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アンヴァリッドのすぐそばにある“ロダン美術館 (Rodin Museum in Paris)。 「Wikipedia」には以下のとおりの説明が・・・ 『オーギュスト・ロダンの自己の作品及びロダンがコレクションした美術品を中心として所蔵する。美術館の建物は1908年から亡くなるまでの10年間、ロダンがアトリエとして使い、そして暮らした「ビロン邸」(Hotel Biron)である。 1911年にフランス政府がビロン邸を買い取ることとなったときに、この館を気に入っていたロダンが、自己の作品及びコレクションを国家に寄付するので、美術館として残して欲しいと提案した。ロダンの死後の1919年に開館した。 別館として、パリ近郊のムードン(Meudon)に、ロダンがもう一つ、アトリエ兼自宅としていた館が美術館となっている』。 フランスを代表する彫刻家“フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(François-Auguste-René Rodin”(1840年11月12日〜1917年11月17日)。 同様に「Wikipedia」には以下のとおりの説明が・・・ 『19世紀を代表する彫刻家とされ、『近代彫刻の父』と称される。 代表作に『地獄の門』、その一部を抜き出した『考える人』などがある。 パリの下町で警視庁の書記の息子として生まれる。14歳で工芸実技学校に入学。ロダンは極度の近視で黒板の字も見えないほどだったと言い、そのせいで学校での成績は芳しくなかった。 そのロダンの良き理解者であった2歳年長の姉・マリアの援助により帝国素描・算数専門学校に入学して美術を学ぶ。さらに芸術家の登竜門であった国立美術学校エコール・デ・ボザールの入学試験に臨むが、三度受けて三度落ち、遂に断念した。 それ以後は古代ギリシアのペイディアスとルネサンスのミケランジェロを師にして、ほぼ独学で彫刻を学んだ。 が、しかし、そのロダンに悲劇が訪れる。1863年、姉マリアが修道院で自殺したのである。マリアはロダンの友人の画家と恋愛をしていたのだが、その男に捨てられ、傷心の余り修道院に入ったが、そこでも心の傷は癒されずに自殺に至ったのである。敬愛する姉の死にロダンは自らを責め、聖サクラメント修道会に見習い修道士として1年余りを過ごした。 そして1864年に『鼻のつぶれた男』をサロンに出品するが、まったく評価されなかった。当時の彫刻とは貴族たちのために作る美しい彫刻が当たり前だったのが、鼻のつぶれた醜い男をモデルにした醜い彫刻など、当時の審査員にとってはふざけているとしか思えなかったのである。 酷評にショックを受けたロダンは以後、12年もの長い間作品を発表しなかった。この年に生涯の伴侶となるローズ・ブーレと出会い、内縁関係を結ぶ。正式に結婚するのはロダンもローズも老齢になってからである。 京都国立博物館の『考える人』1875年、イタリア旅行に出て、ミケランジェロの作品を見て強い感銘を受け、1877年に長い沈黙を破って『青銅時代』を出展する。 この『青銅時代』はオーギュスト・ネイトと言う人物をモデルにした等身大の男性像で、極めて緻密でリアルな作品であった。ところがそのあまりのリアルさのために「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられ、憤慨したロダンは2年後に人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに作った。型を取ったのではなかったと解った審査員たちは、ロダンの彫刻に対して賞賛の言葉を送り、ロダンの名は一気にフランス中に広まった。 1880年、ロダンの元に国立美術館を建てるので、そのモニュメントを作って欲しいとの依頼が来た。そのテーマとしてロダンが選んだのがダンテの『神曲』地獄篇に登場する『地獄の門』である。ロダンはこの大作品に取り組むに当たり、粘土や水彩画などでデッサンを重ねていったが、中々構想はまとまらなかった。 『地獄の門』この悩める時期に教え子のカミーユ・クローデルと出会い、この若き才能と魅力に夢中になった。だが優柔不断なロダンは、カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れた。数年後ローズが病に倒れ、カミーユがローズと自分との選択を突付けるまで決断できなかった。ローズの元に逃げ帰るロダン。ショックを受けたカミーユは以後、徐々に精神のバランスを欠き、ついには精神病院に入院、死ぬまでそこで過ごす事になる。 