IN-SPI-RA-TION

Imagine all the people living life in peace.

インナーチャイルド

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

議論、というものがあります。
 
「議」というからには、違う意見をぶつけることです。
「論」というからには、言葉による話し合いで、論理性があるものですよね。
 
議論について私が考えることは・・・。
 
「議論の内容と、政治的側面を分けよう」ということです。
政治的側面とは、「権力の移動を目的とする面」のことです。
 
自分の意見が正しいように見せて、
他人から自分が「正しい」とみられるように操作し、
そのことで第三者を「誤っている人」という立場につきおとそうとするような
やりかたとか。
 
あるいは、他人の誤りを必要以上に強調し、
相手の体面をつぶそうとしているように見える場合に、
 個人的には、共感できないのです。
 
 
 
そして・・・「誤り」の基準も問われるべきと思います。
 
「常識を敢えて離れて、独創的な見方」を披露しようとしている時に
 
「常識とは違う」と怒り狂って攻撃してくる人は、実生活でも時々いるのだけど、私は苦手です。
 
 
 
常識は、狭くて間違っていることが多いと認識しています。
常識は、せいぜい、世間で権威をもっている意見という程度のこと。
時代的賞味期限もありますし・・・
 
常識は、おおむね「やや遅れている意見」だと思います。
評価が定まっているということは、最先端ではないということですから。
 
「いわゆる真実」を求める人にとって、常識は単に邪魔になることもあります、
常識以上に素晴らしいものを求めているわけですから。
 
「真実を求める」なんて大げさにしなくても、
自分の頭で考えてみることに価値があると思います。
 
自分の頭で考えることの最初は、常識を疑うことだろうと思います。
 
 
そうは言っても、常識的な定義をふまえないと「他人には通じない」ことも多いです。
 
だから、「そんなに非常識なことを書くと、他人には通じませんよ」と言ってあげるのは親切でいいと思います。
 
 
 
「体面つぶし」をしようとしているように見えるケースでは、
最初の意見(←常識でないと怒られた意見)の
真意をくみ取っていないことも多いものです。
 
真意をくみ取れば、共感できることもあるでしょうに・・・。
 
最初から、他人の体面を狩ろうとしている「体面狩り」みたいにも見えます。
 
 
さて。この文章の結論を書きます。
 
誰かの意見に対し、「常識とは違う」というところに、こだわるのはまあいいとして、
 
「こいつの体面をつぶしてやろう」と見える態度だとしたら。
 
わたしは共感できないです。
 
 
議論の目的が「体面つぶし」に見えるとしたら、とにかく共感できないです。
 
自分の体面を守りたいですが、
 
他人の体面だって気になります。
 
わたしの感覚では、「体面は、基本的人権」です。
 
人に恥をかかそうというようなやりかたは、気に入りません。
 
それが私の美学であるということかもしれません。
 
昨日は話の都合上、我が生家について、一番イヤだったところについて
書きましたが・・・。
 
わが生家の家風、悪いところばかりではないのだ。
 
いいところもあったのです。
 
わたしの生家のメンバーは・・・とにかく、誇り高いです。 
プライドが高いです。
 
それも・・・お金とか、学歴とか、そういう部分にプライドがあるのではないのね。 
自分の気概とか、毅然としていられることなど精神的なことに、
ひたすらプライドをもっています。
 
わたしは・・・・家族のそういうところ、好きなんですよ。
 
 
昨日は、家族にいじめられたという「ストーリー」を書きましたが、
 
わたしのほうのセルフ・アサーションの問題でもあったのね。
 
 
わたしは子供のころ、家族をとても愛していて、妹が3歳になるころまでに、既に、
 
家族に対して大変な犠牲を払っていました。
 
なにしろ母親は、わたしが4歳の時、
「この子はもう完成しているので世話はいらない」と思うような人。
 
それは母親が自分の生母に、4歳の時に死なれているからなのかもしれませんが。
 
父親は妹が生まれたその日に経営していた会社を倒産させていたので、
生活が苦しかったということも大きいです。
 
経済的に困っていると・・・特に子供を抱えながら経済的に困っていると、
余裕なんかないわけです。
 
母は父を責めていたため、夫婦仲も悪かったです。
 
母にしてみれば、彼女がもっている「どうにでもなる、豊かな資源」は「私」しか
いなかった(笑)。
 
 
だから、私はかなり「使いまわ」されていました。
 
(1)4歳くらいから、母の「愚痴」の聞き役。
 
愚痴の聞き役として目だってしまうと、父からみると、わたしは「敵方」みたいに見えるわけです。こっちにその気がなくてもです。私の家庭内の地位が妹よりも圧倒的に不利だなと思うのは、こんなところにもあります。
 
