西部劇が好き!!ジョン・ウェイン 私のヒーロー

アメリカ西部開拓史や西部劇、インディアンの好きな人、ぜひお立ち寄りアンド一言お願いします。

インディアン書庫

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グレートペイスン(大盆地)の部族ネズ・パース族

 ジョセフ酋長(Chief Joseph)(ネス・バース族) 

 1840年3月3日〜1904年9月21日

 本名 : Hin-mah-too-yah-lat-kekt

 ※ジョセフ酋長はニックネームというか、通り名である。

オレゴン州南部、アイダホ、ネバダ、ユタ、ワイオミング、コロラド、アリゾナ州北部にまたがる広大な砂漠地帯を「グレート・ベイスン」(大盆地)と呼ぶ。

グレート・ベイスンの北部から土地が少しずつ上がり坂になってプラトー地域の山や森、川へとつながっている。

プラトーは、カナダのブリティッシュコロンビア州内陸部、合衆国のワシントン州、オレゴン州北部、アイダホ州、それにモンタナ州西部にまたがっている。

このあたりでは狩猟が主な生活手段で様々な部族が生活していた。

その中で有名なのが西部開拓史上に名高いジョセフ酋長率いるlネズ・パース族が含まれていた。

ネズ・パース族は、平原インディアン(スー族、シャイアン族等)の文化を取り入れていた。

その中でアメリカインディアン史上最高の指導者として名高いのが、通称ジョセフ酋長である。

本名は、Hinmaton Yalakitというが、やはりシッティング・ブルやレッド・クラウド同様英語名があり、Thunder Rolling Down the Mountainといい「山から駆け下りる雷」といったところか。

「ジョセフ」の名前は彼の父親が1838年キリスト教の洗礼名として使っていた名前を息子Hinmaton Yalakitに与えたモノであると伝えられている。

ジョセフは、ネズ・パース族最初のクリスチャンであり、白人との和平協定主義者であり活動家であった。

1855年には、ワシントン州からの計らいでオレゴン〜アイダホへと居留地が広がる。

しかし1863年ゴールド・ラッシュの波がネズ・パース族のテリトリーに迄押し寄せた。

数ある史実同様間単に条約は覆された。居留地の内600万エイカーを返還するように合衆国政府より要請を請けたジョセフは、無論これに応じなかった。

従来の居留地の10分の1のスペースにしかならなかったからである。

1871年ジョセフの父親が亡くなり部族を引き継ぐ事になった。

         ★★★★★カナダへの長い道★★★★★

ワロア峡谷からラプワイ居留地(アイダホ)への移動を迫られていたネズ・パース族は1873年より激しい抵抗をみせた。

合衆国政府は、彼等の叛乱を静め様とやっきになり、1877年オリバー・ハワード将軍率いる騎兵隊のにより、一度は、勝利を収めた。

しぶしぶアイダホに向かう事になったジョセフ達であったが、スネーク川を渡っていた時白人の馬泥棒が馬を盗んでいった。

ネズ・パース族は、家畜を品種改良して優れた馬や家畜を創り出していた為、白人達が度々盗みにやってきたのだった。

居留地の大幅な縮小と白人の略奪に怒った若い戦士達が移動を中止する様ジョセフに求めた。

これに対し再び合衆国政府は軍隊を総動員したがジョセフ酋長と副官のルッキング・グラスの見事な指揮のもと、少なくとも5つの連隊の攻撃をかわした。

そして、インディアンに対しての扱いが合衆国ほどひどくないカナダへ向かって移動していった。

この移動(退却)は合衆国のインディアン史上最長とされている。

ジョセフ酋長が、戦いながら1550キロも移動し、あとカナダまで75キロの地点で傷つき飢えて心身共に疲れ果て包囲されたのは、1877年10月5日のことだった。

降伏したジョセフは、合衆国インディアン史上に残るスピーチを遺している。


★★★★★★★★★アメリカインディンア史に残る歴史的スピーチ★★★★★★★★★


私はもはや戦いに疲れた。

           原文

Ioking Glass is dead. Toohoolhoolzote is dead.

