宇宙とブラックホールのQ&A

Q&A、書評、天文を中心とした科学ニュース、俳句・短歌などを掲載しています

科学・技術論

[ リスト | 詳細 ]

2011年4月末に「科学論」として新設、2013年1月初めに「・技術」を挿入しました。
記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]

力学の発展

坂本賢三著『先端技術のゆくえ』(岩波新書、1987年)の抜粋シリーズです。
坂本賢三さんのこと:https://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/57521170.html
『先端技術のゆくえ』1:https://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/64835669.html

今回は、古典力学の発展を扱った箇所を抜粋します。
「・」で始まるのは小見出しです。
章・節は漢数字からアラビア数字に変え、改行などもこのブログの流儀に変えています。

まず「第1章高度技術 2 科学技術」から、科学と技術の関係を論じている文脈です。
p.14〜16

・無矛盾の体系をめざす科学
科学と技術の相違の大きな点は、科学が原理から出発して、論理的に無矛盾の体系をつくろうとするところにあった。
しかし、技術が提起する問題は、あまりにも具体的・現実的であって、簡単に取扱うことができない。
少数の単純な原理から出発して問題を扱うには技術の問題はあまりにも複雑すぎるのである。

近代科学がまず天文学において成功を収めたのは理由のあることであって、天体の運動を研究するのであれば、媒質の抵抗や摩擦は考えなくてもよいし、相互の距離があまりにも大きいので、各天体は質量は持つが大きさは無視できる「点」として扱うことができた。
こうして「質点」の概念もできたのである。
しかし、地上の現象を扱うにはこれでは粗すぎて使えない。天体であれば点として扱うことができても、それは距離に比べて大きさが無視できるほど小さい(ネグリジブル・スモール) ということであって、現実に大きさゼロの物体はない。
しかし質点の力学が成功を収めたので、これを出発点にすれば、物体を質点の集まりとして扱い、質点系の力学をつくることが次への一歩になる。
質点系をつくっている質点の相互位置が変わると問題が複雑になるので、位置関係が変わらない(変形しない)という仮定を置いて回転や衝突を扱う「剛体の力学」ができた。

しかし、現実には、外力に対して変形しない物体は存在しない。
剛体の力学は理論上成立しても、技術に応用することはできない。
そこで、変形を受けても完全に元に戻る「完全弾性体についての理論」がつくられる。
しかし実は、完全弾性体なるものも現実には存在しない。
どんなものでも可塑性を持っているのであって、外から受けた「ひずみ」が残る。
完全には元に戻らないのである。
こうして「塑性の力学」ができる。

一例であるが、ざっとこのようなぐあいに力学は発展してきたのであって、技術への応用どころか、科学は技術から与えられた課題にこたえる努力を続けてきたのである。


力学の発展を次のように整理しています。
質点の力学 : 天体を、質量はもつが大きさは無視できる質点とみなす
  ↓
剛体の力学 : 変形しないという仮定の下、回転や衝突を扱う
  ↓
完全弾性体についての理論 : 変形を受けても完全に元に戻る
  ↓
塑性の力学 : 外から受けたひずみが残る


・科学の実験とは何か
しかし、数学と違って、科学はただ矛盾のない体系をつくればすむということにはならない。
それは、実験によって裏付けられなければならない。
そこで、ガリレオは物体の運動法則を見出すに当っては、摩擦の影響を無視できるほど小さくするために金属球をつくって磨きあげ、斜面も磨きあげて実験した。

科学の実験というものは、つねにこのように、関連している多数の要因のうち、特定の要因との関係だけを取り出すために、他の要因を無視できるような条件をつくって行なわれる。
その条件は恒温や等圧や真空といった環境だけでなく、実験材料についても要求される。
弾性の実験は、できるだけ完全弾性体に近いものをつくって行なわれる。
初等中等教育での理科の実験で、弾性の法則を「つるまきばね」を用いて調べるのは、ばねが完全弾性体に近いからである。
同様に、実験材料も、できるだけ純粋に近いものが望ましい。
現実には純度百パーセントの物質は存在しないが、できるだけ純度を高めることによって、実験しやすく、理論もつくりやすくなる。
(次の段落は、力学を離れて気体の熱力学の例示となるので、略)


ポイントは次の点でしょう。
「科学の実験は、つねに、関連している多数の要因のうち、特定の要因との関係だけを取り出すために、他の要因を無視できるような条件をつくって行なわれる」


このように見てくると、科学は実に多くの過程を前提として成り立っているのであって、弾性とともに塑性を持つわれわれの周囲のさまざまな物体が地球の重力のもとで空気の抵抗や摩擦を伴って運動している状態を完全に記述することは不可能である(地球の重力は場所によって異なるし、摩擦があれば、熱や電気を無視することはできない)。
そうだとすれば、いつまで経っても、技術への応用など期待できないように見える。


近代科学の代表選手である力学の発展を表から整理すると以上のようになるのですが、このすぐ後で現代の科学と技術の関係(一体化)が語られます。
ただ、実際の歴史では科学と技術は平行して発展してきたのであって、そういういわば裏面の整理が以下の引用です。

「第3章 技術と社会 2 教会(寺社)から国家へ」から。
「政治がすべてを決定する国家の時代」17世紀は、ヨーロッパでも日本でも土木の世紀だったことを示す記述が数ページ続いた後、次の文章が出てきます。
p.89〜90