1888年、美術館の建設計画は白紙に戻り(予定地だった所には現在はオルセー美術館が建っている)、ロダンに『地獄の門』の製作中止命令が届くが、ロダンはこれを断り、金を払って『地獄の門』を自らの物とし、彫り続けた。 ロダンにとって最早『地獄の門』とは単なる作品ではなく、『神曲』の中の物語でもなく、ほかならぬロダン自身のモノとなっていたのである。 そして1889年、『地獄の門』を覗き込む男を一つの彫刻として発表した。はじめこの彫刻には「詩想を練るダンテ」と名づけられていたが、発表するときは「詩人」と名づけられた。この像は誰を表しているのか、ダンテであると言う説もあるが、ロダン自身であると言う説もある。その姿は地獄の中を覗き込み、苦悩している姿であり、その地獄の中にはカミーユ、ローズとの間に出来た息子(この子のことをロダンは認知せず、世間にも隠していた)の姿がある。なお『考える人』と言う名はこの像を鋳造したリュディエがつけたものである。 1917年、ロダンは死期の迫ったローズと遂に結婚の手続きをした。ロダン77歳、ローズ73歳であった。その16日後にローズは死去し、更に9ヵ月後の11月17日にロダンも死去した。ロダンの末期の言葉は『パリに残した、若い方の妻に逢いたい。』だった。結局『地獄の門』は未完に終わった。その弟子としてアントワーヌ・ブールデル・シャルル・デスピオがいる。 その作品群は世界的に人気があり、特に『考える人』は数多く鋳造され、世界中に存在する。体を捻り、頬杖をついて、地獄の門を覗き込む男。そこには人間の内面までも浮かび上がらせようとするロダンの情念が息づいていた。 大原美術館には、ロダンが『白樺』同人に贈った3点の小品が収蔵されている。 ロダンのモデルをつとめた日本人女性として花子(本名太田ひさ)の名が知られている』。 古今東西、不倫の結末は怖い・・・(-_-
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パリ&近郊
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久しぶりにパリねたです。 “アンヴァリッド(les Invalides) ” ナポレオンの棺が置かれているので有名なところですね。 ホテル(アメリカ大使館隣)から散歩がてら歩いていってきましたよ。 10月のパリは気候もよく、散策にはもってこいですね。 少々残念だったのが、修復作業をしていたので、正面から撮った写真がこんな感じだったことです。 アンヴァリッドの説明は以下のとおりです。 『オテル・デ・ザンヴァリッド(フランス語: l'Hôtel des Invalides、廃兵院もしくは癈兵院)は、パリの歴史的建造物の一つ、旧・軍病院。1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として計画し、リベラル・ブリュアンが設計の指揮をとり1674年に最初の傷病兵たちが入った。 建築史上有名なのは附属する礼拝堂の建築である。教会の建設は1677年に始まり、後に兵士の教会とドーム教会に分かれジュール・アルドゥアン=マンサールのもとで1706年に完成した。ドーム教会の地下墓所にはナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が中央に置かれている。また、それを囲むようにして、ナポレオンの親族やフランスの著名な将軍の廟が置かれている。 21世紀当初となっても100人ほどの戦傷病兵や傷痍軍人が暮らしている。一部は軍事博物館として公開されている。 アンヴァリッドに廟が置かれている著名人 ナポレオン・ボナパルト (1769 - 1821) ジョゼフ・ボナパルト (1768 - 1844) - ナポレオンの兄 ジェローム・ボナパルト (1784 - 1860) - ナポレオンの弟 ナポレオン2世 (1811 - 1832) - ナポレオンの子 ルージェ・ド・リール (1760 - 1836) - フランスの国歌ラ・マルセイエーズの作者 フォッシュ (1851 - 1929) - 第一次世界大戦時のフランスの将軍 テュレンヌ (1611- 1675) - ルイ14世時代のフランスの将軍 ヴォーバン (1633 - 1707) - ルイ14世時代のフランスの将軍・要塞建築家 フィリップ・ルクレール (1902 - 1947) - 第二次大戦時のフランスの将軍』 すべて見て回るには、たぶん半日以上かかるでしょうね。 ちなみに最後の写真は、すぐそばにあるロダン美術館からのショットです。 というわけで、次回はロダン美術館を紹介します。