T am tired of fighting. Our chiefs are killed.

Lohe old men are all dead. It is the young men who say, "Yes" or "No."

He who led the young men is dead. It is cold, and we have no blankets.

The little children are freezing to death.

My people, some of them, have run away to the hills, and have no blankets,no food. No one knows where they are -- perhaps freezing to death.

I want to have time to look for my children, and see how many of them

I can find. Maybe I shall find them among the dead. Hear me, my chiefs!

I am tired. My heart is sick and sad. From where the sun now stands
I will fight no more forever.

               翻訳

「私はもはや、戦いに疲れた。私の部下の指導者達は殺された。

イエス、ノーを云ってくれるのは皆若い者ばかりだ。

若い者を指揮していた者も死んでしまった。そしてこんなに寒いのに
我々には毛皮が無い。幼い子供達は凍え死のうとしている。

私の部下の何人かは丘の上の方へ逃げていったが、やはり毛皮も
食べ物も持っていない。

彼等が何処へ行ったかは、誰にもわからない。

・・・・・・・恐らく凍え死ぬ事であろう。どうか、我々に子供達を探す時間をくれまいか。

やってみたいのだ。多分、死んだ姿で彼等を発見するだけだろう・・・・

聞いて欲しい・・・・私はもはや疲れた。私の心は、病んで、悲しみに
くれている。

今この瞬間から私は永遠に二度と戦いをする事はない・・・・・」

1877年10月5日


 

このスピーチは、後にインディアンのスピーチには数多く引用されるようになった。

政府もネズ・パース族の勇気と見事な作戦に感動してもとの居留地に暮らす事を認めた。

その後政府がネズ・パース族全員をインディアン準州へ移すよう命じた時は白人達が大反対して1884年アイダホ州に居留地が設けられた。

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★語族による部族の分布は画像で表示します。

HTMLは今更もう覚えていないんで。

かつて存在したり或いは、現存している全てのインディアンには、何百もの大きな

集団があり、その一つ一つが多くのサブグループに分かれて、それぞれが独自の

文化と歴史を持っている。それをすべて紹介したいところだけど、残念ながら
かりんの力じゃ無理っす。

なにしろ1000以上もの部族名が並ぶ事になるから。

だって、読者にとっても凄く退屈になってしまうし、その上、北アメリカのインディアン

は、全く異なる70もの語族に分けられる。そして、一つの語族の中にはドイツ語と

スェーデン語ほども違う言語が含まれている事もある。(どっちもゲルマン語から生まれた)

したがって全部リサーチして載せるとしたら、何百という言語を載せる事になるが、

その中には数百人しか使っている人間がいなかったり、まったく消滅してしまったり、
消滅しかかってたりのものもある。

更に今日のインディアンは、英語しか使わない者も多くなってきている。





一般に北アメリカのインディアンは合衆国では、「部族」(ドライブ)に分けられカナダ
ではバンドに分かれる。

もともと部族とはある特定の地域内にある集落に住み、同じ方言や言葉を話し、社会、
政治、宗教の共同体を作っている人々の事をさしていた。

しかし、保留地制度が出来てからは、「部族」という言葉は新しい意味を持つようになった。

一つの集落の居住者、同一集落の特定地域内の居住者、あちこちの集落に散らばって

いて、共通の部族評議会をもっていないが同じ言語を話す人々などが今日の部族やバンド
といわれるものには含まれる。

合衆国のインディアンは大部分がミシシッピ川とミズーリ川から西に住んでいるか、
留地という閉鎖的な場所に住んでいる為、概して結束意識と部族自治の意識が強い。

ここには、多くのスー(語)族やブラックフット族、北部シャイアン族、アラパホ族などの
アルゴンキン語族、ナボハ族、カリフォルニア及びランチェリアの諸部族、ネズパース族
ユート族、パイユート族、ショショーニ族、プラトーの諸部族などが住んでいる。