(2)その前から、母を励ます役。
世の中的イメージでは、子供の成長を親が見守る・・のかもしれませんが、
その逆を随分やった記憶が・・。
 
でも、子供をもったことがある人から見ると、それは当たり前なのかもしれませんね。
親とて、本当は、未熟な存在。
子供に励まされ、子供にパワーを与えられるからこそ、親業をこなすことができるのでしょう。
 
(3)愛情の対象
 
妹ばかりではなく、私のほうも、愛情の対象にはなっていました。
母はまだ生きていますが、もしも亡くなったら、この(3)はもっと思い出すようになると思います。
多分、私は今よりも母を美しい存在と見ようとするでしょう。
母には長生きしてもらいたいので、生きているうちに、もっと美化したほうがいいかもしれません。
 
(4)おもちゃ
 
よくある話ですが・・母の「願望」を演じさせるための存在として、よく使われていました。(3)にあるように、愛情の対象でもあったのですが、
 
わたし個人の気持ち・願望・希望・将来の望み・など・・完全無視に近かったので、
いくら愛情をかけられても、イマひとつ、うれしくないというか、本当に愛されている気はしませんでした・・・。よくある話だと思いますが・・。
 
母は私の「心」を観ようとしなかったので、
実は、いまだに、私は母と本当に親しい関係という気がしません(実話)
 
本当は、母は私のどこかを見ていたのかもしれませんが、
わたしは「願望」や「希望」や「将来への夢」などは注意深く、母から完全に
隠していたので、もう今更、「親しい関係」にはなれない感じです。
 
要するに、「親しい関係」であるかどうかは、
「心を開ける相手であるか」と「注意深いかどうか」なのです。
 
もしも、昨日初めて私と会った人が、十分に私に対して注意深かったとしたら、
その人は私と親しいかもしれませんが、自分の母親とは親しくないという感じ。
 
「心を開ける相手であるか」ということと「こちらに十分に注意してもらえるか」という
ことが重要なので、
 
立場や時間の長さと・・・ある意味、関係ないのですね。
 
 
もう少し考えてみると・・・母は私に対し、オープンだと思う。
私は母を受け容れてあげる立場であり続けているからです。
一方、私は母にオープンになることはありません。
母にオープンになるのは、リスクが多すぎ。
「怪獣」が怒らないように、注意して取り扱っているのです。
 
そういう意味では・・母を猛獣だとすると、私は猛獣使いか、
猛獣の飼育係なのです。
 
だから・・別に仲が悪くはないのですよ。
一緒に旅行も行くしね。
 
「心のオープン」が一方的なだけ。
 
 
 
 
わたしが7歳になったころ、母にとっての私の役割は、一つ増えました。
 
 
(5)自分を良く見せるための、引き立て役。
 
昨日ブログに描いた部分です。
 
自分を「強く/正しく/善く/優秀に/有能に」見せかけるために
 
妹に対して私の「弱さ/誤り/悪さ/劣等性/無能」を必要以上に強調するわけ。
 
妹にものごころがついてきたので、妹の愛を独占したかったのでしょうね。
妹に対しては効果抜群だったので、調子に乗ったのでしょう。
 
ダシにされたのです。
 
母を決定的に嫌いになったのは、(5)番で・・・(4)番もそうとう酷いと思いますが・・。
一番イヤでした。
 
精神的虐待の一種ですね。
 
 
このあたりから、母は、「シンデレラの継母」
妹は「シンデレラの継母の娘」みたいに見えてきます。
そう・・・自分をシンデレラと見ているの(笑)。
 
 
 