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パリ&近郊探訪第3弾は、パリから南東へ約65kmほど離れたフォンテーヌブロー城&その森に隣接する小さなバルビゾン村へ、半日バス観光に行ってきた時に撮った数枚のショットを紹介します。 以下は、“MY BUS”ツアーの説明にある文章です。 「フォンテーヌブローの森に囲まれた壮麗な城とその森に隣接する小さな村バルビゾンです。フォンテーヌブロー城は中世封建時代のカペー王朝から歴代の国王の居城であり、ベルサイユ宮殿とならんでフランスを代表する城で、ナポレオンが愛したことでも有名です。一方、バルビゾンは1830年代にミレーやルソーといった画家たちが愛した村。村の中心には画家たちゆかりの建物が残り、周囲には現在もミレーの「晩鐘」に見られるような、のどかな田園が広がっています」。 写真は、バルビゾン村の一部とフォンテーヌブロー城の正面と庭からの景色、そして、城の中のほんの一部です。 一気に中世に来た気分になれますよ! ちなみにblogに初めて“顔出し”しちゃいました(^_^ 。。。訪れていただいている旧友の方々、最近はこんな感じです。
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ルーブル美術館と言えば、やはり“ミロのヴィーナス”“サモトラケのニケ”“モナ・リザ”ですかね。 “ルーブルの三大貴婦人”抜きではこの美術館を語れないでしょう。 以下は“Wikipedia”から・・・ ミロのヴィーナスは、ギリシア神話におけるアプロディーテーの像と考えられている。「ミロ」は発見地ミロス島のラテン語読みで、「ヴィーナス」はアプロディーテーのラテン語名ウェヌス (Venus) の英語読みである。ただし英語では通常ルーヴルで表示しているフランス語式綴りをとって 「Venus de Milo」と表記し、これを英語式に「ヴィーナス・デ・マイロ」に近い発音をする。現代ギリシア語では「Αφροδίτη της Μήλου」と表記して「アフロディーテ・テス・メイロウ」に近い発音をする。 高さは203cm。材質は大理石。紀元前130年頃に、「アンティオキアのアレクサンドロス」と呼ばれる、その名以外の素性が不明の彫刻家によって作成されたと考えられている。 サモトラケのニケは、現存するギリシャ文明の彫像の中で、女神ニケを題材にしたものとして貴重な彫像でもある。その題材のみならず、優美でダイナミックな姿や翼を広げた女性という特徴的なモチーフなどが印象的で、各地にレプリカが作られ親しまれている。 大理石製で高さは328cm。 最初の発見は1863年で、フランス領事シャルル・シャンポワゾによって胴体部分が見つけられた。それに続いて断片と化した翼が見つかった。断片は全部で118片にのぼる。その後復元された像は1884年にルーヴル美術館の『ダリュの階段踊り場』に展示され、現在に至る。 右腕は1950年に発見され、ルーヴル美術館に保管されている。手は大きく広げられている。 この彫像についての古文書はひとつも発見されていないため、様式および傍証から年代を推定することしかできない。まず、デメトリオス1世ポリオルケテスの貨幣がこの像を表しているのではないかと考えられ、デメトリオス1世が海戦の勝利を祝って建造したと推測する説があった。この説によれば彫像は紀元前4世紀終わりから紀元前3世紀初頭の彫刻家の作ということになり、サモトラケ島で活動していたスコパスの弟子などが該当する可能性がある。しかしながら、サモトラケ島は当時デメトリオスと敵対関係にあったリシマクスの支配下にあり、ここにデメトリオスが像を建立したとは考えにくい。 次に、ロードス島のリンドスで発見された船を象った浮き彫りの形態と台座の大理石の由来から、彫像がロードス島のものであり、コス島、シデ島、あるいはミヨニソス島での勝利を祝したものと考える説がある。年代はそれぞれ紀元前261年頃、紀元前190年、おなじく紀元前190年である。 この時期は大プリニウスにも言及されている。チモカリスの息子ピトクリトスが彫刻家として活動していた時期に符合する。ピトクリトスはリンドスのアクロポリスの彫像を手がけたことでも知られている。そしてシャンポワゾは1892年、彫像の直近からロードス島ラルトス産の大理石の断片を発見したが、これには「…Σ ΡΟΔΙΟΣ / …S RHODIOS」という表記があり、「ロードスのピトクリトス」に符号する可能性を示すものとして注目された。しかしながら、この断片とニケの彫像が置かれていたエクセドラ(半円状に突出した建築部位)の関係は明らかではなく、とりわけ、この断片の小さな凹部はそれが小像の台座であることを物語っている。 他に、この彫像がアンティゴノス2世ゴナタスの奉納物であるとする説がある。