合衆国とカナダ国境地域にはチペワ族、クリー族、メノミニ族などのアルゴンキン語族の
保留地が点在している。

一方オクラホマ州では大分状況が違う。

ここには大平原にかつて「インディアン準州」があって、19世紀に多くの部族が住み慣れた
土地を追われ準州内の別々の保留地へ、おしこまれた。

1887年に議会を通過した「土地割り当て法」は、実はインディアンの部族的結束

をくずすのが目的で保留地は次々と細かく分類されてインディアンの家族の長ごとに割り

当てられた。割り当てられた土地は、保留地だった時と同じ状態のままで、25年間据え
置かれることになっていた。

25年たった頃には、年寄りのひどく保守的な考えの人々が姿を消し若者たちの進んだ
考えでうまくやっていけるだろうという考えだったのである。

これは「インディアン問題」のすぐれた解決策の様に思われたが結局はうまくいかなかった
こういった政策にもかかわらずインディアンの多くは部族の結束をかなり持ち続けていた。

この中にはボーニー族、クリーク族、チェロキー族、チョクトー族、セミノール族、ソーク族
フォックス族、もとは一つの部族だった南部シャイアン族と南部アラパホ族、カイオワ族
コマンチ族、アイオワ族、オト族、ミズーリ族、オタワ族、ポンカ族、クロポー族、ポタワトミ
族、トンカワ族、ショーニー族、カド族、ウィチタ族、ユチ族などが含まれている。

これらの部族は全て評議会か部族委員会が直接に管理している。

現在、部族間の交流や結婚がすすんでいて部族というよりも民族的な性格を持つインディ
アンが生まれている。

いわゆる統一インディアン運動、統一インディアン文化をつくろうとすう動きである。

証!シビングトン(サンドクリーク)の大虐殺


インディアン史上最大の惨事の一つ

1864年、日本では大政奉還が三年後に迫っていた頃で、アメリカ西部のコロラド準州東南部で11月29日の朝、西部開拓史に限らず人類史上稀にみる大虐殺事件が勃発した。

東部ではまだ南北戦争の最中で大方では、北軍の勝利が明らかになり南部に侵攻したウィリアム・シャーマン将軍がアトランタを焼き払い(映画 「風と共に去りぬ」で有名)大西洋岸のサバンナ目指して行進していた頃の事である。

北軍・・・・つまりUSA軍は、一方で南部連盟と戦いながら、他方では、人口希薄でまだ州に昇格していなかったコロラド大高原の一角で開拓者の前進を妨害するインディアン部族を一挙に殲滅させようと目論んでいた。

誤った歴史(「ロッキーマウンテン・ニューズ」紙による「栄光のインディアン戦争」)

1864年12月8日(事件発生から9日目)の見出し

インディアンと大激戦!野蛮人の群れ消滅す!インディアン500を倒す!

わが方死者9、負傷者38!

大々的な見出しを挙げて白人騎兵隊の「勝利」を祝い、尚も栄光に満ちた戦闘の模様を伝えた。

その中でコロラド民兵軍の隊長シビングトン大佐のコメントを載せている。

以下はシビングトン大佐のコメント

「太陽が昇り始めると私は攻撃を命じた。相手は130個程のテントを連ねたシャイアン族村でそこには、約900人から1000人の戦士がいた。

我が軍は酋長ブラック・ケトルをはじめ、ホワイトアンテロープやリトル・ロウブなどの指導者及び400人〜500人のインディアン戦士を殺した。」


この軍隊がデンバーに帰還した時は彼等のパレードは、まるでフロンティアの救世主の如く歓迎され、中には剥ぎ取ったインディアンの頭皮を自慢げに振りかざす者もいたという。