家族を褒めようとしましたが・・またこんな風になってしまった。
 
でも・・家族のことは素晴らしいと思っています。
 
ケダモノのような、雑草のような、生命力。
 
他人の生き血を吸ってでも得しようとする貪欲さ。
 
近親の血肉を食らっても得しようとする、ずるがしこさ。
 
子供の私にとっては、怪獣か、バケモノみたいに見え、
 
醜悪さに顔をそむけたくなる存在でしたが、
 
なんのことはない・・・・彼らは「ただの幼児」だったと思います。
 
権力をもってしまった、幼い人。
 
 
 
だけど・・・私がその後、「ボーイフレンド選び」に最初から優秀さ?を発揮できたり、
 
誰に聞かなくても世界にある陰謀が理解できたり、
 
この世の醜さ、汚らしさが理解できるようになったのは、なんと言っても家族のおかげ。
 
多分、家族と出会っていなかったら、この世に「みにくさ」「貧しさ」があると知らないで生きてしまったかもしれないと思います。
 
苦労することもなかったような気がします・・・。
 
本当言うと、家族がいなかったら、エリートのまま生きてしまった可能性すらあり・・。
 
「光と影」のコントラストを創ってくれた、「どん底」の人々に・・
 
感謝、するしかないですね・・。
 
(ああ、なぜ、家族に対して、上から目線なんでしょう・・。
実は上から目線しかできない・・。)
 
家族こそ、幸運を授けてくれた存在だと、今では信じています。
 
子供のころ、かなりラッキーだった理由も、「家族を愛していたから」だと思います。
 
昨日はあんなことを書いたけど、わたしはかなりラッキーだったと思うし、
ラッキーだとみなされてもいたのです。
 
母と妹は、今では自力でけっこう裕福な人間になっています。
 
父は経済的に自立できるように・・助けました(笑)。
 
・・・というわけで、我が家では、「たくましくて強い」のは女性だということになっていますが・・
 
私が男性からチョットおごられるたびに「なんて男らしくて、すてきな人・・」と思うのは、父とのコントラストのおかげでしょう(笑)。
 
 
******
 
さて。本題に戻りましょう。
 
わたしが子供のころの話、被害者的立場としていくらでも書けますが(笑)
 
いつまでもそんなことをしていても、進歩しませんね・・^^
 
私の子供のころの問題は、本当は、すべて、「セルフ・アサーション」の問題です。
 
もしくは「リーダーシップ」の問題です。
 
わたしは家族を深く愛していたのに、その愛をうまく伝えられなかったのです。
 
本当は、私の心の中にあった愛を適切に表現するだけで、
 
家族をなごませるとともに、リードすることもできたはずです。
 
家族を目覚めさせ、ムダなエネルギーを使わずに、
成功に向かわせることもできたかもしれません。
 
知識と経験の足りない暴力をふるう若い母親に対し
4歳児がどこまでできるかというと・・・。
疑問だという意見も多いと思いますが
 
アサーションという点で、本当に私が優秀だったら、4歳でも、できたはずだと思います。
 
プチ陰謀があるのは、世の中では当たり前のこと。
 
そんなことに負けてはいられませんね^^
 
 
 
「きらいな理由(1)」で予告したように、生家であった出来事を書きます。
 
 
その前に、この原則をふまえておきましょう。
 
陰謀とは何か。
 
「誰かをよく見せかけるために、誰かを悪く見せる」ことです。
 
この世の陰謀は、ほぼ、この形になっていることに、御注意ください。
 
 
さて、私が幼いころ、生家で何があったか、書きます。
 
 
私と妹は、4歳歳が離れているのですが。
 
妹にものごころついたころ、母が【わたしの妹】にしたことは・・・。
 
自分(母)の強さを示すために、妹に対し、姉(私)の弱さを強調すること。
 
自分(母)の有能さを強調するために、妹に対し、姉(私)の無能さを強調すること。
 
自分(母)が善人であると主張するために、妹に対し、私の悪人ぶりを主張することでした。
 
 
 私は、長い間、自分が何をされているかわかっていませんでした。
母は私を愛していると思い込んでいたので、理解できなかったのです。
 
でも、だんだん、理解してしまったのですね。母は自分が妹の愛を独占するためなら、私を傷つけても平気な人だったのです。
 
自分が愛情を独占するためなら、娘たちの仲を裂いても平気な人でもあったのです。母は両親に早く死なれていたので、家庭内の愛情を独占しようと、ガツガツ愛に飢えていて、渇愛していて、必死だったのでしょう。
 