・デカルト的な連続的力学
機械工学はこれまで19世紀から始まると考えられていたが、筆者がエコール・ポリテクニクで調査の結果、17世紀までさかのぼることが明らかになった。
それはニュートン的な粒子的力学ではなく、デカルト的な連続的力学であって、流体を扱う場合には当然のことながら土木技術と結びついて展開したのである。
粒子的要素の力学を基礎とする現代物理学から見ると、ニュートンから始まり、質点の力学、質点系の力学と展開して行った流れしか見えないが、他方にデカルトの連続体説を出発点とする水力学・流体力学の伝統が脈々とあって、実験や土木工事の実際と結びつき、科学研究の重要な一面をなしていたのである。
技術を科学の単なる応用と考えれば、これらは工学に過ぎないということになるが、現代からあらためてふりかえってみると、河川工学は流体力学の主要な源泉なのであった。
もちろんニュートンも流れについて研究しており、微分法も彼の場合「流率」ととらえられたのであるが、デカルトからつづくフランスの伝統を無視することはできない。
18世紀フランスにおけるデカルト派とニュートン派の争いも、古いデカルト主義とか、フランス人デカルトに対するイギリス派の闘争と言い切ってしまえないところがある。
この論争ではモーペルテュイ、クレローらのニュートン派はカッシニらのデカルト派に勝利したのであるが、それは地球の形状に関する問題についてであって、19世紀に入ってもデカルト的な連続体説の伝統はフランス的な考えの背景になっており、ラグランジュやナヴィエの流体力学研究、コーシーの解析学、ポンスレの渦の研究にまでつづいている。
ポンスレの主張した「連続の原理」はコーシーに批判されたが、その射影幾何の考え方は彼の流体研究と切り離すことができないのである。


近代哲学の祖とされるデカルトは、真空の存在を否定し、物質の遍在を主張する連続体説と渦動説を唱え、これがフランスの知的伝統の一部となりました。
力学においては、ガリレオ・ケプラー → ニュートンという主潮流だけでなく、デカルトに端を発する流れも重要な役割を果たしていたという認識です。

18世紀前半にパリ王立科学アカデミーを中心に、地球は南北の極がつぶれた形なのか両極方向に伸びた形なのかという論争が起こりました。
前者の主張を行ったのが、科学アカデミー会員のホイヘンスとニュートンでした。
一方、後者の主張を行ったのが、土星探査機の名称にも採られた天文学者ジョヴァンニ・カッシーニの息子でフランスを南北に縦断する子午線の計測事業を完了させたジャック・カッシーニでした。
この論争については、中村英俊さんという科学史研究者の方の次のサイトが参考になると思います。
https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/420


★ 令和の初日に当たり、テレビで天皇の即位儀式を見ながら書いています。

福島原発事故の原因

最近読んだ本に福島原発事故の原因が分かりやすくまとめられていたので、ご紹介します。
全体の書評も、この後で書くかもしれません。

吉田 伸夫 著 『科学はなぜわかりにくいのか』 技術評論社 知の扉シリーズ 四六版224頁 2018年4月発行 本体価格¥1,580(税込¥1,706)
第5章 科学者はなぜ数字で語りたがるのか 「福島第一原発事故」p.168〜p.172
(・・・は省略した部分ですが、他にも要約した部分があります。)


原発における安全性の要は水であり、緊急時に注水するための電源が確保されることが、安全性を維持する上での前提となる。
多重安全設計の考え方に従い、福島第一原発でも、外部から原発に電気を供給する送電システムと、送電システムがダウンしたときのための非常用ディーゼル発電機がいくつも用意され、そのどれかが動けば事故を避けられるように設計されていた。
ところが、現実には、1回の巨大地震ですべての電源が失われ、冷却水喪失によるメルトダウンという深刻な事故につながった。

2011年に東日本一帯を襲った巨大地震で被害を受けた原発は、北から順に女川原発、福島第一原発、福島第二原発、東海第二原発の4つ。
・・・
他の3つでは、微量の放射能漏れはあったものの、いずれも深刻な事故には至らなかった。
明暗を分けたのは、生き残った電源が1つでもあったかどうかである。

外部から福島第一原発に電力を供給する送電システムは、全部で3系統6回線あった(主に雷対策のため、各系統ごとに2つの送電線が用意される)。
しかし、地震の揺れによって、鉄塔の倒壊、送電線の遮断(ショートしたとき保護機能が働くことによる)、変電所の遮断機損壊などが相次ぎ、続く津波によって敷地内受電施設の制御盤も水没して、全ての回線が使えなくなった。

・・・
福島第一原発では、ほぼ全てのディーゼル発電機が使えなくなった。

福島第一原発でディーゼル発電機が使用不能になったのは、これらが、他の原発と異なり、原子炉建屋ではなくタービン建屋の地下に設置されていたからである。
原子炉本体を収納する原子炉建屋は、きわめて頑丈に作られており、津波や高潮が押し寄せても大丈夫なように、潜水艦並の水密扉を備えている。
このため、原子炉は、津波でほとんど被害を受けなかった(部分的な浸水はあった)。
しかし、タービンや発電機を設置するためのタービン建屋は、原子炉建屋に比べて安全性の基準が低く、水密扉ではなくシャッターしか備わっていなかったため、津波の圧力に耐えきれず、変形して水の侵入を許した。

・・・
1号機から5号機までに併設されたディーゼル発電機は、いずれもタービン建屋の地下にあったため、津波で冠水し全て使用不能になってしまう。

わずかに、6号機に併設された3台のディーゼル発電機のうち、内陸側に置かれていた1台だけが、水没することなく稼働した。
5号機と6号機は、地震の発生時には定期点検中で発電を停止していたが、このディーゼル発電機のおかげで安全が確保できた。
6号機は、他と比べて海から離れており、冷却水が得られない危険があったため、水冷式ではなく空冷式のディーゼル発電機を余分に用意していたのである。