ところが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


明かにされていく大虐殺の真実

この戦闘に加わった将校や兵士の中にはワシントン州の上官に宛てて手紙を書く者が出てきた。

その手紙やインディアンと交易していた白人の業者達の手紙から戦闘の模様がそれまで伝えられていたものと少しずつ変わってきたのであった。

 そのうち目撃者が二人も現れた。

ジョン・スミスとエドマンド・グェリアーという交易業者で、合衆国陸軍の攻撃が行われた時たまたま加わっていたという。

この二人の証言では、インディアンの居住地にはせいぜい80〜100のテントがあっただけで住民もせいぜい500人位。しかもその三分の二は女性や子供達だったという。

他の証言でも殺されたインディアンの大部分は非戦闘員だったという事が判ってきた。

これでは、シビングトン大佐の報告がかなり虚偽に満ちたモノであるという事になる。

第一、その時の白人側とインディアン側との間には一時的な休戦協定が結ばれていたからである

もともとこの地方は、シャイアン族とアラパホ族の二つの部族のインディアンネィションだったのが1850年代の末にパイクス・ピークと名付けられた山の周辺で金鉱が発見された。

一攫千金を狙う開拓者達がここへ入り込む為には途中の高原地帯でインディアンと接触が多くなったのは当然の事だった。

若い怒れるインディアン達は鉱山のキャンプや駅馬車等を襲撃する様になった。

 しかしインディアンは普通冬の期間は戦いをしない習慣だった(らしい)のでシャイアン族酋長のブラック・ケテルは、デンバーにいるコロラド準州知事やライアン砦の司令官に休戦の申し入れを行った。

この申し入れは、一旦拒否されたが交代してきた新しい司令官は休戦の提案を了承し、インディアンに保護する事を約束したが、シビングトン大佐には、それを伝えなかった。

こうして問題の11月29日がやってきた。

ブラック・ケテル酋長は、数百人のシャイアンを引連れサンド・クリークという小川のホトリにテントを張って休んでいた。

ブラック・ケテルは、合衆国陸軍の接近を知っていたが、休戦の協定が守られる事を固く信じていたのであった。

夜明けになり、太陽が差し込むと同時にシビングトン大佐は、約1000人のコロラド民兵軍に攻撃の命令を下した。

丘の上の砲門が一斉に轟いたという。

テントの中で跳ね起きたブラック・ケテル酋長は、事の重大さを悟りまずアメリカの国旗を掲げて戦う意思の無い事を示した。

しかし軍隊の攻撃は少しもやまない。

彼はすぐに白旗を打ち振ったがそれも全く無視されてしまった。


狂乱の地獄絵巻

シビングトン大佐がこの戦闘によって個人の業績に名誉ある1ページを加えようとしていたのは、確かだろうし白人兵士達が相手のインディアンを対等の人間と考えていなかったのも確かである

そうでなければ次に起こった事を理解する事は出来ない。

もう一人のシャイアン族指導者のホワイト・アンテロープは両手を挙げて「やめろ、やめろ」と叫んだが(英語で)その叫びは、沸き立つような喧騒と混乱の中で消え何発かの銃弾に忽ち倒された。

