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情報ということについての一考察
人間にとって情報とはなんだろうか?
人間にとって、情報とは、自分から、他人に対して、自分の思いを伝えること。またその逆でもあるわけです。
はじめは、男女の告白のような一対一の情報の伝達からはじまり、家族となれば、父親が何人かの子供に伝えるなど一対複数の伝達が行われる。そして、今度は一つの地域から、他の地域への伝達をするようになっていく。
情報の伝達手段としては、原初的な、のろし、太鼓、寺の鐘などから次第に色々考案され、立て札、からカワラバン、モールス信号、新聞と進んできた。
近代では、初期の映画館では映画が始まる前は、大体2〜3のニュースが放映されていた。
また、ラジオが普及され、テレビが普及された。
そして、現代はネットが普及し、ネットによる情報があふれている。
その情報の内容は、性善説からいえば、すべて正しい情報と捉えることでしょう。しかし実際そうでしょうか。同じ事件を複数の違った情報として伝達されれば自分としての判断ができるわけで、まだましです。情報発信源が利益確保優先とか、他者や他国をおとしめる情報操作などになるとやっかいなことになります。
個人が情報を享受するときそれをどう受け止め判断するか、それは今まで自分がそれまでに蓄積された情報を自分なりに租借し自分の判断基準が構築されている訳であって。今自分はこの情報をこのように思うというとき、また新しい情報が入ってきたとき、自分の今までの判断基準が変わる場合がある。
それはそれとして、日本人という民族は性善説大好き人間が多いです。お人好しが多いといえば自虐的でしょうか。誤解されるといけないので、ここで言っておきたいのですが、私も性善説大好きです。
しかし、嘘やごまかし、を見抜くことは人類の知恵として持っていなければならないのです。もう少し、寛容な、ああこのような意見もあるなあ、ほど程度の差異もあるかもしれませんね。あれ、何か自分の今までの判断基準からすると何かおかしい、すっきりしない、違和感が在るなど感じる事も在るでしょう。
それは、それでいいのです。違和感を感じればそれを追求していけば良いのです。ようするに、いままで、自分をとりまく情報はすべて正しい情報と、捉える習慣が身に付いてしまっていたからにほかなりません。
いいかえれば、自分を取り巻く情報は正しい情報であらねばならないという正義感、または思い込みによる錯覚によるのるかもしれません。
いま、人々は、情報を選択する時代に入りつつ在ります。自分の判断基準から外れる情報は切り捨てる時代になってきていると思います。情報発信源側から言えば、下手をすれば切り捨てられる時代に入ったという事を緊張感を持って望まなければならない時代に入ったということを自覚すべきでしょう。それを自覚できなければやがて、消滅する事になるでしょう。
個人の情報受け入れ側はなにも心配する事は在りません、おかしな寿法は切り捨て、また、自分の意見をどんどん発信していけば良いのです。こうあるべきだということがあれば、どんどん発信していけばよいのです。
最近の新聞などは「新聞の自殺」などの意見もありますが、私もかっては新聞は正義を報ずべきものとの思いがありましたが、もう今となっては全くそのようには捉えておりません。本来の姿がどちらかは知りません、本来の儲かればいい主義にもどったまです。若い正義感ある人は潰され、姑息な商業主義のものがのさばっているに過ぎません。そのょうなやからはやがて、人々に無視されて自然淘汰されていくでしょう。
松本清張の小説「金環食」に出てくるような記事を書く時代はもうこないのかもしれない。
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