なぜ安全装置の要である非常用ディーゼル発電機を、頑丈な原子炉建屋ではなく、脆弱なタービン建屋に置いたのか?
「ディーゼル発電機を冷やすための水を汲み上げやすいように、海に近いタービン建屋に設置した」という説明がなされるが、それだけではあるまい。
福島第一原発は、1号機が1967年に着工された古い原発である。
1979年のTMI原発事故以降とは異なり、福島第一が設計された1960年代には経済性が優先されていた。
大型化によるコスト高を防ぐため、格納容器は独特の形状をしたコンパクトサイズで、原子炉建屋も、格納容器のすぐ外側を覆うように作られており、余分なスペースを可能な限りそぎ落としていた。
こうした設計思想の下で、ディーゼル発電機も、原子炉建屋の外に置かれることになったのだろう。

タービン建屋に設置するにしても、1台は地下、もう1台は高所にと離しておけば、建屋内部が浸水したとき、高所の1台は稼働できたかもしれない。
それが、津波という共通原因によって安全装置をすべて失うリスクを低減する上で、基本的やり方である。
だが、設計に際して「津波は堤防で防げる」という前提があったため、地上より地震の揺れが小さい地下に2台のディーゼル発電機を並べて配置したのである。
事故状況を査察した国際原子力機関(IAEA)の調査団は、「日本のいくつかの原発では、津波に伴う危険性が過小評価されていた」とコメントしたが、まさにその通りである。



同じ章に、スリーマイル島(TMI)原発事故とチェルノブイリ原発事故のことも載っています。

一見妙な表題ですが、その意味は読んでいただければ分かると思います。
坂本賢三著『機械の現象学』の「第2部 機械の外延的意味」の第1章の最後から第2章の初めの部分にかけての引用です。
坂本賢三さんと『機械の現象学』については、次の記事をご覧ください。
坂本賢三さんのこと:http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/57521170.html
『機械の現象学』1:http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/63506449.html

第2部では「人類の歴史において機械がどのように現象してきたか」を見ており(p.303)、つまり外延的意味というのは歴史的取り扱いということです。
第1章から第6章までの表題は、人間、自然、時計、機関、計算機、人造人間となっていて、第3章以降は機械の歴史的発展に沿っていることは明らかに見て取れます。
また、第2章(自然)は自然観の変遷を古代オリエント、古典ギリシア、ヘレニズム期、キリスト教、イスラムという順で追っていて、第3章(時計)の西欧近世につながっています。
しかし、第1章(人間)だけは歴史的取り扱いではありません。
今回の引用はあまり長くないので、解説は最後にまとめて行います。

p.181,2>
     第1章 人間
      52 構造
・・・ しかし、これらの構造が自然や社会にア・プリオリに存在しているということはできない。
われわれはこれらの構造を自然や社会という対象から引き出したのではなく、対象化の働きから引き出したのであり、この働きを対象化=抽象化したものを方法として自然や社会や人間に適用したのである。
ここでも出発点は働きなのであって、対象化はすぐれて外化なのであるから、対象化の規則が対象化されたものの規則になるのは当然である。
いな、対象化の規則、操作の規則にほかならないものを、ア・プリオリな対象の法則とみなすことの中に科学のもつ形而上学がひそんでいるのである。

 科学は対象を対象的に扱うのであるから、対象について見出したものの源泉はつねに対象にあるとする前提に立っている。
しかし哲学は批判の学であるから、その真の源泉を問うのである。
哲学者にとっては、対象について見出されたものの源泉は主体の対象への働きの中にあるのである。
いうまでもないことであるが、これは対象について見出されたものの源泉が観念や知覚や感覚に還元されるということではない。
マッハは科学の法則が「事物と事物との連関の法則」とみなされていることに批判的に対決した。
この点はかれの貴重な功績なのであるが、それを「感覚と感覚との連関の法則」に還元したことが、かれの立論を浅薄なものにしてしまった。
マッハは主体を感覚、対象を事物としかとらえていなかったのである。
「対象の中に見出されたものの源泉が主体の対象への働きの中にある」というとき、これを観念ないし感覚への還元であると解釈するなら、そのときこの解釈者は、主体を観念ないし感覚としてしかとらえていないのである。
主体はまず身体的存在なのであって、対象的に対象に関係する人間である。
この対象的に関係する活動が主体的なのであって、これがこれまでしばしば述べてきた「働き」である。
この主体としての人間は、自然的・社会的に、歴史的規定を受けている人間である。
この人間の働き方がその人間の在り方にほかならない。
観念や感覚はこの働きを制御するためのものであるから、観念や感覚がこの働きすなわち、自然的・社会的な在り方に規定されるのは当然のことを言っているにすぎない。
このことを否定するのは、人間を観念的存在ととらえ、主体を観念としてとらえ、「働き」を観念が実在に働きかけることと解釈する二元論的形而上学ないし形而上学的唯物論および形而上学的観念論の立場である。