シャイアンの戦士達は、いったん小川の土手の所に退いて防戦したが、人数の点でも武器の点でも殆ど本格的な戦闘とは、いえなかったという。

争いは、昼頃迄続いたと言うが、逆に言えば約半日も残虐非道な蛮行が行われていた事になる。

それは、もうインディアン狩りというような状態になったからである。

白人兵士の行動は、全く常軌を逸していた。

殺したインディアン戦士の頭皮を剥ぐ者もいたし、逃げ惑う女性達を大勢で追いかけレイプし、ナイフでその身体を切り刻む者もいた。

また、妊婦の腹を裂き、胎児を引きずり出す者もいた。

泣き叫ぶ子供を平気で撃ったりナイフで突き刺す者もいた。

男女を問わず局部をナイフで抉り取る者もいたし子供の頭を棍棒で叩き割ったりする者もいた。

虐殺が終わった翌日も兵隊達は、殺戮の跡から死んだインディアンの頭皮を剥ぎ取ったり、死体を尚も切り刻んだりした。

無傷の子供を見つけて皆で撃ち殺す事を競い合ったと記録がある。

まさに1970年の映画「ソルジャー・ブルー」のモデルであったが、映画では、ラスト15分だけが虐殺や暴行のシーンだったが、現実には、延々と何時間も続いたという。

そして剥ぎ取ったインディアンの頭皮約50枚が「時の英雄」シビングトン大佐により、帰還後デンバーのある劇場に一般展示されたという。

 シビングトン大佐は、虐殺事件を引き起こした後直後に軍籍を離れ軍法会議にかけられる事をのがれた。

シャイアン族ブラック・ケテル酋長は、この時危うく難を逃れていた。


シャイアン族虐殺調査記録

1865年3月14日上下両院合同調査委員会 証言者ジョン・スミス

「インディアンの死体が切り刻まれて、あちこちに散乱しているのを見ましたが、今迄にこんな酷い光景を見た事は、ありません。女性達もバラバラでした。」


問「何で切ったのですか?」

答「ナイフです。頭皮を剥がされたり脳天を打ち砕かれたりしました。」
  2〜3歳の子供達もです。
  乳児から戦士達まで全部でした。」

問「それを貴方は見たのですか?」

答「はい。確かに見ました。」

問「殺されるのを見たのですね。?」

答「はい。そうです。」

問「インディアン達が手足をバラバラにされる所を見たのですか?」

答「はい。その通りです。」

問「一体、誰が死体の手足をバラバラにするような事をしたのですか?」

答「アメリカ合衆国軍隊の兵士です。」

ジョン・ウェインを筆頭とするハリウッド西部劇の世界(昔の)では、野蛮で狂暴な蛮族であり、白人開拓者を虐殺、略奪という非道な蛮行を重ねて来たインディアン。

1960年以前位の名作と呼ばれる対インディアン抗争を扱った作品の殆どが、彼等のイメージを決定的にしたものであった。

 しかし、実際の所は、どうだったのだろうか。

大航海時代が終わりイギリスやフランスから右も左も判らずに大陸への植民を夢みた開拓者は、インディアンの助けなくしては生きていく事は出来なかった。

人間の欲望は果てしない。

特に文明を持ち、貨幣経済が成立した世界の民族は、ともすれば同じ赤い血が流れる人間に対しとても人間の成し得る行為とは、思えないような非道をはたらくことがある。

全ては、「貨幣」という悪魔の傀儡となっての狂える思考である。

今、ここに、アメリカの裏面史、インディアンの悲劇を検証!!


1675年〜1678年
キング・フィリップ戦争 マアチューセッツ。
ワンパンノグア族、ニアンテック族ペンナクック族、 ノーセット族の連合軍と開拓者の戦争

1799年
トリンギット族のロシア交易市場襲撃 北大西洋岸(アラスカ)に居住するトリンギット族。

この地方のインディアンは、早くから白人と関わり があり、ロシア人の探検家に始まりイギリス、アメ リカと続いた。白人たちがインディアン居留地に 入り込み始めた為。

1812年
バトンルージュ戦争 クリーク族と白人植民者との戦争。

アンドリユー・ジャクソン台頭。

1814年
ホース・シューベントの戦い クリーク族大敗。ジョージア、テネシーからフロリダ へ追われる。

1816年〜1818年
第一次セミノール(族)戦争 アメリカ軍がフロリダへの逃亡奴隷(黒人)探す為 セミノール族の拠点を襲った為始まる。

1832年〜1841年
第二次セミノール戦争

ペインズ・ランディング条約
セミノール族は、3年以内にフロリダから退去する 様に命令された。(強制的条約)
これを拒んだセミノール族大酋長オセオラが部族 を率いて立ち上がった。

