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映画「シェイム」を観ました・・。
ブルー・グレイの映画。セックス依存症についての映画。
この映画は、よくできていると思う。
批評家のウケもいいみたい。
画面のほとんどにブルー・グレイのフィルターがかけてあるみたい。
さし色として、黄色、赤、オレンジが使われている。
劇中で使われる
歌手役キャリー・マリガンの「ニューヨーク・ニューヨーク」の歌い方がいいと評判です。
この曲が本来もっている「成功をつかみたいけど、つかんでない感じ」
物悲しい感じがよく出てると言われています。
監督のスティーヴ・マックイーンは、昔の有名なアクション俳優と同姓同名ですが、
アフリカ系イギリス人のアーティストです。
スティーヴ監督は職人になろうとしてないみたい。アーティストであろうとしている。
そんな監督ならではの映画。
マイケル・ファスベンダーは、マックイーン監督初のメジャー作品主演もつとめています。
とことん献身する俳優と、とことん献身させる監督の関係であるようです。
以下、ネタバレあります・・。
主人公は、アイルランド出身のニューヨークに暮らす男、ブランドン。
そしてその妹。
わたしはこの映画において妹は脇役ではなく、主人公の一部だと思う。
主人公を女性形にした場合、この妹になるのじゃないかと思う。
主人公は、収入のよい職につき、おしゃれなアパートに住んでいます。
ルックスもよく、性的魅力もあるので、女を手に入れるのは簡単・・。
しかし・・どうやら、恋愛ができない人間みたい。
セックス依存症、セックス中毒で、何かに取りつかれたようにセックスし続けます・・・。
妹のほうも、幸せな恋愛ができない人間。
セックス含め男性依存症。
なぜかマトモな恋愛ができない兄と妹の自傷行為にしか見えない
行為の繰り返しを観ているうちに、
観客の心に、主人公二人の心にある
「本当のシェイムの存在」=「心の傷の存在」が鮮烈に浮かび上がる、という仕組みの映画。
映画の手法として、淡々と日常を描き、そこから奥に潜むものを浮かび上がらせるという
やり方は基本なわけです。
ありがちなパターンの一つが、淡々と日常を描き、その奥にある「セックス」を描くというやりかた。
向田邦子の晩年のドラマはほとんどそうですし、
ルキノ・ヴィスコンティなどもそういう映画が多いですね。
一方、この映画は、セックスを描いて、描いて、描いて、
別のものを感じさせようとしていて、
それが成功しているので、それで批評家のウケがよいのだと思います。
意図どおりになっているのね。
イギリス映画では、過去30年間において、映画におけるセックスは、
「自由」という言葉の代わりに使われることが多かったと思います。
イギリス映画には、「弱い立場にある人間が、性的サービスを通して自己実現する」シリーズが
あります。
マリアンヌ・フェイスフルが中年女性の「手」の風俗嬢をやった「やわらかい手」とか。
男性ストりップで自己実現する「フル・モンティ」とか。
おばあちゃんたちのヌードカレンダーの話、「カレンダー・ガールズ」とか。
失業者のゲイの青年がひたすらセックスを追い求める生活の中で自由と創造性を獲得していくという
「プリック・アップ」という映画もありました。
これらの映画の中で、セックスおよびセクシャリティは、「自由と人間味と創造性」を
象徴していると考えても間違いはないのではないかと思っていました。
「抑圧」→「自由」→「創造性」というストーリーを考えるとき、
「自由」の部分の表現として、イギリス映画は「セックス」をいれる。
他の国の映画だと、セックスは「快楽」か「退廃」か「愛」の象徴になりがちなものですが、
イギリス映画のそれは、なにか違う感じがするものが多い。
この映画は特にそうですが、この映画じゃなくてもそう。
(イギリス映画・・・、と一般化するのは議論としては危険かもしれないけど(笑)。
どこかから反証が出てきて、かんたんにくつがえされそう(笑)。
・・・でも、まぁ、続けます・・。)
イギリス映画におけるセックスの扱い方は、ある意味肯定的と感じます。
「人間性を取り戻した」象徴とすれば、肯定的にならざるを得ない。
ユーモアと人間味を感じようとしているように見えます・・。
セクシャリティがなによりも「快楽・退廃・愛」の記号でありがちな他の国の映画と何か違う伝統があるみたい。
さて。『シェイム』に話を戻しますと・・。
シェイムにおける「セックス」の立場は、映画におけるセックスの記号的意味を少し押し広げたのではないかと思います。
この映画におけるセックスは、「嗜癖」(しへき)としてのそれであり、「現実逃避」行為である
と、鑑賞した人は皆思います。
イギリス映画では、長い間「自由」の象徴としてつかわれてきたセックスが繰り返されることで、
この映画では、「自由になりたいけど、なれない」ということが描かれます。
この映画、セリフも効いていますが、あくまでも映像でストーリーを引っ張るという、映画の王道。
おおむねよくできた映画ですし、よい意味でのミニマリズムが成功しているので、
「セックス描写が多いから」という理由で観ないのはもったいない。
脚本は、監督のスティーヴ・マックイーンが、アビ・モーガンという女性と共同執筆していますが・・。
アビ・モーガンは、「マーガレット・サッチャー鉄の女」の脚本を担当した人。
「鉄の女」もワタシは脚本に感動しました!!
