チャンシッターの剣道修行

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剣道特連との初稽古

いやー、今年は特練生とケイコすることができました。
打てたか、打たしていただいたのかわかりません。
でも、若いサラブレットとケイコできて、自分の老骨が
改めて認識できたしだい。

特連生はうらやましい。毎日剣道に専念できて幸せですね・・・・。

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高田源養の診療所は天満宮の一画をかりて建てた粗末なものであったが、
すこぶる評判がよかった。馬医者というより、人間も含めてなんでも見る
といった、総合の救急診療所のようなものだった。
天満宮の前には気仙川が流れている。満ち潮になると、川面にトビウオが跳ねることも
ある。川は高田松原に白い砂を運んでくる。
白浜に打ち寄せる波は、広田湾でやわらげられてはいるが、その先には、
黒潮と寒流が混じり合う陰陽の海。三陸の宝の海が広がる。
仙台藩62万は表向きで、実際には200万石にあたる米どころであると同時に
この海から上がるアワビ、サメ(フカヒレ)は干し物として長崎では俗に俵物として
中国へ輸出され、大きな利益をもたらした。仙台藩特に分家の一関藩の重要な
財源となった。 仙台藩はこれにより、鉄砲、大砲などの火器を購入し、
備蓄していた。官軍(薩摩)が恐れたのは徳川というより、仙台藩のこの戦力
であった。もし、薩長などが、徳川を倒していなかったとしたら、・・・
仙台が時代を変えていたかもしれない。
伊達政宗から幕末の仙台藩主まで、結局は辛抱強い東北の気質というものガ
堅実ではあるが、革命の主役とはなり得なかった。

ところで診療所には幸右衛門のほかにもう一人、漁師の娘でおはなといった。

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於菟松は藁で作った駒のおもちゃを手にもちながら、父の話を聞いていたが、やがて目から大粒の涙を出したかと思うと、鼻からはふた筋の洟をだした。
「ウアー〜、ウア〜」
「こまったのしゃ。 こったら夜な夜な。母(かか)様のことさ、思いだして
・・・・。」
幸右衛門が懐から雑巾のようになった、ぼろ布をだして、於菟松の洟を
ふき取ると。
「そったらことで・・・・・吾が武士(もののふ)の子といえねエどウ。
北辰の妙見サンが、オコッテきたらどうする。おっかネエドー。」

時をおかず、腕の中で寝込んでいる、吾が子の丸い大きな顔を
眺めながら、気仙村(現在の岩手県陸前高田市)のことを思い出した。そこに離縁した妻おはなと子供たちを残した。
於菟松の兄の、長作に、生まれたばかりの惣八をおいてきてしまった。
「母(かか)様をたすけて、きばれ」
9歳になっていた長作にあとを任せて、自身は於菟松を連れて出た。

もとはというと・・・・幸右衛門は久保田秋田藩の士官を断ったももの。しばらく馬医者として働いていた。その時、藩に仕官していた真庭念流をくむ若い剣術家に試合を申し込まれた時があった。
それだけ、幸右衛門の腕前も鳴り響いていた。
試合は木刀であったが、打ちどころが悪く相手が間もなく、亡くなった。
しかし、その兄でやはり真庭の使い手に追われることになった。
やむなく、伝手をたよって、仙台の一関藩、姉歯何某にたより、
一人の医者を紹介されることになった。気仙村の天満宮軒下を借りて、仙台一関藩の藩医がひとり開業していた。名を高田源養といった。
幸右衛門は名前も変えた。千葉玄養と改め、その弟子となった。

このころ東北には天然痘が蔓延していた。
一方それに対してロシアからの種痘法が入ってきていた。その方法といううと瘡蓋を粉にして鼻から拭きいれたり、皮膚に植えつけたりして、免疫をつくる方法であった。
世界的に見るとジェンナーが牛痘法を発見する前のことである。

多くの子供が生まれるが・・・多くが伝染病でなくなってゆく。
そんな時代に幸右衛門は医学を学んだ。漢方が主体ではあったが
同じころ、仙台藩にも藩医の養成所兼研究所が誕生している。
積極的に長崎からの蘭学も取り入れ始めていた。
 幸右衛門にとってはこのときがインターンのような
時代になる、馬の治療や出産の世話をしながら、この医者の家で
多くのことを学んだ。
天然痘の流行で、この医者はロシア式種痘を子供に施した。
そのことが、やがて禍となった。

千葉幸右衛門すなわち周作の父は、文武両道の人で医学に明るかった。
もともと頼朝の時代に名をはせた千葉常胤(つねたね)という豪族の末であって、
その子孫から、陸前栗原郡花山村に移り住む者がいて、慶長のころ、その一族に
大和(やまと)という人があり、武勇をもって近隣に聞こえていたために
伊達政宗が書状をおくって召抱えようとした。ところが、この人は頑固もので
剣豪にはむしろこのようなタイプが多いのであるが、志気がすこぶる高潔で
「千葉周作遺稿」には録のために政宗に仕えようとぜず、農耕に身を委ねて世をおわった
とある。 そのまた数代の子孫が清右衛門といい、その次子が幸右衛門となる。

とここまでは、普通の物語なのであるが、ここからは多少数奇な運命に
もてあそばれる結果となる。
それはしかし考えてみると、この親子が江戸で大成するためには
必要な試練であり、巨星が誕生するまでのカオスであり、ブラックホールと
いってもいいかもしれない。

幸右衛門は今日も囲炉裏の前で、薬草を煎じながら
すでに5歳になろうとする於菟松に、昔話を聞かせるのである。
「昔々(むかすむかす)、飼ってだ馬っこがにげだすたんと、山さ逃げタンとさ
それを追っかけた、馬子がいたんだども、いつになっても帰らねべ、
村のすとびとがあ、探すにいったどもみつかんねえ。山の奥にはいったとき
 大きな桑の木の枝に変わったトリが留ってたど。
 マオウ。ウマーオウと鳴いたべ。村人は・・・これをみて
 その馬子が、鳥になったことをすったとさ。」

幸右衛門は先祖である、秋田藩より、士官の道はあったが、
彼はそれを辞退した。暮らしはまさしく貧農で、
馬医者をして生計をどうにか立てていた。
またある研究に大変興味をもっていた。それは種痘である。

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奥羽山脈にある栗駒山に雪解けがはじまって、
山の中腹付近に若馬の形が現れ始まる頃、
迫川(はざまがわ)にそって、仙台藩と秋田藩を結ぶ、
谷沿いの街道には水仙が顔をのぞかせた。
花山郷というのは現在の宮城県の温湯(ぬるゆ)温泉の付近で、
欅(けやき)つくりの番所すなわち、国境の関所があった。

寛政6年すなわち甲寅(きのえとら)の正月元旦この村に、後の剣道の歴史を変えることとなる、ひとりの巨星が産声をあげた。
父親の幸右衛門はその顔をのぞきこんで言った。

「こりや、大きな顔(かんばせ)だごだー。球っこさ〜太かなや。」

幸右衛門は寅の年にちなんで、於菟松(おとまつ)となずけた。
のちの千葉周作である。

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