大道寺龍の鬼手仏心

僧侶の立場から現在の宗教界に問いかける。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 次のページ ]

差別の仏教界

最近は仏教界でも同和問題などの対策が行われているが、根本的なことは何も解決されていないのだ。

現にお布施により戒名に差別をつけ、後々の御供養も戒名によりお布施も違うという現実。

又、日本仏教界だけは僧侶の格によって衣の色で差別するという体質は今後も決して変わることはない。

アジアの国々の僧侶など法王も修行僧でも上から下まで全く同じ衣をまとっているではないか。

僧侶として生きている限り身分の上下をしてはならぬはずである。

自らが身分の格差をつくっていては社会の底辺で生きている人たちを救うことは出来ない。


 曹洞宗の開祖である道元禅師は上皇より緋の衣を下賜されても「こんなものを着たら猿に笑われる」と言って生涯、身につけなかったというエピソードもあります。
 近代では山田無文禅師も「こんな派手な衣はチンドン屋と間違われてしまう。」と話していたそうである。


 仏教界で学んでいる者たちは『差別』とは仏教語であり個々の性類を指すことであり云々と屁理屈を言うのが関の山である。

 『頭剃っても心剃らず』の意味をしっかりと今一度、たたき込んで僧侶とは何ぞやと復習し直さなければ仏教国でなくなるのである。

開く トラックバック(19)

日本国憲法第二十条第三項には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と謳っている。これは、日本の伝統を否定せよというマッカーサーの命令によってつくられた条文である。その結果、戦後六十年経た現在、日本国内では親を殺す、子供を虐待死させ、夫婦間でも保険金欲しさに夫を妻を殺す事件が年々多くなっており、子供同士でも殺し合うという凄まじい悲惨な事件が毎日のように新聞紙面に報じられているがこれが日本の現実の社会情勢である。人としての道徳観念がいかに欠如してしまったかということの証明ではなかろうか。

日本人は昔から祖先を尊び、親を敬い家族の絆を大切にする民族であったはずである。

しかし、日本の伝統を全て解体させるためマッカーサー最高司令官の命令によって日本国憲法が施行されたのである。

キリスト教は祖先崇拝を否定する教えであり、現在、イギリスでは当時サッチャー首相が崩壊寸前の国を立て直すため、イギリスに住むイギリス人はイギリスの宗教であるキリスト教を法律をつくってまで宗教教育を徹底し国を再生した経緯があるが、古代のイギリスでも大昔は日本人と同じく先祖を祀り、神木を崇め死ぬと子孫に生まれ変わると信じていたという。

祖先を敬い尊ぶことは人間の自然な感情であり古代においては世界中の民族にも共通した信仰形態であったのである。

キリスト教の一信教の宣教とは、改宗させるか殲滅するかという強引なものであり、十五世紀から十八世紀の三百年間、ヨーロッパでは魔女狩りと称して民間の信仰を撲滅し、アメリカ大陸では推計一億に達する原住民をみなごろしにしたのだ。(イスラム教もそれに劣らない残虐さを発揮した。インド仏教はイスラム教徒によって滅ぼされた)

キリスト教の教義の核心をなす「愛」の思想「汝の隣人を愛せよ」はキリスト教徒に限られていて、隣人が異教ならば殺してもよかった。(ローマ法王庁が異教徒の存在を認める公式見解は一九六二年のことである。)

キリスト教が最大の目の敵にしてきたのが祖先崇拝であることを日本人の多くの人達は理解していないのではないだろうか。

同じ敗戦国でありながら、連合国に対して憲法だけは自国でつくった西ドイツでは憲法の基本法には宗教を学校の必修科目と規定したのである。

宗教だけは教えてはいけないと定めた日本の憲法とは正反対である。

GHQは宗教教育を禁止した日本国憲法に巧みに恐るべき罠をしかけたのだ。

今の日本の学校では祖先を敬い尊ぶという日本の伝統を生徒に教えないということは結果としてキリスト教の教義にしたがっていることになるのだ。

その結果は、現代人をみればハッキリとわかるようにモラルの欠けた日本人が誕生してしまったのである。道徳心のカケラも無いと言ったほうが正しいかも知れない。子が親を殺すといったことは野生の動物社会でもいないのである。厳しく申せば今の日本社会ケダモノ以下の集団と言っても過言ではない。