すなわち紀元前250年代のコス島でのプトレマイオス2世に対する勝利の記念物である。アンティゴノス2世はデロス島に彫像を建立していることから、アンティゴノス朝が伝統的に守ってきた聖域であるサモトラケ島にも同様なことを行っていたと考えることは可能である。 他の検討の可能性として、ニケの彫像をペルガモンの大祭壇のフリーズに彫られた人物像と比較する研究者もいた。 モナ・リザ(英: Mona Lisa(Monna Lisa)、伊: La Gioconda、仏: La Joconde)は、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油絵。内観的な表現を持って深緑の衣装を着た一人の女性が、僅かに微笑んだ半身の肖像が描かれている。恐らく歴史上最も有名な肖像画であり、これほど賞賛、模写されてきた絵は他に例を見ない。『モナ・リザ』は現在パリのルーヴル美術館に展示されており、同館の目玉展示物となっている。 レオナルドは1503年にこの絵を描き始め、3年から4年制作にあたった。完成後もレオナルドの手元に置かれ、フランスのフランソワ1世の招きによりレオナルドと共にアンボワーズ城近くのクルーの館へ移り、その後1510年頃にフランソワ1世によって4000エキュで買い上げられ、フォンテーヌブロー宮殿に留め置かれたとされる。 さらにその後ルイ14世によってヴェルサイユ宮殿に移され、フランス革命後には現在の展示場所であるルーヴル美術館に落ち着いた。ただしその後もナポレオン・ボナパルトが自分の寝室に持っていったり、普仏戦争や第一次世界大戦、第二次世界大戦の際にフランス国内の安全な場所に移されたりしている。 1956年頃には酸による浸食で下部に著しい損壊が生じ、数ヶ月後には石を投げつけられたことから、『モナ・リザ』は現在のような防弾ガラス付き防犯ケースに収められ、ケース内部は湿度、気温ともに管理されるようになった。 1962年、アメリカ合衆国へと貸し出され、ニューヨークとワシントンD.C.で展示された。日本における展示は1974年に東京・上野の東京国立博物館で行われ、その後モスクワへ貸し出されている。 ルーヴル美術館が開館したのは1793年。 目的は、フランス文化の“偉大な様式”の復興・未来の芸術家の“教育”のために、フランス王室のコレクションという手本を提供することだったそうです。 やはり素人には難しいので(-_- 、以下は、公式サイトから・・・。今日でも展示室には常に学生や模作の制作者がいるものの、美術館の実態は大きく変わりました。ルーヴル美術館には毎年、あらゆる国と文化圏から六百万人近い見学者が訪れ、それに応じて様々な美術館の見方があります。しかし、ほぼ普遍的と言っていいほど、いくつかの「傑作」を人々がとりわけ熱心に鑑賞するのは、鑑賞者の国籍や文化を問わず、それが心を打つからでしょう。 紀元前4世紀のギリシアの哲学者プラトンは、いかなる芸術家も「理想美」に到達することはできないと記しました。芸術家は常に、この至高の、時を超越した美という問題に直面し、その時代と個々の天分を反映した解決法を提示してきました。こうした芸術家の応えのうちいくつかは、今日なおその反響が見られます。 しかし、19世紀になって、芸術作品は新しい役割を引き受けるようになり、「傑作」は必ずしも、目を楽しませるための美的な抽象概念である「美」の同義語ではなくなりました。いくつかの作品には、芸術に関するこの新しい考え方が反響しており、多くの点で現代社会における芸術作品の地位やあり方を予告しています。 この見学コースは、時代順ではなく、鑑賞者が自然と足を止めるような作品にスポットを当てるものです。 まず、シュリー翼の方向にお進みください。チケット確認の後、中世のルーヴル宮の壕に向かってまっすぐお進み下さい。壕に入る前に、左側に二つの模型があります。下側の模型によって、現在位置を確認することができ、上側の模型は、十四世紀のシャルル五世治世下のルーヴルを示しています。 ちなみに公式サイトでは、こういった説明が12ページにわたって続きます。 お暇な方はどうぞ(^_^
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書庫に“パリ”って作ったのに・・・すっかり忘れていました(^_^ 。。。今年2度目のパリにおける数々の迷?ショットを、これから紹介させてもらいまーす。 まずはミーハーですが、エルメス本店のショーウインドー。 今年の秋冬はこんな感じなのでしょうかね? まー男にはわからないっす・・・(^^
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