チャンシッター王の秘密

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10世紀がおわり、11世紀に差しかかったころのパガンは、実のところ、それほど強大ではなかった。なんといってもこのころのミャンマーの西にはアラカン・ベンガリの諸部族、南にはピュウの残党やイラワジデルタに
においては、外国からのイスラム系流入民がいる。シルクロードの一部南道はこの頃すでに形成
され、現在の中国雲南省から中国のお茶・絹が現在のラショウ経由してシャン州の山村を経てマンダレー
に至り、宝石などを伴って、南下し、イラワジ(エーヤワデイ)川を超えてラカイン州のテツキャビンから
アキャブ港へ至る。ここでシルクロードは海路をとって南アジア・アラブ諸国にいたる。
逆に、南の諸国からは、香辛料、アキャブ付近インド洋の海産物(干物)を伴って、南中国の昆明を
目指す。 それらの交易には多くのイスラム系住民が携わった。次第にイスラム人種はその交易ルート
少数民族と同化し、アキャブ周辺ではイスラム海洋民族(ロヒンギャー)となり、中緬国境ではイスラム系
華人となり、後に第二次世界大戦ではコーミンタン(国民党残党)とも同化することになる。
 
アノーラターは戦争に明け暮れた。戦争に勝つことはネパールからのがれ、肥沃ではあるが
未開の大地の切り開くビルマの民の宿命ともいえる。アノラーターはまた戦争に勝利するたびに
戦利品としてその制圧民族の王女を連れ帰った。それが彼の活力となり、心理的興奮は次の戦争への
原動力となった。 この日も一人のアラカン系の王女を連れて来ていた。
 

象の背中に飾られた輿はアノーヤターを乗せて、宮殿へと向かう。
輿の上から、アノーヤターは狼煙のような煙をみている。村人がレンガを焼いているのがすぐにわかった。レンガとパゴダ作りも雨季明けをまって行う。新しい村ができて、パゴダが増えてゆく。
農民も増え、畑も水田も増え始めていた。
アノーヤターは少しずつ活気を呈し始めたパガンを誇りに思った。
左手には、常に偉大なるイラワジが流れている。豆科の巨木の生い茂った街道に、パゴダが顔をだす。そのパゴダのレンガに、陰り始めていた日が反射してひときわ、赤く映えて見えた。
今日では想像もできないがパガンはこのとき森の中にあった。

途中小さな部落がありミンカバーといった。のちにこの村は大きな使命を果たすことになるのだが、このときはまだ10人に満たない部落だった。ここから宮殿へは砂糖ヤシの木が
街路樹となって、やがて城壁が見えた。
城壁を補修しながらアノヤターはナツ(精霊)の神を祭るのを忘れなかった。
その精霊たちの代表者である、マハギリは城壁と新興都市パガンを守護する神であった。

禁欲的な小乗(南方仏教)に比べて、それはむしろ快楽主義といってよかった。
今日インドには快楽的な宗教が現存する。アジャンター壁画にもその性を喜び
肯定する思想があった。ムガール帝国時代にも多くの細密画(春画)が残されている
ことをおもうと、それらは一つの思想として命脈を形成し、人間の本来の姿をあるがまま、
うけいれ喜ぶべきものとして享受したのである。一方で、アーリ僧には多くの奴婢が与えられ
ある意味において、それは彼らの性哲学を満足探求する為の性的な奴隷だった。
上半身は裸、顔や腕には刺青を入れているものが多くあった。領土拡大とともに
獲得された、移住されられた少数民族が多かった。奴隷といえば後に仏教奨励とともに
導入されたパゴダ奴隷は一種の技術集団であったが、この時代における奴隷は主に使役の
ために連れてこられた者たちであった。
その中にあって、めぼしい女性たちをなかば独占したのがアーリー僧たちであった。
今日、パヤトンズーパヤ(スリーパゴダ)には彼らの享楽思想を反映した壁画が
現存している。
アノーヤターがその占いに頼りながら領土を拡大していた頃、アーリー僧たちの自由奔放はその局に達していたのである。

その頃、10世紀後半のビルマ(現ミャンマー)には先にヒンズー教はインドからもたらされていた。
インド中央部から現在のマニプール州を経て、チンドウイン川やイワラジ川の水上交易ルート
ではいってくる品物や文化。あるいはインド洋から下ビルマ即ちイワラジデルタ(イラワジ下流域)
を経て北上する、海上ルートなど。当時の交易路からヒンズー僧がはいって、布教した結果
アノーヤター以前において、ヒンズー教が主流を占めていた。さかのぼって、ビルマ族そのものは
シャカ族とも関係があるので、仏教はもちろんそれ以前にはいってはいた。しかし、
ヒンズーの勢力はそれを駆逐する勢いをもっていた。現在でもマニプール州ではヒンズー寺院が数多く
のこっていることを思えば、多くその影響を受けていた。 
ヒンズー教の中にも、いつかの宗派があり、どこからともなく来た特殊な宗派がパガンに根着きはじめた
。彼らはアーリー僧と呼ばれていた。彼らは、僧侶とは名ばかりで、髭を生やし、髪の毛は長くのばし紺色(インデイゴ)装束に身を包んでいた。年配のものは手には絶えず杖のようなものをもっていた。彼らは王族に取り入り、その庇護の下に祭儀や占いや時間方位(アチェン)など予言、予測し、ついには権力への発言力を強めていった。
アーリー僧の実体というのは仏教僧ではなくバラモンであり、ヒンズーのシャクテイズム(性力派)の
一派であり、インドからムスリムに追われるまま、パガンにたどり着いた。そのころまで
ビルマ民族のなかには、まだ仏教に根ずいてはいなかった。むしろ、精霊信仰(アニミズム)が主流で、
それがヒンズーと結びついた。ちなみに先住民であったピュウ族の都、タイエーキッタヤには大乗仏教がすでに入ってきていた。アジアは、精霊信仰にヒンズーに仏教のしかも小乗も大乗もそれぞれが、複雑な糸のように絡まりあい、影響をし合っていた。
事実パガンにたどりついたアーリー達はインドにおいてバラモンの主たる仕事がそうであったように、婚礼や農耕儀礼にたけていたために、王族に取り入り、精霊信仰をうまくとりこむことに成功した。
それによって絶大なる権力を手にした、彼らはまた婚礼においても破瓜(ナガー)の儀式と証して、先にその処女を吟味する権利(初夜権)を得たのであった。

アノーヤターの国土拡大への夢は大きかった。以前から頻繁に訪れていたスリランカの僧侶から、彼はインドやスリランカの文化をはじめ世界の多くのことを学んだ。各地から交易船にのって宣教のために入ってくる僧侶を彼は厚く遇した。そういう意味において、彼は進取の気勢に富んでいたのかもしれない。
イラワジデルタに入ってきていた交易船はベンガル(現在のバングラデッシュ)、アラカン、モン(現在のモン州)などで、肥沃なデルタの米は各地の産物すなわち織物や絹糸、お茶香辛料などにと交換された。それは各国の情報を収集するのにも大変役に立った。
もうひとつ、僧侶たちは、厚く遇されることで、彼らのもつあらゆる技術をもたらした。
パゴダの建築様式もそのひとつであった。レンガの焼き方、また陶器や漆器の技術もそうである。
10世紀に起こる南方上座部仏教の東方拡大はこの頃、熱病にように広がりはじめている。

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