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皆様こんにちは^^ いつもながら人物伝は長文になってしまう。。。 お時間とりますが〜お楽しみ?くださいf^^; 長崎奉行「牛込忠左衛門勝登」の話の中に出てきた 長崎代官「末次平蔵」についてのお話です^^ 先ずは「長崎代官」とは? 代官は地役人の筆頭。 管轄地の貢物、調租を司り、 輸入貨物の検査や寺社の管理等 天正15年(1587)、豊臣秀吉が任命した鍋島飛騨守直茂が初代 文禄元年(1592)に村山等安となり 元和2年(1616) 等安が失脚すると 末次平蔵政直が任ぜられた。 慶長19年(1614)の禁教令によって サント・ドミンゴ教会が破壊された後、 その跡地は第3代長崎代官・末次平蔵政直の屋敷となる (跡地の碑あり、勝山町の桜町小学校) 子孫は代々代官職を継承したが 2代代官末次茂貞・3代代官末次茂房・4代代官末次茂朝も 平蔵を名乗っている 末次一族は、長崎に九州唯一の建仁寺派・春徳寺を建立 末次平蔵の墓所も歴代住職の墓のそばに建つ 江戸後期の南画家「日高鉄翁」は春徳寺の住職 延宝4年(1676)第4代末次平蔵茂朝の国禁品の密貿易が発覚 一族は死罪や流罪となり末次家は断絶。 このときのお奉行様が牛込忠左衛門勝登です^^ 以降、長崎代官の制度はなくなり、町年寄がその職を代行 元文4年(1739)長崎代官が再設 御用物役高木作右衛門忠與が任じられ もちろん同じ場所に屋敷を構えた 以降、高木家が代々幕末維新(1868)まで世襲し、 御用物方も兼務した。 「末次平蔵」 天文15年(1546)〜 寛永7年(1630) 江戸時代初期の貿易商人・長崎代官。 諱は政直 妻は、飛騨高山城主・金森可重の娘 博多の豪商末次興善の次男として生まれ、 元亀2年(1571)ごろ長崎に移住 末次興善は16世紀の後期、長崎開港当時に 博多と長崎で活躍した商人 長崎市の興善町は彼の名に由来 朱印船(末次船と呼ばれた)の船主で、生没年は不詳 末次船を描いた絵馬が長崎の清水寺に献納されている 当時の船の様子がわかる貴重な資料 ポルトガル宣教師の手紙やフロイスの日本史などに登場する 博多のキリシタン商人コスメ・コーゼンは、彼の事であると言われている。 金屋町(のち興善町)に住み乙名 朱印船貿易で安南・シャムなどと貿易を行い財力を蓄積 元和5年(1619)村山等安に次いで長崎代官となる。 等安はもともと末次の配下の者であった 豊臣秀吉に信任され、主人を追いこして長崎代官になったことから 元和2年(1616)等安を憎んで幕府に告発 等安の悪政、大坂の陣で等安の息子が大坂方に味方、 追放されかかったキリシタンを自宅にかくまった〜等々 結果等安は江戸で斬罪 ねたみ?とは怖いものだ。。。 平蔵は「ジョアン」という洗礼名を持つキリシタンだった しかしキリシタンを取り締まる代官に就いた事により、 棄教し弾圧に徹する 入信も貿易の為だったのか?@@; タイオワン事件(ノイツ事件)を起こし、 寛永7年(1630)に江戸の牢獄に幽閉され、 幕臣により斬殺されたと言われる 理由は、幕府の重臣が禁止されている貿易に手を出していた そのことを知ったためとされるが、詳細は不明である 〜朱印船貿易と台湾〜 朱印船貿易が行われていた江戸時代初期は 明(中国)は朱元璋以来冊限られた国としか貿易を行なわず 朝鮮の役による影響で日本商船はほぼ中国本土に寄港できなかった。 中継ぎ貿易として主な寄港地はアユタヤ(タイ)やトンキン(ベトナム)など 台湾島南部には昔から明(中国)や日本の船などが寄航する港が存在 当時、日本、ポルトガル、オランダ、イギリスの商人が 貿易の主導権争いを過熱 元和8年(1622年)には明(中国)のマカオで ポルトガル居留地をオランダが攻撃 敗退したオランダは台湾の澎湖諸島を占領 このことに明(中国)は大陸から近い事を理由に 澎湖諸島の要塞を放棄することを要請し 台湾島から貿易をすることを求めたため、 2年後の寛永元年(1624年)台湾島を占領、 台南の安平をタイオワンと呼ぶ 〜タイオワン事件〜 上記の状況のなか長崎代官で朱印船貿易家の末次平蔵も暗躍する 寛永4年(1627年)船長浜田弥兵衛が台湾島から 16人の台湾先住民を連れて帰国。 台湾全土を将軍に捧げるためにやって来た代表団だと言い、 将軍徳川家光に拝謁する許可を求めた。 寛永5年(1628)タイオワン(台南・安平)の オランダ東インド長官ピーテル・ノイツはこの事に危機感を強め、 帰国した先住民達を全員捕らえて監禁、 浜田弥兵衛の船も渡航を禁止、武器を取り上げた。 この措置に抗議するも拒否するノイツに対し 終に組み伏せ人質にとる実力行使 弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続き 交渉で互いに5人ずつ人質を長崎で交換することで同意 無事に長崎に着くとオランダ側は日本の人質を解放、 ところが、代官末次平蔵らはそのままオランダ人達を拘束、 大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖 この事態に対応したのは オランダ東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。 