    第2章 自然
     53 対話される自然

 しかし、ほかならぬ近代科学はこの立場に立つのである。
それは、自然におけるあるいは社会における人間の主体的な「働き」を捨象するところに成り立つ。

 科学以前にあっては、歴史的に見ても、現時点においてもそうであるが、主体と切り離して対象を見ない。
「わたし」にとっていかなる意味を持つかということが「わたし」にとって最大の問題である。
だから、いかにそこに厳然と存在しているものであっても、「わたし」にとって意味をもたないものは「わたし」にとって対象とはならない。
逆に、たとえ存在しないものであっても「わたし」にとって意味をもつものは「わたし」にとって対象となる。
「猫に小判」と「鰯の頭」はこの間の事情を表現している。
ここでの「わたし」を「われわれ」と置きかえることもできる。
物質的生産の行われていないところでは、自然は、どのようにわれわれに働きかけてくるかという側面でのみ対象となる。
しかし、物的手段を用いてものをつくる過程のなかでは、物が物にいかに働きかけるかが関心のまとになる。
そこで自然における物と物との連関の探求がはじめて課題となるのである。

 じつは、科学においても主体と切り離されているのではない。
科学それ自身は人間主体を捨象しているのであるが、科学を出て科学を見れば、それはけっして主体と無関係にあるのではない。
科学のあり方を歴史的に見ればこのことは明確になる。


第52節の構造とは数学的構造のことで、ここでは最後の部分だけを引用していますが、それより前の部分は前に別の記事ですでに引用しています(次の記事のちょうど真ん中あたりから後)。
数学と論理の根拠(『機械の現象学』から)1:http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/66988184.html
分かりやすいように一部重複引用しています。

「ア・プリオリ」は「経験に先立って」という意味で、漢語では「先験的」となります。

「科学のもつ形而上学」という言い方は、通常は科学と形而上学とは正反対のものと考えられているので(私もそういう使い方をすることもあります)、受け入れにくいかと思います。
この次の段落以降でその説明がなされます。

次の段落の「科学は・・・」から始まる3つの文章が重要です。
「哲学者にとっては」の哲学者とはもちろん坂本さん自身のことです。
坂本さんは、本書から最後の著書『先端技術のゆくえ』に至るまで自分を哲学者と規定していました。
しかし、私のみるところ、この文章に同意しない哲学者も多いかと思います。
「対象について見出されたものの源泉は主体の対象への働きの中にある」という命題は、本書のこれより前の部分全部を費やして論証してきたことです。

その次の「いうまでもないことであるが」から始まる4つの文章は、ドイツの物理学者・科学史家・科学哲学者であったエルンスト・マッハ(1838〜1916)の批判です。

(以下、12月1日付の追加)

マッハについては長くなるので、詳細は後に回します。

「主体はまず身体的存在・・・」から始まる6つの文章は、坂本さんの哲学的立場を要約しています。
主体と客体を対立させるのではなく、人間という主体が対象と同様に身体をもっている点(「対象的に」とはその意味)を強調しています。
(主体と客体という近代哲学の対立概念については、これより前の箇所ですでに十分吟味しています。)

最後の「このことを否定するのは、・・・」という文章は、そのまま次の第2章の冒頭につながっています。
二元論的形而上学、形而上学的唯物論、形而上学的観念論と三つ出てきますが、近代科学は(観念論であるはずはないので)このうちの形而上学的唯物論の立場に立っているのかというと、人間の主体的な「働き」を捨象しているというので、また少し違うように(4番目?)思います。

「科学以前にあっては、」から始まる文章は、比較的分かりやすいと思います。
「物質的生産の行われていない・・・」から始まる3つの文章も、重要です。

「じつは、・・・」から始まる段落がようやく第2章本論の直接的な導入部で、ここから自然観の歴史的変遷を追っていきます。


以下、マッハに関する詳細です。

マッハは、物理学においては超音速の研究で業績を挙げており、音速の何倍かを示すのに用いるマッハいくつという単位名は彼の名をとっています。
初期のSFテレビアニメには、「マッハ15のスピードだ〜」(「スーパージェッター」の主題歌)というようによく出てきました。
日本に限らず物理学とは無関係にマッハという言葉が用いられる場合であっても、そのほとんどは超音速のマッハにちなんでのものと考えてよいでしょう(女子プロレスラーの名前やタイの映画名など)。

また、ニュートン力学を批判して、物質の慣性は宇宙全体のすべての物質との相互作用により生じると主張しました。
この考え方は、アインシュタインに影響を与えて相対性理論の誕生につながり、アインシュタインは終生マッハを尊敬していました。
今日、物理学の脈絡でマッハが振り返られるのは、ほとんどが相対論との関係においてだと思います。
しかし、マッハ自身は死ぬまで相対性理論を正しく評価することはできませんでした。
また、具体的なケースを考えた場合に、一般相対論とマッハの考えは必ずしも一致するわけではありません。
さらにいえば、マッハ自身はあくまでもアイディアのレベルに留まっていて、それに基づいてニュートン力学とも相対論とも異なる独自の物理理論を構築できたわけでもありません。
この系列の物理思想「時空の関係説」の系譜については、次の書評をご覧ください。
『空間の謎・時間の謎』:http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/18199504.html
ただし、マッハではなく、マッハより前とマッハより後に焦点を当てています。
書評から>マッハ哲学は魅力的な考え方であり、Yahoo!掲示板のトンデモさんたちにも人気があります。
しかし、それはあくまでも科学についての哲学ないし思想であり、科学そのものではありません。
現実に物理理論を構築したのは、ライプニッツやマッハではなく、ニュートンやアインシュタインです。<

3番目に、マッハは哲学においてはここで坂本さんが紹介・批判しているような説を唱えました。
これは、20世紀前半において論理実証主義を唱えた「ウィーン学団」の思想的源流のひとつとなりました(他の源流としてはバートランド・ラッセル、ヴィトゲンシュタインなど)
日本では、亡くなられた哲学者の広松渉さんがマッハの再評価を行い、自らも訳書を出しています。
再評価というのは、マルクス主義哲学の流れではレーニンが『唯物論と経験批判論』を書いてマッハを批判したからです(私は未読)。

