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ひとことで言えば既成仏教界の衰退は、長い年月の怠慢であったろうと思われるのだ。いつの時代でも一般大衆の生活は苦しみ、何とか少しでも楽な生活になりたいが為、ワラにもすがる気持ちで新興宗教への道に入るのだが、本来なら昔からの代々、付き合いのあるお寺さんがあるはずなのに、なぜか、人生の悩みに関しては、新興宗教の門をくぐるのである。なぜだろうか。
答えは簡単である。現、仏教者どもは、死者だけを相手にしてきたからに他ならないのである。本人も体験していないあの世の話をもっともらしく、悲しみの渦の中でタンタンとお経を唱え、お布施と称した金銭を頂き生活しているため、生きた人間を救うことが出来なくなっているのではなかろうか。
『人の悩みに大・小はない』というように、悩んでいる当人にとっては真剣なのである。その点、新興宗教は適格なアドバイスを法の名のもとに説くのである。それが先々(さきざき)、本人にとって良いことなのか悪いことなのか、無論、愚僧の心配することではない。ただ悔しいのは、既成仏教界の坊主たちが、なぜ新興仏教教団に信者が日々、増えているのか疑問を生じないことの方が、イライラするのである。
本来の仏教を本だけで学び又、生活はある程度の安定が保証されているために大事な仏教の本質を失ってしまったのではなかろうか。
閉鎖された社会の中だけで生きている坊主は世間一般の人達から見れば、厳しく・苦しい修行をされて仏様に近い尊い人と感じているか、逆に葬式の飾り物のひとつにしか理解されていないかのどちらかであると思う。
最近、身近の葬儀でのことだが、その日は数多くの葬儀が重なり僧侶の手配がつかず、葬儀屋の社員が坊主の衣(ころも)をまとい、カセットテープで無事に終えたという話がありました。これからは増々、その傾向になるであろう。(そのほうが葬儀屋の利益があるため)
愚僧の考えは、それでいいと思う。もともと心のこもったお経もせず○○宗○○寺という重厚な肩書きだけで高いお布施を貰い、戒名でランクごとに勝手に金額をきめ請求するなど長い年月の上に胡座(あぐら)をかいて商売(をしてきたから仕方の無いことだと思うのである。これが一般の事業と考えたなら、とっくに倒産である。修行もしていない坊主のお経よりも市販されているテープのお経の方が遥かに心に響くのである。
京都の偉い仏教者たちは公然と「医者の不養生、坊主の不信心」と、口に出し花街で遊んでいるのである。京都での遊び場所は、各宗派・教団ごとに皆それぞれ花街が別れているのも面白いことである。そのような開祖の心を忘れた坊主たちが日本の伝統ある仏教界で君臨していることからして、この先の仏教の行方(ゆくえ)も見えて来たように感じるのである。ただ宗教法人をカサにして、開祖・先人の方々が残された数多くの財などは形に見えるモノだけを受け継ぎ、一番大事な生きた説法を忘れ今日に至っているのである。
既成仏教界の各宗派・教団で真剣にこれからの仏教界を考えている役員の方々に愚僧から提案を申し上げる。
一、
各宗派・教団の本山から全国の末寺の実態を坊主の立場でなく、一人の住民として調査をし、地元の檀家の人達のためにならぬ住職は移動させる。
二、
僧侶として生活をする前に、いろいろな新興宗教に、信者として体験をさせてみる。
以上の二点を実施したならば必ず大きな成果が表われ、腐れきった仏教者は自然と淘汰されるであろう。 真言宗智山派管長・宮坂宥勝猊下は新聞・雑誌等でも現仏教界の在り方に対し大変勇気ある発言を数多く述べられているので是非とも御考慮を願うのであります。
僧侶の世界で考えている僧侶像と、一般社会での評価は大分、開きがあることを、一日も早く自覚して頂きたいことを一言申し上げる次第であります。
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『新興宗教になぜ人は流れるか?』−−−「答えは簡単である〜死者だけを相手にし〜生きた人間を救うことが出来なくなっている云々」。なるほど明快ですね。合掌
2006/2/16(木) 午後 11:18 [ kyomutekisonzairon ]
いつもありがとうございます。 貴兄のブログに「春風を以て人に渡し、秋霜を以て自ら粛む」の言葉を載せておりますが、愚僧もこの言葉は中学生の頃、父親から耳にタコが出来る位お説教された言葉であります。正に己の心と自然の変化を受け止めた素晴らしい訓であると思います。 現代人の多くは自然から学ぶという心のゆとりがなくなっていることを危惧しております。
2006/2/17(金) 午前 11:02 [ kan**jin*ish* ]
南無阿弥陀仏。自分が生きながら救われて、喜ぶことがまず大事ですね。南無阿弥陀仏
2006/2/27(月) 午後 8:20 [ bjd*g4*0 ]
私も同感です、現在の葬式仏教には疑問を感じます
2007/10/9(火) 午後 2:35 [ sei*ibo*atu**n ]