マッカーサーがしたこと、命じたこと、彼が日本の伝統をことごとく否定したこと、そのすべてを、いまだに忠実に守っているのが学校という教育現場なのである。

今の日本にサッチャーほどの政治家が一人いればいい。それで日本は変わるのだ。

いかに宗教教育が大事か読者の人たちに理解して頂きたいのであります。

間違った戦後教育のため、現代人の大半は『宗教』というと何か変な集団と思う人たちが多くなっているのも大きな問題である。

この記事は『仏教が救う日本の教育』(宮坂宥洪著・角川書店)を参考にさせて頂きました。

記事を通し宮坂宥洪師にこれからも日本再生のため御尽力をお願いするとともに心からエールを申し上げます。

開く トラックバック(1)

仏教界では最高位におられる真言宗智山派管長・宮坂宥勝猊下が自ら軍隊の体験を通し、仏教家として戦後六十年過ぎた今日、敢えて現在の仏教界の僧侶たちに『仏教界は決起を』と強く訴えているのであります。

宮坂宥勝猊下は常日頃から現在の日本人が道徳心を失った大きな要因は戦後、占領政策の一環として教育勅語・修身の廃止があり、アメリカ型民主主義と個人中心主義が入り、金銭感覚のマヒと生命観の欠如などがあり市民モラルの崩壊や基本的人権の誤認などを憂いているのである。

今回の新聞紙面で東京裁判に関しても「戦勝国が戦敗国を裁いたこの裁判は国際法違反である。」と述べている。靖国参拝問題でも以前から宮坂宥勝猊下は日中友好条約で謳っているように内政干渉だと、はっきり言っており、仏教では三界万霊を平等に供養することを強く訴えているのであります。

このように高僧が本来の仏教の本質を説いているのになぜか日本仏教会とか浄土真宗系の僧侶どもたちは毎年のように靖国参拝中止をやっているのである。

これこそ伝統仏教の名を騙った反日運動ではないだろうか。

庶民を指導する立場の仏教者が、こぞって靖国参拝中止を真顔ですればするほど迷える人たちまで洗脳することでもあるのだ。

宮坂宥勝猊下が言われていることがせめて真言宗各派各本山だけでも指導の強化を願うのである。

神道は全国の神社すべて派閥を超え一致した考えであり仏教界も見習わなくてはならぬことだと思うのであります。

宮坂宥勝猊下は、「今日までの歴史認識を謙虚なスタンスで客観的に深めることである。侵略戦争の後始末という巨視的史観では皮相的な事実認識に終わるだけである。竹島問題でもわが国が韓国に平伏しているのは、史学者たちの怠慢である。」とバッサリと断じているのであります。

このような力強いメッセージを仏教者一人ひとりが真摯に受け止め壇信徒の人たちに説くことが僧侶としてのつとめであり、日本を再生することでもあると強く感じるのであります。

宮坂宥勝猊下が述べている

一、 宗教意識復興のための精神運動
二、 道徳倫理の回復のための社会実践活動を強力に押しすすめる。

この二点など今、国民が一番求めていることである。

しかし、職業坊主たちにとってはいちばん難しい問題ではなかろうか。

大きな要因は、僧侶という職業は飯だけは、それ程の苦労もせず食べられる。そして一般の人たちからは一段高い位置にいる人と思われているため坊主自身が知らず知らずのうちに「奢り」という垢が染みついているために実際問題として何をしたらいいのか分からないのではないかと思うのである。