マッハは、自らの科学思想(経験批判論)に基づいて、エネルゲティク(エネルギー一元論者)のオストワルドらとともにボルツマンの提唱した原子論を厳しく批判しました。
原子には何ら経験的証拠がないというのです。
しかし、アインシュタインの1905年の博士論文とブラウン運動論文などにより原子の実在が確実となっていき、最後にはマッハも原子の実在を認めたようです。
アインシュタインに相対論のアイディアを提供したとして評価されることの多いマッハですが、科学哲学者としては一流であっても、19世紀末に原子論を否定した点をみれば物理学者としては(ボルツマンと比べても)しょせん二流だったというのが私の見方です。

数学と論理の根拠(『機械の現象学』から)1 http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/66988184.html
--------------------

次は自然観の歴史を取り上げた箇所のひとつです。

p.190,1>
     第2章 自然
      55 計量される自然
 ・・・

 貨幣経済と商品取引は商品にたいする量的取扱いと計算術を生みだす。
数学が重みを増すのである。
算術や測量術は、メソポタミア・エジプトなど古代オリエント世界で相当に発達していた。
しかしそれはどこまでも「術」であり実務に従属していて、数学にはなりえなかったのである。
さきに見たように、証明なくしては数学は学として成立しない。
証明の手続きをふむこと、つまり原理(公理)から演繹することによって、システム化することによって数学は数になるのである。
この仕事はギリシャではじめて確立する。

 ギリシャで数学的思索に専念し、しかも哲学をはじめて「哲学」(フィロソフィア)と呼んだのは、ピュタゴラスおよびピュタゴラス教団であるが、そこに貫かれていた思想は、自然には、合理的秩序と調和があり、この合理的秩序つまり自然の法則は割合と数によって表現しうるとする考え方であった。
ひとくちに言えば、自然を数学のことばで説明できるということであった。
自然にたいするこの態度は、ガリレイを通じて現代の科学まで続いてきている。
しかし、さきに見たように、数学は操作の体系である。
この操作の体系によって自然が表現できるということではなく、この体系こそが自然であり宇宙である、ということ、つまり外化された働きを「自然」ととらえることがピュタゴラス教団の思想の重要な点である。
ここで「宇宙」といったのはコスモス(κοσμοs)である。
「コスモス」とは、合理的秩序をもった宇宙を言うのである。
無限定な世界である「カオス」に対立する世界がそれであり、それこそが「自然」なのであった。
その自然・宇宙は「調和」すなわち「均斉」(συμμετρι’α)によって秩序が示されるが、 συμμετρι’αとは量的関係であり、「比」にほかならない。
「比」は「ロゴス」(λο'γοs)ともよばれたが、ラテン語の「ラチオ」(ratio)と同じく、「比」であるとともに「理」であり、また自然の比すなわち理、同じことであるが秩序を知りとる能力、つまり「理性」をも意味することになった。
理性は外化されたものをとらえる能力なのである。
あるいは、外化することによってとらえる能力なのである。

 ・・・


ここで取り上げられた自然観は後の『科学思想史』で「数学的自然観」と呼ばれているものです。
『科学思想史』2:http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/66684015.html

「均斉」のギリシャ語συμμετρι’αはシュンメトリアと読み、英語のsymmetry(シンメトリー)の語源です。


次は機械論の第3段階を論じている部分で、記号論理学や数学について触れられている箇所です。
p.259,60>
 第2部 第5章 計算機
   74 要素化・一般化・再構成
 ・・・

 部分を規格化してシステムを重視する生産の仕方は精密機械の発達と結びついていたが、まったく機械と結びつかないところで、同じ精神にしたがった研究が行なわれていた。
それは「記号論理学」であった。
この論理学は概念にまつわる語感や歴史的背景を捨象し、記号に変えることによって規格化・一般化する。
そして結合関係を記号で導入して無矛盾のシステムをつくりあげようとするのである。
最初は述語論理の記号化、記述の理論であったが、もともとこのような一般化されたシステムの性格をもっていたのは数学であり、数学基礎論として展開された。
だからそれは「数学的論理学」とよばれてもよい。
さかのぼればライプニッツが構想を抱いていたが、実現されたのは、1847年のド・モルガンとブールの試み、ついでフレーゲやペアノ、シュレーダーらによってであった。
それによって数学が無矛盾の体系をめざすものであることが明らかになった。


数学基礎論については、次の記事の冒頭で触れています。
ゲーデルの不完全性定理1:http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/66192344.html

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646〜1716年)はドイツの哲学者、数学者。
(wikiを参考にしています。以下、人名については同様)
オーガスタス・ド・モルガン(1806〜1871年)はイギリスの数学者。ド・モルガンの法則で有名ですね。
ゴットロープ・フレーゲ(1848〜1925年)はドイツの数学者、論理学者、哲学者。
ジュゼッペ・ペアノ(1858〜1932年)はイタリアの数学者。有名なペアノの公理系については次の記事をご覧ください。
ゲーデルの不完全性定理とは3:http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/66202090.html
シュレーダーとはドイツの論理学者・数学者エルンスト・シュレーダー(1841〜1902年)のことだと思います。私は昔から哲学・数学・科学の研究者の人名だけは大体知っていましたが、この人だけは知りませんでした。


