市から水戸市常磐町の常磐神社に移築された鰊蔵が、
平成元年(1989年)に回天神社境内に再移築され「回天館」として
天狗党資料の展示が行われており、
扉や板壁などには天狗党員の絶筆が残されている。
天狗党員の家族らが処刑された水戸赤沼牢跡には慰霊碑が建てられている。 私の生家の近所、鎮守の森には天狗党にいち早く賛同して
若くして散った村の若者達の慰霊碑が建っている
どうしても、一度敦賀に出かけた折には参拝したいと思って居た
この近くに金ヶ崎城址がある
古くは新田義貞、姉川の戦いの以前
織田、と浅井、朝倉の対決、朝倉の同盟裏切りで挟み撃ちにあい
秀吉にしんがりを務めさせ必死で逃げ帰った信長
その古戦場だ
敦賀市街の北東部に敦賀湾を一望できる小高い山がある
戦国の世、この地にあった金ヶ崎城・天筒山城を舞台に、数多くの歴史的事件が繰り広げられた。
お市の方が、両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り長政の裏切りを知らせたと言う逸話が知られているが、
俗説というのが有力である。 このあたり国定公園、景観もすばらしい
すこし歴史にふれた「散歩」だった
茨城、水戸天狗党で思い出したが
日立に高校時代の同級生がいる。
同じクラスで席もとなり位だった。かなりの腕白だった。
彼が「ガン」で闘病生活してるとの話を聞き見舞いに行った。
50年ぶりの再開であった。
私が「ガン」になる前の話だ。
かなりやつれたような姿に見えたのは高校以来の再会だからだろう。
でもクチは相変わらず達者だった。
美人の奥さんがかいがいしく身の回りの世話をしていた。
彼は言った
こんな病気しないと、してみないと
人生なんて、自分なんて本当のことわからん
最近、ある意味病気になって良かったと思うこともある
男はバカだよな
男は女のために作られたんじゃねーのか
女のために仕事をして
女のために生きる
女のための人生だ
俺の人生もだ
ようするに女はえらいということ
かみさんイノチだよ
今女房に世話になってるから言うわけじゃないが
本当にそう思うよ
お前も病気になったら、そんなこと考えるよ、きっと・・
彼は哲学者になっていた
その後は逢っていない
友達との会話の中で話題に出ることはあるが
誰も「悪い話し」を聞くのが嫌で電話はかけようとしない
女のために男はつくられた
たしかに女から生まれた男だが
女だって女から生まれたしな・・
今 私も「ガン」になったので考えている。
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私たちのこころのふるさとは
どこにあるのか
それを探しに今日も旅に出ます
百寺巡礼
日本列島の北から南まで
2年間に百の寺を訪ねる旅です
その旅の終わりに
何が見えてくるのか
風に吹かれて
今日も寺への道を歩きます。
五木寛之
このテレビ番組が始まったのはもう10年ほど前のことだろう
自分も歩いてみよう、旅に出てみようと思った
今始まらないと、いずれ近いうち病気になるだろう
または発見されるだろうと予感した
それで「巡礼」を始めた
もともと
お寺も仏像もそして旅も好きだ、特に一人旅は・・
そしたら何かが見えてくるかもしれない。
煩悩の塊のような私にもだ
そして7年ほど前から「百寺巡礼」を始めた。
出版された本、DVD、ガイド本もそろえて予習もした。
これだけで一回旅行に出かけられるくらいの支出だった。
いずれにしても後に残るものだし想い出にもなる。
結果的にその通りだった。
一回行って何回も楽しめた。 だが五木寛之さんの場合は週一回、二年間で百回で番組は終わる
一般人はそうはいかない
北海道、沖縄を除いて日本一周なのだ
費用も暇も体力も必要だ。
それでも旅を開始した、自分自身の人間改造のために・・
ガンもすぐそばまで近づきつつあった。
今回は好きな小説 松本清張の「ゼロの焦点」の映画の情景が
忘れられずまず最初に「北陸」に向かったのだ。今回の巡礼の出発点にした。
前回のブログ投稿は京都を出発したところで途切れている。
私には以前「北陸」に対する独断と偏見があった。
越後つついし親不知や
越前竹人形などの小説や映画からくる
何となく暗いイメージ
どんよりとした空
波荒く濃い海原、さびれた漁村、僻地・・
まあ、明るくはない。
そんなイメージも二度ほど金沢や能登、越中おわらなど
観光しているうちに
すごく「いいところ」だと思うようになった。
少し前までは栃木からだと一番縁の無いような地域で
一部のつり愛好者ぐらいしか話題にならなかったが
上越新幹線、能登空港、大河ドラマ放映以降、当地からも
「北陸」方面に観光に出かけるようになった。
でも私に一番興味を持たせたのは
「ゼロの焦点」のイメージだった。1961年頃か・・
先ほどの作新春夏連覇の前のような記憶・・
その「鉄路」をたどったり「長谷川等伯」を思い出したり、お寺を参拝したり・・
今回は「小浜」や「越前岬」も楽しみだった。
続く
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