オセオラ、抵抗運動を組織する。
同年の12月28日キング砦(フロリダ)の戦い
同年の12月28日ウィスクラーチの戦い

1836年〜1837年、アメリカ軍は、何回も遠征隊を 送ったが失敗した。
セミノール族はエヴァグレーズ に撤退した。

1837年12月25日オキチョビ(フロリダ、オキチョビ湖)          の戦い

1837年、和平会談と称し、オセオラを騙し討ち。
1838年1月30日、マリオン(モルトリ)砦の独房で            死亡
1841年セミノール族、降伏。

1832年
ミシシッピ川の戦い ソーク族ブラックホーク軍VSエイブラハム・リンカーン軍 カンザス州及びインディアン準州に追い込まれる。

1838年〜1839年
「涙の行進」トレイル・オブ・ティアーズ チェロキー族
1841年 サンタフェトレイルの幌馬車襲撃 カイオワ族。

テキサス〜ニューメキシコへの交易ルートで白人の幌馬車を襲う。

1854年
「西へ行く」(ゴーウェスト)〓死にに行く コマンチ、カイオワ−アパッチ、クロウ、シャイアン、 アラパホ、オセージ、ソーク、フォックス族が同盟。

「西へ行く」が「死にに行く」を意味する様になった。

スー族、シャイアン族等の平原インディアンとの戦争

1862年 ミネソタ峡谷の叛乱 サンティー(スー)族。
南部同盟が敗北して条約にあった年金を支給しない。
数週間で1000人の白人を倒したが結局敗北。
エイブラハム・リンカーンは、38人のインディアンを
絞殺刑。
1864年 シヴィングトンの大虐殺 別名サンド・クリークの大虐殺
映画「ソルジャー・ブルー」のモデル。
休戦中のシャイアン族の女性、子供150人を残虐非道 な手口で大虐殺。アメリカインディアン抗争史上最悪の 悲劇。
1865年 プラケット橋の戦い オレゴントレイル
1866年 レッド・クラウドの戦い 西部ダコタ族と合衆国軍の戦争。
オグララ(スー)族の天才軍師レッド・クラウド率いる インディアン軍が勝利を収め続けた。

1866年 フェッターマン大虐殺 ワイオミング。
スー族により、ウイリアム・フェッターマン率いる81人 の部隊を全滅される。
数少ないインディアン軍の勝利
1867年 ヘインフィールドの戦い 同年8月1日 モンタナ
1867年 ワゴンボックスの戦い 同年8月2日
1868年 ビーチャーズ・アイランドの戦い カンザス。
1868年9月17日〜25日。
1868年 ワシタ川の大虐殺 1868年ー69年の対インディアン戦争の中で最悪の 悲劇。有名なジョージ・カスター中佐指揮の下、騎兵 隊による南シャイアン族のオクラホマのワシタ川の村 を襲い、女性、子供まで手当たり次第に虐殺。
これにより、インディアンからは、「女殺し」と呼ばれる。
1869年 サミットスプリングの戦い コロラド。同年7月11日
1871年 ソルト・クリーク・プレーリーの戦い テキサス。同年5月18日
1872年 マクラレン・クリークの戦い テキサス。同年9月29日
1874年 レッドリバーの戦い テキサス。同年7月20日ウィリアムシャーマン総力戦 を宣言。
カイオワ族ローンウルフがコマンチ族と手を組みパロ・ デュ砦に立て篭もって応戦。
10月24日サタンタ降伏。
1874年 アドービ・ウォールズ(交易所)襲撃 クアナパーカー(コマンチ族)がコマンチ族、カイオワ族南部シャイアン族の連合軍を率いてテキサスにあった 白人猟師の交易所アドービ・ウォールズを襲撃
    1875年6月2日クアナパーカー(コマンチ族)降伏。
1876年 パウダー川の戦い
同年3月17日
クレージー・ホース大暴れ
合衆国軍退却
1876年 ローズバットの戦い 同年6月17日
1876年 リトル・ビッグ・ホーンの戦い モンタナ。
金を求めた白人達がスー族の聖なる山、ブラック・ ヒルズに殺到してきた事から叛乱を起したのが 始まり。
同年6月25日
ジョージ・カスターは、インディアンの集中が予想 出来ないほどの規模に膨れ上がっていた事にも 関わらず攻撃を仕掛けた。
シッティング・ブル率いるスー、シャイアン連合に より、264名全滅。
1876年 ウォーボネット川の戦い ネブラスカ
同年7月17日
1876年 スリム・ビューティズの戦い ダコタ。
同年9月9日
1876年 ダル・ナイフの戦い ワイオミング
同年11月25