 さらに数学の発展そのものがこのことを明らかにした。
1830年前後のロバチェフスキーとボヤイによる非ユークリッド幾何学の誕生は、幾何学が現実に存在していると考えられた空間の論理ではなく、公理から出発して矛盾のないシステムをつくりあげることにほかならないことを示して見せたのである。
こうして数学や論理学は公理系にほかならず、さらに群の思想を導入して、ある変換にたいして不変な性質を調べるのが幾何学であり、要素の間の結合関係によって構造を調べるのが代数学であることになった。


ニコライ・ロバチェフキー(1792〜1856年)はロシアの数学者。
ボヤイ・ヤーノシュ(日本語と同じ順でボヤイが姓、1802〜1860年)はハンガリー人数学者。
二人は古来問題視されてきたユークリッドの第5公準(平行線に関する公理)を別の公理に取り替えて、双曲線幾何学を創始しました。


 すなわち、数学は感性でとらえられるような経験的世界の構造を研究するのではなく、むしろ客観的な、対象化された操作の構造、つまり機械的構造を扱うものであることが明らかになったのである。
このことは数学が一種の言語構造であることをも示しており、論理学の展開されたものであるといってもよいのである。


p.272〜4>
   78 記号のシステム
 機械の第三段階の特徴は、動力機中心ではなく、要素への分割とそのシステム化になっているという点で第一段階と似ている。
(もちろん発電・配電は大規模で生産の根幹的なものとなっているが、そこでも中央集中管理方式で自動制御が行われている。)
似てはいるが、異なっているところは、部品・物ではなくて、働き、作業が要素化されシステム化されていることである。
 ・・・
これに対して、システム化は、とくにフィードバックを含めたシステム化は機械の新しい展開として見てとっておかなければならない特質であると思われる。


機械論の第1段階は時計・ポンプがモデル、第2段階は原動機がモデルでしたが、第3段階は単一の機械ではなくシステム全体がモデルとなっています。


 それはさまざまな面にすでに現れていたものであった。
論理学においても機能が記号化されてシステム化の方向が始まっていたが、「形式的演繹理論」のなかで、ある命題を証明できるかどうかの問題について、アルゴリズムをもつすべての関数が「計算可能関数」とよばれ、テューリングが計算可能な機械として「テューリング機械」を考えたが、これがコンピュータのモデルとなった。
19世紀以来の数学的論理学の展開は、一時は形式主義であるとか数学の遊びであるとか言われたが、実はそれは操作のシステム化だったのであり、タルスキーが完全に形式化された公理論つまり「形式的演繹理論」をつくりあげて以来、完全性や決定問題が純粋な形でとりだされて研究が行われたが、それは現在から見るとコンピューターという第三段階の機械のアルゴリズムについての基礎的研究だったのである。


「形式的演繹理論」については前にurlを貼っておいた連載「ゲーデルの不完全性定理について」をご覧ください(形式的体系と表記していますが、同じ意味です。)。
アラン・テューリング(チューリングと表記する方が多い。1912〜1954年)はイギリスの数学者、論理学者、計算機科学者。


 形式的演繹理論でいえば、数学的内容についての意味づけはまったく不必要であって、ユークリッドの『ストイケイア』においても「点」や「線」の定義は定理の証明にまったく使用されていない。
このような意味づけは不要である。
また伝統的な形式論理学で言われてきた記号についての意味づけ、たとえば、「マタハ」「カツ」「ナラバ」「デナイ」なども不要なのであって、∨、∧、→、¬などの記号だけで純粋に形式的な関係(フォーマル・システム)をつくろうとするのである。
カルナップのことばを借りれば、「指し示されているものを捨象して、表現のあいだの諸関係だけを分析する」のである。


ユークリッドの『ストイケイア』(ギリシア語の音読み)は『原論』と訳されます。
幾何学を公理論的方法で展開した大著で、約2000年前に書かれたものですが、ヨーロッパ世界では聖書に次ぐ知的権威の書とされ、重要ないくつもの書物がそれに倣って書かれました。

ルドルフ・カルナップ(1891〜1970年)はドイツの哲学者。論理実証主義の代表的論客で、ウィーン学団の一員。


 論理学のこの行き方は特異なものではない。
数学がそういうものであったし、通信理論もそうである。
通信理論は情報を量的に、統計的に測って情報量を定式化し、それによって情報容量や雑音や符号化等々について理論を築いて行くが、ここでは伝達される情報の意味内容は捨象される。
通信理論は情報伝達にあたって符号化された信号の結合関係やそれの変換・逆変換を問題にするのであって、その符号の列が受信者にどのような行動をさせるか、どのような「意味」をもつかは捨象して扱うのである。
通信技術者としては、「意味」については関心をもたない。
どのように原文を忠実に確実に受信者に伝えるかが関心のまとである。
だから、たとえば信号をベクトルであらわして、信号空間というものを考え、雑音をくみこんでリーマン空間にして、情報量や情報容量を空間の幾何学的構造から導くような通信理論をつくることができる。
この場合にたとえば「体積」ということばを用いたとしても、n次元のリーマン空間での体積であるから、「ピラミッドの体積」というような意味を示しているわけでなくて幾何学的な表現なのであり、たんなる表現形式に過ぎない。
いまもしこの「体積」という語でたとえばUという記号の『意味』を示すとすれば、このUはある行列式gの平方根の積分として定義されるから、記号間の関係から出てくる『意味』である。
この『意味』は、前から使ってきた捨象されているといった「意味」とは意味が違っている。
この記号と記号の関係としての『意味』は構文論的シンタクティカルな『意味』、構造的な意味での『意味』であって、意味論的な意味での「意味」とは区別しなければならない。