特に二に掲げている道徳倫理の回復のための社会的実践活動・・・など

宮坂猊下は最後に 「宗教団体の儀礼的なイベントで終わらせずに、社会に世界に開かれた実動的な宗教活動たらしめたい、と念頭する。」と述べているのであります。

以上のように真言宗長者であります高僧宮坂宥勝猊下が仏教者である僧侶たちに強く訴えたことを心から賞讃と敬意を表すのであります。

宮坂管長に厚かましくホームページを通し是非ともお願いしたいことがあります。

一、 僧侶の質を正すためにも各寺院(末寺も含む)の実体を把握して評価して戴きたい。
二、 仏教からかけ離れた事業経営者の僧侶たちに懲罰を願いたい。
三、 世襲制についてもっと厳しい制度を検討して戴きたい。

以上のことが少しでも改善されれば猊下の強いメッセージのお役に立てるのではないかと非礼を承知で提案するのであります。

いつの時代でも悩み苦しむ人たちが多いのでありますが、現在の僧侶たちが余りにも身近にいる迷っている衆生を無視し、金のなることだけに専念しているため、オウム教を始め怪しげな宗教に素直な人たちが誤った道を送り救いを求めていることを仏教者の方々は直視して戴きたいのであります。

今の国内情況をみて今こそ仏教者たちが『衆生救済』の実践活動のチャンスではないかと思うのであります。

まして『不動明王』を本尊にしている僧侶たちはお不動さまが何故、あのようなお姿でいるのか、初心から学んでみてはどうだろうか。

戦後生まれの日本人の多くが間違った教育をされたために日本の国に誇りがもてなくなっており政治家・官僚たちの腰抜けの姿をみて、多くの若者は理想するリーダーが見つからないのが真実ではなかろうか。  

そのためにも宮坂猊下が言われるように正しい歴史認識をもって宗教家が自信をもって実践活動をすれば必ず足元がくずれることなくしっかりした国づくりができるのであります。僧侶は金づくりよりも自己研鑽を重ね、人助けに精進するよう苦言を申し上げるのであります。

合掌

開く トラックバック(1)

現代の世に大変こころ温まる話である。

新潟県月潟村の真宗佛光寺派梵行寺(木村恭尚住職)では小学校一年生から中学校三年生までの子供たちに学び遊ぶ場所として寺院の本来のすがたを復活させ、子供たちの親たちに信頼されているのである。

子供たちは学校では学べないことを副住職の木村俊尚師と三保子夫人から学びそして叱られながら仏教に親しみ人間として成長しているのである。

梵行寺の夕方は小学校低学年の子供たちが一人また一人と境内に入っていき、庫裏の一室で子供たちが習字を行ったり、算数の勉強をしている姿を想像すると映画のワンシーンが浮かんでくる。

小学校低学年の子供たちが帰ると高学年の子供たちが入れ替わりに境内に、そして午後六時すぎには中学生が勉強を始め、九時頃になってようやく子供たちが帰り梵行寺の一日が終わる。

僧侶の本来あるべき姿ではないだろうか。宗教観の欠如によって道徳心が失われ、家族の崩壊へ繋がる現代の世の中において俊尚師の仏教に取り組む姿勢は全国の僧侶たちにとっては生きたお手本ではないかと思うのであります。

木村俊尚師の考えにはレクレーションを基本に、仏教の教えを生かした「人間としての学びの場」をつくるという強い意志のもとで実践活動をしているのである。

「昔はお寺でみんな自由に遊んでいた。それが無くなってきているのが寂しい。お寺と疎遠になっているから、説教してもそれが心に響かない。だから子供のうちから親しんでもらいたいと思った。それが梵行寺の寺子屋を始める原点だ。」と俊尚師は話されている。

又、「仏事は家庭教育だと私は考えている。仏事は、中心は自分ではなくご先祖さまだということを教えてくれる。家庭において仏事があまり大切にされなくなってきたことが、近年、家庭を荒廃させることにつながっているように思う。だからこれからも梵行寺では寺子屋を続けていきたい。」と、力強く述べているのである。

日本全国でこのような寺子屋がひとつふたつと年々多くなっていくことを心から待ち望んでいるのは愚僧だけではないはずである。

各宗派本山の高僧たちの悩みも解消できるのではないだろうか。心豊かな人間に成長させることが今の日本に一番求められているのである。木村恭尚住職・俊尚師・三保子夫人に心からエールするのであります。