クーンは特使を日本に派遣 平戸藩藩主松浦隆信と末次平蔵は江戸へ行くことを許さず、 将軍家光の名を騙った返書を渡す 「先住民を捕らえ、日本人の帰国を妨害した事は遺憾である。 代償としてタイオワンを明け渡すこと。 受け入れればオランダが貿易を独占できるように取り計らう」 というものであった しかし新しいオランダ東インド総督は 平戸オランダ商館の元商館長(カピタン)を勤めていたので これが偽書であると見抜き再び日本に派遣した。 以後の具体的な内容を記録するものは日本側に残されていない。 長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に語ったのは 「平蔵は近いうちに死ぬだろう。」 末次平蔵はこの後、獄中で謎の死を遂げている。 当時の日本は鎖国体制に入ろうと外国との揉め事を極力嫌っていた オランダ側の記録には 将軍が閣老達に貿易に関わる事を禁じていたが 閣老は平蔵に投資をして裏で利益を得ていたため切り捨てられた などの記述がある。 この時オランダ側から何らかの要求があることを危惧していた日本側は 「この事件は経験の浅い者の対応が原因であるため オランダ人を解放してさえくれれば良い」という対応に安堵し、 これが後に鎖国体制後にオランダにのみ貿易を許す一因とも言われる 寛永9年(1632)閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開。 寛永11年(1634)には日本人が台湾に渡る事を正式に禁止 その後は鄭氏政権が誕生するまでオランダが台湾を統治 現在の台湾の名称はオランダ語のTaiwan(タイワン、タイオワン)が元 ふと、この記事を読み返していて気になった事がある。。。 何故、密貿易をした悪代官のように伝えられているのに 立派な碑やお墓が建てられ、守られ、伝えられてきたのか? 先代の代官、等安のことや、 次代の高木家なんて200年あまりも代官の座に君臨したのに。。。 屋敷跡だって「末次平蔵代官屋敷跡」なんですよねぇ〜〜 福岡の末次家の墓所も立派なものだと〜〜^^; 混沌とした世の中で、 時代をリードし、繁栄に導いた〜〜 これは誰もが認めるところ!! そのあたりに魅力?が隠されているのかもしれませんね^^v 悪い事をして処罰されたのに愛され続けた。。。 そんな末次平蔵像を彷彿とさせました^^ 写真は末次邸跡の碑と跡地に建つ桜町小学校の正門 末次船の絵馬(長崎市有形文化財)と 同じく御朱印船の図だが「荒木宗太郎の船」〜 絵馬の写真が判りづらいので。。。参考に 荒木宗太郎のことも書きたいなぁ〜〜^^;
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う〜ん、例え悪しきことを犯したとしても、一時代を築く功績は讃えられるものなのでしょうか。。
それにしても末次船はかっこいいですね!!
よ〜くお調べになりましたポチ☆^^
2009/9/16(水) 午後 6:35
素敵な画です^^。
2009/9/16(水) 午後 8:08
博多もんさんこんにちは^^
ポチ感謝ですぅ〜〜♪
末次家の墓は明治になるまで隠して祀っていたらしいですよ^^;
商売の為とはいえ、法を犯す。。。
でも、その人となりに何か魅力があったんでしょうね。。。
2009/9/17(木) 午前 11:49 [ 長崎の夏姫 ]
当時は今よりも数倍「死」と隣り合わせの航海。。。
こんな船で世界の海を渡っていたんですからね^^;
海の!男の?ロマンを感じます♪
2009/9/17(木) 午前 11:52 [ 長崎の夏姫 ]
タイオワン事件
1628年6月(寛永5年5月)タイオワン(台南・安平)のノイツは平蔵の動きに危機感を強め、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛の船も渡航を禁止して武器を取り上げる措置に出た。
この措置に弥兵衛は激しく抗議したがそれを拒否し続けるノイツに対し弥兵衛は、終に隙をついてノイツを組み伏せ人質にとる実力行使に出た。
驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲するも人質がいるため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続いた。
しかしその後の交渉で互いに5人ずつ人質を出しあい互いの船に乗せて長崎に行き、長崎の港に着いたら互いの人質を交換することで同意、一路長崎に向けて船を出した。無事に長崎に着くとオランダ側は日本の人質を解放、オランダ側の人質の返還を求めた。
ところが、長崎で迎えた代官末次平蔵らはそのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまう。
2017/5/3(水) 午後 2:14 [ 海洋文化交流・貿易振興 ]