通信理論については私は不勉強なのでコメントできません。
リーマン空間とは曲がった空間を一般化したもので、一般相対論で宇宙を記述するのに使われますが、通信理論では現実の空間と無関係のn次元のリーマン空間を使います。

坂本さんは、「意味論的意味」における「意味論」を言語学における意味論の意味で使っています。

しかし、それとは別に、数学においても意味論という分野があって、記号と数学的対象の対応関係をその記号の意味としています。
こちらの方は構文論的意味とは異なるものの性格は同じです。


 このように外化された操作の論理、外化された情報伝達の符号関係においては、個々の人間は捨象されているのであるから、その信号がこれにとってどのような「意味」をもつかという問題も捨象されている。
それをいちいちとりあげていたら科学にならないのである。



★ ここ一週間近く風邪が長引いていて、鼻がつまって頭が働きません。
困ったことです。

★★ 2013年10月12日、コメントを挿入

坂本賢三著『機械の現象学』から、数学と記号論理学について述べている部分を引用します。
坂本賢三さんと『機械の現象学』については、次の記事をご覧ください。
坂本賢三さんのこと:http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/57521170.html
『機械の現象学』1:http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/63506449.html


最初に第40節の後半を引用します。
この節の前半は、科学的分析が手の外化の働きになぞらえて対象化されたものであり、また実験・実証・検証により「たしかめられた」科学の世界とは相互に外的なものとして意識=悟性により外化されてできた世界だと述べています。

p.141,2>
 第1部 第6章 外骨格の形成 
   40 分析
 ・・・

 科学が手と結びついているもう一つの面がある。
それは「数学」である。
数学はそれ自身のもつ体系も個々の図形や要素も、現実的なものとしては持っていない。
数学的対象は現実に存在しない。
現実に存在する三角形は数学的対象としての三角形に似てはいるが、同じものではない。
しかし、それだけのことであれば数学的対象は表象のなかにあったものを抽象化し理念化したものに過ぎないことになる。
数学とは数学的図形ないし数学的対象ではなくて、証明の続きである。
数学の成果を利用する人にとっては証明の手続きはなくてもすむ。
一度チェックしておけば真であるとして使うことができるからである。
しかし、それをするのは物理学者や工学者であって、証明することなしには数学者とは言われえない。


「数学とは・・・証明の続きである」というのが要点です。


 数学の世界は非常に抽象的な理想の世界のように見える。
数学的世界を真理の世界と見る立場からすれば、その他の世界はその一部を分有している不完全な世界にすぎない。
しかし、現実の世界(働く世界)から見れば、数学的な認識は現実にとって外的な働きにすぎない。
それによって現実は変化しない。
数学がつかみとるものは純粋な量であって、それは意味を捨象することによって獲得されるものである。
数学の成果は誰にとっても否定しえない真理性をもっているが、それは絶対的真理をめざし、かつ獲得しているからではない。
数学的世界は理想の世界なのではなく、操作の世界なのである。


数学的世界を抽象的な理想の世界、真理の世界と見る立場とは、古代ギリシアのピュタゴラス・プラトンのものです。
坂本さんは、それを批判して「数学的世界は・・・操作の世界」であると主張します。


 相互に外的なものとして区別された「点」ないし「要素」から出発して、結合関係その他の要素間の諸関係を見出し、それを少数の公理から演繹して行く方法は、手の働きそのものである。
数学による証明が真であるのは、それによって現実的な真理が獲得されているからではなく、手続きが誤っていないからである。
数学の諸定理が科学の世界に適合することに何の不思議もない。
それは操作の手続きの結果なのであるから、当然のことである。
だから逆に、対象を分化させず、空間も時間も対象化していない悟性の働かない世界においては数学は無力である。


「点」から出発するのは二千年前に成立したユークリッドの幾何学であり、「要素」から出発するのは集合論を基礎とする現代の数学(ブルバキなど)です。

悟性(ごせい)は哲学用語ですが、とりあえず「分析的知性」と置き換えて読んでください。


 数学は物理学的な科学よりもむしろ社会に関する仕事―商業や建設事業と結びついて育ってきたのであるが、このことは数学の操作的性格を歴史の面から示しているといって良いのである。

 論理学(形式論理学)についても同じことが言える。
それは内容を捨象し、意味を捨象してただ記号の結合関係に目を向けるのであるが、操作の手続きの対象化である点については数学と変わらない。
主として言語と結びついてきたことも、言語の操作的側面、その外的構造と結びついてきたに過ぎない点から見て、これを裏付けするものである。



p.177〜181>
 第2部 第1章 人間
   51 言語
  ・・・

 こういうわけで言語構造=文法体系は、手段の構造なのであって、何かある自然物の体系なのではない。
論理構造も数学的構造もこれと同じであって、それが何か自然や社会の構造を示しているわけではない。
われわれは、手段の操作の構造を用いて自然や社会を認識しているのである。
とは言っても、これらの論理や数学的法則がア・プリオリなものであるというのではない。
それは人間が歴史的・社会的につくりあげてきた操作の仕方を反映しているのである。
人間の外の世界の反映なのではなく、人間の対象的活動を反映しているのである。
このように、もともと操作の構造であった論理や数学が操作的にとらえられた自然や社会の構造を示すことができるのは当然であって、そこには何の不思議も存在しない。


ア・プリオリとは哲学で使われる用語で、「経験に先立って」という意味であり、漢字で書く場合には「先験的」となります。


 だから、操作的にでなく実在をとらえようとすれば、数学を超えた手段、形式論理を超えた論理を使わねばならず、論理化されない言語によらなくてはならないことになる。
しかし、言語はそれ自身すでに抽象化され論理化されたものである。
そこまでさかのぼった未分化な意識の中のものを表現しようとすれば、言語以外の何らかの「象徴」を借りる以外にはないことになる。
 ・・・