合掌

ひとことで言えば既成仏教界の衰退は、長い年月の怠慢であったろうと思われるのだ。いつの時代でも一般大衆の生活は苦しみ、何とか少しでも楽な生活になりたいが為、ワラにもすがる気持ちで新興宗教への道に入るのだが、本来なら昔からの代々、付き合いのあるお寺さんがあるはずなのに、なぜか、人生の悩みに関しては、新興宗教の門をくぐるのである。なぜだろうか。

答えは簡単である。現、仏教者どもは、死者だけを相手にしてきたからに他ならないのである。本人も体験していないあの世の話をもっともらしく、悲しみの渦の中でタンタンとお経を唱え、お布施と称した金銭を頂き生活しているため、生きた人間を救うことが出来なくなっているのではなかろうか。

『人の悩みに大・小はない』というように、悩んでいる当人にとっては真剣なのである。その点、新興宗教は適格なアドバイスを法の名のもとに説くのである。それが先々(さきざき)、本人にとって良いことなのか悪いことなのか、無論、愚僧の心配することではない。ただ悔しいのは、既成仏教界の坊主たちが、なぜ新興仏教教団に信者が日々、増えているのか疑問を生じないことの方が、イライラするのである。

本来の仏教を本だけで学び又、生活はある程度の安定が保証されているために大事な仏教の本質を失ってしまったのではなかろうか。

 閉鎖された社会の中だけで生きている坊主は世間一般の人達から見れば、厳しく・苦しい修行をされて仏様に近い尊い人と感じているか、逆に葬式の飾り物のひとつにしか理解されていないかのどちらかであると思う。

 最近、身近の葬儀でのことだが、その日は数多くの葬儀が重なり僧侶の手配がつかず、葬儀屋の社員が坊主の衣(ころも)をまとい、カセットテープで無事に終えたという話がありました。これからは増々、その傾向になるであろう。(そのほうが葬儀屋の利益があるため)

愚僧の考えは、それでいいと思う。もともと心のこもったお経もせず○○宗○○寺という重厚な肩書きだけで高いお布施を貰い、戒名でランクごとに勝手に金額をきめ請求するなど長い年月の上に胡座(あぐら)をかいて商売(をしてきたから仕方の無いことだと思うのである。これが一般の事業と考えたなら、とっくに倒産である。修行もしていない坊主のお経よりも市販されているテープのお経の方が遥かに心に響くのである。

 京都の偉い仏教者たちは公然と「医者の不養生、坊主の不信心」と、口に出し花街で遊んでいるのである。京都での遊び場所は、各宗派・教団ごとに皆それぞれ花街が別れているのも面白いことである。そのような開祖の心を忘れた坊主たちが日本の伝統ある仏教界で君臨していることからして、この先の仏教の行方(ゆくえ)も見えて来たように感じるのである。ただ宗教法人をカサにして、開祖・先人の方々が残された数多くの財などは形に見えるモノだけを受け継ぎ、一番大事な生きた説法を忘れ今日に至っているのである。

 既成仏教界の各宗派・教団で真剣にこれからの仏教界を考えている役員の方々に愚僧から提案を申し上げる。



一、
各宗派・教団の本山から全国の末寺の実態を坊主の立場でなく、一人の住民として調査をし、地元の檀家の人達のためにならぬ住職は移動させる。


二、
僧侶として生活をする前に、いろいろな新興宗教に、信者として体験をさせてみる。


以上の二点を実施したならば必ず大きな成果が表われ、腐れきった仏教者は自然と淘汰されるであろう。 真言宗智山派管長・宮坂宥勝猊下は新聞・雑誌等でも現仏教界の在り方に対し大変勇気ある発言を数多く述べられているので是非とも御考慮を願うのであります。

 僧侶の世界で考えている僧侶像と、一般社会での評価は大分、開きがあることを、一日も早く自覚して頂きたいことを一言申し上げる次第であります。

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事