1877年 ウルフ・マウンテンの戦い 同年1月8日
1877年   同年5月6日 クレージー・ホース降伏
    1877年の内に多くのスー族が降伏。
シッティング・ブルは、カナダへ逃亡
同年9月7日
クレージー・ホース捕らえられ監禁中に死亡

1878年   同年3月27日
リトル・ウルフ降伏。
1881年   同年7月19日
遂にシッティング・ブルアメリカに戻り降伏
アパッチ族との戦い

1861年から1886年まで続いたインディアンの歴史の中でも最もなかく悲惨な戦いであった。
アパッチは、荒々しく略奪的な部族でメキシコでの急襲をほとんど行なった。
しかし、1861年からアリゾナとニューメキシコを威嚇しはじめた。
攻撃が和らぎ始めた後、アリゾナのグラントキャンプの友好的なインディアンの村に自警団が急襲して、 攻撃が再開された。
やがて政府がアパッチ族を保留地に移住させるまでアメリカ軍は不安定な平和を押し付けた。
インディアンの指導者、ビクトリオは、1880年に殺されたが彼の後継者ジェロニモはいっそう決断心に 富んだ指導者だった。
1860年   ミンブレス山脈で金鉱見つかる。(アリゾナ)
1861年   2月4日(チリカワ)アパッチ族コーチーズ、誘拐で告発される。
混血の少年と家畜を盗んだ疑いだったが、実際は 身に覚えのない事だった。
アメリカ軍とアパッチ族の抗争の火付け的事件
1861年

1862年   上の事件がきっかけでマンガス・コララドスと コーチーズ率いる連合部族が白人を殺しまくる
1862年 アパッチ峠の戦い 7月15日。アリゾナ・ツーソンの近く。
1863年   1月17日
ミンブレノ・アパッチ族の酋長マンガス・コロラドス (コーチーズの義理の父親)捕まる
1871年   4月29日
アリゾナ・キャンプグラントでインディアン多数虐殺さ れる。
1872年 ソルト川峡谷の戦い 12月26日
1873年 タレット山頂の戦い 3月l27日
1872年

1873年   アパッチ族多数がクルック将軍の軍門に下る。

1874年 コーチーズ死去  
1879年 ビクトリオの戦い 1879年9月4日〜1880年10月16日 アパッチ族(系統不明)酋長ビクトリオ死亡
1880年 ティナジャデ・ラ・パルマスの戦い テキサス
7月30日
1882年 ジョロニモ捕獲 メキシコl
8月。ジェロニモとその配下の仲間がメキシコへ向けて保留置を脱出。
1882年、9月クルック将軍指揮下の騎兵隊に追撃され 捕われる。
1885年 ジェロニモ逃亡  
1886年 ジェロニモ捕獲
インディアンの白人への抵抗終焉
1885年5月に逃亡したジェロニモ、1886年9月4日、スケルトン峡谷(アリゾナとメキシコの境)でマイルズ将軍に追いつめられ降伏