 ・・・
しかし象徴によって無意識も対象化される。
対象化されたすべてのものは「構造」をもつ。
論理的に分別されない神話や儀礼や舞踊や演劇もそれ自身の構造をもつのである。
象徴の一部でしかない言語や論理が構造をもつのは当然である。
したがって「構造」は外化され対象化されたものに共通のパターンなのである。


この部分は、1970年代にフランスを中心に流行した思想である「構造主義」、特にレヴィ・ストロース(後出)を意識しています。

次の第52節では数学そのものを取り上げています。

   52 構造
 ここで「構造」とよぶものは、数学における代数系を典型とするような構造という意味での構造である。
つまり群構造というときの構造である。

 集合は要素の集合である。
集合においては要素は相互に外的なものとして外的なままにとどまっている。
そこには「むすぶ」働きや「くむ」働きはない。
集合と集合とのあいだには結合法則が成り立つが、それは要素のあいだの「結びつき」の関係ではない。
要素が相互に外的であるということが集合の本質をなしているのである。


このブログでは集合論をきちんと取り上げたことはないのですが、次の記事が多少参考になると思います。
算数の世界2:http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/66284428.html

手の働きとしての「むすぶ」働きや「くむ」働きは、本書のこれより前のいくつかの箇所で取り上げています。


 これに対して群では要素と要素とのあいだの結合関係が考察される。
一般的には、結合の順序は異なった結果をもたらすが、その括弧のつけ方は関係しない。
つまり結合法則が成立している。
さらに任意の二つの要素を結びつける媒介物がかならず一意的に存在している。
また、それと結びつければ自己自身にかえってくるような特別な要素(単位元)が存在し、結びつければ単位元になるような要素(逆元)も存在して一意的にきまる。
このように要素のあいだに「結びつける」「組む」という関係が成り立っているのが「群」であり、その定義のなかには、もとへ戻る操作や、結びつけ方によって変わらないという性質も含まれている。


群の定義は、次の三つを満たす二項演算×ということ。
a.結合法則 : (x×y)×z = x×(y×z)
b.単位元 e の存在 : x×e = e×x = x
c.逆元 x-1 の存在 : x×x-1 = x-1×x = e
ただし、交換法則( x×y = y×x )は、必ずしも成り立ちません。


 これらの「群」の特徴がこれまで見てきた機械の特質を表現していることは注目しておかなければならない。
機械的に組み上げたものは、逆に「ばらす」ことができる。
同じ結果を生み出す仕方は、いろいろな道をとることができる。
機械でないものは、もとへ戻すことができない。
また機械でないものはユニークなものであって、ただ一つの仕方でしかありえない。
順序に関係することはあるとしても、結合の仕方によって変わらず、まわり道の可能性をもち、さまざまな道を通って同じ結果が得られるということは機械の特徴である。

 われわれがものをつくる場合、何もないところからものをつくり出すことはできないのであって、かならず材料を用いて、これに手を加える。
そこで行われるのは、形をかえ、性質をかえ、大きさをかえ、場所をかえる働きである。
この「かえる」働きを「変換」と呼べば、人間の働きはすべて「変換」であり、この働きが群構造を持っていることは早くから知られている。

 構造はかならずしも「群」だけではなく、「順序」や「作用」や「位相」にも見られるのであるが、これらが機械の特質であることは、位相を除いて、すでに見た。
しかし、位相についても、制作が形や大きさや比などを変化させながら、かつ近傍、連続、境界等において不変な性質をもつことは、いまさら検討を要しない。


20世紀半ばの数学を代表するフランスの数学者集団ブルバキは、集合の上に構造を定義することによって数学を体系化しました。
先に出てきた思想上の構造主義とは、思想家によって関係が強い場合からほとんど無関係である場合まで相当の差がありますが、坂本さんはここでは関係が強い方を特に意識しています。
基本的な数学的構造として、順序構造、代数構造、位相構造の三つがあります。
順序構造とは大小比較の世界です。
代数構造は加減乗除の四則演算の世界であり、群もそのひとつでもっとも簡単な代数構造です。
位相構造とは「近い」、連続、端・境界、開いている・閉じている、接している・離れている、・・・等々の概念を抽象化したものです。


 このような「構造」が、数学だけでなく、物理においても、心理においても、言語においても見られることはよく知られており、近くはレヴィ・ストロースが人類学において適用して見せた。
しかし、これらの構造が自然や社会にア・プリオリに存在しているということはできない。
われわれはこれらの構造を自然や社会という対象から引き出したのではなく、対象化の働きから引き出したのであり、この働きを対象化=抽象化したものを方法として自然や社会や人間に適用したのである。
ここでも出発点は働きなのであって、対象化はすぐれて外化なのであるから、対象化の規則が対象化されたものの規則になるのは当然である。
いな、対象化の規則、操作の規則にほかならないものを、ア・プリオリな対象の法則とみなすことの中に科学のもつ形而上学がひそんでいるのである。


クロード・レヴィ=ストロース(1908〜2009年)はフランスの社会人類学者。哲学的な構造主義の代表人物のひとり。
アメリカのGパン屋さんとは無関係(^_^
坂本さんが触れているのは、彼の『親族の基本構造』のことだと思います。

------------- 続 く --------------

★ 2013年10月12日、コメントを挿入。

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]


.
karaokegurui
karaokegurui
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索 検索

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事