注目すべき脚本家なのでしょう。
監督はアフリカ系イギリス人、脚本もイギリス人、
主要キャストのマイケル・ファスベンダーは、アイルランド出身
お父さんはドイツ人だけど、お母さんがアイリッシュ。
アイリッシュ、スコティッシュなどケルト系のよく脱ぐお兄さんというと、
ユアン・マクレガーとか、ジョン・レノンを思い出しますが、
なにか、「ケルトらしさ」と関係あると思います。
なぜそう思うのだろう、とさらに探ってみると・・。
・・・・なんというか、ケルト文化というのは、魂を裸にしようとする文化なのです。
魂を裸にすることを恥じない文化です。
ヒエラルキーをつくり、博物館に整然とモノを並べようとするアングロ・サクソン文化とは、
なにかが根本的にちがう。
ケルト人は政治的にはアングロ・サクソンに負けてしまい、ブリテン島のすみに追いやられましたが、
わたしが特に素晴らしいと思うイギリス文化は、ほぼ100%、ケルト人が創っているものです。
イギリス人といっても、ケルトとアングロ・サクソンでは、なにかが大きくちがう。
キャリー・マリガンもイギリス人。先日見た「ドライヴ」でも好演していました。
彼女が出る映画は、注目したいと思います。
考えてみると
ブルーグレイな色調で、ひたすら何かを求めるのが主人公の映画というのは、
イギリス映画の伝統の一つなのかもしれないと思います。
「プリック・アップ」でも「早春」でも、ブルーグレイの中で、主人公は追いかけ続けます。
さらに・・・イギリス的なものに私好みのテイストを入れるには、
「ケルト」という要素が欠かせないというジンクスがあります。
わたしのケルト好きは、ものごころついた時からです。
イギリス映画といってもニューヨークで撮っているのだけど、
キャメラには、先ほども書いたように、ブルーグレイのフィルターを使っていると思います。
他の映画のニューヨークとは、色がちがっています。
<この映画の色彩について>
色彩という点で、見るべき映画なのです。
「赤・青・黄」の三原色を使って映像に「色」いうテーマを持ち込んだのは
多分、日本の、小津安二郎監督ではないかと思うのです
(その前からあったという情報、おもちでしたら教えてください)。
そのマネをしたのが、「気狂いピエロ」のジャン=リュック・ゴダール監督。
「気狂いピエロ」には、「赤・青・黄」が等分に登場しました。
小津安二郎に対するオマージュではないかと思います。
ジャン・ジャック・ベネックスは、映画「ディーバ」で「青7:黄3」の映画をつくりました。
さらにベネックスは、「ベティ・ブルー」で「水色6:薄黄色3:ピンク1」の映画をつくりあげました。
ワタクシ的には、そこに連なる、色彩が印象的な映画です。
この記事の最初に書いたけど、この映画の場合、
テーマカラーは、ブルーグレイだと思います。
実際に、薄いブルーグレイのフィルターをかけて撮ったとおぼしき画面が続きます。
主人公ブランドンはいつもブルーのシャツにグレイのズボン。
マフラーはいつもブルーグレイ。
ブルーグレイを引き立たせるために、黄色・赤・オレンジが使われます。
どの位置に黄色・赤・オレンジを入れるか。
けっこう凝ってると思います。
何%か、薄い黄色のフィルターを使って撮ったと思われる画面があります。
色彩描写という点で、ワタクシ的には満足でした。
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わたしが注目している脚本家、アビ・モーガン作品で、
脚本を分析したいくらい、よくできた脚本と思うのですが、
1か所だけ、納得できないところがありました。
ブランドンは、妹が自分の上司とエッチしそうなのに、止めないの!!
・・・・あの兄妹とはいえ、わたくし的には納得できませんでした(笑)。
止めるでしょ、ふつー。
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