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レッド・クラウド(紅い雲)
ラコタ(スー)族

本 名:マピヤ・ルタ(Makhpiya-Luta)
     1822年〜1909年
出身地:ネブラスカ説

19世紀のインディアン(スー族)の中でシッティング・ブルと並ぶ最も偉大な指導者の一人であり軍師。





レッド・クラウド(紅い雲):本名マピヤ・ルタの出生は詳細が今一つ、はっきりしていない。ネブラスカ州のノースプラタのプラタ川付近で誕生したという。

父は幼少の頃死亡していた為、母方の叔父で<スモーク酋長>(オグララ・スー族)
により育てられた。

レッド・クラウドの名前の由来は、彼が生まれた日、空に異様な大きな紅い雲が漂っていたという説や、

彼が生まれた日(又は年)巨大彗星が飛来し、空を真赤に染めたという説がある。

本名を白人が英語に翻訳した時、本来は彗星だったのかもしれなかったけれど「紅い雲」にしてしまったという説が強い。



 

レッド・クラウドは、9人兄弟だった。

父(氏名不祥)は、子供達に対して戦士として一人前にする為のスパルタ教育を行っていた。

6歳の頃、父親から馬を与えられ訓練を受けていた。後にレッド・クラウドは、騎手としても腕を発揮する事になる。

12歳の時、乗馬しながらバッファローハントを試みようとしたが、突進されて落馬しあやうく命を落とすところだった。

16歳の時初陣を飾った。生まれつきの観察力と注意深さを持っていたとされている。


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レッド・クラウドは、若い頃から隣接する部族との戦いに明け暮れていた。

当時の相手は、クロー族、ボーニー族だった。1841年、叔父の長年の敵の一人(姓名不祥)を殺す手柄をたて、たちまちブレークした。

その後彼は、オグララ族の中でリーダーシップを握り、クロー族、ボーニー族、ユート族を制圧し続ける。


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1865年、つかの間のインディアンとアメリカ合衆国との平和協定が破れ長い戦争が始まった。 

 合衆国は、彼等の居住区であるコロラドのサウス・プラット川〜モンタナにかけてBozeman Trailを建設し始めた。

1862年〜1863年頃、開拓者や、金工夫のキャラバンが横断するとレッド・クラウド軍が現れ攻撃した。

同時に砦に対する攻撃も開始した。1866年12月20日、ワイオミングにおいて、

ウィリアム・フェッターマン大佐率いる騎兵隊と既にシャイアン族、アラパホ族とも手を握ったレッド・

クラウドの間で前面衝突となった。

カーニー砦の騎兵中隊80人は全滅だったが、インディアンも200人が死傷した。

白人はこの戦いを「フェッターマン大虐殺事件」と呼んだ。

この戦いがあまりにも悲惨でその後も合衆国は作戦に失敗していったので、考えを改めざるをえなくなった。

3年後には、オグララ族の居住区の3つの砦は破棄された。

レッド・クラウドは、後始末の為、現れて全て焼き払った。


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その後1868年までレッド・クラウドは、数々の小競り合いに勝ち続けていった為、合衆国は、スー族に

対してララミー砦条約を提示した。

合衆国がBozeman Trailに沿ったカーニー、スミス、レノの三つの砦を放棄し、オグララ族を保護すると

いう内容。もちろん平和は続かなかった。




ダコタ州ブラックヒルズで金鉱が発見され開拓者は、先を争いインディアンの「聖なる山」に押し寄せる

1874年、親善大使の名目でスー族のテリトリーであるブラックヒルズへ赴いたジョージ・カスター率いる

第七騎兵隊には、5人の民間人が同行していた。

たまたま、その内二人が地質学者とベテランの金鉱堀だった為、金鉱を発見した。

同年の7月の末にカスターは、それを報告書としてまとめたところ、新聞社にスッパ抜かれた為、スー族

の「聖なる山」に、おりからのゴールドラッシュも手伝い金鉱堀が押し寄せた。

ララミー砦条約は、合衆国サイドから無効にされた。

インディアン戦争史上最大の悪夢の「リトル・ビッグホーンの戦い」の序章でもある。

その「リトル・ビッグホーンの戦い」においては何故かスー族の指導者であるシッティング・ブルや

クレージー・ホースとは、手を結ばなかった。

しかし、他の、または、その後の戦争では、彼は部族を率いて、また政治的手腕を発揮し、白人から最も

恐れられる酋長の一人として活躍した。

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