 
さて。そんな母に育てられた妹は何をしたでしょう。
 
彼女は、3歳の時にはもう、私を傷つけると自分は得をすると覚えていました。
 
母の英才教育?が効いてしまったのでしょう。
 
妹は、自分が善人であると強調するために、私が悪人であると主張するようになりました。母がやってることに倣っただけかもね。
 
妹は、自分が有能であると主張するために、私の無能さを暴き立てようとするようになりました。
 
妹は、自分に創造性があると主張するために、「お姉ちゃんに創造性はない」と主張するようになりました。
 
 
実は・・・そんな目に遭っていても、私は、自分が妹から攻撃されていることに
気付こうとしませんでした。
 
自分が姉だから、妹をかばわなくちゃと、勝手に思い込んでいました。
 
 
父親がしたことは、母と妹に比較すると、おだやかであったと言えましょう。
 
父は妹の歓心を買うためだと思いますが・・・
 
「優等生の姉(←私のこと)より、お父さんのほうが、お前(←妹)の気持ちをわかっている」という態度でした。
 
私を妹の敵に見せかけることで、自分は味方だと言いたかったのだと思います。
 
 
こんな風に・・・家族は、自分が得するためなら、私を悪く見せることに躍起な
人々だったと思います。
 
それでも私は長い間、家族が私の不利益を図っていたことに、気づいて
いませんでした。(馬鹿ですね・・)
 
自分は家族を愛していると思っていましたし、家族が私の幸せを望んでいない
ことが、信じられなかったのです。
 
 
 
家庭でいじめられた理由の一つは、学校で誉められていたからだと思います。
 
成績は一番、美術と作文のコンテストで毎年入賞、
スポーツでは区の大会で金色メダルをもらうような子供で、
良い友達がいてハッピーでもあり、
カリスマ小学生と見られていたため、
 
両親と妹にしてみれば、
「豊かな人間を、いくらいじめてもいいのだ」と思っていたのでしょう。
 
貧しい人間が考えるのは、しばしば、そんなことであるようです。
 
豊かさや幸せを「悪」と思う思想が存在しています。
 
両親は、二人とも、優等生の同性の兄/姉に敵意か嫉妬をもちながら育ったタイプだと思います。
 
私に対し「お前は学校で給食を他人より食べているから、家では食事はあげない」という感じでしょうか。
(この場合「食事を与える」は、「誉める」の比喩です。)
 
彼らなりの「社会主義」でそれが公平だと思い込んでいたようでした。
 
ゆがんだ社会主義であり、共産主義に名を借りた独裁主義みたいでもありました。
 
自分を優秀な労働者だと主張したかった母は、
自分が労働者であることを、ことさらに誇り、小学生の娘(←私)より自分は遥かに
偉大なのだと、権力におごり、ふんぞりかえって、威張りちらしていました。
まさに、よくあるタイプの共産主義ですよね?
 
 
 
***
 
正直、今でも両親と妹に腹が立っているかというと、そうでもないのです。
 
今では、父も母も妹も、一番頼りになる生家のメンバーは私だと思っているでしょう。ある意味私はもう、勝利しているのです。
私は父と母と妹のために、それぞれが居心地よくなるように住居の世話をして、そのことに満足しています。
 
