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この間、たまたまTVをつけたら
『般若心経』について解説していました。
『100分de名著』という番組でした。
私が見ていたのは、番組終盤のほんの一部分でしたが、
ゲスト講師の、僧侶・作家の玄侑宗久さんのお話が、印象的でした。
要約すると・・・
今、般若心経には皆が関心を寄せているが
書かれている内容を、哲学として知的に理解することばかりしている。
お教は、呪文として唱えることに意義がある。
仏教では、<私>がすべてなくなった状態こそが
(↑たぶん、自我をなくす、無我、無心、という意味だと解釈)
いのちが生き生きのびのびとできる理想だと考えるが
お教の意味を理解するかどうかとは別に、声に出してとなえることが
その理想状態に近付けてくれる
・・・といった内容でした。
司会者は、納得できないようすで、う〜んと唸りながら
「それが、どういうふうに人間の役に立つのですか?」と質問していました。
私は、言葉ではうまく説明できないけど、
呪文として唱える意義というものは、感覚としてわかるような気がしました。
編み物していると、ほんとに、「至福」の感覚が味わえるのです。
物をつくる喜びってことじゃなく、ただひたすらに、編み針を動かすことが幸せ。
夕御飯のあとのひととき、編み物すると、自然に眠くなり
ぐっすり眠れ、朝もきちんと起きられます。
最近、編み物を中断しているのですが、てきめんに
生活リズムが崩れてきました。
日常生活を、無我の境地で生きることはできないと思いますが
人間には、そういう、無心になる時間が必要なのだと思いましたし
物事には、頭だけで理解できることと、
体を通さないとわからないことがあるのだと実感しています。
だから、呪文を声に出して唱える意義も、わかる気がします。
ま、玄侑宗久さんのおっしゃりたいことが、
そういうことかどうかはわかりませんが (^^ゞ
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好きなことに没頭してる時間をつくれるのはイイことですネ〜(笑)
田舎のお寺さんに行くといつもお経の本をよまなければいけないのですが、よんでると「これってどういう意味なんだろう?」って思ったりしますヨ〜
2013/2/2(土) 午後 5:54 [ とも ]
ともさん、こんにちは。
好きなことじゃなくても、没頭すること、「三昧」の境地に至ることが仏教的に大事なことなんだと理解しましたが。
夜中にながながとお教あげだしたら、家族が気味悪がるとおもうので、ひたすら、無心に、100メートルくらいのマフラーを編もうと思います(笑)
2013/2/2(土) 午後 6:11
表現が違うだけで根底は同じことを言っているかな?と、感じたのは「釈迦の教えは感謝だった。」小林・・・なんちゃらさん(笑・爆)のは、わかりやすく記されてすっと入る内容っす。
東北の手仕事展でも思ったけど、貧しさの中でいろんな物を作り出している時っていうのも、やっぱり没頭している時は、空腹も貧しさも消えているような気がしたよ・・・。
それって生きてゆくには必要なことなんだろうと思う。
嫌なことを嫌と思わなくなってくるって・・・そういった意味もあるんじゃないかと・・・ね。
2013/2/3(日) 午前 6:06
手仕事の話、よくわかります。
宮城の女性が、震災後、割とすぐから趣味の編み物を復活したら、よく眠れるようになった、編み物してなかったら、どうなってたか…と言うようなことをおっしゃったそうです。
2013/2/4(月) 午後 4:33