 
要するに、両親も妹も、幼かっただけのことです。別にもういいです。
 
 
だけど・・・
 
 
今でも。
 
「自分が正しいと主張するために、誰かの誤りを強調する」とか
 
「自分が善人であることを主張するために、誰かの悪を強調する」とか
 
「自分が有能であることを主張するために、誰かの無能ぷりを強調する」というように
 
見える場面に遭遇した時、主張に共感することは、まず、ないです。
 
 
単に「自分は正しい、善人だ、有能だ」という主張ならいいの。
「きっとそうだよね!」って、祝福します。
 
誰かをダシにする場面に遭遇すると、共感以外の何かを感じます。
 
自分の素晴らしさを強調するのは、わたしは賛成なんです。
 
人はもっと自分の素晴らしさを強調してもいいと思う。
 
だけど・・・誰かを悪く見せかけて、自分をよく見せるのは、陰謀に見えてしまう。
 
 
同じ場面に遭遇して、私とは全く違う反応をする人が多いのも知っています。
 
「正・誤」「優・劣」「善・悪」などの争いを、
 
・・・多分プロレスみたいな・・・「バトル」のスポーツとして、楽しんでいるのでしょう。
 
その気分もわからないでもないのだけど。
 
そもそも「誤・劣・悪」だとされ、いじめられているか、攻撃されているその人は、
誰かと比較されなくてはならないのでしょうか?
 
どうして、わずかばかりの「誤・劣・悪」のポイントにフォーカスしなければならないのでしょう?
 
よいところを観ようとしては、ダメなんですか?
 
 
 
組み合わせの問題なのです。
 
自分を善いと主張するときには、特定の誰かの悪を強調しなくてもいいじゃないか。
 
自分を正しいと主張するときには、ことさらに誰かの間違いを強調しなくてもいいじゃないか。
 
自分を優秀だと言いたいとき、自分の実績だけ言えばいいじゃん。
劣等のサンプルを陳列していただかなくても、実績があれば
「優秀ですね」と言いますよ。心から。喜んで。 
 
何かの良さを強調するために、誰かを悪に
何かの優秀さを強調するために、誰かを劣悪に
何かの善良さを強調するために、誰かを悪に見せかけているとしたら。
 
わたしはそれを陰謀と呼んでしまいます。
 
皆さんの感覚は・・・どうなのでしょうか?
 
こんにちは、皆さま。(^^)/
 
私は、勝負事でないことで勝負しようとする態度が、好きではありません。
 
ルールがちゃんと決まっている勝負事で勝負するならいいですよ。
 
ルールを両者が合意して、それで勝負事が行われるのは好きです。
おもしろいし。
負けてくやしくても、勝って有頂天でも、正々堂々です。
いいじゃないですか。
 
 
 
そうじゃなくて
普通に暮らしていたら突然横から来て、
「それは違うっっ。こうなんだっっ。」みたいに言われて、
 
「ワタシの勝ちだわ」とか
 
「俺様の勝ちだ」と言われても・・・。
 
 
「アータと違って、勝負してないわ〜」
 
もしくは
 
「その基準で勝負する気ないわ〜」
 
と言いたくなります。
 
 
人生、ずっともう、そんな風だったような気がします。
勝負していないのに、勝負しようと誰かが挑んできます。
 
・・・最近は少し減ったかな。外で仕事することが減ったから・・・・。
 
 
「勝負してないポイントで、勝手に勝負と言われた経験」は
どこから始まってるかというと・・両親と妹がそろった「生家」からだと思います。
 
わたしは生家の影響で、人と張り合うのが大嫌いになりました。
 
・・・ひょっとして、もともと、無駄に人と張り合うのが嫌いなのかもしれませんが。
 
逆に言うと、ムダでなく人と張り合うのはいいということになります(笑)。
 
 
次回の記事では、
 
生家で何があって、「勝負事ではない勝負」が嫌いになったのか、
書きたいと思います♪
 

インナーチャイルド

インナーチャイルドとは
 
その人の内面にある「本当の自分」を象徴したイメージのこと。
 
ほとんどの大人は、癒やされ切っていない、インナーチャイルドを抱えていると
言われています。
 
今の私にとっては、大切な概念であるようです。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.
カール(カヲル32)
カール(カヲル32)
女性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

標準グループ

Yahoo!からのお知らせ

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

友だち(44)
  • Enterprise Fieldworker A
  • 愛國
  • 易坊
  • blue
  • ことば
  • そらいろ
友だち一覧

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事